【幕間連載中】『蒼灰の軌跡』〜届かない光と、全肯定の死神〜 作:こげすずめ
姉さんが敗北を認めた言葉を聞いた瞬間、俺の中で限界まで張り詰めていた糸が、プツリと切れた。
「――あー……」
全身の力が抜け、膝をついた体勢からガクッとバランスを崩す。
そのまま横へ、ごろんと姉さんの隣に転がった。
冷たい屋上の石畳に背中を預け、どこまでも突き抜けるような青空を見上げて、「はぁ〜……」と心の底から大きなため息を吐き出す。
すぐ隣では、同じように空を見上げた姉さんが、なんとも楽しそうにカラカラと笑っていた。
「……大丈夫ですか、アル?」
「あー……正直、あんまり大丈夫じゃないかな」
苦笑いを浮かべつつ、差し出されたセドリックの手を掴んで、なんとか身体を引き起こしてもらう。
事実、自爆も同然の無茶苦茶な手段を取ったせいで、両脚が悲鳴を上げていて、足元がかなりおぼつかない。
(これは完全に要調整だろうな……。それに――)
視線を落とすと、少し離れた地面に、プシュウウと情けなく白煙を上げている《ヘカトンケイル》が無残に転がっていた。
あの偏屈な博士に頼み込んで、ようやく仕上げてもらったばかりの二代目だ。
それを実戦投入していきなり半壊させたのだから、持ち帰った時にどんな嫌味をネチネチと言われるやら……今から想像しただけで頭が痛い。
そんな俺の惨状を眺めながら、セドリックが呆れたように吹き出した。
「はは。ほんと……とても勝者とは思えない有様ですね」
その言葉とほぼ同時に、隣で寝転がっていた姉さんが「よいしょっ」と掛け声を上げ、何事もなかったかのように、ぴょんと身軽に跳ね起きた。
鼻歌でも歌いそうな軽い調子で、服についた砂埃をパンパンとはたいている。
対する勝者の俺は、立つことすらやっとのボロボロだ。
あまりにも理不尽なその差に、呆れを通り越して笑いが込み上げてきて、ついには声を上げて大笑いしてしまった。
ひとしきり笑った後、俺たちは屋上の隅に積まれていた資材用のコンテナのあたりへ移動し、三人で適当に腰を下ろして休んだ。
心地よい風が、火照った身体を冷ましていく。
俺は隣に座る姉さんへと向き直り、少しだけ居住まいを正した。
「……姉さん。改めて、今回のこと……本当にありがとう」
真っ直ぐに礼を伝えると、姉さんはなぜかピタリと動きを止め、何かが気に入らないとでも言うようなジト目で、俺の顔をじーっと見つめてきた。
「……なに?」
首を傾げた、その瞬間。
姉さんは無言のままスッと手を伸ばし、俺の首の後ろ襟をガシッと掴むと、そのまま自分の方へと力任せに引き寄せた。
「うおっ!?」
ただでさえ足に力が入りづらい状態だ。踏ん張ることもできず、俺の上半身はそのままバランスを崩して――バタンと横倒しに、姉さんの太ももの上へと倒れ込んだ。
いわゆる、膝枕というやつだ。
柔らかさと体温が後頭部に伝わり、一気に顔へ熱が集まる。
「ね、姉さん!? ちょっ、流石にこれは恥ずかし――ぐえっ!?」
ドスッ!
