『蒼灰の軌跡』〜届かない光と、全肯定の死神〜 作:こげすずめ
夜の特務支援課ビル。
静まり返った自室のベッドの上で、キーアはゆっくりと目を覚ました。
「んぅ……? ここ、キーアの部屋ー……?」
ぼんやりとした頭で周囲を見渡す。見慣れた家具と、柔らかい毛布の感触。
窓の外はすっかり暗くなっていて、どうやら夜らしい。
いつの間にか自分のベッドで寝ていたようだ。でも、どうしてだろう。
(……なんだか、ものすごく怖い夢を、見たような……)
ずきり、と胸の奥が痛む。
赤くて、暗くて、とても冷たい夢。大好きなアルシュが、血まみれになって、そして――。
(ううん、ちがう。あれは夢だもん。だってアルシュは、キーアのこと守るって約束してくれたから)
キーアは、思考の先にある『何か』を本能的に拒絶するように、ぶんぶんと首を横に振った。
そうだ、アルシュに会いに行こう。そうすれば、こんな怖い夢のことなんてすぐに忘れられる。
ベッドから降りたキーアは、ペタペタと裸足のまま廊下へ出て、ビルの一階へと続く階段を降りていった。
一階のフロアは薄暗かったが、リビングの方に人影があった。
そこにいたのは、明日帰ってくるはずのティオとエリィだった。
「あれ……? ティオ、エリィ? もう帰ってきたの?」
キーアが不思議そうに声をかけると、ソファに力なく座っていた二人は、ビクッと肩を震わせてこちらを振り向いた。
「……キーア、ちゃん……?」
「キーア……っ」
二人の顔を見て、キーアはきょとんとした。
ティオもエリィも、どうしてかひどく顔色が悪くて、その目は真っ赤に腫れ上がっていた。
頬にははっきりと、さっきまで泣いていたような涙の跡が残っている。
いつもなら「どうしたの? 何かあったの?」と心配するキーアだったが、
寝起きの夢見心地と、頭の隅にこびりついた『怖い夢』のせいで、二人の異常な雰囲気にうまく気づくことができなかった。
ただ、その怖い夢の不安を、大好きな家族に撫でて消してほしかった。
「あのね、キーアね……すっごく怖い夢を見たの」
キーアは、ぽつりぽつりと口を開いた。
「こわいおじさんたちがきて、キーアのこと連れて行こうとして……そしたら、アルシュが――」
その名前を、口に出した瞬間だった。
「――っ」
「あ……ぁ……」
ティオとエリィの顔が、一瞬にして苦痛に歪んだ。
ティオは両手で顔を覆って俯き、エリィは口元を押さえて、悲鳴を堪えるようにボロボロと新たな涙をこぼし始めたのだ。
『アルシュ』という名前に反応して、二人の空気が、決定的な『絶望』へと染め上げられる。
ドクンッ!!
その瞬間、キーアの心臓が、破裂しそうなほど大きく、嫌な音を立てて跳ねた。
(あれ……?)
どうして二人は泣いているの。
どうして、そんなに悲しい顔をするの。
どうして。どうして。どうして。
――あれは、本当に『夢』だったの?
