『蒼灰の軌跡』〜届かない光と、全肯定の死神〜   作:こげすずめ

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赤い再会①

嵐が嘘のように晴れ渡った、翌日の夜。

澄み切った冬の夜空には、冷たい星々が瞬いていた。

 

いつもの裏路地の空き地。アルシュは泥を落とした木剣を足元に転がしたまま、冷たい木箱の上に力なく座り込み、ただぼんやりと夜空を見上げていた。

ランディに教えられて以来、どんなに疲れていても欠かさなかった「素振り」のルーティン。しかし今のアルシュには、剣を握る気力すら湧いてこなかった。

剣を振れば振るほど、あの絶対的な死の恐怖と、リリを身代わりに避けてしまった自分の浅ましい動きがフラッシュバックしてしまうからだ。

 

「あれ、今日は素振り、しないんだ?」

 

不意に、すぐ横から声が落ちてきた。

ビクッと肩を震わせて視線を向けると、そこには数日前に名刺を渡してきた、あの赤髪の女性が立っていた。

 

今日は大柄な供回りの男はおらず、彼女一人だった。そして何より、あの夜にアルシュの息の根を止めかけたような、肌を刺すような威圧感や血の匂いが、今の彼女からは全く感じられなかった。

まるで、ただ夜の散歩を楽しんでいる、少し年上の気まぐれな少女のように。

 

警戒心すら湧いてこないほど心が摩耗していたアルシュは、逃げることもせず、ただ力なく視線を足元に落とした。

 

「……うん。なんだか、ひどく落ち込んでる顔だね」

彼女はアルシュの隣にある別の木箱にヒョイッと腰掛けると、長い足をぶらぶらと揺らしながら頬杖をついた。

「アタシ、今日はなんだかそういう気分だからさ。……よかったらお姉さんが、君の愚痴、聞いてあげよっか?」

 

面白半分なのか、それとも気まぐれな同情なのか。

その真意は分からなかったが、誰にも言えなかった重い泥のような感情が、アルシュの口からぽつり、ぽつりと零れ落ち始めた。

 

「……僕、逃げたんです」

 

嵐の夜のこと。迷い出たリリを見つけ、魔獣の前に立ちはだかったこと。一匹を倒した気の緩みと、背後からの急襲。そして――極限の恐怖の中で、自分が背中の少女を盾にするように飛び退いてしまったこと。

 

「助けてくれてありがとうって、言われました。でも、僕は……僕が避けたせいで、あの子に痛い思いをさせたのに。自分が怖くて、身体が勝手に……」

アルシュの声が微かに震える。

「……あの。お姉さんに、あの時剣を教わっていたら。僕は、あの子を……ちゃんと助けられたんでしょうか」

 

すがるような、けれど正解などないと分かっているような、弱々しい問い。

赤髪の女性――シャーリィは、夜空を見上げたまま、少しだけ楽しそうに、けれどひどく残酷なほど正直に答えた。

 

「さあね。わかんない」

 

「え……」

 

「だってそうじゃん? アタシに教わったからって、たかだか二、三日で急に人が変わったみたいに強くなれるわけないでしょ。実戦の恐怖なんて、そんな魔法みたいに消えるもんじゃないし」

シャーリィは、猟兵として数え切れないほどの死線を潜り抜けてきた『真理』を、子供に言い聞かせるように淡々と語る。

 

「でもね。……君の『選択肢』を増やすことは、できたかもしれない」

 

「選択肢……?」

 

「そう。誰かを守るための強さってやつを、アタシは別に否定しないよ。ランディ兄もそういうの好きだしね。でも、それが万能の力じゃないってことも知ってる。……誰かを傷つけて、壊すためだけの力だって、結局は扱い方と『質のモンダイ』でしかないんだよね」

 

彼女は自分の細い指先をヒラヒラと見つめながら、アルシュの瞳を真っ直ぐに射抜いた。

そこに宿っていたのは、狂気ではなく、純粋な『力』に対する揺るぎない哲学だった。

 

「アタシが殺し方……戦い方を教えてたらさ。君はその時、ほんの少しだけ早く、一匹目の獣の息の根を止められたかもしれない。そうすれば、二匹目に気づく余裕ができたかも」

「……」

「それに、牙が迫ってきた時。ほんの少しだけ死の恐怖に耐えて、君のその足が、泥の中で逃げずに踏ん張れたかもしれない。……その選択肢次第で、君は、君のやりたかったことができたかもしれないね」

 

シャーリィの言葉は、冷たい風のようにアルシュの心に染み込んでいった。

甘い慰めでも、厳しい説教でもない。ただの、血に塗れた世界に生きる者としての冷徹な事実。

だが不思議なことに、その「お姉さんが教えても、絶対に守れたとは限らない」「でも、踏ん張るための選択肢にはなったかもしれない」という残酷なほどの誠実さが、アルシュの心をがんじがらめにしていた自己嫌悪の糸を、ほんの少しだけ解きほぐしていくような気がした。

 

「……選択肢」

アルシュは、血の滲んだ自分の手のひらをそっと見つめ直した。

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