10日間の問い   作:三日月ノア

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ツッコミ箇所があるかと思われます


最終話 歩幅は観光客のように

 

 

最初に止まったのは、通訳でも警護でもなく、時間だった。

 

私が言った。

 

「交流の第一歩として、マックのポテトと、最新の漫画の単行本をもらえませんか」

 

言ってしまってから、私は自分の顔がまだ動いていないことを確認した。よかった。外から見れば、たぶんまだ平坦なままだ。中身は違う。中身は、言った。言ってしまった。最悪だ。よりによってその場で言うことか。会談の終盤、国家と文明とケアと死を話し合ったあとに、ポテトと漫画。小学生の買い物メモである。

 

沈黙は、いつものようにこちらに有利ではなかった。

 

長かったからだ。

 

短い沈黙は威厳になる。長い沈黙は事故になる。

 

これは、共同圏の儀礼教育でも最初期に教わる初歩の初歩だった。それを、私はさっき自分で踏み抜いた。

 

リードが瞬きを一回した。

 

大統領の瞬きは、報道写真なら絶対に拾われるやつだ。幸いこの部屋に報道はいない。いないが、記録はある。いずれ外へ出る。出た時、この瞬きは「思索」にも「困惑」にも「動揺」にも「優しさ」にもなれる。解釈の器が大きすぎる。

 

城崎は、表情の筋肉を一切動かさないまま、机の上の紙へ視線を落とし、すぐ戻した。周囲の補佐官たちは、たぶん全員、いま何をどう解釈すれば国家として正しいのかを考えていた。

 

ポテトが比喩かどうか。

 

漫画が暗号かどうか。

 

あるいは、こちらの文化理解を測る試験かどうか。

 

違う。

 

ただの欲望だ。

 

しかもかなり小さい。

 

だが、人類の側から見れば、いま私は「小さい欲望」を持っているだけの存在には見えない。そこが問題だった。前世の私は、人に何かを頼むとき、相手の負担を必要以上に想像して言い出せなくなるタイプだった。同僚にペンを借りるのでも、三分くらい前置きを考える。数百年生きても、それは消えなかった。消えないどころか、頼み事の規模だけが銀河間になり、余計に言い出しにくくなった。

 

それなのに、言ってしまった。

 

言ってしまったのは、きっと疲れていたからだ。

 

リミッターの安定設定を高めたまま、無表情を維持し、抽象的な言葉を間違えないよう選び続け、しかも撃たれた。撃たれたこと自体は、技術的には問題なかった。セーフモードが正常に作動しただけだ。だが、心にはわりとくる。くるものはくる。撃たれた直後の人間は、たとえそれが防御済みの銃弾だったとしても、食欲と寝欲と懐かしさが急に顔を出す。これは前世でも似たような話があった気がする。災害の夜にカップ麺の味がやけに鮮明だった、みたいな、あれ。

 

だから私は、その場で、いちばん小さい本音を落としてしまった。

 

城崎が、最初に口を開いた。

 

「……それは、地球側の文化接触の一環として、理解してよろしいですか」

 

さすがだった。

 

国家の言葉へ変換してくれた。

 

この人は、数時間の間に私の発した言葉を一度もそのままでは受け取らなかった。毎回、ちゃんと国家の書類へ置き直してから返してきた。それは冷たさではなく、むしろ職業人としての尊重だと、私はようやく気づき始めていた。

 

「はい」

 

私は答えた。

 

「できれば、そのように」

 

できれば、ではない。ぜひお願いします、である。だが、そこまで言うと急に卑しい感じがするので、やめた。意味が分からない。いまさら威厳の残量など気にする段階ではない。

 

リードが、口元だけ少し動かした。

 

「確認したい」

 

「どうぞ」

 

「フライドポテトは、あの細い、塩のきいたやつでいいのか」

 

私は一瞬、完全に反応が遅れた。

 

質問の水準が急に地面まで下りたせいだ。

 

ついさっきまで「人類は身体をどう扱ってきたか」を話していたのだ。それがいま、ポテトの太さの確認である。文明間交流の議事録係は、ここをどう書くのだろう。

 

「……はい」

 

はい、ではない。ものすごくはい、である。

 

だが、大統領に向かって「ものすごくはい」と言うと、それはそれで別の種類の事故になる気がした。

 

「漫画は」

 

城崎が言う。

 

「紙の本がよろしいですか。電子でも、すぐ手配できますが」

 

「紙の方が」

 

そこはすぐ出た。

 

紙の方がいい。匂いがあるからだ。ページの重さがあるからだ。地球の本は、読む前から少しだけ持ち主の生活の匂いがする。倉庫の紙の匂い。印刷のインク。少しだけ湿気た夕方の気配。電子は便利だ。便利で正確で早い。けれど、便利すぎるものは、私にとっては「地球らしさ」ではなかった。

 

部屋の空気が、わずかに変わった。

 

完全に緩んだわけではない。だが、それまでこの部屋を支配していた「問答の重さ」だけが、半歩ぶん後ろへ下がった。

 

リードが椅子へ浅く座り直す。

 

「観光は」

 

その一語で、全員の視線が彼へ向いた。

 

「観光、ですか」

 

補佐官の一人が聞き返した。

 

信じられない、という顔をしている。この人の仕事上、信じられないことをそのまま信じられない顔で言える立場ではないのだが、それでもつい出たのだろう。

 

「里帰りみたいなものだと言った」

 

リードは私から目を離さないまま言った。

 

