『蒼灰の軌跡』〜届かない光と、全肯定の死神〜 作:こげすずめ
翌朝。
柔らかな朝日が差し込む部屋で目を覚ましたアルシュは、ベッドの上で大きく背伸びをした。
今日はいよいよ、シャーリィとガレスから教えを請うことができる『最後の日』だ。
二人の理不尽なまでの強さと、不器用ながらも確かな愛情に応えるために。あの恐ろしくも頼もしい二人に恥じない姿を見せるために、アルシュは力強く立ち上がった。
昼過ぎ。
薄暗い地下の訓練場で、アルシュはシャーリィと向かい合っていた。
今日、アルシュが握っているのは、昨日までの手垢のついた木剣ではない。
刃の部分が分厚く加工された、ずっしりとした鉄の重みを持つ『模造ナイフ』だった。
そして目の前のシャーリィが肩に担いでいるのも、同じく『刃を潰した鉄の剣』だ。
「それじゃあ最終日だけど、こないだ言った通り……『こいつ』を最後まで捌き切ること」
シャーリィは、鈍く光る鉄の剣を弄びながら、獰猛な笑みを浮かべた。
「言っとくけど、下手したら本気で骨折くらいはするよ。……いいんだね?」
その脅しとも取れる問いかけに、アルシュの瞳に一切の揺らぎはなかった。
「……はい」
真っ直ぐな、戦士としての覚悟が宿ったその眼差し。
シャーリィは心底気分が良さそうに目を細め、壁際で静かに見守っているガレスもまた、微かに口角を上げた。
「それじゃ、いこうか」
シャーリィの声と共に、アルシュにとっての『最後の試験』が幕を開けた。
「シッ!」
まずは肩慣らし(お試し)とばかりに、シャーリィがそれなりの速度で剣を振るってくる。
ガァンッ!!
「……っ!」
アルシュは両手で握り込んだ模造ナイフでその一撃を受け止めた瞬間、腕の骨の芯まで響くような『重さ』に顔を歪めた。
木剣を木剣で捌いていた昨日までとは、根本的に何もかもが違う。
刃を潰しているとはいえ、相手が振るうのは正真正銘の『鉄の塊』だ。
そして自分が振るうナイフもまた、ずっしりとした鉄の重みを持っている。
受ける鉄の重み。打ち払う鉄の重み。
そのどちらもが、昨日までの木剣の打ち合いとは比較にならないほどの反動と、一歩間違えれば致命傷になるという『真の緊張感』をアルシュに強いていた。
(重い……っ!)
最初の一撃で、アルシュの身体はたまらず半歩後ろへと押し込まれる。
続く二撃目。シャーリィの剣が空気を裂いて迫る。
アルシュは下がりながらも、ガレスから教わったナイフの術理を総動員し、なんとかその軌道をいなし切る。
ただの予定調和の打ち合いでさえも、今までとはまったく別の恐怖が伴う。
しかし、アルシュは絶対に目を逸らさなかった。両手に全身の力を込め、必死に剣を打ち払い、食らいついていく。
(いける……! なんとか、対応できてる……っ!)
心の中でそう快哉を叫んだ、幾度目かの打ち合いの最中だった。
「――甘いね」
空気が、爆ぜた。
シャーリィの目が、先日まで一度も躱すことができなかった『本気で当てに来る一撃』の殺気を帯びた。
(来る……!)
アルシュは見ていた。わかっていた。木剣の打ち合いの中で、打ちに来るタイミングを感覚で理解していた。
その一撃を止めるために、アルシュは両手でナイフを強く握り込み、完璧な角度で防御の姿勢を取った。
――ガギィィィンッ!!
鈍い金属音と共に、アルシュの手から模造ナイフが弾き飛ばされた。
「えっ……?」
完璧に受け止めたはずだった。木剣ならば、昨日と同じように捌き切れていたはずの角度だった。
しかし、猟兵の膂力で振るわれる『鉄の重み』は、少年の筋力と模造ナイフの防御を、いとも容易く弾き飛ばしたのだ。
「が、はっ……!!」
防御を弾き飛ばされたアルシュの脇腹に、刃を潰した鉄の剣が容赦なく突き刺さる。
今までとは次元の違う、内臓を直接すり潰されるような圧倒的な重量が腹を抉り込んだ。
アルシュは声にならない嗚咽を漏らし、胃の中のものを吐き出しそうになりながら、冷たい石の床を無様に転げ回った。
「ぐっ、うぅぅ……っ、あぁっ……!」
脂汗を流してうずくまるアルシュの元へ、ガレスが静かに歩み寄り、治癒のアーツをかける。
淡い光に包まれ、表面的な痛みはスッと引いていく。幸い骨に異常はなかったようだが、筋肉の奥底が引き攣るような、芯から痺れる痛みが重く残っていた。
「……どうする? 続ける?」
見下ろしてくるシャーリィの瞳には、一切の同情はない。
あるのは、ただ純粋な『戦士への挑戦的な笑み』だけだ。
「……っ」
アルシュは震える腹に力を込め、床に落ちていた模造ナイフを拾い上げた。
(なんで。なんで……)
アルシュは床に膝をついたまま、荒い息を吐きながら考えていた。
タイミングも、角度も完璧だった。昨日まで、木剣での打ち合いなら今の動きで完全に成功していたはずだ。
けれど、その完璧なはずの防御は、純粋な『鉄の重量』と『膂力の差』によって、握り込んだナイフごと無惨に弾き飛ばされてしまった。
「……もう、一度……!」
今度こそは。アルシュは腹の奥底に残る鈍痛を振り払い、再びナイフを握り直して立ち向かう。
「シッ!」
シャーリィの剣が再び唸りを上げる。
通常の打ち合いの速度なら、なんとか捌くところまではいける。重さに耐え、弾かれないように必死にナイフを操作する。
しかし。
――ヒュオウッ!!
