『蒼灰の軌跡』〜届かない光と、全肯定の死神〜 作:こげすずめ
「……怖かった。辛かったし、惨めだった」
夕暮れの風が吹き抜ける中、アルシュはぽつりぽつりと、
心の奥底に沈めていた泥のような感情を吐き出し始めた。
「あの時、僕……確かにリリちゃんを守れたと思ったんだ。
でも、気を抜いたほんの一瞬のことで、僕のせいでリリちゃんを怪我させちゃって……その時の光景が、ずっと頭から離れないんだ」
膝の上で、ぎゅっと両手を握りしめる。
「なのに、リリちゃんは……僕が守ってくれたから、かっこよかったって言ってくれた。
本当は『僕が自分が可愛くて逃げようとしたせいで、君を傷つけてしまった』って言わなきゃいけないのに……言えなくて」
情けなくて、惨めで、どうしようもない自分の弱さ。
ランディは口を挟むことなく、夕陽を見つめたまま、アルシュの震える告白を静かに、ただ大人しく聞いてくれていた。
一通り話し終え、アルシュがふうっと息を吐き出した時。
ランディは、二人の間で眠るキーア越しに手を伸ばし、アルシュの頭を無造作に、けれど力強くガシガシと撫でた。
「……お前、よくやったよ」
「え……」
「後ろにいる女の子を背中で庇って、自分が傷ついてでも守り抜く。
……そんなこと、口で言うのは簡単だが、いざ魔獣を目の前にしてできる大人なんてそうそういねえよ。人間ってのは、どうしても自分が一番可愛い生き物だからな」
ランディの温かい手のひらが、アルシュの強張っていた心を少しずつ解きほぐしていく。
「お前が今抱え込んじまってるモンだって、本当は逃げていいんだ」
「……逃げて、いい?」
「ああ。俺も、親父さんも……それに、ここにいるキー坊だってな。
お前が明日からぱったり剣を握るのをやめて、昔みたいにキー坊と一緒に図書館で本を読むだけの生活に戻ったって、絶対に誰も何も言わねえ」
ランディは、アルシュの服の裾をぎゅっと握りしめて眠るキーアの小さな手を見下ろした。
「キー坊がこうやってお前のそばから離れねえのも、
本当は『無理しないで、ただ隣にいてほしい』って思ってるからじゃねえのか?」
その言葉に、アルシュの胸がチクリと痛んだ。
キーアの純粋な願い。表の世界の、優しくて温かい大人たちの保護。それに甘えてしまえば、どんなに楽だろうか。
「――それでも……やめないんだろ?」
ランディの声が、一段低く、真剣な響きを帯びた。
アルシュは顔を上げ、今の自分が最も憧れる『戦士』の瞳を、じーっと見つめ返した。
(……うん)
トラウマを完全に払拭したい。時間を割いてくれるあの赤髪の猟兵たちを裏切りたくない。理由はいくつもある。
けれど何より、あの吐き気を催すような地獄の恐怖を乗り越え、
一歩前に踏み出せたあの瞬間の達成感が、今のアルシュの中で『小さくも絶対に譲れない、輝くような自信』になっていた。
ここで逃げてしまえば、きっと一生「あの時やめなかったら」という後悔を抱えて生きることになる。
誰かに言われたからじゃない。自分自身の意志と選択で、大切なものを守るために強くなりたい。その想いだけは、絶対に嘘じゃない。
アルシュは、真っ直ぐにランディの目を見て、コクンと力強く頷いた。
「……ふん」
ランディは少しだけ目を細め、どこか嬉しそうに鼻で笑った。
「なら、お兄さんと一つ約束しろ」
「約束……?」
「ああ。キー坊を泣かせるんじゃないぞ。
……好きな女の子を不安にさせて泣かせるような野郎は、男として最低だからな」
からかうようなランディの言葉に、アルシュはギクリと肩を揺らした。
「えっ、あ、でも……僕、こないだの夜に、一回キーアを泣かせちゃって……っ」
慌てて弁解しようとするアルシュを見て、ランディは「はははっ!」と声を上げて笑った。
「キー坊は優しいからな、一回くらいなら大目に見て許してくれるさ。
……けど、次はないぜ? 約束できるか?」
「…………はいっ!」
アルシュは背筋を伸ばし、真っ直ぐにランディに頷いてみせた。
「よーし、頑張れ小僧。
……いつかお前が、俺たち特務支援課がキー坊を任せられるくらいに『強く』なったら、その時は他の保護者連中を説得するの、俺が手伝ってやるよ」
「えっ!? そ、そんな、任せられるって……!」
ランディの大人なからかいに、アルシュは顔を真っ赤にしてパニックになり、
そんな二人をよそにキーアは「むにゃ……」と平和な寝息を立てていた。
ひとしきり笑い合った後。
アルシュは木剣を握り直し、一つだけ、ずっと胸に秘めていた想いをランディにぶつけた。
「……ランディさん。一つだけ、僕からのお願い、聞いてもらえませんか」
「ん? なんだ、言ってみろ」
「いつか……僕がもっと成長して、ランディさんに戦士として認められるくらいに強くなったら。その時は……僕と、本気で戦ってくれませんか」
特務支援課という存在は、アルシュにとっての憧れだ。
そしてその中でも、ランディ・オルランドという男は、アルシュにとって超えるべき『戦いの強さの象徴』だった。
10歳の少年の、無謀とも言える果し状。
ランディは一瞬だけ驚いたように目を見開いたが、すぐにニヤリと、猟兵時代の血の匂いを微かに滲ませた、獰猛で頼もしい笑みを浮かべた。
「……いいぜ。受けて立ってやる」
「本当ですか……!」
「ああ。ただし、俺の『チェック』は厳しいぜ? 生半可な強さじゃ、一瞬でぶっ飛ばしてやるから覚悟しとけよ」
「はいっ!」
夕焼け空が、一番星の瞬く藍色の夜空へと溶けていく。
表の世界の憧れの兄貴分との、固くて熱い約束。アルシュの胸の中で、強くなるための炎が、さらに力強く燃え上がっていた。