「なら、会談だけで終えるのは片手落ちだ。危険評価は別として、君は地球を見に来たんだろう」

 

君、という呼び方に、私は不思議と腹が立たなかった。

 

むしろ少しだけ楽だった。高位存在でも大使閣下でも客体でもなく、君。雑だ。雑で、地面がある。

 

雑なものには、地面がある。

 

これは前世でも本当だった。完璧に整った上司より、ちょっと雑なバイト先の店長のほうが、何か相談したくなったりする。人間の信用は、磨かれすぎたものには向かず、少し欠けた面のほうへ集まる癖がある。

 

城崎が数秒考えてから、頷いた。

 

「規模と導線を絞れば可能です」

 

「観光名所を並べるな」

 

リードが言う。

 

「最初に見るべきなのは、たぶん看板になる場所じゃない」

 

私は、そのとき初めて、彼を少し好きになった。

 

この人はたぶん、政治家であると同時に、いくつかの場所で自分の靴の裏が汚れた経験を持っている。泥のつく場所を知っている人は、泥のつかない場所を案内したがらない。

 

 

観光計画という言葉を使うと、たいてい話が安っぽくなる。

 

だが、その日の連邦首都では、本当にそう呼ぶしかなかった。

 

もちろん、観光客は私一人だった。

 

観光バスもなかった。旗を持った案内人も、お揃いの帽子も、売店で買う磁石もなかった。その代わり、封鎖された道路、迂回させられる報道陣、焦った顔の警護担当、そして“文化接触の非公式延長”という、ひどく役所的な名目があった。

 

役所はどの文明でも役所だ。

 

共同圏にも、似た書類はある。「計画外の対人行動」を処理する書式があり、申請番号があり、担当者の初期印がある。違うのは、共同圏ではその用紙の色が薄紫で、地球では白か薄水色だ、くらいのものだと思う。

 

午後の会談が終わってから、ホワイトハウスの別室で小規模な調整会議が開かれた。私はそこへ呼ばれなかった。よかった。呼ばれていたら、たぶんまた余計なことを言っていた。

 

代わりに私は、静かな控室で紙コップの水を持ったまま、世界中の反応を見ていた。

 

速報の見出しはすでに割れている。

 

《宇宙来訪者、初会談後に地球の大衆文化接触を要求》

 

《要求はフライドポテトと漫画》

 

《高度文明はなぜジャンクフードを求めるのか》

 

《これは服従試験か、それとも宥和のシグナルか》

 

《“アンドロ”、予想外の文化要求》

 

《米政権、“観光”を検討と複数筋》

 

《日本政府、漫画の選定に緊急協議》

 

地球の報道は、早い。

 

早いし、どの文明でもたぶんそうだ。分からないものは、とりあえず既存の箱へ入れる。外交。軍事。市場。宗教。エンタメ。全部少しずつ違うのに、全部少しずつ正しい。

 

私は頭を抱えたくなった。

 

抱えたくなったが、設定が高いままなので実際には抱えなかった。腕を上げる速度が滑らかすぎて、いまの私は混乱しても美しく見えてしまう。それが嫌だった。

 

リミッターというか、正確には身体補助の安定設定は、共同圏ではかなり日常的な機能だ。歩行の補正。視線のぶれの抑制。反射の遅れの補完。転倒予防。疲労の平滑化。会話中のノイズ抑制。そういう“余計な失敗”を減らすための補助が、生活の基盤に組み込まれている。

 

高くすれば、ほとんど転ばない。

 

声も震えにくい。

 

疲れていても所作は崩れない。

 

人前へ出るときには便利だ。

 

その代わり、体験が少し遠くなる。

 

床のわずかな傾き。石畳の継ぎ目。塩のききすぎたポテトの刺激。風が頬を撫でるときの細かいむら。そういうものが、なだらかになりすぎる。

 

私は控室で、一段だけ設定を下げた。

 

すぐ分かった。

 

椅子の脚が床に乗る音が、少しだけ尖った。衣服の内側で、空調の風が片側だけ冷たい。足先の重みが増える。紙コップを持つ指の圧が、わずかに不均等になる。

 

いい。

 

少し怖いが、いい。

 

私はたぶん、地球に来てから、ようやく「見せる」以外の理由で自分の身体を触っている。

 

前世の私は、不器用だった。

 

駅の階段で躓く。買ったばかりのスマホを落とす。コンビニのホットコーヒーの蓋を閉め損ねる。晴れの日に限って傘を持って出るし、雨の日に限って忘れる。LINEの既読を押してから返信の文面を考えて、そのまま三時間放置したりする。再配達の不在票を冷蔵庫に貼ったまま、再配達を頼み忘れる。

 

いまの文明では、その大半は防げる。

 

防げるから、私は何百年もほとんど失敗しないまま生きられた。生きられたのだが、そのぶん、失敗する時の顔つきだけは昔のまま保存されてしまった気がする。

 

数百年生きたら、もっと堂々とするものだと思われるかもしれない。

 

違う。

 

長く生きるだけでは、人は大きくならない。むしろ安全な文明では、小さい癖が長持ちする。誰にも直されないまま、何百年も延命される。

 

失敗する機会は、文明の副作用を免れた贅沢だ。

 

そういう言葉が、ふと頭の中で浮かんで、私はそれをすぐに誰にも言わないことに決めた。言うとまた深読みされる。深読みされるたびに、私は小さくなる。

 

私の小市民性は、数百年の副作用のひとつだった。

 

