『蒼灰の軌跡』〜届かない光と、全肯定の死神〜 作:こげすずめ
そして、日々は加速する。
平和な日常の裏側で、静かに、しかし確実に歯車は回り始めていた。
昼下がり、特務支援課ビル。
誰もいないロビーに、電話のベルが鋭く鳴り響いた。
「はい、特務支援課」
無精髭を撫でながら受話器を取ったセルゲイ課長の声に、電話口から少し疲労の滲む、けれど真っ直ぐな青年の声が返ってくる。
『……お疲れ様です、課長。ロイドです』
「ああ、ロイドか。……一課での研修、随分と絞られているらしいな。生きてるか?」
『はは、ご想像の通りです。捜査一課の先輩方は本当に優秀で……毎日が勉強ですよ』
「違いない」
セルゲイは苦笑し、手元の書類をパラパラとめくりながら軽く雑談を交わした。
しかし、次第に彼の表情から昼行灯の緩さが消え、元エース捜査官としての鋭い眼差しへと変わっていく。
「……ところで、ロイド。話は聞いたか」
『はい』
受話器の向こうのロイドの声も、一段低く、張り詰めたものになった。
「彼が……元議長を拉致し、クロスベル市外へ逃亡。共和国方面へと向かっているという件ですね」
「ああ。問題は、奴の処遇について、今上層部で共和国側と揉めに揉めていることだ」
セルゲイは忌々しそうに、咥えタバコに火をつけた。
「奴は先の教団事件の重要参考人であり、何より、あの教団の『負の遺産』を所持している可能性が極めて高い。
共和国側としても自国内にそんな爆弾を抱え込むわけにはいかず、非常に神経質になっている」
『……』
「今、なんとか遊撃士協会とクロスベル警察の合同作戦という形で、こちら主導の対処に持ち込めるよう上層部が動いている。
……もしそれが通れば、お前にも一働きしてもらうことになるかもしれない」
かつての教団事件の最前線に立ち戦ってきたロイド。
この一件において、彼が無関係でいられるはずがなかった。
『……分かりました。全力を尽くします』
迷いのない、力強い返答。
「ああ。今のうちから、心構えだけはしておけ」
セルゲイは短く告げ、受話器を置いた。
紫煙を吐き出しながら、彼はデスクに置かれたクロスベル自治州の地図を、鋭い瞳で静かに睨みつけた。
場所は変わって、歓楽街・歓楽街の高級ホテルの一室。
窓からクロスベルの街並みを見下ろしながら、シャーリィは面白そうに喉を鳴らした。
「へえ。じゃあ、その『元秘書さん』が共和国に向けて逃げ出したってわけね」
「ああ。警察の包囲網をあっさりと抜け、元議長を盾にしての逃亡劇だ。
……随分と威張っている割には、ここの警察も情けない連中だ」
ガレスは葉巻を燻らせながら、呆れたように鼻を鳴らした。
「あははっ! ほんとほんと、ウケるねー!」
ケラケラと笑うシャーリィを横目に、ガレスは手元の端末を操作しながら淡々と報告を続ける。
「我々の取引相手からの情報によると……
おそらく、警察や遊撃士が奴の足取りを掴み、網にかけるのは『一週間ほど先』になるだろうとのことだ」
「一週間ねぇ。……で、アタシたちはどう動くの?」
「それに合わせて、こちらへ『赤い星座』の団員たちを引き込み、必要な装備や機材も搬入する予定だ」
ガレスの言葉に、シャーリィは少しだけ目を丸くした。
「……あのお嬢さん、まだ本契約も決まってないのに、随分と手厚いサポートをしてくれるんだね」
「ルバーチェが使っていた敷地の跡地売買にも、裏で相当手を回してもらっているらしい。
本職の黒月(ヘイユエ)相手に、我々だけで出し抜くのは至難だったが……このサポートがあれば問題はないだろう」
「ふーん。……それだけ、今回の契約を重視してるってことか」
「団長の判断次第だがな。……だが、条件を見る限り、本契約はまず間違いないだろう」
シャーリィは窓枠に腰掛け、細い足をぶらぶらと揺らしながら、クロスベルの青い空を見上げた。
「……そっか。そうなると、アタシたちの『気ままなバカンス』も、そろそろ終わりかな」
彼女の脳裏に浮かんだのは、毎日のように地下室で血と泥に塗れながら、
それでも必死に自分の狂気に食らいついてくる、真っ直ぐな瞳をした『可愛い弟分』の顔。
「ま、あと一週間程度……みっちり、死ぬ気で仕込んでやるか!」
シャーリィは嬉しそうに、そして獰猛な肉食獣のように歯を剥き出して笑った
その無邪気で残酷な笑顔に、歴戦の猟兵であるガレスもまた、微かに口元を歪めて微笑み返したのだった。