『蒼灰の軌跡』〜届かない光と、全肯定の死神〜 作:こげすずめ
マインツ山道での凄惨な「体験授業」を終え、
導力車(オーバルカー)の静かな揺れに身を任せてクロスベル市内へと戻ってきた三人。
到着したのは、歓楽街にもほど近い、市内で最も格式高い高級ホテルの一室だった。
「あー、血の匂いが染み付いちゃった。アタシ、お風呂で流してくるから適当にくつろいでて!」
スイートルームのふかふかな絨毯に足を踏み入れるなり、
シャーリィはテスタ=ロッサを無造作に壁に立てかけ、そのままバスルームへと消えていった。
パタン、と扉が閉まり、広い客室には水の音だけが微かに響くようになる。
残されたのは、アルシュと大柄なガレスの二人きりだった。
場違いなほどの高級な調度品に囲まれ、アルシュがどこに座ればいいのか分からずにオロオロしていると、窓際で外を警戒していたガレスが、静かに口を開いた。
「……山道での忠告、気にしてるのか」
「えっ……あ、はい」
アルシュは少しだけ身を縮めながら頷いた。
深入りするなというあの言葉は、間違いなくアルシュを思っての忠告だったと分かっていたからだ。
ガレスは腕を組んだまま、一つ短く息を吐いた。
「……お嬢が自らお前の面倒を見ると決めた以上、俺からこれ以上口出しするつもりはない。
安心しろ、お嬢はお前を『赤い星座(ウチ)』の泥沼に引きずり込む気など欠片もないさ」
ガレスの言葉に、アルシュはホッと胸を撫で下ろした。
猟兵の恐ろしさを知るガレスだからこそ、
この特訓が単なる「気まぐれな火遊び」で終わることを、
そしてシャーリィがアルシュを本当の裏の世界へ落とすつもりがないことを正確に見抜いていたのだ。
「いいか、坊主。お嬢の言った『選択肢』……その意味を履き違えるなよ。
自分が為したい事のために、今、何が必要なのか。それを見極めるための時間だと思え」
嫌ったり突き放したりするわけではなく、彼なりの不器用な心配と助言。
「……はい。ありがとうございます、ガレスさん」
アルシュが深く頭を下げた、その時だった。
「ふいー、さっぱりしたぁ!」
勢いよくバスルームの扉が開き、湯気を纏ったシャーリィが飛び出してきた。
「あっ、お姉さ――」
振り向いたアルシュは、直後に「ひゅっ」と息を呑んで硬直してしまった。
風呂上がりのシャーリィの格好は、薄手で肌の透けそうなキャミソールに、丈の短すぎるショートパンツという、あまりにも無防備で扇情的なものだったのだ。
首元にかけたタオルから滴る水滴が、ほんのりと赤みを帯びた白い肌を伝い落ちていく。
「どしたのアルシュ、突っ立ってないでこっち来なよ」
ドサッと大きなベッドに腰掛けたシャーリィが、アルシュに向かっておいでおいでと手招きをする。
「あ、えと、その……服、薄くないですか……?」
十歳の少年にとって、先ほどまで血まみれで魔獣をミンチにしていた猟兵とはいえ、
風呂上がりの年上の女性の艶姿はあまりにも刺激が強すぎた。
顔を真っ赤にしてドギマギしながら、恐る恐るベッドに近づいていく。
「んー? 室内だし暑いからいーの。それよりちょっと手ぇ貸して」
「わっ……!?」
近づいた瞬間、アルシュは腕を強く引かれ、そのままベッドの上に前のめりに倒れ込まされてしまった。
「ひゃ……っ!? な、何するんですか!?」
パニックになるアルシュをよそに、シャーリィの細い手がアルシュの腕や肩、背中から太ももにかけて、容赦なくペタペタと這い回り、筋肉の付き具合を確かめるようにまさぐり始めた。
「ひゃうっ! ちょ、お姉さん! くすぐったい、ですっ!」
「ふーん……子供にしてはいい筋肉ついてるし、骨格も悪くないね。ランディ兄(にい)のシゴキの成果ってとこかな」
アルシュの悲鳴など全く気にせず、シャーリィは真剣な顔つきで身体の各所を弄り続ける。
そして、そのままの体勢でポンと手を叩いてガレスを振り向いた。
「ねえガレス。ウチの予備で、D型(子供用)のプロテクターって残ってたっけ?」
「……いや。俺たちの部隊には現在そのサイズの予備はない。
だが、C型のベルトを限界まで締め上げ、裏地を調整すれば、コイツでも着込めるだろう」
「そっか。じゃあそれでいっか!」
プロテクター? D型?
全身を撫で回されて息も絶え絶えになっているアルシュが、涙目で疑問符を浮かべた顔を向けると、シャーリィはニシシッと悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「明日から始まる、アタシの地獄の特訓で君が着込む防具のサイズ確認だよ。骨折れちゃったら困るしね!」
「ぼ、防具のサイズ……それなら、普通に測ってくれれば……っ」
「ん? 普通に測るより手っ取り早いじゃん。……ま、半分くらいは君のテンパってる反応が可愛くてからかってるだけだけどねー!」
ケラケラと笑いながらアルシュの頬をつつくシャーリィ。
魔獣を前にした時の絶対的な死神の姿と、今の無邪気でタチの悪いお姉さんぶり。
そのあまりのギャップに振り回されながらも、アルシュは不思議と嫌な気はしていなかった。
――こうして。
裏の世界の住人たちとの、決して交わるはずのなかった奇妙で苛烈な「秘密の特訓」の日々が、幕を開けたのだった。