 

夕方、観光計画は通った。

 

通った、という言い方も少し違う。正確には、いくつもの案が全部却下され、最後に残った最小公倍数がそれだった。

 

公開はしない。

 

移動距離は短くする。

 

人混みは避ける。

 

ただし、あまりに隔離された場所だけを見せるのも意味がない。

 

“地球の空気”が分かる必要がある。

 

結果として、予定は妙なものになった。

 

ホワイトハウスを出発し、封鎖された一帯を短く移動する。最初に通るのは、大きすぎる名所ではなく、働いている都市の気配が残る場所。そこで一般店舗から調達したポテトを受け取る。その後、事前に手配された書店関係者と日本側の担当が合流し、漫画の単行本を渡す。余裕があれば、ひとつだけ、地球の歴史が凝縮された展示へ立ち寄る。

 

「展示?」

 

私は聞き返した。

 

「航空宇宙博物館です」

 

城崎側の文化担当が答えた。ひどく真面目な顔だ。名札には「文化庁・国際文化交流室」と書かれていた。こういう時、名札の部署名が急に具体的になるのが、役所というものだ。

 

「あなたがそれをどう受け取るかは分かりませんが、地球にとって空を飛ぶことと宇宙へ行くことは、まだ象徴であり続けています」

 

私は、その説明を聞いて、少しだけ黙った。

 

いい選択だと思った。

 

上位文明から見れば、そこに並んでいるのは幼い技術かもしれない。だが、そんなのは見れば分かる。分かりきった優劣は、たいした情報にならない。私が見たいのは、地球がどんな手つきで空へ触ろうとしたのか、その不格好な痕跡の方だった。

 

「行きたいです」

 

私は言った。

 

担当者がほんの少しだけ肩の力を抜いた。

 

たぶん、もっと厄介な希望を出されると身構えていたのだろう。地球人の尺度でいえば、私は十分すぎるほど厄介だが、その厄介さの方向だけが読みにくい。そこが彼らを疲れさせるのは、よく分かった。

 

だから私は、その場で新しい要求を飲み込んだ。

 

本当は、もっと小さいものも見たかった。ドラッグストア。コンビニ。駅前の立ち食い。夜の自販機。そういうもの。銀行のATMにも寄ってみたかった。札が出てくる瞬間の、あの軽い機械音が好きだった。前世の私は給料日の夕方に意味もなくATMへ行って、残高を確認してから、また同じ額を引き出したりしていた。

 

けれど、一度に出すと絶対に事故る。

 

この文明間交流において、私が最も守るべきルールのひとつはそれだった。

 

**思いついたことを全部言わない。**

 

地球人だった頃から守れなかったルールだが、いまさらでも守る努力はするべきだ。

 

 

別室の議事進行の紙には、妙な項目が並んでいたはずだ、と、あとから職員の知人経由で知ることになる。

 

「紙袋のサイズ議論(三十分)」。

 

嘘のような話だが、本当だった。

 

持ち手の強度。底のマチ。防水性。写真映えと実用性のバランス。紙袋に大統領府の印を入れるべきか否か。入れれば記念になる。入れれば政治になる。入れなくても政治になる。入れなければ失礼かもしれない。

 

人類史的事件と、手提げ袋の取っ手の強度が、同じ会議の中で決まる。

 

これが地球だった。

 

私はこの種の会議に前世で何度も参加した。イベント景品の袋のサイズを、上司と一時間もめたことがある。内容はほぼ同じだった。格は上がったが、構造は変わらない。

 

結論として、紙袋は無地の白、印なし、持ち手は強化ナイロン、底マチ十センチ。記録にも写真にも残るが、主張しない。

 

決めた職員たちは、たぶんこの決定を一生覚える。

 

私もたぶん、一生覚える。

 

 

出発は翌朝になった。

 

厳密には、もう日付はまたいでいた。南芝生での最初の会話から一夜明け、世界はまだその余熱の中にいた。報道は徹夜の顔をしている。市場は答えを出しかけては引っ込める。宗教家は慎重な言葉を探している。ネットはもう新しいミームを作り始めている。

 

夜の間、世界中で色々なことが起きていた。

 

短文SNSの大手では「ポテトの定義」で派閥ができた。太いやつ派と細いやつ派。皮つき派と皮なし派。ケチャップ派と塩だけ派。そこに「マヨ派」が少数精鋭で食い込み、さらに「酢と塩派」という奇妙な第四勢力が英国系タイムラインから忽然と現れて定着した。

 

動画プラットフォームでは「宇宙人に渡したい漫画トップ100」という企画が一晩で乱立した。どれも意図と趣味と愛憎が入り乱れていた。古典、新作、打ち切り名作、復刊物、サブカル系、四コマ、学習漫画、そして「これを渡したら地球は終わる」というリストまで生まれた。

 

ショート動画アプリでは、白翼の少女の切り抜きにポテトを合成する遊びが爆発した。三秒で笑える。三秒で消費される。三秒で次のミームへ流れる。世界はこういう形で、巨大な出来事を飲み込む。

 

匿名掲示板では、静かな考察スレが回っていた。「高度文明がジャンクフードを求める理由」という題で、脳報酬系、文化記号、塩分摂取と気圧変動、共同圏の倫理など、半分真面目で半分冗談の議論が延々と流れていた。中の一人は、「単純にうまいからだろ」と書いて、誰にも反論されなかった。

 