慌てて身を起こそうとした瞬間、有無を言わさぬ肘落としが、みぞおちのあたりに軽く――とはいえ十分痛い威力で――めり込んだ。
ごちゃごちゃ言わずに、そのまま大人しくしてな。そんな、言葉よりも重い無言の圧力。
これ以上逆らえば次は本気の拳が飛んでくると察し、俺は真っ赤になった顔を逸らしながら、大人しく姉さんの膝に頭を預けるしかなかった。
ふと視線を横へ向けると、向かいのコンテナに座ったセドリックが、俺の情けない姿を見て肩を震わせ、必死に口元を押さえて笑いをこらえていた。
抵抗を諦めてされるがままになっている俺の頭を、姉さんの掌が、ぽん、ぽん、と一定のリズムで撫でている。
逆光で下から表情までは窺えないが、その手つきからは随分と上機嫌な様子が伝わってきた。
セドリックも、この空気の中で下手に茶々を入れたらどんなとばっちりが飛んでくるか分かったものではないと察したのか、静かに口を噤んでいる。
そうして、しばらくの間。
屋上を吹き抜ける風に、三人してただ身を任せていた。
「……ねぇ、アルシュ。憶えてる?」
不意に、頭上から姉さんの声が降ってきた。
「さっきあんたが言ってた、古戦場でアタシの本気を見せてやった後のこと。あの時も、こんな感じで休憩所で甘えさせてあげたよね」
いつもの茶化すような響きではなく、どこか真剣で、遠い過去を懐かしむような声。
俺も自然と力が抜け、静かに言葉を返した。
「……うん。憶えてるよ」
「はは。あの頃はあんなに小さかったのに……ほんと、よくここまでやれるようになったよ」
しみじみと漏らされたその声には、紛れもない姉心が滲んでいた。
俺の髪を梳くように撫でる指先にも、戦鬼と呼ばれる普段の彼女からは想像もつかないほどの、温かな優しさが宿っている。
「『一つお願いを聞いてあげる』って言ったらさ。あんた、顔真っ赤にして『……お姉ちゃんって呼んでもいいですか』なんて言ってたっけねぇ?」
「……っ!」
昔の悪戯心がそのまま蘇ってきたような、からかい半分の笑い声が降ってくる。
「か、勘弁してよ姉さん……!」
顔にカッと熱が集まる。
憶えている。忘れるはずもない、俺の大事な思い出の一つだ。
あの時は必死だったし、ガキだったから言えたことでもある。
だけど、よりによって膝枕をされているこの状況でそれを蒸し返されるのは、流石に羞恥の度合いが跳ね上がる。
視界の端では、セドリックが口元に拳を当てながら、なんとも言えない温かい目でこちらを見守っていた。
(頼むからやめてくれ、足の裏までむず痒くなってくる)
そんな俺の羞恥を知ってか知らずか、姉さんはふと笑いを止めると、青空を見上げたまま、ぽつりと言葉をこぼした。
「……正直さぁ、ずっと考えてたんだよね」
頭を撫でていた手が止まり、静かな声が風に乗る。
「バベルの時、あのイカれ博士に記憶をねじ込まれてさ。……あの電子の世界で、泣きじゃくってるあんたを見送った後」
姉さんの言葉が、少しだけ途切れた。
「その後に現実のあんたに再会しても……どこか、あの子どもの頃のあんたの記憶と、最後の最後で看取った記憶が、ずっと頭の中にこびりついててさ。なんていうか……今のあんたと接してても、あの頃の子どものあんたと、そのまま繋がってるような気になっちゃってて」
言われなくても、それはどことなく察していた。
記憶を取り戻した姉さんと再会した日から、彼女は俺に対して、子どもを扱うような目線で接してくることが多かった。
妙に甘やかしてきたり、過保護になったり。
それは紛れもなく、喪われた歴史の中での子供時代の延長線上の態度だった。
もっとも、俺自身もそんな姉さんの温もりに救われていたし、甘やかされるのが嫌だったわけじゃないけれど。
「まあ、別にそれが悪いってわけじゃないと思うんだけどさ」
姉さんの指先が、俺の頬へと降りてくる。ぷにっ、とつつかれたかと思うと、今度はぐりぐりと頬骨のあたりを指の腹で押し回された。
「ただ、どうしても……むず痒さがあってさ」
