10日間の問い   作:三日月ノア

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ポテトや漫画はギャグ要素ですね


9話 ただの(元)地球人として

 

 

部屋の空気が、少しだけ変わった。

 

それまでの緊張とは違う種類の静けさだった。言葉が正しく届いていない時の静けさではない。届いたうえで、各人がそれぞれ別の場所へ意味を運んでいく時の静けさ。会議でも、葬儀でも、たまにそういう瞬間がある。ひとつの文が、同じ部屋の中で複数の人生へ分岐していく。あの時の空気は、それだった。

 

私は自分の膝の上で、指先をわずかに揃えた。

 

揃えただけで、机の下に組み込まれた微細な補助系が私の筋出力と姿勢を補正する。過不足のない角度。呼吸の浅さを外に出しにくい胸郭の動き。視線の揺れを抑える眼球制御。いまの私は、自分の身体を自分で操作しているというより、「この場にふさわしい私」の標準設定に載せられている感じが強い。

 

標準設定。

 

言い方がひどいな、と内心で思う。

 

でも事実だ。接触用の身体は、礼儀に向いている。恐怖には向いていない。恐怖まで露骨に出ると外交にならないからだ。だから私は、内心では十回くらい帰りたいと思っていても、外から見るとただ落ち着いている存在に見える。高位存在。抽象的。静かな何か。そういう雑なラベルに向いている。

 

便利だし、今日はその便利さに助けられている。

 

同時に、少しだけ不誠実でもある。

 

目の前の人たちは、本気で質問している。国家を代表して、文明を代表して、たぶん個人の人生も代表している。そこへ私は、半分は安全のため、半分は見栄のために作った身体と、半分は本音、半分は就活モードで作られた答えを出している。

 

ひどい話だった。

 

もっとも、そのひどさをここまで持ってきたのは、主に私である。

 

南芝生の事件のあと、会場は地下の臨時会談室へ移されていた。外では、まだ救急と警備の声が重なっている。芝生の上には誰もいない。ただ、封鎖線の外側、通りを三本越えた遠くで、群衆のざわめきだけが風に乗ってこちらへ届く。

 

この部屋に私を連れてくるまでに、地球側は本当によく動いた、と思う。建物の廊下を一つ折れるたびに、壁に張り付く私服の保安官が増えた。耳にイヤピースを押し当てて、低い声で何かを確認している。私の歩幅と呼吸を、たぶん別のチームが別の場所で秒単位で記録している。建物の上空には警戒ヘリが停滞飛行に入り、国内線の一部は当然のように進路変更させられていて、滑走路上で静かに怒っているパイロットが何百人もいる。

 

その全部を、私はセンサーの端で拾っていた。拾って、拾ったことをなるべく気取られないようにしていた。「全部見えています」と顔に出るのは、どう考えても今日の空気に向かない。

 

だから私は、できるだけ、何も見ていない顔をしていた。

 

その「何も見ていない顔」が、また、格好をつけているように見える。

 

困ったものだ、と思う。困っているのはたぶん私より地球側のほうだ、とも思う。

 

 

リードが、わずかに姿勢を動かした。

 

彼はようやく、一つ前の発話を飲み込み終えた顔をしていた。国の指導者は、沈黙のあいだにも表情筋の管理を怠らない。驚きすぎず、怒りすぎず、弱く見えず、しかし人間味を完全に捨てない。そのあたりの配分が、政治に向いている顔だと思う。

 

「失ったことがあるから、あなたは我々に価値を見る」

 

彼は確認するように言った。

 

「それは、あなたの文明にも喪失がある、という意味か」

 

「あります」

 

そこは即答できた。

 

「形は違っても、あります。長く生きても、なくならないものはあります」

 

私はそこで少しだけ迷った。どこまで言うか。地球の記憶をどこまで混ぜるか。前世、という概念はこの場では説明が長すぎるし、地球側に余計な神学的問題を投げる。だから私は、嘘にならない範囲で、しかし一番核心のところはずらした。

 

「長い時間を持つ文明は、失う速度が遅くなります。ですが、失わないわけではありません。失ったあとにしか分からない価値が、やはりあります」

 

今度は城崎が私を見た。

 

彼女は、さっきまでより少しだけ政治家の顔をしていなかった。政治家の顔をしていないと言っても、素の顔という意味ではない。たぶん、国家の言葉から個人の問いへ一段だけ重心を移したのだ。

 

「では、あなたが今ここで私たちに見ているものは、希望ですか。それとも、過去の再演ですか」

 

良い質問だと思った。良すぎて困る。

 

