『蒼灰の軌跡』〜届かない光と、全肯定の死神〜 作:こげすずめ
結局のところ、交渉の落としどころはツァオ・リーの提案する『仕掛け』によって決着した。
彼らが特務支援課に対して一つ「罠」を仕掛ける。
その代わり、この少女(キーア)には一切手を出さず、解放する。そういう手筈だ。
「特務支援課の皆さんが、その罠を無事に掻い潜れるかどうかはまた別の話ですがね」
ツァオは細い目をさらに細め、涼しい顔でそう言い放った。
「……まあ、いいだろう」
僕は短く承諾した。
どこまでも食えない、胡散臭い男であることには違いないが、
20歳の記憶の中で彼と渡り合ってきた感覚から言えば、
こういう利害の一致した取引における約束だけは、絶対に違えない相手のはずだ。
だが、その罠の内容――いや、その仕掛けの『要』として、
あの紫の衣を纏った舞姫を使うと聞いた時には、
僕も内心で大きく驚かざるを得なかった。
彼女の正体は、イリア・プラティエ。
僕の記憶の中では、劇団『アルカンシェル』で光り輝く圧倒的な大スターであり、クロスベルの太陽。
それ以外の何者でもなかったはずだ。
しかし、今の彼女から放たれているのは、あの底抜けに明るい光などではない。
顔を隠す衣の奥から漂ってくるのは、妖艶で、ひどく禍々しく冷たい気配だった。
今まさにこの街全体を覆い尽くそうとしている、あのルーファスへの異常で呪いじみた信奉の波。
あるいは、彼女自身もその得体の知れない影響下に置かれ、心を歪められているのだろうか。
「…………」
僕は背中に隠れるキーアを庇うように立ちながら、静かに紫の舞姫を見つめていた。
***
そして、ツァオたちが言う『仕掛け』の準備が済むまでの間。
僕はキーアを連れて、オルキスタワーの中層にある食堂――今は誰もいない静まり返ったラウンジへと移動し、彼女を休ませることにした。
自動販売機で温かい紅茶を買い、ソファに座る彼女に手渡す。
少し大人びた彼女は、差し出された紙コップを両手で受け取ると、
仮面で顔を隠した僕を見上げて小さく口を開いた。
「……ありがとう。あの、なんで……キーアを助けてくれたの?」
昔のような無邪気さだけではない。
相手の事情を推し量ろうとするような、賢くて思慮深い、少しだけ大人になった彼女の響き。
「特務支援課には、昔お世話になったことがあってね。ただの借り返しさ。気にしないでいい」
僕は壁に背を預け、努めて平坦な声で突き放すように言った。
「ただ、助けられるのは今回限りだ。次にどこかで会うことがあったら……その時は、容赦なく敵同士だ」
僕の冷たい言葉に、キーアは少しだけ悲しそうに目を伏せた。
昔の彼女なら「どうして!?」と泣きそうになっていたかもしれない。
だが、今の彼女は、僕が敵陣営にいること、そして何か複雑な事情があることを察しているのか、静かにその事実を受け止めようとしていた。
「……うん。でも、あのね」
キーアは紙コップの縁を見つめたまま、ためらいがちに尋ねてきた。
「あの……さっき、『遊撃士』だって言ってたのに。どうして……こんなこと、してるの?」
どうして、あのルーファスたちに手を貸して、クロスベルを傷つけるようなことをしているのか。
彼女の純粋な疑問に、僕は胸の奥がチクりと痛むのを感じながら、自嘲気味に笑った。
「……『元』、だよ」
僕は小さく息を吐き、彼女の瞳を見つめ返した。
「残念だけど、今の僕にはもう……弱きを支える『籠手』の紋章を背負う資格はないよ。僕には、どうしてもやるべきことがあるんだ」
(そうだ。資格なんて、ない)
眼の前にいるこの子が、十歳の僕の死という重すぎる十字架を背負って生きていることは痛いほどわかっている。
正直なところ、ただ彼女の後悔を晴らすだけなら、
今ここで仮面を外し、「アルシュはここにいる。君はもう自分を責めなくていい」と洗いざらいぶちまけてしまえばいいのだ。
そうすれば、彼女の魂は救われるかもしれない。
でも、それはできない。
形はどうあれ、僕があの男(ルーファス)と交わした契約がある。
もしここで僕が自分の重荷を放り投げて真実を明かせば、僕はただ『クロスベルの再独立をぶち壊す悪行に加担し、中途半端に街を引っ掻き回しただけのテロリスト』として終わってしまう。
一度この狂った盤面に乗った以上、エリュシオンがもたらすこの事件の結末を見届けなければならない。最低限、約束を果たすまでは。
それが、僕の『グレイ』としての矜持であり、自分自身がどうしても許せないラインだった。
だから、彼女に対してすべてを明かすのは、今ここじゃない。
心の中で固い決意を反芻していると。
不意に、食堂の重厚なドアが開き、重い足音が室内に響いた。
入ってきたのは、分厚い胸板を持つ巨漢の男。
元ルバーチェ商会の若頭であり、僕の右腕を奪ったマフィアたちの元締――ガルシア・ロッシだった。
「…………」
ガルシアはこちらを一瞥すると、鋭い猛禽のような眼光で僕を射抜き、低くドスを効かせた声で言った。
「……おい、仮面の。少し面を貸せ」
漂うヒリついた空気。
どうやら、ただの雑談で呼びに来たわけではなさそうだった。