【幕間連載中】『蒼灰の軌跡』〜届かない光と、全肯定の死神〜 作:こげすずめ
ランディさんやロイドさんたちに教わりながら身体を鍛え始め、強くなるために木剣を握るようになってから、数ヶ月が過ぎていた。
お風呂上がりに脱衣所の鏡を見ると、自分でも少し驚いてしまう。
一日中図書館に籠もって、ただ本ばかりめくっていたあの頃と比べれば、腕や肩周りにはうっすらと筋肉がつき、立ち姿にも芯が通って見えるようになっていたのだ。
父さんや母さんからは、「あんまり無理しちゃダメよ」「身体を壊したら元も子もないからな」と苦笑交じりに心配されているけれど、止められることはなかった。
むしろ父さんは、時々僕の肩に手を置いて、嬉しそうに目を細めてくれる。
教わった足捌きや木剣の軌道を忘れないようにと、夜の中央広場で始めた毎日の素振り。
始めたばかりの頃は、何かを心配するような顔で広場のベンチまで降りてきて見守ってくれていたキーアちゃんだったけれど、今では特務支援課ビルの自分の部屋の窓を開けて、身を乗り出すようにしながら、ブンブンと手を振って応援してくれるようになった。
夜風の向こう、街灯の光に照らされた窓辺で咲く、あの太陽みたいな満面の笑顔。
あれを見るだけで、腕の重みも足の怠さも全部どこかへ吹き飛んで、いくらでも頑張れるような不思議な力が湧いてくるのだ。
ランディさんたち大人やユウナさんは、「アル坊、頑張りすぎるなよ」「適度に休むのも訓練のうちだからね」と口を揃えて気遣ってくれる。
けれど、僕自身はちっとも大変だなんて思っていなかった。
何もないはずの僕を、みんなが見てくれて、親身になって教えてくれて、背中を押して応援してくれる。
だからこそ、その温かさにちゃんと応えられる自分になりたいと、胸の奥で強く思っていた。
そんな、ある日のことだった。
大聖堂の日曜学校の授業中、シスターから「将来の夢」についての作文を書くように、という課題が出された。教室のあちこちから、楽しそうに将来を語り合うみんなのざわめきが聞こえてくる。
(僕の、将来の夢……)
机の上の原稿用紙を見つめながら、小さく息を吸い込む。
ほんの少し前までの僕なら、本に囲まれて暮らせる司書さんや、誰かの心をワクワクさせるような物語を書く作家さんになりたい、なんて答えていたかもしれない。
あるいは、警備隊で街を守る父さんの姿に憧れて、父さんのお手伝いをしたい、とか。
でもそれは、身体も鍛えていなくて何も知らなかった僕が、ぼんやりと思い浮かべていただけのものだった。
けれど、今は違う。
ふと顔を上げると、少し離れた席に座っていたキーアちゃんと、ちょうど目が合った。
彼女は机の下で、僕にだけ分かるように小さく、けれどとびきり元気いっぱいに手を振ってくれる。
その無邪気で温かな仕草に、僕の口元も自然とへにゃりと緩んで、小さく手を振り返した。
キーアちゃんを守りたい。大好きな……女の子を、この手で守れる強さが欲しい。
胸の奥でそう呟くだけで、耳の奥までカッと熱くなって、僕なんかがそんな大それたことを考えていいのかなって、少しだけ自信のなさが顔を出してしまうけれど。
でも――それだけじゃないんだ。
キーアちゃんの笑顔も、彼女を温かく包んでくれる特務支援課のみんなも、僕たちを迎えてくれるこの街も。キーアちゃんの周りに広がる、温かくて優しい世界の全部を守りたい。いつか、どんな怖いものや理不尽がやってきても、彼女の居場所をまるごと守り抜けるような、そんな強さを持てるように。
だから、僕がきっとなりたいものは――。
