『蒼灰の軌跡』〜届かない光と、全肯定の死神〜 作:こげすずめ
ベッドの上にポツンと座り、キーアは自分の両手をじっと見つめていた。
つい先ほど、マリアベル・クロイスから聞かされた残酷な真実が、頭の中で何度も、何度も反響している。
『あなたは、世界を書き換えることができるのよ、キーアちゃん』
『特務支援課の皆さんが、このままではどうなるか……賢いあなたなら、もうわかっているはずでしょう?』
特務支援課の皆が、血を流して倒れる未来。
圧倒的な暴力の前に、ロイドたちが命を落としてしまうかもしれないという絶望的な可能性。
その恐怖を煽られた瞬間。キーアの魂の奥底で、固く閉ざされていた『鍵』が、ついに完全に砕け散った。
(あ…………)
今まで、無意識のうちに直視することを避けてきた、黒く塗りつぶされていた記憶。
『目の前で、大切な人が理不尽な暴力によって殺される』という、魂に刻み込まれた絶対的なトラウマが、決壊したダムのようにキーアの脳髄を満たしていく。
『――キーアちゃん……ここで、待ってて』
『――絶対に、守るから』
血の匂い。
泥の冷たさ。
斬り飛ばされた右腕。骨に食い込んだ山刀。
そして、自分を庇って銃の引き金を引き、血の海の中でゆっくりと冷たくなっていった、大好きな少年の姿。
「あ……ぁぁ、アル、シュ……っ」
キーアは両手で頭を抱え、ベッドの上にうずくまった。
ポロポロと、大粒の涙がシーツに染みを作っていく。
全部、思い出した。
アルシュが死んだあの日の絶望を。
そして、自分が『零の至宝』としての力で、彼が死んだという事実ごと世界を書き換えてしまった(無かったことにしてしまった)という、恐ろしい罪の記憶を。
(キーアのせいで……キーアが弱いから、アルシュはあんなに痛い思いをして、死んじゃったんだ)
今の平和なクロスベルには、マメだらけの手で木剣を振るう彼はいない。
剣の重みも、人殺しの感触も知らない、ただ本を読むのが好きな優しい男の子。
彼の手が綺麗なままでいられるのは、キーアが『彼と関わらない』という選択をしたからだ。
でも、ロイドたちは違う。
特務支援課の皆は、クロスベルを守るために、これからも強大な敵と戦い続ける。
もし、このままキーアが『ただの子供』でいれば。
いつか必ず、ロイドも、エリィも、ティオも、ランディも。
アルシュと同じように、キーアの目の前で、冷たい血を流して死んでしまう。
(嫌だ)
そんなの、絶対に嫌だ。
二度と、あんな思いはしたくない。
大好きな人たちが傷つき、壊れていく姿なんて、もう二度と見たくない。
(キーアが、『神様(零の至宝)』になれば……)
マリアベルの甘い誘惑が、今は唯一の救済に思えた。
私が因果律を操作し、すべてを視通す神になれば。
誰も死なない、誰も傷つかない、完璧な世界を作ることができる。
ロイドたちが血を流す未来を、私がすべて書き換えてしまえばいい。
あの時、アルシュの死を書き換えてしまったように。
「……ごめんね、アルシュ」
キーアは、涙で濡れた顔を上げ、誰もいない部屋の虚空に向かってぽつりと呟いた。
「アルシュが命を懸けて守ってくれたキーアは、……悪い子になっちゃうみたい」
アルシュの気高い自己犠牲を一度なかったことにしてしまった私は、もう『ただの女の子』に戻る資格なんてない。
だから、これは私の罰だ。
大好きな人たちを守るために、私は、人間であることを捨てる。
キーアはベッドから立ち上がり、涙を乱暴に拭った。
その小さな背中には、もう迷いはなかった。
特務支援課の皆と過ごした、暖かくて優しい部屋。机の上に置かれた、みんなで撮った写真。
それを最後に一度だけ振り返って目に焼き付けると、キーアは夜の闇に包まれた部屋のドアを開け、自らクロイス家の元へと歩き出した。
誰も傷つかない『幻の平和』を、この手で創り出すために。