『蒼灰の軌跡』〜届かない光と、全肯定の死神〜 作:こげすずめ
そして翌日。
学校を終えたアルシュは、ガレスが手配したという人気のない廃倉庫の地下空間へと足を踏み入れていた。
そこで待ち構えていたシャーリィは、
軽いストレッチをしながら、最高に楽しそうな笑顔でとんでもないことを口走った。
「というわけで、今から君を殴りまーす!」
「……はい?」
「あ、基本は顔の数ミリ手前で止める『寸止め』だから安心してよ。
ちゃんと正面から拳を見て、受け止めたり、防御したり、しっかり避ける練習ね」
シャーリィはポンポンと自分の拳を打ち合わせながら、
ひどく無邪気に、けれど底冷えのするような声で付け加えた。
「――ただし。たまーに、本気で殴るから」
その一瞬だけ、彼女の金色の瞳に獲物を噛み砕く肉食獣のような獰猛さが垣間見え、アルシュの背筋がゾクリと凍りついた。
「き、基本は寸止めなのに、なんで本気で殴るんですか……?」
「決まってるじゃん。『恐怖への対峙』には、これが一番手っ取り早くて効果的だからだよ。
絶対に当たらないって分かってる拳なんて、怖くもなんともないでしょ?」
言い訳を許さない、絶対的な弱肉強食の理屈。
逃げること、目を逸らすこと=死(痛み)という本能を物理的に身体に叩き込むための、
文字通りの『地獄のシゴキ』だ。
「さあ、覚悟ができたら準備しなー!」
言われるがまま、アルシュは昨日渡されたC型のプロテクターを身に着けた。
子供用ではないため、ベルトを限界まで締め上げ、各所を無理やり固定している。
全身を分厚い装甲で覆われ、ロボットのようにガチガチになった状態で、アルシュは木剣を構えた。
「よ、よし……! かかってきてくだ――」
「ぶっ……あはははははっ!!」
アルシュが気合を入れた瞬間、シャーリィは腹を抱えて盛大に吹き出した。
「ご、ごめん、ごめんね……っ!
でもそれ、あまりにも着られてる感すごくて、歩くタンスみたいでさぁ……っ!!ひー、お腹痛いっ!」
涙目になりながら地面を叩いて笑い転げるシャーリィ。
「お、お姉さん! 真面目にやってください!」
からかわれて顔を真っ赤にしながら抗議するアルシュだったが、
シャーリィがひとしきり笑い終え、ゆっくりと立ち上がった瞬間――その場の空気が一変した。
スッ、と。
彼女が自然体でその場に立った直後。
「――っ!?」
アルシュの目の前が、唐突に暗くなった。
ドンッ!という強烈な風圧と共に、
シャーリィの小さな拳が、アルシュの鼻先、わずか数ミリのところでピタリと静止していた。
(え……?)
目にも見えない速さ。
一歩踏み込む予備動作すら認識できなかった。
恐怖に対峙するどころか、脳が「攻撃された」と理解する前に、
すでに死が目の前に突きつけられていたのだ。
冷や汗がどっと噴き出し、心臓が早鐘のように打ち鳴らされる。
「アハハ、びっくりした? 今のは挨拶。
次からは、君がギリギリ対処できるくらいの速さで殴ってあげるから、ちゃんと対応しなよ?」
シャーリィは楽しそうに笑うと、再びスッと間合いを取った。
そして、地獄が始まった。
シュッ! ブンッ!
「ひぃっ……!」
繰り返される、寸止めの拳撃。
見て、見て、見ろ。アルシュは必死に目を見開き、身体を動かそうとする。
しかし、動けない。
何をどう動こうが、こちらが反応したその先を先読みするように、
あるいは逃げ道を塞ぐように、圧倒的なプレッシャーを伴った拳が急所を正確に捉えてくる。
顔面へ、腹部へ、首筋へ。
当たる直前で止まると分かっていても、本能が「殺される」と警鐘を鳴らし、身体が硬直してしまう。
(怖いっ……! 避けなきゃ、でも、どこに……!)
パニックになりかけた思考の隙間。
幾度目かの寸止めが来ると思い込み、
反射的に目をギュッと瞑って、無意識に後ろへのけぞろうとしてしまった、その瞬間。
「甘いよ」
冷酷な声と共に、今度こそ拳は止まらなかった。
ゴガァァァンッ!!
「――ッ!!!」
プロテクター越しに、みぞおちを巨大な鉄球で打ち抜かれたような、絶望的な衝撃。
一瞬、視界が真っ白に弾け飛び、肺からすべての空気が強制的に押し出される。
「あ、がっ……!」
アルシュの身体はくの字に折れ曲がり、数メートル後方へ無様に吹き飛ばされて、コンクリートの床を転がった。
「ゲホッ……お、ぇぇぇっ……!!」
激痛と痙攣。
呼吸の仕方を忘れ、アルシュは床を掻きむしりながら、胃の内容物を盛大に吐き出してしまった。
涙と鼻水、そして吐瀉物にまみれて悶え苦しむアルシュを見下ろし、
シャーリィは冷たく、けれどどこか嬉しそうに宣告した。
「ほら、立って。――君の地獄は、まだ始まったばっかりだよ」