日本の政治家は、たまにこういう質問をする。逃げにくくて、しかし正面衝突にもならない。大学の口述試験みたいな問い方だ。相手に考えさせるための角度を持っている。

 

「どちらでもありません」

 

私は言った。

 

「希望は、少し大きすぎる。再演は、少し狭すぎる」

 

また言葉がきれいになった。嫌な癖だ。

 

きれいな言葉は、きれいな場所に呼ばれやすい。テレビの番組紹介、政治家の引用集、書店の平積みの帯。自分の文がああいう場所へ連れて行かれるたびに、私は、ああ、また本当に言いたかったこととは少し違う形でパッケージされた、と思う。そしてそれを訂正する機会は、たいてい、私には与えられない。

 

きれいな言葉は、切り取りに向いている。

 

切り取られると、もとの温度の半分くらいは、途中で逃げる。

 

そんなことを考えながら、けれど今度は、その次の文をちゃんと自分で選び直した。

 

「私は、確認に来ました」

 

「何を」

 

「あなたたちが、まだそういうものを持っているかどうか」

 

リードが眉を寄せる。

 

「そういうもの、とは」

 

そこまで来ると、逃げられない。私はほんの少しだけ視線を落とし、また上げた。

 

「他人の悲しみを、自分の仕事の外へ残しておけない感じです」

 

言ってから、沈黙が落ちた。

 

しまった、と思った。抽象度が高すぎる。いや、抽象度以前に、言い方がいちいち就活の最終面接みたいだ。なぜ私は大事な場面でこう、変に格調を足してしまうのか。普通に言えばいいのに。困っている人を見た時に、見なかったことにしきれない感じ、とか。誰かの不幸が自分の都合の外側にあるのに、それでも気になってしまう感じ、とか。

 

でももう遅い。

 

部屋の全員が、私の文をそれぞれの人生へ持っていってしまったあとだった。

 

城崎の隣にいた木原が、視線を下げた。リードの側近の一人は、目だけをわずかに細めた。通訳の呼吸も変わった。私は、ああまたやってしまった、と思った。普通に話したつもりなのに、向こうでは「上位文明の倫理的関心」に聞こえている。

 

違う。そんな大げさなものではない。

 

私はただ、昔コンビニで働いていたとき、深夜に酔った客がレジ前で泣き出したことを思い出していた。店長は面倒そうな顔をした。私は早く帰りたかった。でも、放っておけなかった。そういう、あの程度の話をしていたのだ。

 

文明論ではなく、生活の話。

 

たぶん私は、そういう話しか本当には持っていない。

 

それをどうにか伝えなければ、と思ったとき、思ったより早く次の問いが来た。

 

 

同じ頃、日本の官邸対策室の別室では、三十人ほどの人員が細長い机に張り付いていた。

 

中継映像は四系統。主映像が正面、副が二面、南芝生方面のライブが一面。副映像のひとつは、少女の顔のアップだけを常時映している。表情解析班はその画面を見ながら、〇・二秒間隔でタグ付けを続けていた。「沈黙・視線微下降・口角変化ほぼなし」。「視線上昇・発話意思」。

 

同時通訳のブースが二つ。英語と日本語の間を、二名一組で十五分交代。ブースの外では速記が走り、別の席では外務省の分析官が、訳文のニュアンスに赤ペンで注釈をつけている。「『希望』の原語は英語では hope、ただし彼女の用法は広い。『再演』は reenactment。西欧政治学の語彙に寄せている。意図か偶然かは現時点で判定不可」。

 

広報チームの机では、会談終了時の想定コメントを三パターン書き分けていた。A=国民向け、B=同盟国向け、C=市場向け。それぞれに、想定される報道のヘッドラインも付いている。「異星文明、日本の首相と『喪失』を語る」「米大統領、『失ったことのある側』として会談」「市場、様子見で小反発」。三枚はまだ全部、保留箱に入れられたままだった。

 

専用線の一本に、赤いランプが点く。

 

外務省から、欧州側の動きの報告が入った。汎欧州議長府が公式声明の原稿を三バージョン用意している。一つ目は「対話を歓迎する」、二つ目は「対話を注視する」、三つ目は「対話を懸念をもって見守る」。どの案にするかは、この会談の雰囲気次第で最後の三十分に決まる。

 

別の専用線には、英連邦首相府から。

「現時点では発表を急がない。アジア・北米の終わりを待つ」

 

さらに別の線には、聖都から。

「教皇は祈祷のため、一時的に通信を控える」

 