日曜学校が終わり、大聖堂の鐘の音が街中に響き渡った後。
茜色に染まり始めた夕暮れのクロスベル。中央広場に面したタイムズ百貨店の屋上広場に、僕はキーアちゃんを誘って、二人で遊びに来ていた。
フェンスの向こうに広がる街並みが、夕暮れの朱色と群青のグラデーションに染まっていく。
展望スペースのベンチに並んで座りながら、僕は手すりの向こうを眺めるキーアちゃんに、さっきからずっと気になっていたことを尋ねた。
「ねえ、キーアちゃん。キーアちゃんは……将来の夢って、何かある?」
「キーアの、夢?」
キーアちゃんは少し首を傾げ、人差し指を顎に当てて「うーん……」と考え込んだ。
出会った頃の無邪気さの中に、どこかすっと大人びた落ち着きが混ざり始めたその横顔。風に揺れる薄緑の髪が夕日に透けて、とても綺麗だった。
「まだ、よくわかんないかな。ロイドたちみたいに支援課のお仕事をするのもかっこいいなって思うし……でも、キーアはみんなにご飯を作ってあげるのも大好きだし、お裁縫ももっと上手になりたいし……」
指を折りながら、えへへ、と柔らかく微笑むキーアちゃん。
その飾らない言葉を聞いているだけで、胸の奥がぽかぽかと温かくなっていく。
だけど同時に――自分の番がやってきたことに気づいて、僕はぎゅっと胸元の服を握りしめた。
「キーアちゃん。あのね……僕は、その……」
喉の奥がカッと熱くなる。正直に言って、ひどく気恥ずかしい。
もともとはただ本を読んでいただけの僕だ。身体を鍛え始めたとは言っても、まだまだランディさんたちの足元にも及ばない。
こんな大それたことを口にしていいのかなって、やっぱり自信のなさが顔を出す。
でも――あの日、この手でキーアちゃんを守りたいと誓ったから。
大好きな彼女が笑っていられる世界を、ちゃんと守れる男になりたいと決めたから。
僕は勇気を振り絞って、真っ直ぐに彼女の瞳を見つめた。
「僕……将来は、遊撃士になりたいんだ。……やっぱり、変かな?」
「…………っ」
キーアちゃんは、大きく目を見開いた。
まるで信じられない奇跡を目の当たりにしたかのように、息を呑んで僕を見つめている。
屋上を渡る夕暮れの風の音だけが響く、ほんの数瞬の沈黙。
呆れられちゃったかな、と不安になって視線を伏せそうになった、その時だった。
ふわりと、小さな温もりが僕の右手を包み込んだ。
キーアちゃんが、両手で僕の手を優しく、けれどしっかりと握りしめていた。
顔を上げると、そこには――夕暮れの光の中で、大輪の花がパッと咲いたような、これ以上ない満面の笑顔があった。
「変なんかじゃないよ! キーア、アルシュにすっごくぴったりだと思う!」
「キーアちゃん……」
「困ってる人を助けて、優しくて、一生懸命で……そんなアルシュが遊撃士になったら、きっと街中のみんなが安心できるよ。キーア、ぜーったい応援するからね!」
僕の手をぎゅっと握り直しながら、心からの言葉をくれるキーアちゃん。
その瞳には、僕の小さな夢を我が事のように喜んでくれる、深い誇りと愛情が満ち溢れていた。
認めてもらえた嬉しさに、僕の口元からも、いつもの情けないくらいにへにゃっとした笑顔がこぼれていた。
――それから、しばらく経った頃のことだった。
学校がお休みの日、僕はまたキーアちゃんに手を引かれて、特務支援課のビルへとやってきていた。
リビングの大きなテーブルでエリィさんに勉強を教えてもらいながら、キーアちゃんが手作りしてくれた焼き菓子を口に運んでいた時のことだ。
ガチャリ、と一階の玄関のドアが開く音が響いた。
「ただいまー、っと! ほら、遠慮すんなってアガット!」
