『蒼灰の軌跡』〜届かない光と、全肯定の死神〜   作:こげすずめ

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僕の地獄と小さな勲章

胃の中にあるものを全て吐き出したような感覚。

 

胃の痙攣に耐えながら、アルシュは震える膝に無理やり力を込めて再び立ち上がった。

 

とんでもない痛みだった。

みぞおちを貫いた衝撃が、背骨まで達したかのように錯覚するほどだ。

今すぐにでも背を向けて、泣き喚きながら逃げ出したい。

 

怖くて、怖くて仕方ない。

 

けれど、脳裏にあの嵐の夜の光景がよぎる。

リリを背中に庇い、迫り来る魔獣の牙から無意識に逃げてしまったあの瞬間の絶望。

 

(……あの時の恐怖なんて、このお姉さんに比べたら、ほんとうにたいしたことないじゃないか)

 

震える唇を噛み締める。

 

この赤髪の死神が放つ、息もできないほどの濃密な殺気と恐怖。

これに真正面から立ち向かえるようになったら、きっと同じ失敗はもう絶対にしなくなるはずだ。

 

そう何度も自分に言い聞かせ、アルシュは木剣を構え直した。

 

少し離れた場所で、退屈そうによそ見をしていたシャーリィが、アルシュが立ち上がったのを確認して首を傾げた。

 

「あ、立った。じゃあ、いくよー」

 

何でもない日常の挨拶のようにそう言うと、彼女の姿が再びブレた。

 

一発目。突風と共に、目の前で拳がピタリと寸止めされる。

 

防ぐことも避けることもできない。

 

そして二発目。恐怖でアルシュの身体は金縛りに遭ったように動かなかった。

 

どこかで「まだ二発目だから、次も寸止めだろう」と高を括っていたのかもしれない。

 

ゴッ……!

 

「がはっ……!?」

 

容赦のない本気の打撃が、再びアルシュの身体を空中へとふっ飛ばした。

コンクリートの床に叩きつけられ、今度こそ胃液すら全部吐き出しそうなほどの衝撃でのたうち回る。痛みで視界が明滅し、声にならない呻き声しか出ない。

 

シャーリィは何事もなかったかのように、「ガレスー」と間延びした声で呼びかけた。

すぐさま大柄な影がアルシュのそばに寄り、カチャリとオーブメントを操作する音が響いた。

 

「《ティア》」

 

淡い光がアルシュの身体を包み込む。

 

嘘のように痛みと痣が消えていき、

アルシュは「ひゅーっ、ひゅーっ……」と喉から掠れた息を必死に吐き出した。

 

そんなアルシュを見下ろしながら、シャーリィはニシシッと、本当に何でもないことのように笑った。

 

「安心してよ、ボク。痛みとかちょっとした痣なんかは、ガレスのアーツですぐに治してくれるからさ。骨さえ折れなきゃ、何度でも練習できるっしょ?」

 

 

(狂ってる……!)

 

 

アルシュは心の底から戦慄した。これが裏の世界、猟兵の常識なのか。

アーツのおかげで痛みは消えた。

だが、胃が内側から雑巾のように捻り潰されたような強烈な違和感は消えていないし、

足の震えはさっきよりもひどくなっている。

 

本当に、今すぐ家に帰って、温かい布団に潜り込みたくて仕方なかった。

 

でも。

 

アルシュは、泥だらけのプロテクターを鳴らして、また立ち上がった。

 

昨日、星空の下でキーアに誓ったのだ。「守るから、守れるようになるから」と。

表の世界の家族や、ランディ、キーアたちを裏切って、今自分はこの暗い地下室に立っている。

それなのに、自分のためにわざわざ時間を作って、

こうして『選択肢』を教えようとしてくれている目の前の人たちまで裏切って逃げ出すことなんて、絶対にできない。

 

だから、頑張るんだ。絶対に諦めない。

 

 

 

 

 

そこから先は、本当の地獄だった。

 

何度も、何度も殴られ、床を転がった。

 

その度にアーツで起こされ、立ち上がってはまた殴られ、吹き飛ばされる。

 

 

「ほら、見てない!」 「足が逃げてる!」 「遅い!」

 

 

シャーリィの容赦ない言葉と拳が交差する。

 

三十発、五十発……自分が何回宙を舞ったのか、もう数えることすらできなくなっていた。

 

意識も朦朧とし、視界は赤と黒のノイズに覆われている。

 

そして、何十発目かの拳。

 

今まで、あえて狙ってこなかった『顔面』へ向けて、

シャーリィの拳が真っ直ぐに飛んできた。

 

 

(――あ)

 

 

その時。

 

極限状態の中で、アルシュの頭の中はずっとクリーンに澄み渡っていた。

 

恐怖はあった。だが、身体は逃げなかった。

 

後ろへ飛び退くのではなく、迫り来る死の予感に対して――ただ真っ直ぐに、一歩、前へと踏み出したのだ。

 

両腕を交差させ、拳の軌道を受け止めるための完璧な防御姿勢。

 

だが、衝撃は来なかった。

 

アルシュが前に出て受け止められることがわかっていたのか。

シャーリィの拳は、当たる直前でふわりと速度を落とし、

 

(ぽすん)

と軽い音を立ててアルシュの額に触れただけだった。

 

「……やるじゃん」

 

額越しに見上げたシャーリィの顔は、いつもの獰猛な肉食獣のそれではなく。

よくやった、と弟分を心から褒め称えるような、とても優しく、誇らしげな笑顔だった。

 

「おねえ、さ……」

 

限界だった。張り詰めていた糸がプツリと切れ、アルシュの身体から完全に力が抜け落ちた。

そのまま、前のめりにシャーリィの方へと倒れ込む。

 

地面に激突する直前、細くしなやかな腕が、アルシュの小さな身体をしっかりと抱き留めてくれた。

 

血と硝煙の匂い。けれど、ひどく温かい。

 

ゆっくりと床に寝かされる優しい感覚に包まれながら、少年は深い、深い意識の底へと沈んでいった。

 

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