北京は沈黙だった。モスクワも沈黙だった。ニューデリーは国内向けに「我々は落ち着いて見守っている」の一文だけ出した。ブラジリアは「アマゾンの朝を迎えるまで、声明を出さない」とだけ。

 

対策室の奥で、若い書記官がつぶやく。

 

「……『落ち着いて見守っている』って、ほとんど何も言ってないですよね」

 

隣の先輩が、画面から目を離さずに応じた。

 

「何も言わない、を、落ち着いて、でくるんでるんだよ。あれがいちばん難しい」

 

南芝生のライブ映像では、封鎖線の外側で、三種類のプラカードが混ざって揺れていた。「WELCOME」と書かれたもの、「GO HOME」と書かれたもの、そしてそのどちらでもなく、ただ少女の似顔絵だけを描いたもの。似顔絵はやや少年漫画寄りの線だった。誰かの子どもが描いたのかもしれない。対策室の後ろのほうで、それを見た誰かが、ほとんど音にならない笑いをこぼした。

 

笑ったこと自体が、今日は少し救いだった。

 

 

「その確認の結果、何を持ち帰るつもりですか」

 

今度はリード。

 

この人は、本当に交渉にしたいのだなと分かる問いだった。持ち帰るもの。見返り。報告。評価。国家はたいてい、その言葉で現実に触れようとする。手ぶらで終わる交流は落ち着かないのだ。

 

私は正直に答えようとして、失敗した。

 

「そうですね」

 

考える時間を稼ぐために、前置きを入れる。

 

「最初は、理解を」

 

嘘ではない。だが、嘘に近い。

 

「次に、記録を」

 

それも本当だ。けれど、まだ本心ではない。

 

「それから――」

 

私は止まった。

 

ここでまた格好をつければ、この対話はたぶん最後までそれらしく進むだろう。私も楽だ。向こうも楽かもしれない。文明間交流は厳粛に終わる。記録に残る言葉が並ぶ。地球側も安心する。アンドロメダ側も安心する。

 

でも、その安心をここで選ぶと、たぶんどこかであとがひどくなる。

 

私は、前世でそういう種類の先延ばしを何度もした。職場で、本当は無理なのに「できます」と言って、あとで全部が壊れるやつだ。できる範囲で上手く見せるのは得意だった。得意で、だから失敗した。

 

格調のある言葉で包んだ問題は、包んだ本人だけが、中身を忘れにくい。周囲は包みの見た目で安心する。私は中身を一人で抱える。そのうち包みが痛む。痛んでから開けると、もう誰も覚えていない。

 

たぶん、もうやめた方がいい。

 

そう思った瞬間、身体補助の設定値が、私の意識に連動してわずかに揺れた。

 

ほんの少しだけ、姿勢安定を落とす。

 

今日ここへ来る前、私はそれを自分でいじっていた。完璧すぎる挙動は距離を作りすぎる、と感じ始めていたからだ。もっとも、下げすぎると困る。小石で転ぶし、段差の手前で間違った筋肉に力が入る。だから一段だけ。十分の一段だけ、という感じ。

 

その十分の一段が、ちょうど今、机の下で効いた。

 

私は膝の位置を微妙に読み違えて、テーブルの内側へ軽くぶつけた。

 

痛かった。

 

痛み自体は制御できる。弱めることも消すこともできる。なのに私は、変なところで昔の癖を残している。咄嗟の痛みは、少しだけそのままにしてある。全部が全部平らだと、自分の身体を借り物みたいに感じるからだ。

 

だから私は、内心で非常に人間らしい小さな悲鳴を上げた。

 

外からは、たぶん分からなかったと思う。思いたい。だが、城崎の目が一瞬だけこちらの下半身へ落ちたので、もしかしたらばれたかもしれない。

 

よりにもよって、ここで。

 

けれど、そのせいで私は、変に格好つけた続きの文を言えなくなった。

 

 

銀河共同統治層の観察記録には、たぶん、いまのも全部載る。

 

私は、これがちょっと怖い。

 

この対話が終わったあと、共同圏のどこかで、三体の管理者がまた白い部屋で私の発話を検証することになる。出発前に言われた三項目を、私はちゃんと覚えている。「個人ではなく文明の窓口として振る舞え」。「技術差は意図と無関係に威圧である」。「記憶で分類しない」。

 

そのどれに対しても、今日の私はすでに、安全側に寄っているとは言えない。

 

