『蒼灰の軌跡』〜届かない光と、全肯定の死神〜 作:こげすずめ
ガタガタと激しく揺れる荷台の中で、アルシュは息を殺して身を潜めていた。
トラックは周囲の交通や歩行者など一切意に介さない乱暴な運転で、クロスベル市内へと突入し、猛スピードで駆け抜けていく。
アルシュは幌の僅かな隙間から外を覗き込み、流れていく見慣れた街並みを確認した。
(……ここで飛び降りて、誰かに助けを求めた方がいいんじゃないか?)
激しい焦燥感の中、頭の片隅で冷静な思考がそう囁く。
今ならまだ市内だ。飛び降りて遊撃士協会や警察に駆け込めば、
すぐに大人たちが動いてくれるかもしれない。
けれど……自分が車から降りて助けを呼びに行っている間に、このトラックを見失ってしまったら?
大人たちが助けに来てくれるのを待っているその僅かな時間の間に、あの男たちにキーアが何かひどいことをされたら?
そう考えると、ここで荷台から降りるという選択など、到底できなかった。
それに何より。
(他の誰かじゃない……僕が、キーアちゃんを助けないと!)
ロイドさんに『任せる』と言われた。
夕暮れのベンチで、キーアちゃんに『僕が守る』と約束した。
ここで逃げて大人に泣きつくようでは、あの地獄のような特訓に耐え抜いた意味がない。
アルシュは揺れる荷台の中で、お守り代わりに持たされていたオーブメントと、
ガレスから貰ったグローブ越しの自分の拳をギュッと強く握りしめた。
やがてトラックはクロスベル市街を抜け、東クロスベル街道へと入り込んだ。
街の喧騒が遠ざかり、周囲の景色が次第に緑の多い街道のものへと変わっていく。
猛スピードで突き進んでいたトラックは、途中、大きくタイヤを軋ませて右折し、
街道から外れた奥まった獣道のような場所へと入り込んでいった。
(どこに……?)
幌の隙間から差し込む光が木々の影に遮られ、周囲が薄暗くなる。
行き着いた先は、街道の喧騒から完全に隔離された、一見のボロ小屋がひっそりと建つだけの人気のない空き地だった。
もっとも、荷台の中に身を潜めているアルシュにその景色を見ることはできない。
ギキィィッ! と乱暴なブレーキ音が響き、突然トラックが停車した。
「……っ」
慣性の法則で体が前に持っていかれそうになるのを必死に堪えながら、
アルシュの心臓が警鐘のように大きく、早鐘を打って鼓動し始める。
(落ち着け……息を整えろ……)
ガレスに教わった通り、アルシュはゆっくりと細く息を吐き出し、
幌の奥の暗がりに身体を縮こませながら、外の音に全神経を集中させた。
バタン、バタン! と運転席と助手席のドアが開いて閉まる音。
数人の男たちの荒い足音。
「んんっ……! むぅぅーっ!!」
「大人しくしてろ、クソガキッ!」
「キーア……っ!」
外から聞こえてきた、くぐもった抵抗の声。間違いなくキーアだ。
猿轡か何かで口を塞がれ、喋れないようにされているのだろう。
アルシュは思わず飛び出しそうになる衝動を、血が滲むほど拳を握りしめて必死に堪えた。
男たちはトラックの周囲に集まり、何やら切羽詰まった様子で言い争いを始めた。
「……で、どうすんだよ!? このままタングラム門に突っ込んで、車ごと無理やり共和国に抜ける気か!?」
「他に道がねえだろうが! あんなヤバい連中が街にうろついてるんだ、クロスベルにはもう俺たちの居場所はねえんだよ!」
「だからって、検問突破なんて自殺行為だろ! あそこには警備隊がいるんだぞ!」
「あークソッ、なんで俺たちがこんな危険な真似を……っ」
怒声に混じるのは、明確な『怯え』と『焦燥』だった。
「あんまり時間をかけすぎたら、警察や遊撃士の連中が動いてくるぞ! バスの連中が連絡を回したら、すぐに手配書が回る。あまり時間はねえんだ!」
彼らの会話から察するに、この誘拐自体が行き当たりばったりの凶行らしい。
