『蒼灰の軌跡』〜届かない光と、全肯定の死神〜 作:こげすずめ
「……んっ……」
チュン、チュン、と小鳥のさえずりが
窓から差し込む朝日と共にアルシュを叩き起こした。
重い瞼をこすりながらベッドの上で身を起こす。
(……ここ、僕の部屋……だよね?)
状況に頭が追いついていないのか、
それとも昨日の出来事がすべて悪夢だったのか。
ぼんやりとした頭で周囲を見渡し、毛布の感触を確かめるように自分の手をニギニギと握りしめる。
見慣れた机、読みかけの本、立てかけられた木剣。間違いなく自分の部屋だ。
しかし、どうやってあの地下室から帰ってきたのか、全く記憶がない。
立ち上がろうと身体を動かした瞬間。
パジャマのポケットから、小さく折りたたまれた紙切れがぽろりと床に落ちた。
「ん……?」
不思議に思って拾い上げ、広げてみる。
そこには、見覚えのない少し乱雑な文字で、こう書かれていた。
『今日はアタシたちの予定があるから訓練はなし。ゆっくり休みな!
みっちりマッサージしてあげたから、ほとんど疲労も感じないと思うよ。
お姉さんに感謝しな!』
手紙を読んだ瞬間、ケラケラと悪戯っぽく笑うシャーリィの顔が脳裏に浮かび、アルシュはパッと顔を上げた。
夢じゃなかった。
あの血の匂いがする地下室で、何度も殴られ、
吐き気を催すほどの恐怖と痛みに耐え抜いた『地獄』は、紛れもない現実だったのだ。
アルシュは昨日の光景を思い返す。
ボコボコにされ、視界が明滅する中で、最後の最後。
顔面へ迫り来る拳に対して、逃げることなく真っ直ぐに一歩、前へと踏み込めたあの一瞬。
(……僕、できたんだ)
恐怖に打ち克ち、前に出た。
そのたった一歩がもたらした達成感は、
今までランディや父さんに教わって素振りを千回繰り返した時よりも、
ずっと深く、強く、絶対的な自信としてアルシュの魂に刻み込まれていた。
「よしっ……!」
元気いっぱいの表情で、アルシュはベッドから跳ね起きた。
立ち上がってみて驚く。
あれだけ殴られ、何度もコンクリートの床を転がったというのに、
手足に少しだけ痺れに似た軽い筋肉痛を感じる程度なのだ。
(アーツで治してもらったとはいえ……えっ、マッサージ?)
ふと、手紙の一文に意識が向く。
『みっちりマッサージしてあげた』
その言葉を見た瞬間、アルシュの脳裏に、
数日前にホテルのベッドの上で「骨格と筋肉の確認」と称して全身をペタペタと撫で回された記憶がフラッシュバックした。
(まさか、気絶してる間に、あの時みたいに全身弄られたんじゃ……っ!?)
ボッ、と顔から火が出るように熱くなり、アルシュは真っ赤になって頭を振った。
「ち、違う違う! きっと普通のマッサージだよ……たぶん!」
どうやってこの部屋まで運ばれて、誰がパジャマに着替えさせたのかという
更なる疑問にはあえて蓋をして、アルシュは慌てて部屋を飛び出した。
「おはよう、父さん、母さん!」
リビングへ向かうと、そこには朝食の準備をする母と、
珍しくこの時間に非番で家にいる父・アデルの姿があった。
「おはよう、アルシュ。なんだい、今日はやけに機嫌がいいじゃないか」
コーヒーを飲んでいたアデルが、少し驚いたように目を丸くする。
数日前までこの世の終わりのような顔をしていた息子が、
見違えるように清々しい顔をしているからだ。
「うん! いっぱい寝たからね!」
「そうかい、そりゃよかった。ほら、ご飯の前に顔を洗ってきなさい」
父に促され、アルシュは洗面所へ向かった。
冷たい水で顔を洗い、姿見の鏡に映る自分の顔を見る。
(……本当に、アーツってすごいな)
頬にも、首筋にも、腕にも。あれだけ殴られたのに、傷一つ、痣一つ残っていない。
けれど。
(……あれ?)
鏡を見つめていたアルシュは、自分の顔の『ある変化』に気がついた。
見た目はいつもの十歳の少年のままだ。
だが、その瞳の奥に宿る光の強さ。
死の恐怖を乗り越え、猟兵の狂気に触れたことで、
彼の目つきには、以前の「ただの優しい子供」にはなかった、
獲物を真っ直ぐに射抜くような鋭い光
――『戦士』としての静かな気迫が、微かに、けれど確かに宿り始めていたのだ。