「個人ではなく文明の窓口」については、さっきから私は、ほぼ個人として喋っている。「技術差は威圧」については、南芝生で銃弾を白い砂へ変えた時点で、もう取り返しがつかない。「記憶で分類しない」に至っては、これから私が口にしようとしている要求自体が、前世の記憶に丸ごと引っ張られている。

 

評価書は、たぶん、硬くなる。

 

各自責任、と送り出された意味の重さが、いまになって胃のあたりにじわりとくる。身体は補助系が胃の重みまで平らにしてくれるが、心の方はそうはいかない。というより、心だけは、ちゃんと自分の持ち物として抱えておくべきだ。そのために、私はここに立候補したはずだった。

 

だから、言う。

 

言って、記録されればいい。

 

 

「それから」

 

私はやり直した。

 

「すみません、もっと個人的なものもあります」

 

部屋がまた静かになる。

 

リードの側近の一人が、ほんの少しだけ顔を上げた。城崎も瞬きを一つする。ここまで来て「個人的なもの」と言われると思っていなかったのだろう。私も思っていなかった。だが、言うしかなくなった。

 

「交流の第一歩として、頼みたいものがあります」

 

リードが、今度はあからさまに警戒した。

 

「何だ」

 

私はそこで、人生でもかなり上位に入る種類の恥ずかしさを味わっていた。

 

外交会談。異星文明。世界同時注視。歴史的初接触。その中心で、私はこれから、自分でもばかだと思う要求をしようとしている。だが、これを飲み込んでまたそれらしいことを言えば、たぶん私はこのあとずっと演技を続ける。

 

続けられない。もう無理だ。

 

ここまで来るのに、何百年もかかった。

 

「あの」

 

私は言った。

 

「マクドナルドのポテトを、もらえませんか」

 

沈黙。

 

空調の音がやけに近い。

 

私は、逃げたくなった。椅子のまま消失したかった。補助系に身体を霧へ戻せる機能がないのが恨めしい。なぜ私はこれを口にしたのか。いや理由は分かっている。前世の地球で、疲れた帰りに食べたからだ。塩気と油と熱。食べ終わるころには後悔するのに、定期的に欲しくなるあれ。ずっと覚えていた。里帰りしたら最初に食べたい候補の一つだった。

 

でも、それを今この場で言うか、普通。

 

普通じゃないから今こうなっているのだが、それにしても。

 

私は慌てて続けた。

 

「あと、できれば」

 

やめればいいのに、止まれなかった。人間は恥ずかしい時ほど余計なことを足す。

 

「最新の漫画の単行本を、何冊か」

 

そこで、世界の緊張はたぶん、一度だけ完全に意味を失った。

 

リードが、初めて本当に言葉をなくした顔をした。城崎の表情は崩れなかったが、崩れなさすぎて逆におかしかった。木原は視線を机に落とし、たぶん笑いを耐えていた。通訳の一人は、訳しながらほんの一拍遅れた。遅れてから、自分でも訳した内容を理解した顔になった。

 

「……ポテト」

 

リードが、信じられないものを確認するみたいに繰り返す。

 

「はい」

 

「フレンチフライの、ポテトか」

 

「はい。できれば、細いタイプが好きです」

 

私はもう終わりだと思った。

 

異星間外交はここで終了する。共同統治層に報告が行く。「対象文明との初接触担当個体、著しく判断能力を欠く」と書かれる。私の里帰り計画は凍結される。南芝生に降りたまま送還だ。帰ったら百年くらい反省文かもしれない。

 

ところが、終わらなかった。

 

むしろ逆だった。

 

 

その瞬間、世界中の画面のこちら側で、いろいろな種類の時間が一度に止まった。

 

東京、夜中の二時過ぎ。高田馬場のラーメン屋のカウンターで、終電を逃したサラリーマンがレンゲを止めた。テレビの字幕が、「ポテトを、もらえませんか」と追いかけて流れた。「……ポテトって、言ったよな今」「言った」「マック?」「たぶん」店員が奥から、短く笑い声を漏らした。

 

大阪、ミナミの居酒屋。ホッピーのジョッキを持ち上げた老人が、一度下ろした。「アホちゃうか」と言ってから、「アホなんはええことやな」とつけ足した。隣のスーツが、「ええ意味でアホですね」と律儀に返した。

 

ニューヨーク、マンハッタンのダウンタウンのバー。閉店間際のカウンターで、バーテンダーがグラスを拭く手を止めた。「Did she just ask for fries?」「Yeah.」「Holy shit.」三人連れのうちの一人が、ストゥールから半分滑り落ちかけた。スポーツ中継の音量を絞っていたテレビの前で、みんなが、ごく短く、同時に息を吐いた。