福音派系のチャンネルでは「これは堕落のしるしか」という特集が組まれ、逆に別のチャンネルでは「あの子に母性を感じる」という牧師のコメントが広がっていた。

 

中東では、ある国営放送が短く慎重に伝え、別の衛星局が長めに論評した。論評の中に、「彼女の選択は、私たちが毎日子どもにしている選択に似ている。大きいことではなく、小さい好物で、心を確かめる」という一文があった。私はこの一文を、のちに何度か読み直すことになる。

 

中国では、公式メディアはポテトと漫画のくだりを最小限に触れ、国内SNSでは切り抜き動画が深夜の間だけ回っていた。真面目な書き込みほどすぐ消え、ゆるい書き込みほど残った。これはどの文明でも似た傾向だった。

 

インドでは、書店街のおじさんが「うちの店の漫画なら、もっといい選定ができた」とテレビで半笑いで言った。南米の深夜ラジオでは、子どもと一緒にポテトを食べる母親の声が紹介された。アフリカのある街では、停電の合間にバーのテレビで「アンドロ」の映像が流れ、常連が「かわいい子じゃないか」と短く言って酒を飲んだ。

 

世界は怖がっていた。

 

同時に、世界は笑っていた。

 

怖がることと笑うことは、存外、同じ時間の中にあった。

 

 

その一方で、ホワイトハウスの裏手では、私のための紙袋のサイズが議論されていた、と昨夜書いた。書き終わってすぐ、私はもう一度修正したくなった。これは皮肉ではない。

 

歴史は、だいたいそういうものだ。

 

人類史的事件と、手提げ袋の取っ手の強度が、同じ会議の中で決まる。

 

大文字の歴史が、小文字の実務で支えられている。

 

これは地球でも共同圏でも同じだった。共同圏の「儀礼担当者」たちも、式典の直前にはたぶん、礼装の折り目や接続の帯の角度でもめている。宇宙の歴史もきっと、誰かの指先の熱と、安いコーヒーと、眠そうな目で決まる。

 

私は移動用の車両に乗り込む前、安定設定をもう一段だけ下げた。

 

護衛の一人が私の微妙な動きを見て、すぐに目を細める。たぶん、異常ではないが変化はあった、と判断した。

 

「問題はありません」

 

私は先に言った。

 

問題はあった。少しだけ足元が生っぽい。舗装の継ぎ目が近い。車体の振動が柔らかくない。だが、それを問題と呼ぶのは贅沢だ。私は何百年も、失敗しにくい身体の中で安全に生きてきた。その結果、すこし不便なだけで、世界に触っている感じが増す。

 

車列は静かに動いた。

 

窓の外に、連邦首都の朝が流れていく。

 

封鎖されている区画もあるが、完全に止まってはいない。配送車がいる。新聞を束ねる人がいる。犬の散歩をしている人が、遠くの警備線を見て足を止める。信号が変わる。ゴミ収集車が角を曲がる。カフェの店員が看板を出す。地下鉄の駅からは、朝の通勤客が変わらず吐き出されていた。

 

私は、それを見て、変にほっとした。

 

世界は終わりかけの空気をまといながら、それでもゴミを回収し、犬を散歩させ、新聞を束ねる。

 

たぶん文明は、そういう鈍さで保たれている。

 

大きいものだけで出来ている世界は、もろい。

 

小さい予定が毎日ある世界の方が、たぶんしぶとい。

 

その意味では、私はいま本当に観光をしていた。

 

地球の偉大さではなく、地球のだるさを見ていた。

 

それが見たかったのかもしれないと、途中で気づいた。

 

前世、休日にあてもなく電車に乗って、知らない駅で降りて、特に見るものもないから自販機で缶コーヒーだけ買って、また電車に乗って帰る、ということがあった。あのときの自分は、別に観光していたつもりはなかった。けれど振り返ってみると、あれがたぶん、私にとって一番観光っぽい時間だった。

 

観光とは、名所を訪ねることではなく、何も起きていない時間に立ち会うことかもしれない。

 

歩幅は観光客のように。

 

急がず、張り切りすぎず、けれど興味だけは落とさず。

 

それが、この数日の中で私にできた唯一の誠実さかもしれなかった。

 

 

最初の停車地点は、妙に普通の街角だった。

 

もちろん普通ではない。周囲には私服の護衛がいて、建物の屋上には見えない形で人が張りついている。通りは半分封じられ、近隣店舗は営業しているふりをしながら事実上巻き込まれている。半ブロック先のコインランドリーは通常営業で、中ではおじさんが洗濯物を畳んでいた。たぶんこの人だけは、この朝のうちで一番地球の時間を過ごしている。

 

それでも、見た目だけは普通だった。

 

ガラス越しに、朝の光がフライヤーの金属へ反射している。カウンターの上に紙ナプキン。コーヒー機械の音。塩と油の匂い。私はその匂いを嗅いだ瞬間、危うく全部の威厳を失いかけた。

 

これは駄目だ。

 

地球の揚げ物の匂いは、私にとってほぼ暴力である。

 

前世の私は、特別マクドナルドが好きだったわけではない。むしろ年齢を重ねるにつれて、行く頻度は減っていた。胃にもたれるし、罪悪感もあるし、健康の話を知ってしまうと素直に喜べなくなる。そういう、社会人らしい薄汚れた節度を身につけていた。

 

それでも、フライドポテトだけは別だった。

 

