【幕間連載中】『蒼灰の軌跡』〜届かない光と、全肯定の死神〜   作:こげすずめ

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初恋②

洗面所の冷たい水で何度顔を洗っても、アルシュの胸の奥で暴れ回る鼓動は、一向に治まる気配がなかった。

 

(だめだ、今すぐ教室に戻ったら……またキーアの顔を、まともに見られない)

 

真っ赤になった顔の熱を、少しでも冷ましたくて。

アルシュは教室へは戻らず、そっと大聖堂の裏手へと足を向けた。

静寂に包まれた裏庭には、ひんやりと澄んだ冬の空気が漂っている。

人けもなくて、心地よい静けさだけがあった。

アルシュは足元に落ちていた手頃な長さの木の枝を拾い上げ、それを木剣に見立てて、両手できゅっと握り込む。

 

『踵から地面を掴むように意識してみな』

 

昨日、ベルガード門の屋上でランディに教わった言葉を、頭の中で何度も反芻する。

胸に居座る雑念を、振り払うみたいに。さっきキーアに顔を近づけられたときの、あの甘い匂いと、額の感触を――どうにか忘れるみたいに。

 

「ふっ……! やあっ!」

 

冷たい空気を切り裂いて、木の枝が鋭い音を鳴らす。

一回、二回と振るううちに、アルシュの顔から、さっきまでの照れや戸惑いが少しずつ薄れていった。

代わりに滲み出てくるのは、ひたむきに「強さ」を求める、剣士の顔つき。

ランディに教わった、実戦的で無駄のない動き。ただひたすらに、守りたいあの笑顔のために。

 

どれくらい、そうしていただろう。

額にじんわりと汗が浮かぶ。ふうっと長く息を吐いて、構えを解いた――その時だった。

 

「……アルシュ、すごいね」

「わっ!?」

 

不意に背後から声をかけられて、アルシュは危うく飛び上がりそうになった。

振り返ると、少し離れた場所にある苔むした倒木に、キーアがちょこんと腰かけていた。

両手で頬杖をつき、足をぶらぶら揺らしながら、エメラルドグリーンの瞳で、じっとこちらを見つめている。

 

「き、キーア!? い、いつの間に……っ」

「んー? アルシュが五回くらい『やあっ!』って言ったあたりから!」

 

えへへ、と太陽みたいに笑うキーア。

彼女は、誰とでもすぐ仲良くなれる天才だ。

それでもアルシュにとっての彼女は、ただの日曜学校の同級生には収まらない、特別な存在だった。

ランディや、特務支援課という大人たちの世界を通じて出会った――だからこそ二人の間には、他の子供たちとはどこか違う、深く根を張った信頼のようなものがある。

だからこそ、キーアはアルシュの「いつもと違う様子」も、ごまかさせてはくれない。まっすぐに、見つめてくる。

 

「アルシュ、さっき教室で顔真っ赤だったから、心配で追いかけてきたんだけど……こんなとこで、特訓してたんだね」

「あ、うん……。ちょっと、身体、動かしたくて……」

 

見られていた恥ずかしさで、また顔に熱が集まってくるのがわかる。木の枝をさっと背中に隠してごまかそうとするアルシュに、キーアは倒木からぴょんと飛び降りて、とことこ近づいてきた。

けれど今度は、さっきみたいに無邪気に顔を寄せてくるのではなかった。ほんの少しだけ、尊敬の色をにじませたような――そんな柔らかい眼差しで、彼女はアルシュを見上げた。

 

「アルシュ、すっごく真剣な顔してた。……ロイドやランディたちが、誰かを守るために戦ってる時と、おんなじだったよ」

「え……」

「かっこよかった。アルシュ」

 

その、あまりに真っ直ぐな言葉に、アルシュは思わず息を呑んだ。

自分が心から憧れているあの大人たちと、今の自分を、キーアが重ねてくれたこと。

そして何より――大好きな彼女の口から、「かっこいい」なんて言葉が、こぼれ落ちたこと。

 

(……ズルいよ、キーアは)

 

さっきのドギマギとは、まるで違う。

もっと温かくて、それでいて胸がぎゅうっと締めつけられるような想いが、じわじわとアルシュの心を満たしていく。

どうやらこの「初恋」は、しばらく彼女のペースに振り回されっぱなしになりそうだ。

 

「……ありがと、キーア」

 

照れ隠しに木の枝で地面をつん、と小突いてから、アルシュははにかむようにキーアを見た。

 

「でも、まだまだだよ、僕なんて。ランディさんたちみたいな、本物の『守れる男』になるには……もっといっぱい、特訓しないと」

「そっか! じゃあ、キーアも応援するね! ……あっ、でもシスター・マーブルが、そろそろ授業の続き始めるって言ってたかも!」

「えっ、うわっ、ほんとだ!? 急ごう、キーア!」

「うんっ!」

 

並んで大聖堂へと駆け出しながら、アルシュは自分のすぐ隣で軽やかに揺れる翡翠色の髪を、そっと横目で見た。

今はまだ、彼女に手を引かれてばかりの自分だけれど。いつか必ず、この手で、彼女を――。

 




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