心臓の鼓動が耳の奥でうるさく鳴り響く。
これ以上ここにいて、二人の口から『何か』を聞いてしまったら。あの赤い夢が、本当のことになってしまう気がした。
「……っ!!」
キーアは、踵を返した。
リビングから飛び出し、特務支援課ビルの重い扉を力任せに押し開けて、夜のクロスベルの街へと無我夢中で駆け出した。
「待って、キーアちゃん!!」
「キーア! 行っては駄目っ!!」
背後から、ティオとエリィの悲痛な叫び声が聞こえる。バタバタと追いかけてくる足音も聞こえた。
でも、キーアは止まらなかった。
止まることなんてできなかった。靴も履かず、冷たい石畳の上を、ただひたすらに、あの夢から逃げるように走り続けた。
特務支援課ビルから飛び出したキーアが向かったのは、すぐそばにある中央広場だった。
そこは、アルシュが毎日この時間に、一人で黙々と木剣の素振りをしていた場所。
キーアがいつも、彼に向かって手を振っていた場所。
しかし、夜の冷たい空気が漂う広場には、誰もいなかった。
ただ、花壇の端っこに、彼がいつも使っていた、もう持ち主のいないボロボロの木剣だけが、ぽつんと寂しげに立てかけられていた。
「…………」
裸足のまま立ち尽くすキーアの背中に、息を切らせたティオとエリィが追いつき、壊れ物を扱うように背後から強く抱きしめた。
「キーアちゃん……っ!」
「キーア、お願い……走らないで……っ」
二人の温かい体温を感じながらも、キーアはどこか焦点の合わない、ぽっかりと穴の空いたような空虚な声で呟いた。
「……エリィ、ティオ。アルシュ、今日は訓練……お休みなのかな……?」
その無垢な問いかけが、二人の心をさらに無惨に引き裂いた。
エリィはたまらずキーアの小さな体をきつく抱きしめ返し、嗚咽を漏らしながら、残酷すぎる現実を口にした。
「ごめんね……ごめんね、キーア……っ。アルシュ君は……アルシュ君は、もう……っ!」
『もう、いない』
その言葉を聞いた瞬間。
蓋をしていた記憶の濁流が、キーアの脳内に一気に押し寄せてきた。
『ねえ……キーア、ちゃん。……また今度……一緒に、図書館…………』
血に染まった空き地。
斬り飛ばされた右腕。骨まで食い込んだ山刀。
自分を庇って、血の海の中でゆっくりと冷たくなっていった、大好きな少年の姿。
あれは、夢じゃなかった。
全部、全部、本当に起きたことだったのだ。
「あ……ああ、ああああああああああぁぁぁぁぁぁぁっっ!!」
キーアの喉から、夜のクロスベルを切り裂くような、痛ましい絶叫が響き渡った。
「アルシュ……! アルシュぅぅぅっ!!」
広場の冷たい石畳にへたり込み、子供のように……いや、ただの子供として、顔をぐしゃぐしゃにして泣き叫ぶ。
ティオもまた、「キーア……っ!」と涙を流しながら、エリィと共にその小さな体を必死に抱きしめることしかできなかった。
「アルシュ……だって、だってキーアと、ずっと一緒にいてくれるって……っ!」
喉から血が出るほど叫びながら、キーアは主のいない木剣に向かって手を伸ばす。
「遊撃士になって、みんなを守れるようになるって……! 図書館、一緒に、行こうって言ったのに……っ!!」
約束した。指切りもした。
それなのに、どうして。
私が、あのバスの中で大人しく連れ去られていれば。私が、もっと早くに逃げていれば。
「キーアのせいで……キーアのせいで、アルシュが……っ!!」
強烈な自責の念。
自分の存在が、大好きな男の子の未来を、命を奪ってしまったという絶対的な絶望。
こんな結末、嫌だ。
悲しみと、行き場のない絶望。そして、世界を壊してしまいたいほどの強烈な後悔。
その特大のトラウマが、彼女の魂の奥底で眠っていた『何か』の引き金を、無意識のうちに引いた。
(こんなの、嫌だ)
嫌だ。嫌だ。嫌だ。
アルシュがいない世界なんて、嫌だ。
アルシュが死んでしまう未来なんて、間違ってる。
ドクン、と。
キーアの胸の奥で、翠の光が脈打った。
(やり直したい――)
その純粋で、あまりにも強大な『無意識の願い』が、クロスベルの夜空を、世界そのものを、淡い翠色の光で包み込んでいく。
空間が歪み、時間が融解する。
彼が流した血も。彼が死の恐怖に打ち克って剣を振るった勇気も。
四人の大人を相手に、自分の命をすり減らして最愛の少女を守り抜いた、
その気高く尊い『結果』すらも。
因果律の修正という絶対的な力の前では、等しく白紙へと還元されていく。
アルシュ・グレイウッドという少年がやり遂げたすべての証が、
残酷なまでに、音もなく『零(ゼロ)』へと巻き戻っていくのだ。
意識が、深い深い底へと沈んでいく。
――カチャリ、と。
重い金属の鍵が開く音がした。
私は、ゆっくりと目を覚ます。
暗がりの中で、細く差し込んでくる眩しい光。
トランクの蓋が開き、そこに立っていたのは、驚いたようにこちらを見下ろす青年の顔だった。
「…………」
特務支援課の、ロイド・バニングス。
すべてが巻き戻った、ルバーチェ商会の黒の競売会(オークション)の夜。
私はまた。彼と『初めて』、出会ったのだ。