『蒼灰の軌跡』〜届かない光と、全肯定の死神〜   作:こげすずめ

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心の痛み

激しい嵐が外で荒れ狂う中、大聖堂の一室だけが、ストーブの微かな火と沈黙に包まれていた。

 

シスター・マーブルの温かな治癒アーツの光が収まり、リリの肩の傷はすっかり塞がっていた。しかし、部屋の隅の長椅子に腰掛けるアルシュの心には、ぽっかりと暗く冷たい穴が開いたままだった。

 

泥だらけになった自分の両手を、ただじっと見つめ続ける。

手のひらには、木剣を強く握りすぎたせいでマメが潰れ、血が滲んでいた。魔獣を一匹倒した証。だが、そんなものは今のアルシュにとって何の慰めにもならなかった。

 

(僕が、避けたから……)

 

『絶対に僕が二人を守るから』と、大司教の前で誇らしく誓ったはずだった。

それなのに、いざ死の恐怖が自分に向かった瞬間、身体は無意識に自分を優先し、背中のリリを魔獣の牙に晒してしまった。その事実が、呪いのようにアルシュの心を黒く塗り潰していく。

 

少し離れた場所から、キーアが心配そうにこちらを見つめていた。

いつもなら「アルシュ、大丈夫?」と真っ直ぐに飛び込んでくる彼女だが、今のアルシュが纏うあまりにも深く重い拒絶の空気に、どう声をかけていいのかわからないようだった。

 

やがて、治療を終えたリリが、シスターに付き添われながらトテトテとアルシュの元へ歩み寄ってきた。

 

後からシスターが優しく聞き出したところによると、雷が落ちた後、リリは崩れた瓦礫でトイレの入り口が塞がれてしまい、パニックになってしまったらしい。どうにか外壁の崩れた穴から外へ出たものの、暴風雨で完全に方向感覚を失い、気づけば森の方へ迷い込んでしまっていたのだという。

 

「……アルシュ、お兄ちゃん」

 

リリが、小さな両手をアルシュの膝の上にそっと置いた。

アルシュはビクッと肩を震わせ、恐る恐る顔を上げる。責められる。そう思って身構えたアルシュの目に飛び込んできたのは、涙の跡が残る、けれど純粋な感謝に満ちた笑顔だった。

 

「あのね。……怖い魔獣から、助けてくれてありがとう。お兄ちゃん、すっごくかっこよかったよ」

 

ドクン、と。

心臓を、冷たい刃でえぐられたような気がした。

 

リリは、アルシュが「避けた」ことなど分かっていなかったのだ。ただ、暗闇の中で自分を助けるために必死に戦ってくれた頼もしいお兄ちゃんとして、心から感謝の言葉を伝えてくれている。

 

それが、アルシュには何よりも苦しかった。

謝らなければならない。「僕は君を盾にして逃げた卑怯者だ」と、ありのままを伝えて、軽蔑してもらわなければ割に合わない。

 

「……う、うん」

 

しかし、喉の奥が引きつり、謝罪の言葉はどうしても音にならなかった。

アルシュは顔の筋肉を無理やり動かし、ひどく歪で、引きつった笑顔を作ることしかできなかった。

 

「……リリちゃんが、無事で……よかった」

 

絞り出したその声はひどく掠れていて、まるで嘘をついている罪人のようだった。リリの純粋な感謝を素直に受け取ることも、自分の罪を告白して謝ることもできない。どうしようもない自己嫌悪が、アルシュをさらに深い闇の底へと引きずり込んでいった。

 

――その夜。

疲労で深い眠りについたリリの寝息だけが、暗い部屋に静かに響いていた。

 

アルシュは毛布を被ったまま、壁の方を向いて丸くなっていた。

目を閉じれば、迫り来る魔獣の牙と、リリの悲鳴がフラッシュバックする。恐怖と後悔で、涙すら出てこない。強くなりたいと願い、ランディから剣を教わっていた自分がひどく滑稽で、惨めに思えた。

 

不意に、背中側の毛布がふわりと持ち上がり、小さな体温がアルシュの背中にピタリとくっついてきた。

 

「……キーア」

 

振り返らなくても、その太陽のような匂いでわかった。

キーアは何も言わなかった。慰めの言葉も、「元気出して」という励ましも口にしない。ただ、冷え切って強張っているアルシュの背中に自分の額を押し当て、小さな両手で彼のパジャマの裾をぎゅっと握りしめているだけだった。

 

『私がいない間、キーアのこと……よろしくお願いしますね』

 

ティオから託された言葉が脳裏をよぎる。

キーアの温かい体温を感じれば感じるほど、アルシュは自分の弱さが情けなくてたまらなかった。こんな臆病な自分に、彼女の隣にいる資格なんてあるのだろうか。

 

外では、まだ嵐が吹き荒れている。

キーアの無言の優しさに包まれながらも、少年の心に落ちた深い影が晴れることはなかった。

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