『蒼灰の軌跡』〜届かない光と、全肯定の死神〜 作:こげすずめ
朝の冷たい空気を切り裂くように、アルシュはクロスベルの石畳を駆け抜け、
特務支援課のビルへと急いだ。
「おはようございまーす!」
勢いよくドアを開けてロビーに飛び込むと、
そこには丁度、警察犬のツァイトとじゃれ合って遊んでいたキーアの姿があった。
ドアの音に振り返ったキーアは、パァッと花が咲いたような笑顔を浮かべる。
「あ、アルシュだー! おはよー!」
言うが早いか、キーアはタタタッと駆け寄り、アルシュの胸に無防備にぎゅっとくっついてきた。
「わっ、お、おはよう……」
(……ち、近いよっ)
あの嵐の夜、アルシュの胸で泣いて以来、キーアの距離感が以前よりもさらに近くなったような気がする。
好きな女の子に朝から抱きつかれ、アルシュは顔をボンッと赤くしたが、
ぶんぶんと頭を振ってその動揺を必死に紛らわせた。
なんとか平静を装い、アルシュはその温もりに耐える。
「どうしたのー? 朝から走ってきて」
キーアが不思議そうに小首を傾げる。
「あ、うん。ちょっとツァイトに用事があって……」
アルシュがそう答えて視線を向けると、
ロビーの奥でツァイトが静かにこちらを見つめていた。
キーアから少しだけ離れ、アルシュはツァイトの目の前へ歩み寄った。
「ツァイト。……昨日、僕を家まで送ってくれたの?」
『……わふ』
ツァイトは低く、小さな鳴き声で応えた。
「そっか。……ありがとう」
アルシュはツァイトの白い毛並みを軽く撫でた。
しかし、そこから先の言葉がどうしても出てこない。
よく考えてみれば、ツァイトは特務支援課の賢い警察犬(狼)だ。
人の言葉を理解しているように見える時はあるけれど、彼自身が言葉を話せるわけではない。
昨日の詳細を僕に説明できるわけがないし、
僕がどこで何をしていたかを知る術なんてないはずだ。
そう思いながらも、じっとこちらを見据えるツァイトの、
すべてを見透かすような金色の双眸に吸い込まれそうになり。
アルシュは、ふと口に出してしまっていた。
「ねえ、ツァイト。……もしかして、全部知ってるの?」
水を打ったような静寂。
ツァイトはアルシュの目を真っ直ぐに見つめ返し――少しの間を置いてから、
短く、静かにひと鳴きした。
『……ウォン』
不思議な感覚だった。
言葉など通じていないはずなのに、アルシュは確信した。
彼は昨日、あの地下室の裏で起きたこと、アルシュが誰といて何をしていたのかを
すべて知っていて、その上で『黙ってくれている』のだと。
「……そっか。ありがと、ツァイト」
アルシュは安心したように微笑むと、ツァイトのふさふさとした首元に両腕を回し、ぎゅっと抱きしめた。
ツァイトは嫌がるそぶりも見せず、その小さな少年の抱擁を大人しく受け入れてくれた。
「あーっ! アルシュ、ツァイトとお話ししてばっかりでずるーい!」
少しすると、後ろからキーアがアルシュの背中にぽすんと抱きついてきて、
特務支援課のロビーはいつもの賑やかな朝の空気に包まれた。
時を同じくして。
歓楽街近くの高級ホテル、その最上階のスイートルームでは、
シャーリィとガレスが呆れたような、それでいて感心したような顔で昨日の出来事を振り返っていた。
「いやー、それにしても昨日はマジでびっくりしたねー」
ベッドに寝転がりながら、シャーリィがケラケラと笑う。
昨日、アルシュの地獄のシゴキを終え、日が陰りだした頃。
気絶したアルシュを背負ったガレスとシャーリィが地下倉庫の外へ出ると、
目の前には、巨大な白い狼が鋭い牙を剥き出しにして立ちはだかっていたのだ。
それは、特務支援課の警察犬などという愛玩動物の姿ではなく、
完全に獲物の喉笛を食いちぎる『獣』の顔だった。
一瞬驚いたシャーリィだったが、即座に好戦的で攻撃的な笑みを浮かべた。
「あはっ、何これ。この子の友達かな?」
テスタ=ロッサに手をかけ、臨戦態勢に入るシャーリィ。
しかし、ガレスは巨大な狼の姿に目を細め、静かに忠告した。
「……お嬢、警戒しろ。
事前に集めていたクロスベルの情報と照らし合わせるなら、
あれは出没が噂されている伝説の『神狼』かもしれん。並の魔獣ではないぞ」
「へえ、神狼! 面白いじゃん、遊んでよ!」
シャーリィが一歩踏み出そうとした、まさにその時。
『……ツァイ、ト……』
ガレスの広い背中で気絶していたはずのアルシュが、微かに目を覚ましたのだ。
ほとんど意識が朦朧として、目もろくに開いていない状態。
それでもアルシュは、立ちはだかる白い狼に向かって、掠れた声で必死に訴えかけた。
『お願い……ボクが、頼んだんだ。どんなに大変でも、ボクが……強くなりたいって、思ったんだ……』
『だから……この人たちは、何も悪くないんだよ。ボクが……ボクが、選んだことだから……』
意識が飛び交う中で、それでも自分の意志を貫こうとする、
真摯で真っ直ぐな少年の表情。
その想いを汲み取ったのか。
ツァイトはピタリと殺気を収め、牙を剥くのをやめると、
アルシュをじっと見つめ返し、やがて踵を返して森の奥へ去ろうとした。
「あっ、ちょっと待ってよワンちゃん!」
その背中に向かって、シャーリィがとんでもないことを言い放ったのだ。
「この子、迎えに来たんでしょ?
アタシ、これからホテルに戻ってこの子にマッサージしてあげるからさ。
終わったら、後でそっちまで迎えに来てよ!」
伝説の神狼に向かって、まるでタクシーでも呼ぶかのように普通に言い放つ猟兵の少女。
ツァイトはピタリと足を止め、少しの沈黙の後――『わふ』と、
まるで呆れながらも了承したかのようにひと鳴きし、闇の中へ消えていったのだ。
そして現在。
ホテルのベッドの上で、シャーリィは本当に楽しそうに足をバタバタとさせていた。
「いやー、本当にマッサージ終わった夜中に、ホテルの裏口に迎えに来るとは思わなかったよね~! あはははっ、クロスベルってとこ、なかなか退屈しない場所じゃん!」
狂気と日常、伝説の獣と猟兵。
アルシュの知らないところで、彼の「強くなりたい」という意志が、
交わるはずのなかった世界の住人たちを奇妙な縁で繋ぎ合わせていたのだった。
ヘイ、タクシー!