【幕間連載中】『蒼灰の軌跡』〜届かない光と、全肯定の死神〜 作:こげすずめ
気がつけば一階の食堂も店じまいの時間になっていたので、俺たちは店主からワインのボトルと、つまみの生ハムやチーズを買い取り、二階の客室へと場所を移した。
セドリックの部屋の小さなテーブルを挟み、グラスを傾ける。
互いに泥酔しているわけではないが、やはりアルコールが回ってきたのだろう。
先ほどまでの他愛ない世間話は、夜の静けさも相まって、いつしか少しばかり踏み込んだ領域へと移っていた。
「……僕のことはもういいんですよ。そっちこそ、どうなんです?」
赤ワインを一口含み、ほんのりと頬を赤く染めたセドリックが、逆襲とばかりに矛先をこちらへ向けてくる。もちろん、先ほどまでの恋愛話の続きだ。
「……と言われてもなぁ」
俺はチーズを口に放り込み、曖昧に苦笑して言葉を濁した。
前に俺の事情は話したし、わかってるだろ? という意味を込めて、視線を向ける。
喪われた歴史の中、子供の頃に出会ったあの娘に一目惚れして、あの子を庇って一度死んだ。
そしてバベルの演算の中で蘇ってからは、あの子の未来を守るためだけに、文字通り自分のすべてを賭けて駆け抜けた。
俺という存在は、あの子のために生まれ、あの子のために命を使い切ったのだ。
だから、すべてが終わった『その後』の人生で、新しく誰かと恋愛をするなんてこと自体、そもそも頭の中にすらなかった。
口には出さずとも、そんな胸中は伝わったのだろう。
それでもセドリックは、グラスを指先でくるくると回しながら、真っ直ぐに俺を見つめて言った。
「ええ、あなたの事情は聞いています。ですが……だからといって、あなたは今、こうしてここにいるんですから。これからもずっと、その過去の想いだけを抱いて生きる気ですか?」
「むぐ……」
思いがけず核心を突かれ、言葉に詰まる。
セドリックはもう一度ワインで唇を湿らせると、どこか熱を帯びた目で言葉を継いだ。
「あなたがかつて生きたその軌跡は、まるで小説のヒーローのような生き様でしたし……正直に言えば、そうまでして一人のために駆け抜けたあなたの在り方には、男として少し格好いいとも感じます」
普段の彼なら、まず口にしないような率直な賞賛。だが、続く言葉はさらに踏み込んだものだった。
「ですが、今ここでこうして新しく生きている以上……そろそろ、次を向いてはいかがですか? ……それとも、今でもまだ、彼女に焦がれているとか?」
酒の勢いが背中を押しているのか。いつもなら一定の礼節と距離を保つはずのセドリックの口から、普段なら絶対に言わないであろう本音が、ぽつり、ぽつりとこぼれ落ちてくる。
ランプの淡い光の中、俺はグラスを持ったまま、少しだけ返す言葉を探した。
グラスの中の赤い液体に視線を落とし、キーアのことに思いを馳せる。
誰の心も照らす太陽のような、あの笑顔。
そして――今ではもう輪郭すらほとんど思い出せなくなってしまったけれど、二十歳に成長して俺の隣に立っていてくれた、あの美しい面影。
思い返すだけで、胸の奥にじんわりと温かいものが宿る。
――それでも。
「……ないよ」
俺は顔を上げ、静かに、けれどはっきりと首を横に振った。
「思うところがないって言ったら、そりゃ嘘になるけどさ。俺にとって一番大事な思い出ではあるし、もしこれからあの娘に何か危機があったら、どこにいたって駆けつけるくらいの気持ちはある。……だけど、俺の中ではもう終わった……いや、最後まで『やりきった』話なんだよ」
一片の悔いもなく、すべてを燃やし尽くして完結した物語。
迷いのない俺の声に、セドリックはふっと息を抜き、どこか安心したような柔らかい笑みを浮かべた。
しんみりとした空気を振り払うように、俺は悪戯っぽく片目をつぶってみせる。
「第一さ、今の俺は二十一歳なんだぞ? 今のまだ幼いあの娘に対して、そういう感情を抱き続けるのは……それはそれで、色々とマズいだろ?」
冗談めかしてそう言い放つと、セドリックは一瞬目を丸くした後、すぐに吹き出した。
「はははっ! 確かに、それは仰る通りですね」
「だろ?」
夜の客室に、二人分の笑い声が響く。
ひとしきり笑った後、俺はグラスに残ったワインを飲み干し、肩をすくめた。
「ま、だからさ。あの娘のことは、今のクロスベルで生きてる『あっちの俺』に全部任せるよ。……もっとも、またあの歴史と同じような関係になれるかは、わからんけどね」