買ってすぐの熱い紙袋。塩。指先につく油。一本だけ先に食べるつもりで三本いくやつ。あれは地球の中でもかなり完成度の高い愚かさだ。

 

愚かさは、ときどき、人間の救いだ。

 

賢さだけで人間を設計すると、たぶんどこかで壊れる。共同圏はそれを何度かやってしまって、そのあと少し反省して、今の形になったらしい。私はその歴史を、転生後の語学教材の隅で読んだ。

 

車を降りると、足裏が舗装のざらつきを拾った。

 

高い設定のままだったら、ただの平面にしか感じなかっただろう。いまは違う。少しだけ傾きがある。わずかな砂粒が靴底に当たる。風が建物の角で切れている。歩道の端に、誰かが捨てたレシートが落ちていて、風で端だけ揺れていた。

 

いい。

 

緊張はする。だが、いい。

 

私は紙袋を受け取った。

 

世界史的な瞬間としては、かなりどうかしていた。

 

初接触の来訪者が、連邦首都の厳戒態勢の中で、ただのポテトを受け取っている。しかも私はその瞬間、たぶん本編のどの場面より集中していた。

 

「熱いです」

 

店員役を引き受けた職員が言った。

 

制服は店のもので、顔は少しこわばっている。たぶん、朝の打ち合わせで「普通に渡してください」と念押しされた結果、普通に渡すことだけに全力を使っている人の顔だった。

 

「それが大事です」

 

外からどう聞こえたかは分からない。少なくとも私は、本音で答えた。

 

一本取る。

 

塩が強い。油が強い。じゃがいもの甘みは弱い。全部が乱暴で、すごく地球だった。

 

泣きそうになった。

 

泣くほどか、と自分でも思う。思うが、仕方ない。死んで、別の銀河で数百年生きて、文明間交流の代表みたいな顔をして、それで最初に戻ってきた実感がポテトなのだ。私の人生は、たぶん根本的にスケール感がおかしい。

 

リードが少し離れた場所からこっちを見ていた。

 

「どうだ」

 

大統領が聞くことではない。

 

だが、たぶん本人も分かっていて聞いている。

 

「……かなり、地球です」

 

私はそれしか言えなかった。

 

彼はそれを聞いて、小さく笑った。深い意味を取ろうとしなかった。そこがよかった。

 

周囲の護衛のうちの一人が、ほんのわずかに、肩の角度をゆるめた。たぶん射撃姿勢の待機度をひとつ下げた。銃身はそのままでも、筋肉は少しずつ生活へ戻る。そういう微細なことの方が、会談の合意文書より、よほど貴重な記録かもしれない。

 

私は紙袋から、もう一本取った。

 

今度はちゃんと、ゆっくり噛んだ。

 

塩と油とじゃがいもの、乱暴で愛すべき三角形が、数百年ぶりに舌の上で組み直された。

 

 

漫画は、日本側から渡された。

 

城崎本人は来ていなかったが、代わりに文化担当と、日本語の分かる書店関係者と、やけに丁寧な手つきで紙袋を扱う外交官がいた。中身は最新刊が数冊。少年向け、青年向け、生活エッセイ風のもの、そしてなぜか、昔からずっと続いている長編の新刊。

 

「選定の意図は」

 

私は聞いた。

 

外交官が一瞬だけ困った。

 

「日本側で少し協議しました」

 

「つまり、かなり揉めたんですね」

 

「……はい」

 

私は、その答えに少しだけ嬉しくなった。

 

揉めるのはいいことだ。人が本気で選んだ証拠だからだ。無難な正解だけが並ぶより、誰かの趣味と責任が混ざっている方が、贈り物として信用できる。

 

「差し支えなければ」

 

私は聞いた。

 

「どういう意見が出たか、少しだけ」

 

外交官は、上司の方を一瞬見た。上司は黙って頷いた。この国の「頷いてもいい」のラインは、たぶん過去三日間でかなり前進していた。

 

「代表作を外した方がいいという意見と、代表作を入れないのは不誠実という意見が、まず割れました」

 

「はい」

 

「次に、主人公が死ぬ話は避けた方がいいという意見が出て、それに対して、主人公が死なない話の方が少ない、という反論がありました」

 

「それは、正しい反論ですね」

 

「同じくらいの時間、暴力表現の扱いでもめました。戦闘描写のある作品と、日常系と、スポーツものの比率を調整することになって、最後は、文化庁、外務省、書店協会、出版協会、それから、書店員有志の推薦をそれぞれ一冊ずつ入れる形でまとまりました」

 

私はその説明を聞きながら、紙の表紙を指で撫でた。

 

つるつるしている。インクの匂いがする。新刊の匂いだ。前世の私は、新刊を買った日にすぐカバーを外して、背表紙の接着を確認する癖があった。いまもほとんど同じことをしかけて、途中でやめた。ここでそれをすると、また意味深な儀礼に見えるかもしれない。

 

書店員有志の推薦、という一語が、私の中で妙に残った。

 

たぶんこの一冊の後ろには、名前も立場も知らない誰かの、閉店後の休憩室での言い合いがある。「これは絶対入れるべきだ」「でも海外でどう読まれるか」「読まれ方まで責任は持てないよ」「じゃあ責任は誰が持つんだ」。そういうやり取りの疲れたあとに、一冊が選ばれた。

 

「ありがとうございます」

 

私は言った。

 

「これは、かなり嬉しいです」

 

文化担当が少しだけ目を見開いた。

 

たぶん、これまでで一番人間っぽい喜びが声に乗ったのだと思う。

 