手持ち無沙汰なのか、あるいは照れ隠しなのか。
姉さんは俺の顔を指で弄りながら、珍しく言葉を探すように、少しずつ紡いでいく。
普段なら迷いなくズバッと言い切るあの姉さんが、真剣に言葉を選んでいる。
俺はその指先の感触を受け入れながら、口を挟まず、大人しく次の言葉を待った。
「存在しない歴史がどうとか、かつて一度死んじゃったとか、あの時のなんだかダルい気持ちとか……でも、目の前にいるあんたは変わらないアタシの弟分で……。なんかもう、頭の中で色々わかんなくなっちゃってさ」
頬を弄っていた指先がピタリと止まり、姉さんは少しだけ困ったように息を吐いた。
「だからもう、シンプルに考えたんだけどさ、アル。……いや、アルシュ」
「……うん」
「『アルシュ・グレイウッド』。あんたの本名……もう、名乗る気もないんでしょ? というより、『アルシュ』って名前自体、自分から名乗るのを避けてるみたいだったし」
「うぐっ……」
完全に図星を突かれ、思わず喉が詰まった。
別に、何があっても絶対に名乗らないと決めているわけじゃない。
ただ、どうしても必要がある時以外は、ただの『アル』とだけ名乗るようにしていたのは事実だった。
自分の名前を捨てたいとか、過去を否定したいとか、そういうわけじゃない。
半分は、俺自身のくだらない意地のようなものだ。
『アルシュ・グレイウッド』という名前と家名は、今の正しい歴史――クロスベルで家族に囲まれて真っ当に生きている『あっちの俺』のものであって、歴史からこぼれ落ちた、ここにいる俺のものじゃない。
そんな思いが、心のどこかにずっと引っかかっていたのだ。
「ふふっ」
俺の沈黙を答えと取ったのか、すべてを見透かしたような笑い声が頭上から響いた。
その声を聞いて、俺はハッと思い当たる。
(あぁ、だからか……)
オレドでの潜入任務の後くらいからだったろうか。
それまでずっと俺を『アルシュ』と呼んでいた姉さんが、急に『アル』と略して呼び始めたのは。
そして、それにつられるようにして、セドリックや周りの人間も、気づけば俺を『アル』と呼ぶようになっていた。
単なる気まぐれくらいにしか思っていなかったけれど……俺のちっぽけな意地や迷いを、この人は最初から全部見抜いた上で、何も言わずに合わせてくれていたのか。
(……ほんとに、姉さんには敵わないな)
気恥ずかしさと感謝が入り交じって、苦笑いを浮かべた、まさにその時だった。
「で、それならさ。――アル、あんた『オルランド』って名乗っていいよ」
あまりにもあっけらかんと、とんでもない爆弾が落とされた。
「…………へ?」
横向きに膝枕されていた俺は、あまりの衝撃に、思わず首を捻って真上を見上げた。
視線の先では、姉さんがニヤリと悪戯っぽい笑みを浮かべてこちらを見下ろしている。
目を白黒させて固まる俺のマヌケ面を見て、姉さんはケラケラと愉快そうに笑い出した。
「は……っ? え、なに、冗談……?」
「いや、大マジだけど? 親父にも、もう言ってあるからさ」
「はあ!? え、親父って……あの《闘神》に!? い、いや、というか、どういう意味なのそれは……!」
混乱のあまり声が裏返り、思わず身を起こしかけた俺の額を、姉さんの掌がペシッと押さえつけて、再び膝の上へと押し戻す。
そして、呆然とする俺を見下ろしながら、どこまでもあっさりと続けた。
「こういう中途半端な扱いとか距離感でモヤモヤして困ってるくらいならさ。もう、ほんとに名実ともに『アタシの弟』にしちゃった方が、色々とさっぱりしていいんじゃないかってさ」
俺は、完全に絶句していた。
ものすごく単純で、簡単な理由で。
俺は今、姉さんの『本当の身内』に迎え入れられようとしていた。
言葉が出ない。陸に打ち上げられた魚のように、口だけがぱくぱくと虚しく開閉する。
あまりに突拍子がなさすぎて、頭が理解することを拒んでいるのかもしれなかった。
(俺が、本当に姉さんの弟に……? え、オルランド……? どういうこと……?)
