『蒼灰の軌跡』〜届かない光と、全肯定の死神〜 作:こげすずめ
洗面所から戻り、ダイニングテーブルに着くと、
温かいベーコンエッグとトーストの香りがアルシュの鼻をくすぐった。
「ほら、冷めないうちに食べなさい」
「うん、いただきます!」
母が用意してくれた朝食を口に運び始めた、その時だった。
母が台所で洗い物をしながら、とんでもないことを言い出したのだ。
「それにしてもアルシュ。いくら遊び疲れたからって、あの子たちに迷惑かけちゃダメよ。
今度ちゃんと、ツァイトにお礼を言っておきなさいね」
「……ぶふっ!?」
思わず口に入れていたミルクを吹き出しそうになる。
「こら、汚い」と父・アデルが苦笑する横で、アルシュの頭の中には無数の「?」マークが飛び交っていた。
(ツァイトが……!?)
「昨日、あんたがぐっすり寝込んでるのを、ツァイトが背中に乗せて家まで送ってくれたんだから。本当にお利口な犬だわぁ。
……まあ、あの子がどうやって家のドアをノックしたのかは謎だけど」
母はすっかり「アルシュは友達と遊び疲れて寝てしまい、特務支援課の警察犬が送り届けてくれた」と思い込んでいるようだ。
だが、アルシュの記憶が正しければ、自分は廃倉庫の地下でシャーリィの拳を食らい続けて気を失ったはずだ。
ツァイトがあんな場所にいるわけがないし、ましてや猟兵であるシャーリィやガレスとツァイトが面識があるとも思えない。
(……いや、ガレスさんが運んでくれたのを、途中でツァイトが代わってくれた?
それとも、お姉さんが何かの手品を使ったの……?)
状況が全く理解できず、アルシュはぽかんと口を開けたまま、
味のしないトーストを咀嚼し続けた。
食事が終わり、昼からベルガード門へ出勤するという父アデルが、
コーヒーカップを置きながらアルシュに声をかけた。
「そうそう、アルシュ。昨日、ランディ君から伝言があってな」
「ランディさんから……?」
「ああ。『坊主が時間に余裕がある時なら、またいつでも剣を見てやるからよ』とのことだ。
最近のお前の落ち込みようを心配してくれていたみたいだな」
ドクン、と。
またしても、あの後ろめたさがアルシュの心臓を締め付けた。
ランディは、裏の世界の扉を開けてしまった自分を、
そんなこととは露知らず、変わらずに気にかけてくれている。
裏切ったような、申し訳ない気持ちが込み上げてくる。
だが、アルシュはそのドロドロとした感情をゴクリと飲み込み、
昨日のシャーリィの言葉を思い出した。
『今後も特訓を続けるなら、あいつの手ほどきは受けておいて損はないよ。
アタシが教えるのは、いざって時の選択肢を増やすための手札だから』
そうだ。お姉さんの教えと、ランディさんの教え。
両方があって初めて、僕は本当に大切なものを守れるようになるんだ。
「……父さん。ランディさん、いつなら都合がいいって言ってた?」
「そうだな、彼も忙しい身だが、今日か明日なら比較的時間が取れるだろうと言っていたぞ」
「だったら……今日の夕方、行く!」
アルシュは力強く宣言した。
アデルは息子のその真っ直ぐな瞳を見て、
「わかった。私から伝えておこう」と嬉しそうに頷いてくれた。
(よし……夕方はランディさんのところだ。でも、その前に)
まずは特務支援課に行かなければならない。
昨日、自分をどうやって家まで運んだのか。
そもそもなぜツァイトが関わっているのか。
その謎を解明するため、そして(母の言う通り)お礼を言うために。
アルシュは「ごちそうさま!」と勢いよく立ち上がると、
本当に何がどうなっているのか分からないモヤモヤとした気持ちを抱えたまま、
クロスベルの街へと駆け出していくのだった。