【幕間連載中】『蒼灰の軌跡』〜届かない光と、全肯定の死神〜 作:こげすずめ
ゼー、ゼー、と肺を灼くような荒い呼吸が、乾いた喉から漏れ出す。
照りつける陽射しの下、少年は重力に引かれる両脚を、必死に前へと踏み出していた。
開けた演習場の土手。どこまでも続くような直線を無我夢中で走り続けるが、鉛のように重くなった身体は限界を告げ、とうとう足元がもつれて止まりそうになる。
膝に両手を突き、肩を激しく上下させながら、乱れた息を整えようと蹲りかけた、その時だった。
「アル、もう限界!? 無理しちゃダメだよ!」
後ろから小走りで駆け寄ってきたピンク色の髪の少女――ユウナが、心配そうに屈み込んで顔を覗き込んでくる。
額にびっしりと汗を浮かべ、今にも倒れそうな顔をしながらも、アルシュはギュッと奥歯を噛み締め、顔を上げた。
「だ、大丈夫です……っ! まだ……やれます……!」
掠れた声でそう絞り出すと、ふらつく足に力を込め、再び地面を蹴って走り出す。
その痛々しいまでの気迫に、ユウナは目を丸くし、それから「もうっ」と頼もしげに笑って、足並みを揃えてくれた。
「よし、その意気! あたしも付き合うから、呼吸を意識してペース合わせていこう!」
「はいっ……!」
並んで砂埃を上げていく二人の背中。
土手から少し離れた木陰のベンチでは、腕を組んだランディと、その隣で両手を胸の前でギュッと握りしめたキーアが、じっとその様子を見守っていた。
――まったく、世話が焼ける坊主だぜ。
俺は口元に苦笑を浮かべ、息を呑むようにアルシュの背中を追っているキーアの横顔を一瞥し、少し前の出来事を思い出す。あのバベルの騒動がすべて片付き、キーアが図書館で再びアルシュと『友だち』になってから、しばらく経った頃のことだ。
時折、特務支援課のビルへアルシュが顔を出すようになっていた。
もちろん、キーアに連れられて、だ。どうにも引っ込み思案で大人しいアルシュの腕を、キーアが嬉しそうに引っ張ってビルへと連れてくる。
初めて連れてこられた日、ロイドやエリィたちを前にして「あ、あのっ……アルシュ・グレイウッドですっ!」と直立不動でガチガチに緊張していた姿には、全員で腹を抱えて笑ってしまったもんだ。
それからの日々は、実に微笑ましいものだった。
二階のソファで仲良く並んで図書館の本を読んだり、屋上でツァイトの背中を二人で撫で回したり、東通りへお使いに出かけたり。
周りから見れば年の近い仲の良い兄妹――いや、キー坊がアル坊を絶対に手放す気がないのが丸わかりの、これ以上なく温かい光景だった。
だが、そんなある日のこと。
キーアと一緒にやってきたアルシュが、いつもと違って、何やらひどく思い詰めたような顔をしていた。
眉根を寄せ、何か言いたそうにもじもじと指先を弄っていたアルシュは、意を決したようにトコトコと歩み寄ってきて、ソファで休憩していた俺の正面に立ったのだ。
『ランディさん。その……強くなるのって、どうしたらいいですか?』
唐突に投げかけられたその言葉に、思わず目を瞬かせた。
そして次の瞬間、脳裏を過ったのは――あの『さかしまのバベル』の、冷たい広間での記憶だった。
二十歳の姿で現れ、自らの命を燃やし尽くしながら、最後に笑って遺していった、もう一人のあいつの言葉。
『今の僕が、また強くなりたいと言ったら……稽古をつけてくれませんか』
『あぁ……任せとけ。俺がまた、ビシバシみっちり仕込んでやるからよ』
あの時の約束が胸の奥を激しく突き上げ、堪らず口元が緩んだ。
努めて普段通りの調子を装い、座り直して問いかける。
『おいおい、藪から棒にどうしたんだよ?』
すると、アルシュは耳までカッと真っ赤に染め上げ、小さな両手をギュッと握りしめて叫んだ。
『ぼ、僕……キーアちゃんを守りたいって、思ったんです! だから……ランディさんや皆さんみたいに強くなるには、どうしたらいいのかなって……!』
リビングにいたロイドたちも驚いて目を丸くし、それから、どこか温かい笑みをこぼしていた。
(ハッ……根っこの部分は、何ひとつ変わっちゃいねぇな)
出会う時期が数年ズレようが、あの血塗られた過酷な歴史が巻き戻されようが――キーアを守るために強くなりたいと願う魂の形は、寸分違わず同じだった。
あいつの想いは、確かにこの新しい世界へ受け継がれている。
なら、約束を交わした大人として、背中を押してやらない理由がどこにある。
『アル坊。そんなに強くなりたいなら……俺が直々に稽古をつけてやろうか?』
からかうようにニヤリと笑ってやると、アルシュは「えっ……!?」と目を丸くして息を呑んだ。
