『蒼灰の軌跡』〜届かない光と、全肯定の死神〜 作:こげすずめ
狂乱に包まれる市庁舎前を離れ、街の路地へと駆け出せば、
意外なほど簡単に彼女の姿は見つかった。
新たに生まれた『総統』への歪んだ熱狂に浮かされ、統制を失って波打つ民衆のうねり。
その群衆の足元で、転んだところから必死に立ち上がり、どうにか状況を打開しようと周囲を見渡して走り出そうとしている小さな姿があった。
「……よかった」
息を呑み、安堵の吐息を漏らす。
だが、当然ながらこのまま放っておくわけにはいかない。
街のあちこちには既に黒の衛士たちが展開し始めている。
彼らに見つかれば、特務支援課を精神的に追い詰めるための、最悪の『交渉材料(人質)』として利用されるのは明白だ。
なら――やるべきことは一つだ。
僕は足を止め、懐から一つのアイテムを取り出した。
あの男――ルーファスに事前に用意させていた、目元を覆い隠す無機質な仮面だ。
それを素早く顔に装着し、正体を隠す。
そして、人目を避けるように路地裏の暗がりから歩み出て、走り出そうとしていた彼女の前に立ち塞がった。
「――キーアさんだよね」
ビクッと肩を震わせ、彼女はこちらを振り返った。
顔を仮面で隠した、得体の知れない大人の男。
当然のように、彼女は怯えと強い警戒を滲ませて僕を睨みつける。
彼女は、おそらく覚えているはずなのだ。
十歳の僕が、猟兵の手によって血まみれになって死んでいった、あの『書き換えられる前の記憶』を。
けれど、今の僕は二十歳に成長した大人の肉体だ。それに声変わりもしているし、
顔だって仮面で完全に隠している。今の僕が『アルシュ』だなんて、彼女にわかるはずがない。
……はずなのだが。
「…………え?」
僕の低くくぐもった声を聞いた瞬間。
彼女の翡翠色の瞳の奥で、ピンと張り詰めていた警戒の色が、
ふっと和らいだように感じられた。
不思議そうな、けれどどこか懐かしい響きを探るような眼差し。
なぜ彼女がそんな反応を見せたのか、その理由は僕にもわからなかった。
「あなたは……」
警戒と戸惑いの入り混じった声で、キーアが問いかけてくる。
僕は静かに首を横に振った。
「残念だけど……僕は、後ろの広場にいる連中の仲間だ」
「……!」
再び身体を強張らせる彼女に、僕はできるだけ誠実に、まっすぐな視線を向けた。
「けれど、君の無事は絶対に保証する。……君を、特務支援課のみんなの元へ無事に戻せるように、なんとか手配するつもりだ。」
僕は仮面越しに彼女を見つめ、ひどく身勝手で、虫の良い言葉を口にした。
「だから……今だけ、僕を信じてくれないか」
口にしながら、なんて虫の良い、都合のいい言葉だろうと自分でも呆れる。
広場を襲撃した敵の仲間だと名乗っておきながら、
君を助けるから信じてくれだなんて。普通の大人なら、鼻で笑って逃げ出すところだ。
だが、彼女は逃げなかった。
キーアは真っ直ぐに僕の仮面の奥の瞳を見つめ返し、深く、深く考え込むように沈黙した。
そして――。
「……うん。わかった」
迷いを断ち切ったように、力強く、コクリと頷いたのだ。
僕は彼女の手を引き、人の波を逆行するようにして、そのまま市庁舎前へと戻った。
つまり、先程まで傲慢な演説をぶち上げていたルーファスと、
統一国の中枢を担うであろう幹部たちが立ち並ぶ、まさに『敵のど真ん中』へと向かったのだ。
仮面の僕がキーアを連れて戻ってきたのを見て、ディーターとガルシアの二人は明らかに驚いたように目を見開いた。
まあ、無理もない。この二人は過去の教団事件や『独立国』の騒動で、彼女の存在がいかに特異で、
クロスベルの中心にいたのかを深く知っている。
そのキーアが、よりにもよってこの広場に連れ戻されてきたのだから。
ルーファスはゆっくりとこちらに歩み寄り、冷ややかな笑みを浮かべた。
「頼んだ仕事は完璧にこなしてもらえたようだが……そこの少女はどうしたのかな?」
「なに、迷子になって震えてたのを拾っただけさ」
僕は平然と肩をすくめ、ルーファスを見据えて言った。
「親元に返してやりたいんだが、構わないか?」
「……なるほど」
ルーファスの視線が、僕の背中に隠れるようにして、
僕のコートの裾を小さな手でギュッと握りしめているキーアへと向けられる。
「彼女が『特務支援課』の身内で、彼らを大人しくさせるための重要な交渉材料(人質)になり得るとしても、かね?」
「ああ。こちとら元・遊撃士でね。子供を餌にするような悪趣味な話に乗れると思うか?」
僕は鼻で笑い飛ばすように即答した。
「ふむ。……断ったら?」
ルーファスが目を細め、静かな圧力をかけてくる。だが、僕の心に怯えは一切なかった。
「さてね。活動を停止させられる前に、今ここで盛大に大暴れしてやろうか?」
柄にもなく、ひどく好戦的な、挑発するようなセリフが口をついて出た。
キーアが背中にいるからだろうか。
どこか、あの頃の――十歳の不器用なアルシュだった頃の、『彼女の前ではカッコいい騎士様でいたい』という純粋な気持ちに背中を押されているような気がする。
(……相変わらず、カッコつけたがりだな、僕は)
心の中で自嘲気味に苦笑しながら、僕は一歩も引かずにルーファスを睨み返した。
少しの緊張を孕んだ沈黙の後。
ルーファスは僕の頑なな態度を見て、ふっと軽く苦笑を漏らした。
「フッ……いいだろう。我々の大望に、その娘は必要のない存在だ」
あっさりと、ルーファスは告げた。
かつてのD∴G教団やディーターの独立国事件とは違う。
エリュシオンという全知の演算器にとって、もはや『零の至宝』の残滓であるキーア本人に求める力など何もないということだ。
「だが――」
ルーファスは不敵に口角を上げた。
「先程まで剣を交えた間柄だ。ただ無条件で親元に返すというのも、少々芸があるまい?」
その言葉を合図にしたように、広場の奥、黒の衛士の隊列を割って、数人の男たちがこちらへ歩いてきた。
その先頭を歩く、細身のスーツを着流し、怜悧な微笑を浮かべた男の姿を見た瞬間。
僕の胸の奥で、ひどく苦い、厄介な記憶が急速にフラッシュバックした。
エリュシオンが構築した二十歳までの演算世界。
その中で、僕が遊撃士として活動する度、幾度となく盤面を引っ掻き回され、煮え湯を飲まされてきた食えない男。
「おや。可愛らしい迷子ですね」
東方シンジケート『黒月(ヘイユエ)』の支社長。
ツァオ・リーが、胡散臭い笑みを浮かべてそこに立っていた。