私は本を抱えたまま、ふと気づいた。

 

この数日、世界中が私の言葉を深読みしてきた。戦略。宗教。倫理。非対称性。身体。文明。全部そうだ。

 

なのに、いま私をいちばん落ち着かせているのは、揚げたじゃがいもと紙の本だ。

 

それを口にすると、たぶんまた余計な解釈がつく。

 

だから言わない。

 

言わないが、たぶんもう少し時間が経てば、これは言ってもいい話になる気がした。

 

 

最後に、航空宇宙博物館へ寄った。

 

厳密には開館前の調整で、通常の導線ではなかった。職員たちは明らかに困っていたし、警備は過剰だったし、私一人のために空気が歪んでいた。だから観光として理想的とは言えない。

 

それでも、中に入った瞬間、私は黙った。

 

古い飛行機の骨格。

 

初期の機体。速度と重量の兼ね合いに苦労した痕跡。ロケット。モジュール。焼け跡みたいな断熱材。無骨な計器。人間がまだ空に対して謙虚だった頃の、むき出しの道具。

 

共同圏の技術から見れば、全部古い。

 

古いし、遅いし、危うい。冗長性も足りない。効率も悪い。素材選択も設計思想も、いまの尺度では不器用だ。管理者三体のうち、分析担当の青に近い透明の個体がもしここにいたら、三秒で評価書を出すだろう。「記録としては貴重、工学としては初級、文明史としては重要」。そんな感じの、冷たいがまっすぐな三行が。

 

でも、だからよかった。

 

私は展示の前で足を止めた。

 

飛ぶ前の、飛びたい気持ちが残っている。

 

月へ行く前の、まだ遠いという実感が残っている。

 

人間が「そこへ行きたい」と思って、まだその途中にいた頃の手つきが、全部ここに残っていた。

 

私はその前で、しばらく何も言えなかった。

 

前世の地球人としては、その時代をリアルタイムで生きてはいない。だが、それでも分かる。これは地球の自慢ではなく、地球の無茶だ。無茶で、不恰好で、危ういくせに、行く。行くために作る。やってみる。

 

その感じを、私はずっと好きだったのかもしれない。

 

上位文明に転生してから長く生きて、何でもできる社会に慣れたあとで、逆に私は、できなかった頃の必死さを少し羨ましく思うようになっていた。

 

できる文明は、できないことを忘れていく。

 

忘れたあとで、できなかった頃のことを、美術館のような場所で懐かしむようになる。共同圏の歴史庭園を思い出した。あそこにも、初期の宇宙船が並んでいる。何人もの誰かが帰ってこなかった機体が、丁寧に磨かれて、朝の光の中で静かに展示されている。

 

遠くから見たら、たぶん同じ景色だ。

 

技術のレベルは違う。けれど「行きたかった」の手つきは、同じだった。

 

隣で、リードが低い声で言う。

 

「笑うかと思った」

 

「少しは」

 

私は答えた。

 

「技術的には。ですが、これは技術の展示だけじゃないです」

 

彼は黙って待った。

 

「飛べなかったものが、飛ぼうとした記録です」

 

言ってから、私は少しだけ嫌な予感がした。これ、また深いことを言ったみたいに聞こえるやつだ。

 

違う。本当にそのままの意味だった。飛べなかったものが飛ぼうとする。その感じが、たぶん私は好きなのだ。

 

リードはしかし、変に神妙な顔をしなかった。

 

「それなら、うちの国向きだ」

 

私は思わず少しだけ笑った。

 

ほんの少しだけ。外から見て分かるか分からないかの程度だ。

 

安定設定を一段下げていたから、その笑いは滑らかすぎなかった。

 

口元が、少しだけ変な形になった気がした。

 

人前でちゃんと笑えない感じまで、地球人だった頃に近い。

 

たぶんそれでいい。

 

展示の奥に、子ども向けの手書き寄せ書きコーナーがあった。開館前だから本来は無人だ。だが、たぶん前日までの書き込みが、そのまま残されていた。

 

「月ってとおい?」

「うちゅうひとさんきてくれてありがとう」

「こわいけどあいたい」

「パパもあいたいっていってた」

「アンドロちゃん、ぽてとおいしい?」

 

私は一枚ずつ読んで、途中で、読むのをやめた。

 

読み続けたら、泣きそうになったからだ。

 

今日はもう、泣く許可を自分に出していない。出せば、ここで地球の子どもの字を前に大使が泣いたという画像が、たぶん一週間は世界を回る。

 

私は黙って、その前に立っていた。

 

リードは気づいていただろう。気づいていて、何も言わなかった。それがありがたかった。

 

 

帰り道、車両の中で私は紙袋を膝に乗せていた。

 

片方にポテトの残り。片方に漫画。ひどい荷物である。共同圏の管理者たちが見たら、たぶん少し困る。あるいは笑う。事務担当の赤に近い白は「分類上、公文書の付属物として扱うか協議中」と書くだろう。倫理担当の黒に近い金は、たぶん一言も書かずに、ただ記録することに決める。

 

通信端末には、すでに世界中の反応が流れ始めていた。

 

《来訪者、博物館を見学》

 

《フライドポテトを口にする映像》

 

《漫画を受け取る姿》

 

《神か悪魔かではなく、観光客のようだった》

 

《緊張が少し解けた》

 

《逆に不気味だ》

 

《かわいい》

 

《かわいいと言うな》

 

《いやでもかわいい》

 