『いいんですか……!?』
『おうよ。ただし――俺の訓練は、泣きが入るくらいきっついぜ?』
凄むように眉を吊り上げてみせると、アルシュはゴクリと喉を鳴らした。
だが、その瞳から迷いは消えていた。少年は背筋をピンと伸ばし、ありったけの勇気を込めて、深々と頭を下げた。
『はいっ……! お願いします、ランディさん!』
『よし、決まりだ!』
バシッとその小さな肩を叩いてやると、少し後ろで見守っていたキーアが、まるで自分のことのようにパァッと顔を輝かせて、飛び跳ねて喜んでいた。
それからの日々、アルシュが支援課のビルへ顔を出す頻度は、目に見えて増えていった。
俺やロイドの手が空いている時には、ビルの屋上や裏手で木剣や警棒の握り方、足捌きといった基礎を手ほどきしてやり、土手での走り込みにも付き合った。
座学となればエリィやティオの出番で、リビングのテーブルを囲みながら、クロスベルの地理や歴史、初歩的な導力の基礎なんかを教えてやる。
アルシュはキーアと並んでちょこんと椅子に座り、乾いた砂が水を吸い込むように、真剣な顔で俺たちの言葉に耳を傾けていた。
こないだなんて、こんなこともあった。
リビングで翌日の特訓メニューについて話していた時のことだ。
『アル坊、明日の午後なら手が空くぜ。間道の走り込みに付き合ってやろうか?』と声をかけると、隣にいたキーアがむすっと唇を尖らせて割って入ってきた。
『アルシュ、明日はキーアと一緒に、図書館に行く約束でしょ!』
ビシッと指を突きつけられたアルシュは、「えぇっ……で、でも、せっかくランディさんが教えてくれるなら……」と、つい特訓の方を優先しようとしてしまった。
その瞬間、キーアの頬が絵に描いたようにぷくーっと膨らみ、分かりやすくプリプリと怒り出した。
頭から湯気が出そうな勢いでそっぽを向かれ、真っ青になったアルシュは、慌てて両手をブンブン振って俺に向き直る。
『ご、ごめんなさいランディさん! 明日は……やっぱり、図書館に行ってきます!』
必死な顔で頭を下げるアル坊の姿に、ロイドと顔を見合わせて腹を抱えて笑ってしまった。
まったく、あの歳にしてすでにキー坊には頭が上がらないらしい。こりゃあ将来、完全に尻に敷かれること間違いなしだぜ。
そんな賑やかな日々が続いていた、ある日の夕暮れ時。
外回りの任務を終えた俺とロイドは、並んで支援課ビルの正面玄関をくぐった。
「ただいまー、っと……」
いつもの調子で声を張り上げようとした瞬間――リビングの奥にいたエリィとティオが、咄嗟に人差し指を唇に当て、「しーっ!」と慌てた様子で合図を送ってきた。
何事かとロイドと顔を見合わせ、音を立てないよう静かにフロアへ足を踏み入れる。
エリィたちが優しく指さした先――柔らかな夕日が差し込むリビングの一角に視線を向けた瞬間、俺の口元は自然と緩んでいた。
ラグの上に横たわる、ツァイトの白いモフモフとした巨体。
その温かな腹にもたれかかるようにして、アルシュとキーアが、二人並んですやすやと眠っていたのだ。
ローテーブルの上には、使い込まれたノートと数冊の参考書。
昼下がりの勉強を二人で目一杯頑張って、そのまま電池が切れたように寝入ってしまったのだろう。
アルシュの寝顔は、あの演算の記憶の中で見た小さなあいつと同じ、どこか頼りなくて、へにゃっとした無防備なもので。そのすぐ隣で、キーアはアルシュの服の裾を小さな手でぎゅっと握りしめたまま、幸せそうに口元を緩めて微睡んでいる。
ツァイトもまた、二人の重みを嫌がる風もなく、大きな鼻先を器用に動かして、静かに喉を鳴らしていた。
「……ふふ」
隣でロイドが、本当に嬉しそうに、声を出さずに小さく息を漏らす。
エリィもティオも、言葉はなくとも、目元をいっぱいに綻ばせてその寝顔を見守っていた。
(……ああ、そうだよな)
かつて、失われたあの残酷な歴史の果て。
誰にも言えない痛みを抱えて泣いていた少女と、その少女をただ守るためだけに、すべてを投げ打って散っていった少年。
あいつらが命懸けで取り戻して、俺たちに託してくれたのは――他でもない、この温かくて、何の曇りもない、くだらないくらいに平和な時間だったんだ。
声を立てないよう、そっと二人の寝顔に視線を落とす。ただ静かに呼吸を繰り返すその姿が、あまりにも微笑ましくて。
胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じながら、俺たちは誰からともなく、深く、温かい笑みを浮かべていた。