 

ロンドン、ソーホーのパブ。ラストオーダーを過ぎた店主が、壁のテレビを指差した。「フライ、ですって」「ええ、フライですわ」「我が国ならチップスって呼ぶところですが」「でしょうね」誰もそれ以上言わず、店主は黙ってジョッキにもう一杯注いだ。

 

ソウル、江南の大学周辺のスタディカフェ。期末直前で徹夜していた大学生が、イヤホンを片耳だけ外して顔を上げた。「え、감자튀김?」「언니 감자 좋아하시는거 실화?」スマホの下書き欄に、誰かが短い文を書き殴った。「天使じゃないかもしれない」。

 

パリ、十一区のアパート。寝付けない老人がラジオとテレビを同時につけていた。テレビの字幕が「ポム・フリット」と訳した瞬間、老人はため息をついて、冷蔵庫から半分残っていたバゲットを出した。「うちにはあるわよ、フリット。明日揚げましょうか」と、妻が寝ぼけた声で言った。そういう会話が成立したこと自体に、老人は少し安心した。

 

ムンバイ、IT企業の夜勤フロア。モニタに四系統の中継を並べた若いエンジニアが、同僚の肩を叩いた。「フレンチフライだって」「冗談だろ」「冗談じゃない。原文そのまま流してる」「……なんか、俺、腹減ってきた」「それな」二人は同時に笑った。同じ部屋で、別のモニタの前では、クライアント向けのレポートのドラフトが書きかけのまま放置されていた。

 

サンパウロ、二十四時間体制のコールセンター。夜勤明けのブースで、疲れ切ったオペレーターが顔を上げた。ポルトガル語の字幕に「batata frita」と出ていた。彼女は、隣のブースの同僚へ小声で、「あの人、地球にマックを食べに来たんじゃない?」と言った。「そうだとしたら、いちばん平和よ」

 

ラゴス、夜明け前の小さな教会。まだ祈祷会の続きが残っていた牧師が、スクリーンの中継を見上げたまま、一度だけ頭を振った。「神は、我々の思考の射程の外にいる」と、さっき彼自身が説教していた。その外側から来た客人が、フレンチフライを所望している。牧師は、祈りの言葉より先に、ごく人間らしい小さな笑いを、喉の奥で噛み潰した。

 

ケープタウン、港の小さな無線機の前。夜明けの漁師が、家族への定時連絡の合間に画面を覗いていた。「娘よ聞け、異星人はフライドポテトを食うらしい」と、マイクに吹き込んだ。向こうから返ってきた笑い声は、受信状態の悪さのせいで途切れていたが、温度だけは、はっきり届いた。

 

これらの場所で、同じ一分のあいだに、人類は、それぞれが勝手に、この来訪者の分類のピンを一本ずつ、静かに差し替えた。

 

神ではない。

悪魔でもない。

政府でもない。

敵でもない。

 

たぶん、もう少し、近い何か。

 

 

部屋のなかに戻ると、最初に動いたのは城崎だった。

 

彼女はほんの少しだけ息を吐いて、そこで初めて、人間らしい温度のある声になった。

 

「漫画は、どういう系統がいいんですか」

 

私は顔を上げた。

 

その問いの意味を理解するのに、一秒くらいかかった。受け流されたのではない。真面目に確認されている。国の代表が、いま、本当に漫画の好みを聞いている。

 

「え」

 

「青年向けか、少年向けか、少女向けか。紙媒体がいいのか、端末がいいのか」

 

私はしばらく答えられなかった。

 

その沈黙のあいだに、世界の中で何かが外れたのを感じた。張りつめていた線が一本、ぷつんと切れた感じ。悪い意味ではない。たぶん、必要だった切れ方だ。

 

城崎は、自分の内心で、ほんの少しだけ、政治家の顔を置きにいった。

 

夫が、昔から大型の書店で少年漫画の最新刊を抱えて帰ってくる人だった。うちの本棚のその列だけが、何年たっても色の感じが違った。帯がついたままのもの、古くなってカバーだけ外したもの、表紙がちょっと曲がったもの。子どもが小さい頃、横で勝手に読んでいた。夫は怒らなかった。「いつか内容が分かる年になるからいい」と言った。その夫はいま、たぶん自宅のテレビの前で、妻がいま発した「どういう系統がいいんですか」という質問に、一人で深くうなずいているはずだ。そう思うと、首相という肩書が一瞬だけ、肩から落ちた気がした。

 

悪くない、と思った。

 