《老夫婦、テレビの前で涙》

 

《小学校、臨時の作文課題:アンドロさんへ》

 

《信徒、礼拝で祈りの言葉を変える》

 

《市場、終値前に小幅反発》

 

人類は忙しい。

 

怖がるのにも、笑うのにも、互いを叱るのにも忙しい。

 

日本のある学校では、教師が急遽「アンドロさんへ」という作文課題を出したらしい。六年生の女の子が、「ポテトおいしいですか。うちの近所のお店のは細いほうです」と書いたと、深夜の情報番組で紹介された。

 

米国の中西部では、八十代の夫婦がテレビの前で手を握ったまま泣いていたという短い記事が流れた。「怖くなくなった」と夫が言い、「怖くはまだあるけど、少しちがう怖さになった」と妻が言ったらしい。

 

中東のある家庭では、母親が夕食の時、子どもに「今日の学校で何を話した?」と聞いたら、「宇宙人の子の好きな食べ物」と答えたという、市井の投稿が拡散した。親はそれを読んで、少しだけ笑って、そのあと自分が笑ったことに驚いたと書いていた。

 

中国のある都市では、若い会社員が夜、コンビニで菓子パンとコーヒーを買って帰る途中、路肩のスクリーンに流れたポテトの映像を見て、立ち止まって、また歩き出したと書いていた。何もコメントはなかった。ただ、「立ち止まって、また歩き出した」とだけ書かれていた。それが、いちばんよく世界を表しているように思えた。

 

聖座は短い声明を出していた。

 

「彼女が何者であるかは、なお問いの中にある。しかし彼女と共に卓につき、同じ油の匂いを嗅ぎ、同じ本に触れる瞬間が与えられたことを、私たちはひとまずの恵みとして記憶にとどめる」

 

慎重で、それでいて、きちんと温度のある文だった。

 

日本の首相官邸からは、事務的な発表だけが出た。「本日、限定的な文化接触活動が行われた。大きな問題はなかった。関係各機関への協力に感謝する」。城崎らしい文だった。派手なことは書かない。冷たく見えるほど事務的で、だが嘘は一行もない。

 

私はそれを見て、ようやく少しだけ息を吐いた。

 

地球はまだ混乱している。これで全部うまくいくわけではない。宗教も市場も軍も学校も家庭も、まだ答えは出ていない。むしろ、ここからだ。

 

でも、ひとまず今日は終わる。

 

終わるということは、大事だ。巨大な出来事のあとに一日が終わること。それ自体が文明の継続だ。

 

私は車窓の外を見た。

 

夕方へ向かう光。遠くの信号。歩道を急ぐ人。フェンスの向こうで足を止める観光客。犬を連れた老人。工事の音。都市のだるさ。

 

ここはまだ地球だった。

 

まだ地球で、私はそこへ来られた。

 

前世の私は、そんなことが起きるとは一度も思わなかった。

 

死んで、別の銀河で数百年生きて、文明間会談のあとにポテトを食べて博物館を見る未来など、想像したこともない。

 

けれど、想像していなかったからこそ、いまここにあるものが全部、少しだけ重い。

 

私は漫画の紙袋を開け、一冊だけ抜いた。

 

カバーの角を親指で押す。紙が鳴る。インクの匂い。

 

そのとき、車がわずかに減速し、段差を越えた。

 

私は、不意にバランスを崩しかけた。

 

ほんの少しだけだ。高い設定なら絶対に起きない揺れ。私は反射で座席の縁に手をつく。指先が、漫画の角に当たって、少し折れた。一瞬、前世の「新刊の角を折ってしまった朝の絶望」が蘇った。

 

護衛の一人がこちらを見る。

 

「問題はありません」

 

私は言った。

 

今度は、本当に問題がなかった。

 

ただ、少しだけ嬉しかった。

 

転びかける。

 

紙袋を落としかける。

 

慌てて支える。

 

その程度のことが、どうしようもなく人間的で、どうしようもなく地球っぽかった。

 

私は窓へ映る自分の顔を見た。

 

翼のある、耳の長い、接触用に盛った外見。

 

その内側で、ポテトの油を指に残したまま、漫画を落としかけている。

 

笑える。

 

ひどい。

 

でも、それでいいのかもしれない。

 

最初の交流は、たぶんこういうところから始まる。

 

正しく、立派に、代表らしく、ではなく。

 

段差で少しよろけて、紙袋を支えて、相手に見られて、ちょっと恥ずかしい、みたいなところから。

 

 

その夜、私はホワイトハウスに近い宿舎に用意された部屋へ戻った。共同圏の簡易接続端末を開くと、案の定、通信の着信が溜まっていた。

 

事務担当の赤に近い白からの通知。

 

「本日の行動、所定の逸脱範囲内。備考:対象文明側の応答は、想定より柔らかい。ただし揺り戻しの可能性は残る。次段階の設計に留意」

 

分析担当の青に近い透明からの通知。

 

「食品摂取・書籍授受・見学行動は、いずれも固有行動残滓の顕在化と分類。接触相手文明においても、この種の残滓は肯定的に受容される傾向が強い。生理的親和性の高い“未完成な誠実さ”として機能している」

 

倫理担当の黒に近い金からの通知。

 

「行動そのものについての評価は保留する。ただし、一点のみ記す。あなたが今日、笑いかけてやめたのは、正しくもあり、惜しくもあった。次に笑う機会が訪れたら、その時は遠慮しないでよい。それはもう、私たちの所管ではなく、あなたの所管だ」

