『蒼灰の軌跡』〜届かない光と、全肯定の死神〜 作:こげすずめ
ボロ小屋に戻ってきたアルシュの姿――頭からべっとりと赤黒い血を被り、
肩で荒い息をする異様な姿――を見て、キーアは一瞬ビクッと身をすくませ、明らかな怯えを見せた。
けれど、すぐにその大きな瞳には恐怖よりも、アルシュに対する深い心配と悲痛な色が浮かんだ。
「……っ」
アルシュは、そんな彼女にこれ以上心配をかけまいと、血に塗れた顔で必死に、無理やり引き攣ったような笑顔を作った。
もう彼自身にも、まともな思考を保つ精神的な余裕など一ミリも残されていなかった。
今すぐ叫び出して泣き崩れたい衝動を、ただ「彼女を守る」という一念だけで強引に押さえつけている状態だった。
「行こう、キーアちゃん。……急いで、逃げないと」
不安そうに震えるキーアの小さな手を強く引き、アルシュはボロ小屋の外へと飛び出した。
外の空き地には、自分が命を奪った三人のマフィアの死体が血の海に沈んで転がっている。
どうしても視界に入ってしまうその凄惨な光景に、目を逸らして逃げ出したいという強烈な衝動に駆られる。
(ごめんなさい。後で……後で、ちゃんとしますから……っ)
心の中で、誰へともなくそう呟く。
それは、殺したマフィアの男たちに対しての謝罪ではない。
間違いなく『人殺し』という取り返しのつかない大罪を犯してしまった自分自身の行為に対する、
そして、自分の魂がひび割れていくような行き場のない罪悪感に対する、必死の言い訳だった。
今は、何も考えない。とにかくここから離れることだけを考える。
最後の四人目は、クロスベルの街道の方へ偵察に向かっていった。
そちらへ逃げれば確実に鉢合わせる。
だから、アルシュはキーアの手を強く引いたまま、逆のエルム湖畔の方へと向かって走り出した。
あっちへ行けば、身を隠せる深い茂みがあるかもしれない。
もしかしたら、放置されたボートか何かがあって逃げられるかもしれないと、一縷の望みを託して。
だが――。
――パァンッ!!
背後から、空気を切り裂くような乾いた破裂音が響き渡った。
「――っ!?」
直後、アルシュの右足のふくらはぎに、焼け焦げるような強烈な『熱』が叩き込まれた。
熱は一瞬にして、視界が真っ白に明滅するほどのすさまじい激痛へと変わる。
「あ、ぐ……ッ!」
完全に右足の力が抜け、アルシュの身体は前のめりに激しく地面へと倒れ込んだ。
「きゃあっ!?」
強く手を繋いで走っていたキーアも、その勢いに引っ張られるようにして一緒に草むらへと転がり落ちる。
「あああああぁぁぁぁぁっ……!!」
撃ち抜かれた右足から噴き出す血と、肉を焼かれたズキズキと脈打つような激痛。
アルシュは地面の泥を掻き毟りながら、耐えきれずに子供の甲高い悲鳴を上げた。
街道へと続く道から、土足で草を踏み荒らす乱暴な足音と共に、一人の男が姿を現した。
先ほど偵察に向かっていた、四人目のマフィアだ。
手には黒光りする拳銃が握られ、激昂に顔を歪ませながらこちらへと大股で向かってくる。
(――間に合わなかった)
絶望が脳裏を過る。
それでも、アルシュは背後に倒れ込んだキーアを庇うように、
撃ち抜かれた右足の激痛を必死に堪え、泥まみれになりながらもゆっくりと立ち上がった。
傷口が焼け付くように熱い。今にも子供のように声を上げて泣き出してしまいたいほど、痛い。
男は血溜まりの中に転がる三人の仲間の死体と、血まみれのアルシュを交互に見比べ、信じられないものを見るように目を血走らせた。
「おい……てめぇ、まさかお前がやったのか……ッ!?」
信じ難い現実への問い詰め。アルシュはそれに一切の言葉を返さず、
ただ殺意に満ちた強い瞳で男を真っ直ぐに睨みつけた。
「ふざけるな……ふざけるなッ!! なんで俺たちがこんな目に遭わなきゃならねえんだ! たかがガキの分際でぇぇッ!!」
恐怖と焦燥、そして怒りに完全に我を忘れた男は、血を吐くような独り言を喚き散らした。
それでも、男は背後にいる『商品』であるキーアに銃弾が当たることを危惧したのか、
あるいは純粋な怒りからこの手でアルシュを確実に殺したかったのか。
構えていた拳銃を下げ、代わりに腰から凶悪な山刀を抜き放った。
「死ねぇぇぇッ!!」
仲間の復讐か、ただの逆恨みか。男はアルシュを殺すべく、その刃を大きく上段に振りかぶり、全力で振り下ろしてきた。
(……ッ!)
その瞬間、アルシュの頭の中に、地下室でシャーリィの剣を捌いた時の記憶が鮮明に蘇った。
『威力が最大化する前に、一歩踏み込んで根本を潰す』
やらないと、助からない。キーアちゃんも助けられない。
極限状態の中で、アルシュの意識は恐ろしいほどにクリアだった。
あの特訓の時と同じように、男の振り下ろす刃の軌道がはっきりと見える。
あとは、一歩前に踏み込んで、ナイフで刃の根元を受け止めるだけだ。
アルシュは、完璧なタイミングで前へと踏み出そうとした。
――しかし。
「……あ、」
踏み出そうとした右足は、銃弾によって筋肉と神経を破壊され、ピクリとも持ち上がらなかった。
意識は間に合っているのに、肉体がついてこない。
足が出ない分、受け止めるはずの右手の振りが、ほんのコンマ数秒、致命的に遅れた。
次の瞬間。
ザシュッ!! と、硬い骨を断ち切るおぞましい音が響き渡り。
ソードブレイカーを強く握りしめたままのアルシュの右手首から先が、ボトリ、と鈍い音を立てて冷たい地面に転がり落ちた。
「――アルシュぅぅぅぅぅぅぅぅッッ!!」
背後から、鼓膜を裂くようなキーアの悲痛な絶叫が、血に染まった空き地に響き渡った。