『蒼灰の軌跡』〜届かない光と、全肯定の死神〜 作:こげすずめ
(……やるんだ)
アルシュはゆっくりと、音を立てないようにトラックの荷台から外の草むらへと足から降りた。
その右手に強く握り込んでいるのは、
あの夜、ホテルでシャーリィから強引に渡された古い戦術オーブメント。
『最新のエニグマよりずっと前の型落ちだけどね。もうアタシたちは使わないからあげるよ。中にハマってるクオーツは、今の規格じゃもう作られてない特殊なやつ。アーツの発動くらいなら十分できるはずだよ』
そう言って笑っていた彼女に、後日、訓練の最中に「このオーブメント、何ができるんですか?」と尋ねたことがあった。
『んー、一発限りになるけど、けっこう強力なやつが使えるよ。……見せてあげる』
そう言って、彼女は僕の手からオーブメントを奪い取るようにすると、すぐに詠唱を始めた。
そして放たれたのは、『デス・スパイラル』という恐ろしい名前のアーツだった。
空間そのものを切り刻むような、黒い刃の竜巻。
『当たり所や運が悪かったら、大型魔獣や猟兵相手でも死なせちゃうから。……ま、お守り代わりだと思ってうまく使いなよ』
あの時は、なんて恐ろしいものを子供に渡すんだろうと、この人の倫理観を疑ってしまった。
いくら猟兵でも、一歩間違えれば人を殺せるアーツの入ったオーブメントを、ただの「お守り」として弟分に押し付けるなんて。
(でも……ありがとう、お姉ちゃん)
その非常識で危険な優しさが、今はたまらなくありがたかった。
このオーブメントがなければ、僕はただの無力な子供として、キーアちゃんが連れ去られるのを指をくわえて見ていることしかできなかっただろう。
これが、今の僕にとって唯一の、そして最強の『武器』になるかもしれない。
アルシュは、トラックの死角になるように身をかがめ、
ゆっくりと、息を殺しながらボロ小屋の方へと近づいていった。
小屋の外には、二人のマフィアが苛立たしげに煙草を吹かしながら立っていた。
一人はライフルを肩に担ぎ、もう一人は腰に拳銃のホルスターを提げている。
彼らの視線は街道や、もう一人が向かった湖の方へと時折向けられ、機嫌の悪そうな顔で何事かを話し合っている。
キーアの姿は、ここから見える場所にはなかった。
先ほどの怒鳴り声からして、間違いなくあのボロ小屋の中に監禁されているのだろう。
(……見つからずに、あの二人を同時に倒さないといけない)
アルシュはトラックのタイヤの影に身を隠し、冷や汗を拭いながら、手の中のオーブメントをきつく握り直した。
一発限りの、必殺のアーツ。
もし外せば、あるいは一人しか倒せなければ、残った大人に銃で撃ち殺される。
(怖い……)
一度これを始めてしまえば、もう絶対に後戻りはできない。逃げることなんて、できなくなる。
アルシュは、心の底から無理やり勇気を絞り出すように、手の中の古いオーブメントを両手で強く握りしめた。
脳裏に浮かぶのは、あの理不尽で、恐ろしくて、けれど誰よりも頼もしかった赤髪の『お姉ちゃん』の顔。
(どうか……僕に力を貸してください……っ!)
心の中で切実な祈りを捧げ、アルシュは息を潜めたまま、オーブメントを起動してアーツの詠唱を開始した。
駆動音が鳴らないように、光が漏れないように、ただひたすらに見つからないことだけを祈りながら。
正面からぶつかれば、一人でさえ全く相手にならない大人たちだ。
二人なんて、どうにかなるわけがない。
だからこそ、最初の一撃で、完全に不意を打って確実に仕留めなければならない……!
アーツの詠唱が完了するまでの、十数秒間。
ガタガタと震える身体。耳の奥でうるさいほどに鳴り響く自分の心臓の鼓動。
極限の緊張と恐怖の中で、その一秒一秒が、とんでもなく長く、永遠のようにも感じられた。
やがて――限界まで高まった導力(オーバル)エネルギーが、限界点を突破する。
アーツ、『デス・スパイラル』が発動した。
「……あ?」
「な、ん――」
二人のマフィアは、自身の足元に異変が起きるその最後の瞬間まで、完全に詠唱に気づいていなかった。
次の瞬間、彼らの足元の影がどす黒く沼のように沈み込み
――そこから突如として、巨大な黒い『爪』のような刃が何本も飛び出した。
「ガ、ァッ……!?」
「あ、ぐ……」
刃は容赦なく二人のマフィアの身体を貫き、大きく空中に跳ね上げた。
アーツの発動に全く気づいていなかったおかげで、男たちは防御の姿勢を取ることも、
仲間に助けを求める大きな叫び声を上げることもできず。
ただ短い苦悶のうめき声を漏らし、糸が切れた操り人形のように、ドサリと地面に崩れ落ちた。
血溜まりが広がり、二人はピクリとも動かなくなった。
「…………」
トラックの陰からその光景を見ていたアルシュは、
あまりにもあっけなく倒れた大人たちを見て、呆然と立ち尽くしてしまった。
あれほど恐ろしかった大人の暴力が、手の中の小さな機械一つで、一瞬で機能しなくなった。
(もしかして……僕、殺してしまったのか……?)
その恐ろしい事実を自覚した瞬間、胃の奥から強烈な吐き気が込み上げてきた。
血の匂いと、自分が他者の命を奪ってしまったかもしれないという生々しい感触。
喉の奥まで酸っぱいものがせり上がり、その場に蹲って吐いてしまいそうになる。
「う、ぅぅ……っ」
しかし、アルシュは両手で自分の口を強く塞ぎ、必死にそれを飲み込んだ。
今は、そんなことをしている時間はない。
罪悪感も、恐怖も、吐き気も。
全部、全部あとから考えればいい。無理やり思考の最も深い、暗い底へと蹴り落とし、重い蓋をする。
「キーアちゃん……っ!」
アルシュは血溜まりと倒れた男たちから無理やり目を逸らし、トラックの陰から飛び出すと、一直線にボロ小屋の入り口へと駆け出した。