『蒼灰の軌跡』〜届かない光と、全肯定の死神〜 作:こげすずめ
洗面所の冷たい水で顔を洗っても、アルシュの胸の奥で暴れ回る鼓動は一向に治まる気配がなかった。
(だめだ、今教室に戻ったら、またキーアの顔をまともに見られない……)
真っ赤になった顔の熱を冷ますため、アルシュは教室へは戻らず、そっと大聖堂の裏手へと足を向けた。
静寂に包まれた裏庭には、ひんやりとした冬の空気が漂い、心地よい静けさがある。
アルシュは落ちていた手頃な長さの木の枝を拾い上げると、それを木剣に見立てて両手でしっかりと握り込んだ。
『踵から地面を掴むように意識してみな』
昨日、ベルガード門の屋上でランディから教わった言葉を頭の中で反芻する。
雑念を振り払うように。先ほどキーアに顔を近づけられた時の、甘い匂いとおでこの感触を忘れるように。
「ふっ……! やあっ!」
冷たい空気を切り裂き、木の枝が鋭い音を立てる。
一回、二回と振るうちに、アルシュの顔から先ほどの照れや戸惑いは消え、真剣に「強さ」を求める剣士の顔つきへと変わっていく。
ランディから教わった、実戦的で無駄のない動き。ただひたすらに、守りたい笑顔のために。
どれくらい時間が経っただろうか。
額にじんわりと汗をかき、ふうっと長く息を吐き出して構えを解いたその時だった。
「……アルシュ、すごいね」
「わっ!?」
不意に背後からかけられた声に、アルシュは驚いて跳び上がりそうになった。
振り返ると、少し離れた場所にある苔むした倒木に、キーアがちょこんと腰掛けていた。
両手で頬杖をつき、足をぶらぶらと揺らしながら、エメラルドグリーンの瞳でじっとこちらを見つめている。
「き、キーア!? い、いつの間に……」
「んー? アルシュが五回くらい『やあっ!』って言った時から!」
えへへ、と太陽のように笑うキーア。
彼女は誰とでもすぐに仲良くなれる天才だが、アルシュにとっては、単なる日曜学校の同級生以上の特別な繋がりがある。
ランディや特務支援課という大人たちの世界を通じて出会ったからこそ、二人の間には他の子供たちとは違う、深い信頼感のようなものが根付いていた。
だからこそ、キーアはアルシュの「いつもと違う様子」も、まっすぐに見つめてくる。
「アルシュ、さっき教室で顔赤かったから心配で追いかけてきたんだけど……ここで特訓してたんだね」
「あ、うん……。ちょっと、身体動かしたくて……」
見られていた恥ずかしさで、再び顔に熱が集まっていくのがわかる。
木の枝を背中に隠すようにして誤魔化そうとするアルシュに、
キーアは倒木からぴょんと飛び降りて近づいてきた。
そして、今度は先ほどのように無邪気に顔を近づけるのではなく、
少しだけ尊敬の念を込めたような、柔らかい眼差しで彼を見上げた。
「アルシュ、すっごく真剣な顔してた。……ロイドやランディたちが、誰かを守るために戦う時みたいだったよ」
「え……」
「かっこよかった、アルシュ」
キーアのその真っ直ぐな言葉に、アルシュは息を呑んだ。
自分の一番の憧れである大人たちと、自分を重ねてくれたこと。そして何より、大好きな彼女から「かっこいい」と言ってもらえたこと。
(……ズルいよ、キーアは)
先ほどのドギマギした気持ちとは違う、もっと温かくて、けれど胸が締め付けられるような想いがアルシュの心を満たしていく。
どうやら自分のこの「初恋」は、当分彼女のペースに振り回され続けることになりそうだ。
「……ありがと、キーア」
アルシュは照れ隠しに木の枝で地面を小突いた後、少しだけはにかみながらキーアを見た。
「でも、まだまだだよ。ランディさんたちみたいに、本物の『守れる男』になるには、もっといっぱい特訓しないと」
「そっか! じゃあ、キーアも応援するね! ……あ、でもシスター・マーブルがそろそろ授業の続き始めるって言ってたかも!」
「えっ、うわっ、ほんとだ! 急ごう、キーア!」
「うんっ!」
並んで大聖堂へ向かって駆け出しながら、アルシュは自分の隣で揺れる翡翠色の髪を横目で見た。
今はまだ、彼女に手を引かれているような自分だけれど。いつか必ず、この手で彼女を――。
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