悪くないな、このまま、一問だけ、妻として質問したってことにしておこう。

 

そう決めてから、城崎は、顔を少しだけ、いつもの首相へ戻した。

 

リードがまだ混乱した顔で、しかしどこか怒るのをやめていた。

 

彼の内心では、別の種類の疲労が走っていた。

 

この四十年、政治の現場で、自分は何種類もの脅威モデルと付き合ってきた。冷戦後の核、テロリズム、感染症、サイバー、気候、移民、経済圏の分断、生成AI、そしてこの十日間のアンドロメダ。それぞれに、それぞれの対応マニュアルがあり、想定応答があり、大統領だけが知ってよい選択肢の表があった。

 

そのどれにも、フレンチフライの項目はなかった。

 

マニュアルにない事態と遭遇するたびに、彼はまず一つの基準で判定してきた。「これは、私たちの側が疲労して間違える種類の案件か、相手側が疲労して間違える種類の案件か」。今日、彼はその問いを何度も自分に向けていた。そして、さっきから少しずつ答えが裏返っていた。

 

最初、彼は、「こちらが間違える案件」だと思っていた。

いまは、「こちらが間違える必要のない案件」だと感じ始めていた。

 

それは、疲れた中年の顔でしか、たぶん辿り着けない結論だった。

 

「あなたは、技術でも資源でもなく」

 

「違います」

 

私は慌てて言った。

 

「それは、その、いらない、という意味ではなく」

 

いや違う。いらないで合っている。必要がない。必要がないと言うとまた角が立つ。私は一瞬で言葉を失いかけて、結局、いちばん小さな言い方を選んだ。

 

「少なくとも、私個人は、今はそれを求めていません」

 

「では本当に」

 

リードはそこで文を切った。大統領の顔ではなく、ただの疲れた中年の顔になっていた。

 

「ポテトなのか」

 

私はうなずいた。

 

その瞬間、部屋の空気が、ようやくこちらの高さまで下りてきた感じがした。

 

もちろん、完全にではない。彼らはまだ国を背負っている。私はまだ異星文明の代表として座っている。狙撃の直後だし、世界の外では何億もの人が画面に張り付いている。何もかもが大きいままだ。

 

でも、その大きさの中に、急にものすごく小さい話が入り込んだ。

 

塩気のあるじゃがいもと、漫画。

 

文明の序列を飛び越えるには、たぶんそのくらいでよかったのかもしれない。

 

リードが目を閉じ、開いた。

 

「分かった」

 

その声には、さっきまでと違う種類の疲れがあった。諦めに近いが、嫌な諦めではない。自分たちがいままで想定していた脅威モデル、交渉モデル、宗教モデル、文明モデルの、どれにもぴったり収まらない相手だと受け入れ始めた声だった。

 

「ポテトは用意できる。漫画も、たぶん」

 

「ありがとうございます」

 

私は思わず言って、すぐしまったと思った。ありがとうございます、は距離が近すぎる。高位存在が言う感じじゃない。だがもう遅い。しかも、私は少しだけ頭まで下げかけていた。前世の接客業が出た。

 

あ、と内心で固まる。

 

だが今度は誰もそこを咎めなかった。

 

むしろ城崎が、それを見て少しだけ口元を緩めた。ほんの少しだった。たぶん画面越しでは分からない。分からなくていい。ああいうのは、同じ部屋の人間だけが見ればいい。

 

「交流の第一歩としては、悪くない要求かもしれません」

 

城崎が言う。

 

「少なくとも、ミサイル一覧よりは」

 

「それは本当にそうです」

 

私は反射で答えた。

 

また速すぎた。私は速すぎる。気が抜けると、すぐ元地球人のテンポが出る。何百年も生きたくせに、雑談の返しだけは妙に速いのだ。

 

リードが、その応酬を見て、とうとう短く笑った。

 

笑った、というより、息が笑いの形で漏れた。たぶん本人もそのつもりはなかった。でも、もう止めなかった。

 

「あなたは」

 

彼は言った。

 

「本当に、我々が想定していたものではなかったな」

 

それが誉め言葉なのかどうか、私はすぐには分からなかった。

 

でも、悪い意味だけではないことは分かった。

 

「すみません」

 

と、私はつい言ってしまった。

 

言ってから、またしまったと思う。異星文明の使者が謝るな。しかも何に対してだ。世界を十日間眠れなくさせたことか。ポテトを要求したことか。どちらにしても雑すぎる。

 

しかし今度は、城崎が先に首を振った。

 

「謝罪はあとで整理しましょう」

 

