『蒼灰の軌跡』〜届かない光と、全肯定の死神〜 作:こげすずめ
「……おはよう、アルシュ。朝から元気だな」
特務支援課の奥にある課長室のドアが開き、
無精髭を生やしたセルゲイ課長が気だるげに、けれどどこか優しい眼差しで顔を出した。
「あっ、セルゲイ課長。おはようございます!」
挨拶を交わし、アルシュの顔を真っ直ぐに見下ろしたセルゲイは、
その瞳の奥に宿る『変化』に気づいたのかどうか、微かに目を細めた。
しかし、それについては何も触れず、足元にいるキーアに向かって口を開いた。
「キーア。悪いが、朝飯用のパンを少し買ってきてくれないか」
「えーっ」
キーアは口を尖らせて、あからさまに「アルシュと遊んでたいのに」という可愛い不満の声を漏らした。
「仕方ないなぁ。じゃあ、僕も一緒に……」
アルシュが付き合おうと一歩踏み出すと、セルゲイがそれを手で制した。
「いや、アルシュ。お前にはちょっとお願いしたいことがあるから、ここに残ってくれるか」
「あ……はい、分かりました」
「むー……じゃあ、すぐ買ってくるから、アルシュ待っててね!」
キーアはタタタッと足音を立てて、ロビーから外へと駆け出していった。
パタン、と重いドアが閉まり、静かになった特務支援課のロビー。
二人きり(と一匹)になった空間で、セルゲイはゆっくりとアルシュの前に歩み寄り、
その大きな手を、ぽん、とアルシュの頭の上に置いた。
「……あの嵐の夜、リリちゃんを背中に庇って守ったそうだな。よくやった、アルシュ」
低い、落ち着いた声での称賛。
そして、セルゲイは少しだけ目を伏せ、アルシュに深く頭を下げた。
「俺が、ちゃんと車で迎えに行ってやるべきだった。すまなかったな」
「えっ……? そ、そんな、課長が謝ることなんて……!」
「いや。俺がもっと早く迎えに行っていれば……
お前が、あんなトラウマを覚えることはなかったはずだ」
ドキンッ。
『トラウマ』という言葉を聞いて、アルシュの心臓が大きく跳ねた。
あの日、足がすくんで、無意識に逃げてしまった恐怖。
それを塗り潰すために、
狂気と血の匂いがする猟兵の『特別授業』に足を踏み入れてしまった自分の罪悪感。
それらすべてを見透かされたような気がして、アルシュは息を呑み、わずかに肩を震わせた。
しかし、セルゲイはそれ以上、
アルシュが何を抱え込んでいるのかを深く追求しようとはしなかった。
ただ少しだけ困ったように苦笑し、頭に乗せた大きな手で、アルシュの髪をくしゃりと撫でた。
「……いいか、アルシュ。お前らはまだ『子供』なんだ。
何か辛いことや、理不尽なことがあったら、全部大人のせいにしていいんだぞ」
「……大人の、せい……?」
「ああ。お前は確かに、女の子を護るという立派なことをした。
……けれど、その結果としてお前が辛いと感じたり、怖い思いを抱え込んでしまったのなら、それはその時に力になることができなかった、俺たち『大人』が悪いんだ」
セルゲイの手は、タバコの匂いが微かに混じりながらも、絶対的な安心感と温かさに満ちていた。
昨日の夜、アルシュの母親が抱きしめてくれた時と同じ、表の世界の優しさ。
「子供のうちは、みんな早く大人になりたがるもんだ。
……だがな、子供のうちは『責任』なんて重たいものは、
全部周りの大人に任せきりにしちまっていいんだよ。お前が背負うような責任じゃない」
その言葉は、無理をして裏の世界の『力』を手に入れようと背伸びをしているアルシュの心に、痛いほど優しく染み渡った。
自分の弱さを責め、無理やりにでも強くなろうと地獄に飛び込んだ少年に対する、大人からの絶対的な肯定と保護の約束。
「……課長……」
アルシュは俯き、大きな手で撫でられる心地よさと、
自分が進んでしまった道の重さの狭間で、ただ静かに唇を噛み締めていた。