何かに急き立てられるように焦り、パニックに近い状態で具体的な逃走経路すら定まっていないようだった。
「チッ……ここでウダウダ言ってても拉致があかねえ! とりあえず、俺が追手が来てないか街道の方を見てくる。お前らはさっさと腹を括れ!」
怒鳴り声の後、ザッ、ザッ……と、男の一人がその場から離れ、トラックの横を通って街道の方へと歩き出す足音が聞こえた。
(……来る……)
アルシュは荷台の奥で完全に息を潜め、暗闇と同化するように身を固くした。
足音がトラックの荷台の横を通り過ぎる数秒間が、永遠のように長く感じられる。
やがて、ザクッ、ザクッと草を踏みしめる音が遠ざかり、
男が完全に街道の方へと向かっていったのを確認して、アルシュはようやく、音を立てずに小さく息を吸い込んだ。
「……チッ、俺も小便でもしてくるわ」
すると、もう一人の男の苛立った声が聞こえ、ザッ、ザッと草を踏む足音が街道とは逆の方向へと遠ざかっていくのがわかった。
アルシュは暗闇の中で、必死に頭を回した。
(たしか、バスに乗り込んできたのは四人だった……。今、二人がここから離れた。残っているのは、二人だ)
でも、正面から飛び出して行って、今の僕にどうにかできるのか?
あのバスの中で受けた、大人からの容赦のない蹴り。
あの重さと息が止まるような痛みが、正面から挑めば僕なんか絶対に相手にならないという絶望的な事実を、十二分にわからせていた。
彼らが放つ気配と暴力の匂い。あの人たちは、多分……裏社会の、マフィアの人たちだ。猟兵の二人とは違う、手加減など一切存在しない本物の悪意。
でも、彼らは『共和国に抜ける』と言っていた。
このまま僕が恐怖で動けずにいたら、キーアちゃんは国境を越えられ、二度と手の届かない場所へと連れ去られてしまう……!
「んんーっ!!」
「チッ、うるせぇぞクソガキッ!!」
ドゴッ!
その時、すぐ外の小屋の中から、キーアが必死に暴れる音と、男が苛立たしげに彼女を蹴りつける鈍い音が響いた。
「――っ!」
キーアが、蹴られた。
痛みにうめく彼女の声を聞いた瞬間、アルシュの頭の中が怒りで真っ赤に染まった。
恐怖で冷たくなっていた血が、一気に沸騰する。
ギリッ、と。
その時、アルシュは自分の右手が、ある冷たい金属の塊を無意識のうちに強く握り込んでいることに気がついた。
それは、戦術オーブメント。
以前、マインツ山道でシャーリィたちの圧倒的な戦闘を初めて見学させられたあの夜。
ホテルに戻った後、「お守り代わりだ」と言って、彼女が半ば強引に僕に持たせてくれたものだった。
その冷たい感触が、アルシュの震える心に確かな火を点けた。
(ティオさん。エリィさん。ランディさん。ロイドさん……)
尊敬する、特務支援課のみんなの顔が脳裏に浮かぶ。
彼らは、僕を信じてキーアちゃんを任せてくれたんだ。
大好きな、あのみんなが。僕に、僕の大好きな女の子を『守ってほしい』と託してくれた。
(怖くない、あの地獄の特訓を思い出せ……!)
足の震えが止まらない。心臓が破裂しそうなくらいに鳴っている。死ぬほど怖い。
あの大人たちと真っ向から殺し合いになれば、僕は本当に死んでしまうかもしれない。
でも。でも!
あの教団事件の嵐の夜、魔獣に襲われて泣き叫んでいたリリちゃんを見た時の、あの絶望。
あんな思いをするのは、自分の無力さに絶望して、大切な人が傷つくのをただ見ているだけなんて……絶対に、死んでも嫌だ……!!
アルシュは、震える息を深く、静かに吸い込んだ。
右手に『お守り』のオーブメントを、左手にシャーリィから受け取った『ソードブレイカー』を強く握りしめる。
(やるなら……きっと、今しかない……っ!)
アルシュは、音を立てないようにゆっくりと、トラックの荷台から外へと身を乗り出した。