聞き慣れたランディさんの快活な声。
けれど、それに続いて聞こえてきたのは、少し低くて野太い、聞き覚えのない男の人の声だった。
「おい、オルランド……。お前、急に人を引っ張ってきて何なんだよ……」
「まあまあ、いいから上がれって! お前にも会わせたい奴がいるんだよ」
ドタドタと階段を上がってくる、二人分の足音。
リビングに姿を現したランディさんの隣を見て、僕は思わず目を見張った。
燃えるような赤髪に、背中には身の丈ほどもある巨大な両手剣を背負った、長身の男の人。全身から漂う歴戦の武人の気配と、どこか不器用そうに眉根を寄せた精悍な顔立ち。
「おいおい、オルランド……」
困惑したように眉を寄せるその人に、ランディさんは「さっき話しただろ?」と悪戯っぽく肩をすくめてみせる。
男の人は「はぁ……」と呆れたように深いため息を吐き出した。
すると、ランディさんがニヤリと笑って僕を手招きした。
「おーい、アル坊! ちょっとこっち来てみな」
「は、はいっ!」
慌てて椅子から立ち上がり、小走りで駆け寄る。
ランディさんは誇らしげに胸を張り、隣の男の人を親指で指し示した。
「紹介してやるよ。こっちはアガット・クロスナー。リベールから仕事で立ち寄ってる、本物の正遊撃士だ」
「――っ!!」
アガット・クロスナー。その名前に、頭の中でパッと火花が散った。
図書館で読んだ『リベール通信』のバックナンバーや、クロスベルタイムズの国際面で何度も目にした名前。
リベールやエレボニアで数々の事件を解決してきた、名高い《重剣》の遊撃士、その人だったのだ。
憧れと緊張が一気に押し寄せてきて、僕は背筋をピシッと伸ばし、直立不動になって頭を下げた。
「あ、アルシュ・グレイウッドですっ! あの……僕、将来、遊撃士になりたいと思ってて……っ!」
声が裏返りそうになりながらも、必死に思いを伝える。
すると、厳めしい顔立ちに見えたアガットさんは、一瞬だけ驚いたように目を丸くし――それから、驚くほど柔らかく、優しい表情を浮かべた。
「そうか。……遊撃士に、なりたいのか」
ぽつりと呟いたアガットさんは、ふっと口元を緩めると、太く逞しい右手を僕の頭へと伸ばしてきた。
そして――くしゃり、と力強く、けれどどこまでも温かく、僕の髪を撫でてくれた。
「がんばれよ。……俺はリベールの遊撃士だから、そう何度もこっちに来ることはねぇが……次に機会があったら、稽古の真似事くらいなら付き合ってやるよ」
「えっ……ほんと、ですか……!?」
思ってもみなかった言葉に、僕は顔を跳ね上げた。
アガットさんは照れくさそうに鼻の頭を指で擦りながら、「ああ、男に二言はねぇよ」と短く笑って頷いてくれる。
本物の遊撃士さんからの、温かなエールと約束。
胸の奥から熱いものが込み上げてきて、僕はありったけの気持ちを込めて、深々と頭を下げた。
「はいっ……! ありがとうございます、アガットさん!」
元気いっぱいにそう返すと、アガットさんは満足そうに頷き、後ろで腕を組んでいたランディさんは「へへっ、よかったなアル坊!」と豪快に笑った。
ソファからはエリィさんが優しく微笑み、キーアちゃんがまるで自分のことのように顔を輝かせて、嬉しそうにパチパチと拍手を送ってくれている。
夕暮れの光が差し込むリビングに、温かな笑い声が満ちていく。
僕は、ぎゅっと小さな拳を握りしめた。
まだまだ何もできない、弱くて、臆病な僕だけれど。
こうして背中を押してくれる人たちがいて、隣で笑っていてくれる女の子がいる。
それだけで、どこまでも歩いていける気がした。