『蒼灰の軌跡』〜届かない光と、全肯定の死神〜   作:こげすずめ

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碧き願いの果てに

碧の大樹が崩壊し、クロスベルに一時的な、しかし確かな空の青さが戻った日の夜。

特務支援課ビルの三階、キーアの自室には、静かな月明かりだけが差し込んでいた。

 

すでに部屋の荷物はまとめられている。

エレボニア帝国やカルバード共和国からの追手、

そして何より『零の至宝』であった彼女自身を狙う様々な思惑から逃れるため、

キーアは明日、ロイドたちと別れ、アリオスたちと共にクロスベルを離れることが決まっていた。

 

誰もいない部屋で、キーアは一人窓辺に立ち、夜の中央広場を見下ろしていた。

 

静まり返った石畳の広場。

しかし、キーアの瞳には、かつてそこで汗だくになりながら、

必死にマメだらけの手で木剣を振り続けていた少年の姿が、はっきりと幻視できていた。

 

「……ごめんね、アルシュ」

 

窓ガラスにそっとおでこをくっつけて、キーアの唇から誰に聞かれることもない微かな懺悔がこぼれ落ちた。

 

ロイドは、言ってくれた。

 

『過去も罪も、全部一緒に背負って、乗り越えよう』と。

 

その言葉にキーアは救われ、神様(至宝)であることをやめて、

ただの『キーア』という人間の女の子に戻ることを選んだ。

因果律を操作する奇跡の力を手放し、これからは皆と同じように、自分の足で未来を歩いていくと決めた。

 

けれど。だからこそ。

 

神様の力を手放したということは、もう二度と、時間を巻き戻せないということだ。

 

アルシュが死んでしまったあの日の絶望を無かったことにして、『彼がいない今の世界』を、取り返しのつかない現実として完全に確定させてしまったということ。

 

「キーアね、ロイドに全部話そうと思ったの。キーアが犯した、一番重くて、一番ひどい罪のこと」

 

窓越しの幻影に向かって、キーアはポロポロと涙をこぼしながら語りかける。

 

「キーアを守るって約束してくれたのに、キーア、逃げちゃった。

 ……アルシュがすっごく痛い思いをして、命を懸けて最後まで戦ってくれたのに。

 キーアが我慢できなかったせいで、アルシュのあの必死の覚悟を……

 『アルシュがキーアを助けてくれた』っていう証を、全部白紙にしちゃったこと。

 キーアが弱いせいで、アルシュの勇気を『なかったこと』にしちゃった。……最低だよね」

 

でも、言えなかった。

 

もしその事実を特務支援課の皆に話してしまえば。

優しすぎるロイドやエリィたちは、自分たちの不在が惨劇を招き、

キーアに因果律を書き換えさせるほどの絶望を与えてしまったのだと、

一生消えない十字架を背負って自分自身を責め続けるだろう。

 

アルシュは、特務支援課の皆が大好きだった。

彼らが笑っているこの場所を、皆の未来を守りたくて、彼はあの日震える足で大人たちに立ち向かったのだ。

そのアルシュの尊い願いを、キーア自身の『許されたい』という自己満足の告白で、台無しにするわけにはいかない。

 

ボロボロと、大粒の涙が窓枠に落ちる。

 

今のこの世界線には、ただ本を読むのが好きな、魔獣の恐怖も戦いも知らない平和な彼(アルシュ)がいる。それでいいのだと、自分に言い聞かせてきた。

 

でも、キーアが本当に一緒に生きたかったのは。

血まみれになって、右腕を失ってもなお、キーアを庇って引き金を引いてくれた、

あの『不器用で、誰よりもかっこいい騎士様』だった。

 

(もし……)

 

涙で滲む視界の向こう、広場の片隅に、あり得たかもしれない幻を見た気がした。

 

(もし、あの日……キーアが連れ去られなくて、アルシュが死ななくて。……特務支援課のみんなと一緒に、あのまま平和に大きくなっていたら)

 

十年後。アルシュは、どんな大人になっていたんだろう。

 

キーアと同じように大きくなって。きっと背も高くなって。

ロイドやアリオスみたいに、クロスベルを守る立派な『遊撃士』になっていたかもしれない。

二十歳になったアルシュは、もう木剣じゃなくて、本物の剣を腰に下げて。

あの「へにゃっ」とした優しい笑顔のまま、少しだけ低くなったかっこいい声で、

大きくなったキーアの手を、また力強く握ってくれていたのだろうか。

 

『ずっと一緒にいるよ』

 

あの日交わした、もう二度と果たされることのない約束。

その「大人になった彼」の姿を想像した瞬間、キーアの胸が張り裂けそうなほどの後悔と、途方もない愛おしさで満たされた。

 

(会いたいな……)

 

大人になった、強くて、優しいあなたに。

もう一度だけ会って、「守ってくれてありがとう」って。そして、「あなたの勇気を奪ってごめんなさい」って、ちゃんと謝りたかった。

 

「アルシュのことは、キーアだけが覚えてる。……キーア一人だけで、ずっと抱えていくよ」

 

胸の奥が、焼け焦げるように痛い。

大好きだった男の子の命と誇りを踏みにじって得た、この平和な世界。

 

「痛くて、苦しいけど……でも、絶対に忘れない。これが、キーアがアルシュにしたことの罰で……アルシュがキーアに遺してくれた、たった一つの宝物だから」

 

叶うはずのない願いを、強引に心の奥底の、最も深い鍵付きの箱の中へと閉じ込める。

涙を乱暴に袖で拭うと、キーアは窓から離れた。

 

「……ばいばい、アルシュ。キーア、がんばるからね」

 

コンコン、と。

控えめなノックの音がして、ドアの向こうからアリオスの静かな声が聞こえた。

 

「キーア。……そろそろ、時間だ」

「うん、今行くね!」

 

キーアは、いつもの無邪気な笑顔を顔に貼り付けた。

振り返ることなく、皆との思い出が詰まった部屋のドアを開け、彼女は長く険しい逃亡の旅へと足を踏み出したのだった。

 




次回から救済編という名の蛇足になります。ストックあんまりないので一日1投稿で
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