その言い方が、あまりにも官邸で、私は少しだけ救われた。世界がどれだけ変わっても、人間は最後にそういう言い方をする。あとで整理しましょう。いま結論を出すには大きすぎるので、いったん置きましょう。でも置いたことは忘れませんよ、という言い方。私はそういう言葉に慣れている。慣れているから、安心する。

 

そのあと、会談は本当に少し変わった。

 

問いが難しくなくなったわけではない。むしろ難しいままだった。社会の分断。ケアの配分。身体改造と階層。死と記憶の扱い。救えない人を救えないまま近くに置く倫理。重い問いが続いた。

 

でも、空気だけが変わった。

 

相手は、神でも悪魔でも、純粋な上位存在でもない。少なくとも一部には、地球の塩気と紙の漫画を欲しがる、変な生活者がいる。

 

その確信が入るだけで、人間は少し強くなれるらしい。

 

私はそのことを、たぶん初めて知った。

 

 

会談が一段落したあと、予定にない短い休止が入った。

 

対策室の広報チームは、この三十分ほどのあいだに、用意していた想定コメントを三枚とも書き直した。A案の見出しは「喪失を語る異星の来訪者」から、「ポテトと漫画を求めた異星の来訪者」へ差し替えられ、しかしすぐに、「差し替えすぎでは」という意見が出て、結局は折衷の「対話のなかの、小さな要求」という、奇妙に抑えた見出しに落ち着いた。B案は同盟国向けに「対話は継続可能と判断」、C案は市場向けに「脅威度は局所的、むしろ下方修正」。ニューヨーク、ロンドン、東京、それぞれの市場は、数字の上では小さく反応したあと、緩やかな戻しに入った。プレマーケットの板が一度だけ薄くなり、それからまた元の厚みに戻っていく。その厚みは、ほんの少しだけ、昨日より重かった。

 

同じ時間、南芝生の封鎖線の外側では、警察と報道と、群衆の位置関係が少しだけ変わっていた。怒号はまだある。泣き声もある。でも、その合間に、「え、ポテトって言ったの、あの子」という、妙に素朴な会話が、いくつかのグループのあいだで、同時多発的に起きていた。その会話には、怖さとおかしさと、少しの疲れと、そして「もう今夜は早めに寝てもいいのかもしれない」という遠い予感が、混ざっていた。

 

対策室の奥で、若い書記官が、専用線に向かって静かに告げた。

 

「各国への差分説明、フェーズを一つ下げます」

 

先輩が、短くうなずいた。

 

「下げ方、強めでいこう。上げ直すのはいつでもできる」

 

 

その間に、本当にポテトが運ばれてきた。

 

私は見た瞬間に、あ、と内心で声が出た。紙箱。黄色と赤。塩の匂い。油の熱。完璧ではない。前世の地球の個体差や店舗差まで再現されているわけではない。でも十分だった。十分すぎた。

 

ここで飛びついたら全部壊れる。

 

私は必死で速度を落とし、一本だけつまんだ。補助系が指先の微振動を殺してくれる。助かった。もし安定設定をいまより二段低くしていたら、私はたぶん、一本目を床へ落としていた。

 

それを口に入れた瞬間、私は危うく泣きそうになった。

 

塩と油で泣くな。異星文明の代表が。

 

でも、仕方がなかった。これはジャンクフードの味であると同時に、地球で一度終わった生活の味でもあった。終電。疲れた足。コンビニの明かり。スマホの低電力モード。深夜一時の新宿西口、赤いロゴの前で列の最後尾に並んだ記憶。書店のラノベコーナーで、帯のキャッチコピーを真剣に読んでから棚に戻した夜。職場の同期が転職したときの送別会の帰り、「一本ずつしか食べられない性格、直したほうがいいよ」と笑われたポテト。そういう取るに足らないもの全部が、急に喉へ戻ってきた。

 

あの全部は、当時の私にとって、大事な瞬間では、なかった。

 

たぶんそれだ。

 

大事ではなかったのに、こうして、ちゃんと残っている。大事な式典よりも、あの深夜の新宿の冷えた空気のほうが、先に甦る。人生の本体はあっちにあった、という話ではない。そうじゃない。ただ、大事ではないと思いながら通り過ぎたもののほうが、後ろから、自分の背中を支えていた、という話だ。

 

私は噛んだ。飲み込んだ。なんとか平静を守った。守れていたと信じたい。

 

「……どうですか」

 

城崎が、半分だけ真面目に訊いた。

 

「高いです」

 

私は言った。

 

「何が」

 

リードが聞く。

 