 

私は最後の一行を、何度か読み直した。

 

読み直して、通信端末を閉じた。

 

共同圏の管理者は、だいたいにおいて乾いている。けれどときどき、こういう一行を送ってくる。乾いた手のひらの、ほんのわずかな湿りのようなものを、ちゃんと見せてくる。

 

たぶんそれが、私がこの文明に長くいる理由のひとつだった。

 

 

端末をしまってから、私は窓の外を見た。

 

連邦首都の夜は、相変わらず少し明るかった。封鎖が解かれつつある区画の方から、少しずつ普通の光が戻ってきている。ピザの配達バイクのランプが角を曲がる。救急車がどこかでサイレンを鳴らし、すぐに止む。タクシーが信号で停まる。街灯の下で、誰かが犬に何か話しかけている。

 

地球は大きい。

 

大きくて、怖くて、うるさくて、ときどき優しい。

 

優しいのは、私に対してではない。たぶん、お互いに対してだ。お互いに対して優しくあろうとし続けていることの、ときどきの成功が、外から見るとただ優しく見える。

 

その仕組みは、共同圏にもある。

 

違うのは、地球ではその仕組みがまだ完成していない、ということだ。完成していないから、毎日しんどい。毎日しんどいから、毎日少しずつ動いている。

 

完成しないことは、ここでは欠陥ではなく、たぶん作動条件だ。

 

私は窓枠に手をかけた。

 

安定設定はまだ一段下げたままだった。指先の感覚が、ガラスのわずかな冷たさを拾う。ガラスの向こうで、街の音がわずかに震える。

 

私は小さく言った。

 

「次は、コンビニに行きたいです」

 

誰も聞いていない部屋で、誰に向けたのでもない言葉だった。

 

けれど、前世の私はこの手の独り言をよく言っていた。帰宅後、玄関で靴を脱ぎながら「疲れた」と言う癖。コンビニでレジを通すとき「あ、袋いりません」を言い忘れて「すみません」を一つ多く言う癖。寝る前、天井に向かって「明日もがんばる」と小さく宣言する癖。

 

あの癖たちは、数百年経っても消えなかった。

 

消えなかったから、私はたぶんここへ来られた。

 

 

後日談めいた話を、少しだけ先取りしておく。

 

この夜から数日後、私は本当にコンビニへ行くことになる。もちろん厳重な護衛付きで、店内は貸し切りで、選べる範囲にも制限があって、結局、純粋な「コンビニ体験」にはならない。おにぎりを買い、ホットコーヒーを買い、弁当を一つ、レジ袋を一枚買う。お釣りを出してもらうときに、レジの人の指が少し震えていた。

 

その数日のうちに、私は一度だけ、本当に一人で夜の道を歩く機会を与えられる。短い距離で、周囲に見えない護衛が張り付いていたとしても、私の目の前には誰もいない、という時間が十五分ほどだけ作られる。

 

その十五分の間に、私は自販機で缶コーヒーを買い、歩道橋の真ん中で立ち止まり、夜風の中で缶を開けた。

 

風が強かった。

 

手がかじかんだ。

 

安定設定を上げ忘れたまま、私は少しだけ震えていた。

 

震えたまま、夜空の方を見た。

 

雲が切れていた。

 

街の光で、星はそんなに見えなかった。

 

それでも私は、アンドロメダの方角を、なんとなく見た気がした。

 

あそこから、私は来た。

 

来たというか、行き先として指定された場所からたどり着いた。

 

戻ろうとは、まだ思わなかった。

 

けれど、いつか戻らなくてはいけない。

 

そのいつかの話は、また別の日に書く。

 

今日は、この十五分の話を、私は誰にも言わなかった。

 

誰にも言わないまま、共同圏の記録にも、地球の外交記録にも、この十五分は載らなかった。

 

そういう時間が人生に一つか二つあるのは、たぶん、どの文明でも健康的なことなのだと思う。

 

 

話を戻す。

 

宿舎の窓の前で、私は漫画の最初の一冊を開いた。

 

紙の縁が、指の腹に当たって小さく音を立てた。インクの匂いが、油と塩の匂いの残った指先に混ざる。最初のページの、主人公の朝の場面が、絵の中で静かに始まっていた。

 

登場人物は、電車の座席で寝過ごして、知らない駅で降ろされていた。どこだここ、と呟きながら、とりあえず駅前のコンビニに入り、ホットコーヒーを買う。そこから物語が始まる。

 

私は、そのページの前で、少しだけ固まった。

 

似ていた。

 

私の今日が、この子の朝に。

 

スケールはまったく違う。銀河も惑星も一つの駅も、この主人公にとってはただの乗り過ごしで、私にとっては文明間接触である。けれど、知らない土地で降ろされて、とりあえず何か温かいものを買って、そこから歩き始める、という構造だけは、恐ろしく似ていた。

 

たぶん、物語というのは、どこの文明でもそういう形をしている。

 

どこかへ着き、何かを飲み、それから歩く。

 

それだけの形を、人間は何万回も描き直す。

 

 




これで完全完結です。(蛇足になるので番外編として更なる後日談を3話ほど投稿します。)



このような拙作をここまで読んで下さりありがとうございました。



  
作中でのアンドロファンによるアンドロの生成AI絵上げておきます。(作中のアンドロと比べてアニメイラスト調になっています…という設定のつもり)AI絵って無難な絵柄なのがいいですよね。


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