『蒼灰の軌跡』〜届かない光と、全肯定の死神〜 作:こげすずめ
「……で。どうする?」
シャーリィは木箱から身を乗り出し、アルシュの目の前へスッと細い手を差し出した。
街灯の逆光を背に受け、赤髪が夜風に揺れる。
「――強くなりたい?」
悪魔の囁きのように甘く、けれどどこまでも率直な問いかけだった。
強くなりたい。
その気持ちは、あの嵐の夜を境に、以前よりもずっと、ずっと強く、黒く、アルシュの腹の底で渦巻いていた。
もう二度と、大切な女の子を自分の身代わりに盾にするような、あんな無様で惨めな思いはしたくない。死の恐怖すらもねじ伏せられるほどの、圧倒的な力が欲しい。
喉まで出かかった「はい」という言葉。
けれど、アルシュはどうしてもそれを口に出すことができず、差し出された彼女の白い手を取ることもできなかった。
怖いのだ。
ランディや父が教えてくれた、誰かを護るための温かい剣とは全く違う、血と暴力の匂いがする未知の力への恐怖。目の前で無邪気に笑うこの女性が孕む、底知れない狂気への怯え。
そして何より――この手を取ってしまえば。自分を信じて背中を押してくれた父さんや、不器用ながらも親身に教えてくれたランディさん、そして、真っ直ぐに自分を頼ってくれるキーアを「裏切る」ことになるのではないかという、拭い去れない罪悪感。
光の当たる世界から、暗い裏道へと足を踏み外してしまうような気がして。
アルシュはギリッと唇を噛み締め、膝の上で強く拳を握り込んだまま、俯いてしまった。
「…………」
そんなアルシュの葛藤など、彼女にとっては手に取るように分かったのだろう。
シャーリィは差し出した手を引っ込めることはせず、ふっと呆れたように息を吐いた。
「アハハ、やっぱランディ兄のところにいるだけあって、変なとこ真面目でウブだねえ」
からかうような笑い声。
けれど、そこには以前のような獲物をいたぶるだけの冷酷さはなく、どこか手のかかる弟分を見るような、面倒見のいい『姉御肌』の気風が混じっていた。
「ね、ボク。明日、時間ある?」
「え……?」
「興味、なくもないみたいだからさ。アタシが特別に『体験』させてあげる」
顔を上げたアルシュの視界が、一瞬、グラリと揺れた。
シャーリィの瞳が、細い三日月のように歪められている。それは紛れもなく、血の匂いを好む猟兵としての、獰猛で残忍な肉食獣の気配。
だが、その唇に浮かんだ笑みは、ひどく無邪気で、アルシュの心の奥底にある「力への渇望」を直接撫で上げるような、抗いがたい魅惑に満ちていた。
「ほら、さっさと立ちなよ! ウジウジ悩むのは、一回アタシのやり方を味わってからでも遅くないっしょ?」
言うが早いか、シャーリィは躊躇するアルシュの手首をガシッと掴み、強引に引っ張り上げた。
「わっ……!?」
細い腕のどこにそんな力があるのか、十歳の少年の身体など羽毛のように軽々と引き上げられる。
乱暴で、有無を言わさない強引な引き寄せ。
あんなに恐ろしかったはずの、死神のような赤い猟兵の手。
一瞬だけ、キーアの泣きそうな顔が脳裏に浮かんだ。
それなのに。
引かれた腕の力強さと、彼女が纏う圧倒的な『絶対強者』の気配に当てられて。
アルシュは不思議と、掴まれたその手を振り払おうとは思えなかった。
暗い夜の路地裏。
少年は、自身の弱さを塗り潰してくれるかもしれない「劇薬」の誘いへと、ついにその身を委ねたのだった。