『蒼灰の軌跡』〜届かない光と、全肯定の死神〜 作:こげすずめ
最近、夜の素振りの時間にずっとそばで見学してくれるキーアを送るために、
アルシュは特務支援課のビルへと歩く。
ビルの前まで送り届けると、キーアは大きく手を振った。
「じゃあね、アルシュ! 明日の日曜学校、一緒に行こうね!」
「うん。おやすみ、キーア」
「おやすみなさーい!」
元気な笑顔を見送った後、アルシュは自宅へと戻った。
部屋の明かりはつけず、窓から差し込む青白い月明かりだけが、
ベッドに腰掛けたアルシュの小さな身体を照らしていた。
(……あと一週間で、今の訓練も終わり)
今日、地下の訓練場でシャーリィが口にした言葉が、静かな部屋の中で何度も反響する。
アルシュは膝の上に置いた、自分の両手をそっと見つめた。
月明かりに照らされたその掌は、ほんの数週間前、図書館で本をめくっていた頃の柔らかい手とはまるで違っていた。
マメが幾度も潰れ、皮が剥け、その下から分厚く硬い皮膚が形成されている。
木剣の重みと、猟兵の狂気を受け止め続けた証。醜くも誇り高い、戦士の手になりつつあった。
(僕は……少しでも、強くなれたんだろうか)
ふと、あの嵐の夜の記憶が脳裏を過る。
雷鳴、巨大な魔獣の咆哮、そして背中で泣きじゃくるリリの温もりと、恐怖で足がすくんでしまった自分の無様さ。
もし今、あの時と同じ状況になったら。
(今なら……リリちゃんに怪我をさせることもなく、しっかり守れるのかな……)
自問自答した直後。
不意に、アルシュの脳裏に、ニヤリと肉食獣のように笑う『お姉さん』の顔が思い浮かんだ。
『あははっ! なに、あの程度のちっぽけな魔獣が、アタシより怖いわけ?』
「……っ」
幻聴のようなそのからかいの声に、アルシュは思わず吹き出し、一人で苦笑を漏らした。
そうだ。あの嵐の夜の魔獣なんかより、薄暗い地下室で本気の殺意を向けてくるシャーリィや、ガレスの放つ威圧感の方が、何十倍、何百倍も恐ろしかった。
あの地獄のような恐怖に毎日耐え、立ち向かっているのだ。
「……そっか。今なら、大丈夫だ」
アルシュはギュッと拳を握り込み、一人静かに納得した。
あの日心を縛り付けていたトラウマは、猟兵の狂気という劇薬によって、もはや完全に上書きされ、消え去っていたのだ。
(これからのこと……一週間した後、先のことなんてどうなるかは分からないけど。でも)
あの二人には、本当に感謝している。
だからこそ、彼らに失望されないように。最終日にシャーリィが振るうという『刃を潰した本物の剣』。
あれから絶対に目を逸らさず、見事に対処してみせようと、アルシュは強く心に決めた。
(最後までやり切ったら……)
『ご褒美に、アタシがなんでも一つお願いを聞いてあげるよ! 別に、エッチな感じのお願いでもいいし?』
その言葉を思い出し、アルシュの顔がボッ、と熱くなった。
「だ、だからそういうのじゃないのに……っ」
ブンブンと首を横に振って顔の熱を冷ました後、アルシュは再び窓の外、クロスベルの夜空を見上げた。
なんでも、言うことを聞いてくれる。
もし、本当にあの気まぐれな紅い猟兵の姉貴分が、自分の願いを一つだけ叶えてくれるというのなら。
「……だったら」
月明かりを見つめる少年の瞳から、照れや戸惑いが消え去る。
静寂の中、アルシュは何か重大な決意を固めたように、真っ直ぐな瞳で夜空を睨み据えていた。