「再現度が」

 

また場が静かになった。けれど今度の静けさは、さっきまでとは違う。理解不能だから止まるのではなく、理解の角度が増えすぎて、一瞬みんなで迷う静けさ。

 

城崎の口元が、今度は分かるくらいに少しだけ動いた。

 

「あなた、本当に」

 

彼女はそこで文を切った。

 

「……ただの観察者ではないですね」

 

私はその文に、答えなかった。

 

答えられなかった、の方が近い。前世をここで全部明かせば、たぶん話は別の方向へ飛ぶ。宗教も政治も、余計に大きくなる。だから言わない。言わない方がいい。まだ。

 

ただ、否定もしなかった。

 

それで十分だったのかもしれない。

 

休止が終わるころには、外の群衆のざわめきも少し変わっていた。画面の向こうで何がどこまで中継され、どこまで切り取られ、どこまで誤解されているのかは分からない。分からないが、ひとつだけ確かなことがある。

 

世界は、ほんの少しだけ、私を「文明」ではなく「人」として見る準備を始めていた。

 

その代わり、私の方も、地球を「観察対象」だけでは見ていられなくなっていた。

 

帰るだけでは終わらない。

 

たぶん、ここからが本当の意味での交流なのだろう。

 

それは、とても面倒で、とても怖くて、でも少し楽しみでもあった。

 

 

私は二本目のポテトへ手を伸ばしそうになって、そこで補助系の安定設定が少しだけ高すぎることに気づいた。綺麗に伸びすぎる。人間らしい迷いが消える。

 

ほんの一段だけ、下げる。

 

すると指先が少しだけ箱の縁に触れて、小さく音がした。

 

あ、と思う。

 

だが、今度はそれでよかった。

 

リードがその音を聞いて、こちらを見た。城崎も見た。私も見られたまま、少しだけ肩をすくめた。元地球人の、言い訳する前の癖だ。

 

その瞬間、たしかに誰かが笑った。

 

誰が最初だったのかは分からない。たぶん一人ではなかった。部屋の中のいくつかの緊張が、ようやく別の形へ崩れたのだと思う。

 

対策室の別室でも、同じ笑いの波が、半拍遅れで届いていた。表情解析班の画面の中で、少女の口角の数値がほんの〇・〇二だけ上がった。ブースの通訳が、「……笑った、でいいですよね」と小声で確認した。速記者が、「笑、と書いておきます」と短く応じた。広報チームは、A案のヘッドラインの下に、小さな補足の行をひとつ書き足した。「会談の終盤、ごく短い笑いが観測された」。

 

同じ笑いは、そのあとすぐに、世界の方々へ散った。

 

東京深夜のラーメン屋のテレビから。大阪の居酒屋のテレビから。ニューヨークのバーのテレビから。ロンドンのパブのテレビから。ソウルのスタディカフェのイヤホンの片耳から。パリの老夫婦のラジオから。ムンバイの夜勤フロアの隅のモニタから。サンパウロのコールセンターのスピーカーから。ラゴスの教会の外のスマホから。ケープタウンの港の無線の雑音の向こうから。

 

全部、同じ笑いではなかった。

でも、全部、「あ、笑っていいのかもしれない」という形の、同じ小さな許可を共有していた。

 

たぶん、それで充分だった。

 

迷子かもしれない。

 

ポンコツかもしれない。

 

でも、だからこそ、ようやく対等に笑える。

 

人類が最初に異星知性と共有したものが、崇高な理念でも、圧倒的な技術でも、統一宣言でもなく、塩のきいたじゃがいもと、ちょっとした間の悪さだったというのは、たぶん悪くない結末だった。

 

少なくとも、私はそう思った。

 

そしてその「私は」が、文明でも共同圏でもなく、ただの一個人としてここにいられることを、そのとき初めて少しだけ嬉しいと思った。

 

頭の隅で、共同統治層の評価書がどう書かれるかは、もう、そこまで怖くなかった。

 

硬く書かれてもいい。

「各自責任」の各自のところに、今日の私は、たぶんちゃんといた。

 

外の南芝生では、封鎖線の外の誰かが、似顔絵のプラカードを高く掲げ直したらしかった。少し雑な線の、少年漫画寄りの銀髪の少女。その横に、ごく最近、太いマーカーで書き足された一行があったという。

 

「ポテト、うまい?」

 

私はそれを、あとで映像でだけ見ることになる。

 

見たら、たぶん、また少し泣く。

 

そのときは、補助系の設定を、もう一段だけ、下げておこうと思う。






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