再び放たれた、本気で当てにくる一撃。
アルシュはそれを見切り、先ほどよりもさらに強く、渾身の力でナイフを握り込んで受けにいく。
(止める……っ!)
ガァンッ!!
「あ……っ」
しかし、結果は同じだった。いや、より最悪だった。
受ける角度は合っていた。けれど、圧倒的な運動エネルギーの前にナイフごと両腕が弾き飛ばされ、ガラ空きになったアルシュの胸の中心へ――鉄の剣の重い一撃が、容赦なく叩き込まれた。
「が、はぁっ……!?」
心臓が止まりそうなほどの、爆発的な痛みと衝撃。
アルシュの身体はボールのように吹き飛ばされ、石の床を無様に転がった。
吐き出せるものなど何もないのに、カハッ、ヒューッと喉の奥から乾いた嗚咽が止まらず、呼吸の仕方すら分からなくなる。
「…………」
静かに歩み寄ってきたガレスが、無言で治癒のアーツをかける。
淡い光が身体を包み込む。しかし、必死に空気を取り込もうと息を吸った瞬間、胸の奥底に強烈な「ズキン!」という鋭い痛みが響いた。
「う、ぅぅ……っ」
立ち上がろうとするが、その痛みに思わず顔をしかめる。
完全に折れてはいない、と思う。
けれど……肋骨にヒビは入ったかもしれない。呼吸をするだけで、肺が圧迫されるような激痛が走る。
それでも。アルシュは痛みに耐え、床に落ちていたナイフの柄を強く握りしめた。
顔を上げると、シャーリィが静かにこちらを見下ろしている。
彼女の鋭い目なら、今の一撃でアルシュの骨にヒビが入ったことくらい、絶対に気づいているはずだ。
それでも、彼女は「もうやめるか?」とは聞かず、何も言わずにただアルシュが立ち上がるのを待ってくれている。
(……はぁっ、はぁっ……)
アルシュは震える呼吸を無理やり絞り出し、肺に空気を取り込んで、なんとか身体の震えを落ち着かせる。
まだ、大丈夫だ。まだできる。痛みはあるけど、動けないほどじゃない。
胸の痛みを思考の隅へと無理やり押しやり、アルシュは脳細胞をフル回転させた。
(真正面からじゃ、絶対に受けられない。あの人は、ただ僕を痛ぶるためだけにこんな理不尽なことをしてるわけじゃない……いや、そういう趣味もあるかもしれないけど、今は違うはずだ)
ならば、僕の『受け方』が根本的に間違っているんだ。
考えろ。考えろ。
シャーリィさんが言っていた言葉。
『もしアンタが戦うことになるなら、相手は自分よりずっと大きくて強い相手ばかりになる』
こういうことじゃないのか。
力で劣る僕が、自分より強くて重い相手の『最大威力』を真正面から受け止めたら、どうあがいても潰される。
なら、考えて戦わないと駄目だ。この圧倒的な理不尽さは、きっと彼女が僕を生き残らせるために与えてくれている試練なんだから。
アルシュは、浅く痛む呼吸を繰り返し、再びナイフを構えた。
さっきの胸の一撃の激痛を思い出すと、克服したはずの『死の恐怖』が再び顔を出してくる。
刃を潰しているから骨のヒビで済んだ。もしこれが実際の戦場で、相手が真剣を振るっていたなら、僕はさっきの二撃で確実に死んでいた。
その圧倒的な事実がもたらす恐怖を思い出し、アルシュはふと理解した。
(そっか……)
いつの間にか、自分はあの二人の手加減に甘え、恐怖に対して鈍感になっていたのだ。
震えるほどの死の恐怖を今、もう一度その身に刻み込み――そして、生き残るために『やるべきこと』の最適解を導き出した。
「……来いっ」
アルシュの瞳に宿る光が変わった。
それに気づいたシャーリィが、獰猛な笑みを深くし、再び鉄の剣を振るい出す。
ガァンッ! カァンッ!
しっかり見る。受ける。止める。
ヒビの入った胸の痛みを無視し、強くナイフを握り込んで通常の連撃を捌き続ける。
そして。
(――来る!)
空気が凍りつくような殺気。僕を確実に「殺す」ための、本気の剣閃が振りかぶられる。
アルシュは、真っ直ぐにその剣を見据え。
退くのではなく、『一歩前』へと鋭く踏み込んだ。
「……っ!」
剣が最速の勢いに乗り切る、その手前。
威力が最大化する前に相手の懐に潜り込み、振り下ろされる剣身の『付け根(根本)』の部分に、ナイフの腹を当てて両手で力一杯押さえ込んだ。
ギヂィィィンッ……!!
「ぐ、ぅぅぅぉぉぉっ!!」
入れた力と反動で、ヒビの入った胸の骨が「ミシッ」と嫌な悲鳴を上げた気がした。
けれど、気にしてなどいられなかった。
梃子の原理と、運動エネルギーが発生する根元を潰すという合理的な対処。圧倒的な筋力差を、思考と勇気で埋めた一撃。
力一杯受け止め、剣の軌道を完全に停止させたその直後。
「――正解っ」
弾むような、心底嬉しそうなシャーリィの声が、アルシュの耳に届いた。
ピタリと、剣から殺気と圧力が消え去る。
その瞬間。
アルシュ・グレイウッドは、猟兵たちが課した『最後の試験』を、見事にやり遂げたのだった。