口ではそう言いつつ、実のところ、俺は『あっちの俺』の気持ちに関しては、これっぽっちも心配していなかった。
なにせ、ガキの頃の俺にとっては、文字通り雷に打たれたような重度の一目惚れだったのだ。
出会うタイミングが少しばかり遅れたくらいで、あの衝撃がそう簡単に変わるとはとても思えない。
分からないのは、キーアの方だ。電子の海へと消える間際に、俺が彼女にお願いした『あっちの俺と、もう一度友だちになってほしい』という最後の約束。それを律儀に守ってくれていたとしても、そこからまた、かつてのような想いにまで至るかどうかは、誰にも分からない。
(……ああ、でも。あの娘、ああ見えてめちゃくちゃ頑固で、意外と独占欲が強いところもあったっけな……)
ふとそんな懐かしい一面を思い返し、口元から自然と小さな笑みがこぼれた。
空になったグラスをテーブルに置き、改めてセドリックへと向き直る。
「まぁ、そんな感じでさ。終わった初恋をいつまでも引きずって生きる気はないよ。ただ、こんな身の上だから、新しく誰かと恋愛をするなんて考えてないってだけでさ」
ボトルから自分のグラスに少しだけワインを注ぎ足し、自嘲気味に笑いながら続ける。
「ま、いつかまた誰かを好きになる……なんてことがあれば、その時はちゃんと考えられるといいんだけどな。とはいえ、こんな環境だしさ。今はそもそも、まともな出会いが……な?」
何しろ、今俺たちが身を置いているのは、大陸の裏側で暗躍する秘密結社《身喰らう蛇》なのだ。
周りを見渡せば、一癖も二癖もある超人や犯罪者、マッドサイエンティストばかり。
とてもじゃないが、普通の若者みたいに惚れた腫れたと浮かれていられる場所ではない。
その点に関してはまったく同じ気持ちなのか、セドリックもなんとも言えない微妙な表情で苦笑している。
どう考えても、真っ当な青春や恋愛など望むべくもない場所だった。
そんな風に二人で頷き合っていると、セドリックがふと思い出したように、とんでもない爆弾を投げてきた。
「……ところで、シャーリィさんはどうなんです? そういう、恋愛的な面で」
「…………」
一瞬、思考が完全に停止した。
(姉さんを? 俺が……?)
数秒の空白の後、俺は慌てて両手を振った。
「い、いや、ないないない!」
「そうですか? 姉として慕っているのはよく知っていますが、異性としての気持ちも少しはありそうだと思っていたのですが」
セドリックが不思議そうに首を傾げる。俺は思わず言葉に詰まった。
脳裏に、あの奔放で、凶暴で、それでいてどうしようもなく面倒見のいい、赤髪の姉さんの姿がよぎる。
「…………まあ、男としてまったくのゼロではない、とは思うけどさ」
視線を泳がせながら、ぽつりと本音を漏らす。
「ただ、なんていうか……どっちかというと『恐れ多い』っていう感覚の方が、多分、強い……かなぁ」
憧れや親愛が大きすぎて、そういう対象として見るには、あまりにも規格外すぎるのだ。
歯切れの悪い俺の様子に、セドリックが「ふふっ」と楽しそうに吹き出した。少しムッとして、ニヤつく相棒へと矛先を向け返す。
「……そういうそっちこそ、どうなんだよ。セドリックだって、なんだかんだ姉さんのこと慕ってるとこあるんだろ?」
彼もまた姉さんに散々しごかれ、同時に面倒を見てもらってきた一人だ。
するとセドリックは、完全に藪蛇を突いたといった風に少しだけ嫌そうな顔をしてから、観念したように大きくため息をついた。
「……ええ、まあ。そういう部分がないとは言いませんが……僕も、そういうのはないですね。確かに、人として妙に魅力がある方ではありますが」
「……だな」
どちらからともなく、深い溜息が漏れた。
「……なんか、これ以上掘ると命に関わる気がするし、この話はここらでやめとこうか」
「ええ、賢明だと思います」
俺たちは揃って真剣に頷き合い、その話題を夜の底へと封印した。
――もっとも、後日。拠点へと戻った俺たちが二人揃って姉さんと顔を合わせた際、どうしてもこの夜の会話が頭をよぎってしまい、なんとも不自然でよそよそしい空気になってしまった。
すると、あの野生の勘で何か良からぬ気配を察知したのか――『あんたら、なんかアタシに隠し事してない?』と目を光らせた姉さんに、俺もセドリックも仲良く、思いっきり蹴り飛ばされる羽目になったのだが。