『蒼灰の軌跡』〜届かない光と、全肯定の死神〜 作:こげすずめ
薄暗いカビ臭い小屋の中に飛び込むと、そこには部屋の隅に転がされるようにして、猿轡を噛まされ、手足を太いロープで縛られたキーアの姿があった。
「キーアちゃんっ!」
アルシュは急いで駆け寄り、シャーリィから貰った無骨なナイフ――ソードブレイカーの刃を慎重に滑らせて、彼女の手足を縛るロープを断ち切り、口元の猿轡を外した。
「……っ、アルシュぅ……!」
自由になった瞬間。キーアは力ない、怯えきった表情でポロポロと大粒の涙をこぼし、アルシュの首にすがりつくように強く抱きついてきた。
いつもお日様のように笑っている彼女の、恐怖でガタガタと震える小さな身体。
アルシュは胸が張り裂けそうになるのを堪え、その緑色の髪を一度だけ、安心させるように優しく撫でた。
「ごめんね、怖かったよね。……でも、キーアちゃん、動ける? 急いでここから逃げないと、アイツらが戻ってくる」
「う、うん……っ、だいじょうぶ」
涙を拭い、気丈に頷くキーア。
「ちょっとだけ待ってて」
アルシュは彼女をその場に座らせたまま、そっと小屋の扉を細く開け、外の様子を窺った。
先ほど偵察に向かった街道の方向には、まだ誰も戻ってきている気配はない。
(よし、今のうちに……)
そう思って視線を逆側に向けた、その時だった。
「……っ!」
エルム湖畔に通じる獣道の方から、先ほど用を足しに出ていった三番目のマフィアが、のんびりとした足取りで戻ってくるのが見えた。
まだ距離があり、向こうはこちらに気づいていない。
トラックの死角になっているため、倒れた二人の仲間にもまだ気づいていないようだ。
けれど、今この小屋から飛び出せば、身を隠す場所のない空き地で確実に見つかってしまう。
見つかれば、最悪銃で撃たれるか、追いつかれて殺される。
(どうする……?)
アルシュは扉を静かに閉め、キーアの方を振り返った。
「キーアちゃん。……ここで、待ってて」
そう告げると、アルシュは右手に握ったままのソードブレイカーを、ギリッと強く握り直して立ち上がった。
先ほどの『デス・スパイラル』で、オーブメントに込められていた導力は完全に空になっている。
もう、あのお守り(アーツ)は使えない。
あの大人を倒すには、僕が、この手で直接なんとかするしかないのだ。
「ア、ルシュ……?」
キーアが不安そうに、すがるような瞳で見上げてくる。
しかし、彼女はそれ以上何も言えなかった。
立ち上がったアルシュの背中から放たれる、血の匂いがするほどの悲壮な覚悟と、
子供とは思えない冷たく張り詰めた『戦士の空気』が、彼女に言葉を紡ぐことを許さなかったのだ。
「……絶対に、守るから」
アルシュは短くそれだけを告げると、小屋の入り口――開け放たれたドアのすぐ内側の死角へと移動し、背中を壁に預けて身を潜めた。
「……あ? おい、お前ら何寝て――」
外から、男の怪訝そうな声が聞こえた。
どうやら、トラックの陰に倒れている二人の仲間に気づいたらしい。
「おいっ!? どうした、血……っ!? クソ、何があった!!」
男の足音が、慌てたような重い靴音へと変わり、こちらへ向かって走ってくるのがわかる。
パニックに陥り、警戒が疎かになっている足音だ。
(来る……来る……!)
アルシュは、早鐘のように鳴り響く自身の心臓の鼓動を必死に押さえ込んだ。
刃を潰した鉄の剣を根本から潰した、あの特訓を思い出せ。
相手は、油断している。子供が隠れているなんて思っていない。
アルシュは、ただひたすらに静かに、暗い扉の影で息を殺し。
大人の男がこの入り口を不用意に通り抜ける、その『一瞬の死角』だけを待っていた。
「おいっ、しっかりしろ! お前ら、何があった!?」
血溜まりの中に倒れる二人の仲間の異常な死に様に、走ってきたマフィアの男は完全にパニックに陥っていた。
周囲への警戒を完全に忘れ、ただ目の前の異常事態を確かめようと、無防備にその場に屈み込む。
(……今だッ!!)
アルシュは意を決し、小屋の扉の死角から弾かれたように飛び出した。
正面からやり合えば、子供の力と体格で大人の男に勝てるわけがない。
シャーリィが教えてくれた『考えて戦え』という言葉。
そして、猟兵の理不尽な暴力の中で叩き込まれた、たった一つの勝機。
それは、相手の決定的な油断と、子供の身体(小ささ)を逆手に取った戦い方だった。
大人の男が地面に屈み込んだ、その姿勢。
それは、子供であるアルシュの背丈からでも、最も無防備で柔らかい『首』へと真っ直ぐに刃が届くことを意味していた。
「――っ、うあぁぁぁぁっ!!」
アルシュは獣のような叫び声を上げながら、全速力で踏み込み、右手に握ったソードブレイカーを男の首筋へと力任せに突き立てた。
「……あ?」
男がアルシュの存在に気づいたのは、鋭い刃が自身の肉を貫き、気管と頸動脈を深く切り裂いた直後だった。
ゴボッ、と口から大量の血の泡を吹き出し、男は信じられないものを見るように目を大きく見開いた。
なぜ、こんなところにガキが。なぜ、自分がこんなガキに殺されかけているのか。
その疑問すら音にする間もなく、男の巨体は白目を剥き、糸が切れたようにバタリと地面に倒れ伏した。
「ハァッ……ハァッ……ハァッ……」
ドクン、ドクンと、耳鳴りがするほどの心臓の音。
男の首から噴き出した生温かい血を頭から浴び、アルシュの顔と服はどす黒い赤に染まっていた。
(殺した……僕が、殺したんだ……)
右手には、分厚い人間の皮膚と肉を切り裂き、骨にガリッと引っかかったあの『命を壊す生々しい感触』が、べっとりと張り付いている。
トラックの陰でアーツを使った時とは違う。間違いなく、自分のこの手で、刃物を使って人の命を直接奪い取ったのだ。
「う、ぅ、おぇぇぇぇぇぇぇぇっ……!!」
その決定的な事実と、むせ返るような鉄と汚物の匂いに、アルシュの限界まで張り詰めていた精神はついに悲鳴を上げた。
耐えきれずその場に両膝をつき、胃の奥底から込み上げてきた激しい嘔吐感をそのまま地面にぶちまける。
涙と鼻水と胃液で顔をぐしゃぐしゃにしながら、何度も何度もえずいた。
(……でも、でも……ッ!!)
アルシュは震える両腕で地面を叩き、血に染まった唇を強く噛み締めた。
まだ終わっていない。
一番厄介な、街道の様子を見に行った四人目が残っている。ここで僕が立ち止まれば、キーアちゃんは絶対に助からない。
「……っ」
アルシュは涙を乱暴に拭い、歯を食いしばって立ち上がった。
そして、倒れた男の首に深く突き刺さったままのソードブレイカーの柄を両手で掴み、生々しい肉の音を立てて強引に引き抜いた。
血の滴るナイフを力強く握り直し、アルシュは自分を待つ少女を助け出すため、再びボロ小屋の中へと引き返していった。