『蒼灰の軌跡』〜届かない光と、全肯定の死神〜 作:こげすずめ
ディーターに促されるまま、僕は黒塗りの高級車の後部座席へと乗り込んだ。
「ドライブ」と彼が言った通り、車が走り出してしばらくは、
特に言葉を交わすこともなく、僕はスモークガラス越しに車窓からクロスベルの街並みを眺めていた。
やはり、どこを見ても先ほど東通りで感じた空気と大差はない。
行き交う人々も、立ち並ぶ店舗も、一見すれば平穏そのものだ。
だが、街全体がどこか重く、どんよりとした見えない泥水に沈んでいるような、息の詰まる空気が漂っていた。
静かな駆動音だけが響く車内で、不意にディーターが口を開いた。
「そういえば、君にお礼を言い忘れていたね」
「……お礼?」
予想外の言葉に、僕は視線を窓の外から目の前の男へと移した。
ディーターは完璧な笑みを崩さないまま、ゆっくりと頷いた。
「ああ。先日、キーア君を助けてくれただろう」
ピク、と。仮面の下で僕の眉が微かに動いた。
独立国騒動の首謀者であり、あの娘の力を利用し尽くした彼が、礼だと?
警戒心を隠そうともしない僕の気配を感じ取ったのか、ディーターは「ふふ」と小さく笑い声を漏らした。
「かつて彼女を大いに利用した側の人間が、どの口で言うのか……といった表情だね」
「…………」
否定はしなかった。
正直なところ、僕の演算された歴史の中でも、あの『独立国』の騒動の記憶はかなり朧げだ。
だが、それでもあの娘が、大人たちの身勝手な理想のためにどれだけ大変な目に遭い、心を痛めたかくらいは理解している。
ガルシアとはまた別の意味で、僕は目の前のこの男に対して、どうしても警戒を解くことができなかった。
僕の無言の非難を受け止めながら、ディーターはシートに深く背を預け、静かに語り始めた。
「事実、私は彼女を最大限に利用した側の人間だ。……『クロスベル独立国』のために動いたあの時、私自身が多少の視野狭窄に陥っていたことは否定しない。だが、あの時はああすることこそが、このクロスベルの『正義』だと信じて動いていた」
そこまで言って、彼は自嘲するように苦笑を交えた。
「もっとも、己の娘や他の者たちに完全に出し抜かれ、踊らされていた愚か者ではあるがね」
「……ディーター元大統領」
「だが、それが私なりの正義であったとはいえ、彼女のような幼い少女の人生を利用し、重い運命を背負わせたことには変わりない。……だからこそ、私は今でも彼女に対して、大きな『借り』があると言える」
ディーターの眼差しは、かつての傲慢な独裁者のものではなく、
この街とそこに生きる者たちを憂う、一人の不器用な大人のそれに変わっていた。
「本来なら、彼女が特務支援課の面々と共に平穏無事でいてくれるのが一番なのだが。今は、この状況だからね」
「……」
「今の『統一国』における私の立場上、あの広場の目立つ場で、私から彼女に直接助け舟を出すことは難しかった。だから、君が彼女を保護し、無事に返してくれたことに、感謝しているんだよ」
グレイは黙って彼の言葉を聞き、静かに「……わかった」と伝えた。
独立国の首謀者としての野心はともかく、
彼が彼なりに一人の少女――キーアのことを案じていたのは事実なのだと感じたからだ。
車は静かに、けれど確実に占領下の街を進んでいく。グレイはふとした疑問を口にした。
「……さっき、視野狭窄だったと言ったな。今はどうなんだ?」
それは、なぜあんな過去がありながら、再び『統一国』などという怪しげな陣営に加担しているのかという、遠回しな問いだった。
ディーターは少し考え込むような間を置いたあと、穏やかな、けれど鋭い声で問い返してきた。
「グレイ君。君は『リスクヘッジ』という言葉を知っているかな?」
「……ああ。最悪の事態に備えて、損害を最小限に抑える準備のことだろ」
「その通りだ。私は塀の中にいたが、聞き及ぶ限り、かつてのルーファス・アルバレア総督の統治手腕は見事なものだった。……今の、あの『偽物』の彼に、その才覚まで備わっているかは分からないがね」
「偽物……」
その言葉に、グレイは思わず「あんた、気付いて……」と反応しかけたが、ディーターは「ふふ」と含みのある笑みでそれを流した。
「調印式での彼の立ち回りを見れば、あれが尋常な存在ではないことは君も理解しているだろう? 最悪、本当にこの『統一国』が成立し、世界を敵に回してしまう事態を想定しなければならない。そうなった時、内側に誰もブレーキをかける者がいなければ、この街は本当に滅びてしまう」
グレイはなるほど、と理解した。
ディーターはこの国において現在、行政官のような立場にある。
彼は今のルーファスを信用していないからこそ、あえて内側に潜り込み、万が一の際の歯止めになろうとしているのだ。
「あんた……収監までされてたのに、出てきて早々これか。本当、この街が好きなんだな」
「贖罪の気持ちがないわけではないが……そうでなければ、そもそも独立国などという大それた企てはしないよ」
ディーターはそう言って、今度は射抜くような視線をグレイに向けた。
「そういう君はどうなんだね?」
「……え?」
「君がこの陣営についている本当の理由は、私には分からない。そもそも、君が何者なのかすら我々は知らされていないのだが……それでも。こうして話していると、君からもこの街への強い愛着を感じるのだがね」
グレイは意表を突かれたように、少し呆気にとられた表情をした。仮面の下で、一瞬だけ言葉が詰まる。
自分はエリュシオンが生み出した再現体で、この街の歴史の『蛇足』のような存在だ。
そんな自分が、この街に愛着を持っているなんて……。
少しの間のあと、グレイは自嘲気味に、けれどはっきりと答えた。
「……ええ。オレも好きですよ。この街が」
「なら、今はそれで十分だろう」
ディーターは満足げに頷くと、グレイに向けて右手を差し出した。
「その一点において、我々は同志たり得る。……そうだろう?」
グレイは差し出されたその手を見つめ、少しの逡巡のあと、その手を握り返した。
元大統領と、死んだはずの少年。
奇妙な縁で結ばれた二人の手は、冷たい車内の中で、確かに熱を帯びていた。