思考がショートし、同じ疑問符が頭の中をぐるぐると回り続ける。
そんな俺の混乱ぶりを、姉さんは上から面白そうに眺めていた。
「ま、別に無理して名乗れっていう気はないけどさ。どうする?」
一応は伺いを立てる形をしているが、その表情を見れば、俺が断るなんて微塵も思っていないことは一目瞭然だった。
どこまでも自信満々で、強引で、俺のよく知るいつもの姉さんだ。
あまりにも姉さんが姉さんすぎて、張り詰めていたものが一気に緩み、肺の奥から「はぁ〜……」と大きなため息が漏れた。
「……はあ。正直、まだ頭の中が訳わかんなくなってる部分が大きいけど……」
観念したように苦笑し、真上の姉さんを見上げて、偽りのない本音を伝える。
「――めちゃくちゃ嬉しいよ、姉さん」
その言葉を聞いた瞬間、姉さんは満足そうにニッと笑った。
「ヨシ!」
気合の入った掛け声と共に、俺の頭をわしゃわしゃと、髪がぐしゃぐしゃになるほど乱暴に、けれどたっぷりの親愛を込めて撫で回す。
視界の端では、一部始終を見守っていたセドリックが、やれやれとでも言いたげに肩をすくめ、呆れと微笑ましさが混じったような表情でこちらを見ていた。
俺としては、共和国へ旅立つ前に『姉離れ』をするつもりで、今回の無茶な試験を頼み込んだ意図もあったのだけれど――どうやら、俺のちっぽけな意図や覚悟など、この規格外の姉さんの前では、何の意味もなさなかったらしい。
それから少し話して分かったことだが、『オルランド』の姓を名乗ったからといって、今さら《赤い星座》に正式に入団しろとか、猟兵として縛り付けるとか、そういった面倒な裏があるわけではないようだった。
本当に、ただ純粋に。
過去の名前を名乗ることに迷い、歴史から浮いていた俺に、新しい『名前』と『居場所』を与えてくれた――ただそれだけの、シンプルで不器用な姉心だったのだ。
もっとも、当の本人は「ま、これで今後はあんたをどれだけ甘やかそうが、逆にボコボコにいたぶろうが、身内なんだから何の問題もないしね!」などと、実に物騒なことを満面の笑みで言い放っていたのだけれど。
……ははは、まったく敵わない。
やがて休憩を終え、半壊した《ヘカトンケイル》などの片付けを済ませた俺たちは、屋上から拠点へ戻るために扉へと向かった。
その途中、前を歩いていた姉さんがふと足を止め、くるりと振り返る。
「あ、そうだ。なんだかんだ言って、あんたアタシに勝ったわけだけどさ。約束通り、なんか『お願い』とかないの?」
試練を始める前に姉さんが口にした、『見事倒せたら、お願いの一つでも聞いてやる』という条件。
俺は少しだけ足を止めて考え込み――そして、自然とこぼれた笑顔のまま、こう答えた。
「じゃあ……この先もずっと、俺の『姉さん』でいてくれれば、それでいいよ」
その答えに、姉さんは一瞬だけ目を丸くした。
次の瞬間、少しだけ照れくさそうに、けれど今日一番の笑顔を咲かせて。
「――仕方ないなぁ」
そう言いながら、俺の脛のあたりを、バシッ! と遠慮なく蹴り飛ばしてきた。
「うおわっ!?」
ただでさえ『負荷5』の自爆ダメージで足元がふらふらだった俺は、その愛ある一撃に耐えられるはずもなく。
青空の下、屋上の石畳の上で、これ以上ないほど盛大にすっ転んだのだった。
次で幕間終わりです。
シャーリィとの関係性の締めはずっとこれで考えてました