10日間の問い   作:三日月ノア

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番外編:その後
その1 帰任報告と、次の観光


 

 

報告書とは、起きたことの記録ではなく、

起きたことを、起きなかったことに近づけるための書類である。

 

前世の,ある先輩の三次会でのぼやきだ。

 

 

 

帰りの便、というのは、行きの便よりなぜか荷物が重い。

 

物理的な荷物はほとんどない。私は物質的な土産物を持ち帰る趣味を、数百年前にとっくに捨てている。それなのに、輪送機の小さな座席に沈み込んだ身体は、地上から地上へと移動していたときの私より確実に数段階重たくなっていた。

 

持ち帰るべきものは記憶と、記録と、それから、説明責任。

 

この三つ目が、いちばん、重い。

 

 

管理区画外縁の輪送港に着いたのは、地球時間で言えば夜更けに当たる周期だった。共同圏の時刻管理は、地球の昼夜とは関係がない。それでも、私の体感時計は、いまだに前世の日本時間に、ごく弱く、接続されたままだ。

 

数百年経っても抜けない癖を、ひとつ挙げろと言われたら、私はこう答える。

 

「日曜の夜が少し憂鬱である。」

 

そして、いま私はまさにその日曜の夜の延長線上にいた。明日、上司に会う。会って報告する。やらかしをきちんとやらかしとして並べる。

 

前世でも、転生後でも、結局、私がやっている仕事は、似たような形をしている。

 

 

輪送港の到着ゲートを出ると、観察員が一人、待っていた。

 

「お帰りなさい。体調は問題ありませんか。」

 

観察員はまだ若い個体で、制服の袖の折り方が、几帳面すぎるくらい几帳面だった。私は、その袖口を、少しだけ見つめた。前世のコールセンター研修でもらった制服の、アイロンのかけ方を、不意に思い出した。

 

「体調は良好です。」と私は答えた。「気持ちはふつうに重いです。」

 

「ふつうに重いというのはどの程度でしょう。」

 

「帰任報告の前夜のふつうに重いです。」

 

観察員は、しばらく黙って、それから、こう言った。

 

「前世語、ですね。」

 

「そうです。」と私は言った。「翻訳がいちばんめんどくさい語彙です。」

 

 

共同統治層の本拠地――とは言っても、私の所属する文明の管理区の、地方支所のような施設――の面談室は地球の行政機関の会議室と驚くほど似ていた。

 

壁は白に近い灰色。机は灰色に近い白。椅子は座り心地をわざと少しだけ悪くした設計で、長居を防ぐようにできている。天井の照明は青白く影を薄くして表情を読みやすくしている。

 

デザインが似ているのは偶然ではない、と私は前々から疑っている。

 

どんな文明であれ、面談する側とされる側が存在する限り、空間の設計は、似たような妥協点に落ち着く。

 

「ちゃんと居心地を悪くしたまま、ちゃんと居心地を悪くしすぎないこと。」

 

これが、面談室という建築ジャンルの、銀河共通の、たぶん、要件定義だ。

 

 

管理者三体は、先に、入室していた。

 

赤に近い白の個体――事務的担当――は、卓上に書類を広げ、指先で順番に整えていた。何度も整えていた。私が入室した瞬間も、その手を止めなかった。

 

青に近い透明の個体――分析担当――は、椅子に軽く背を預け、空間のどこか遠くを見ていた。たぶん、視線の先にあるのは、ふつうの意味の「遠く」ではない。

 

黒に近い金の個体――倫理担当――は、背筋を伸ばし、両手を膝の上で静かに組んでいた。姿勢が美しすぎて、姿勢だけで怒られている気がした。

 

私は、入口で、軽く頭を下げた。

 

「遅くなりました。」

 

「遅くはありません。」と事務的担当が言った。「予定通りです。」

 

「気持ちの問題です。」と私は言った。

 

「気持ちで予定は前後しません。」

 

「おっしゃる通りです。」

 

面談はまだ始まってすらいない。それなのに、私はすでに怒られている気がしていた。

 

これは完全に前世のフラッシュバックだった。

 

 

「それでは、記録を開始します。」

 

事務的担当が、卓上の小さな端末に軽く触れた。空中に薄い光の面が展開され、そこに議題が順番に並んだ。

 

一.地球接触全期間の経過確認

二.特記事項(発生順)

三.評価項目別の所見

四.再訪問申請の取り扱い

五.その他

 

見た瞬間、私は前世の部長面談の議題一覧を思い出した。

 

一.業務報告

二.課題と改善点

三.目標達成度評価

四.次期目標設定

五.その他(自己啓発等)

 

構造がほとんど同じだった。

 

おそらくどんな文明でも、「その他」という項目は発明される。そこに、書類化されない人間性がひっそりと押し込められる。

 

 

「まず、全期間の経過から。」と事務的担当が続けた。「地球時間で十日、うち、直接接触が三日。加えて、通信接触が複数回。総合観察時間は、許容範囲内です。」

 

「はい。」

 

「次に、特記事項。」

 

ここから、だ、と私は思った。

 

端末の光が切り替わり、白い空間に、箇条書きが浮かんだ。

 

「特記事項・第一項。」

 

事務的担当は、声のトーンを、ほんの少しだけ、下げた。

 

「第一回接触直後、地球側兵器系統の一部に対する、セーフモード措置の過剰発動。」

 

「あ……」

 

「覚えはありますね。」

 

「あります。」と私は言った。少しだけ、うつむいた。

 

「発動範囲は、想定の、約二千倍でした。」

 

「二千倍……」

 

「想定は、二機でした。」

 

「実績は。」

 

「約四千機。」

 

面談室の空気が、わずかに、冷えたような気がした。

 

分析担当が、遠くを見たまま、感情のこもらない声で付け足した。

 

「結果として、地球側の即応抑止体系の広範囲が、一時的に、自動応答を失いました。これは、接触初期において、相手側に、過剰な『保護されている』感覚を与えます。保護は、対等性の設計において、最も扱いづらい変数の一つです。」

 

「はい。」

 

「意図は。」

 

「保護でした。」と私は言った。「その、怪我をさせたくなくて。」

 

「意図が、結果を、正当化しません。」

 

「はい。」

 

「ただし、意図の記録は、残します。」

 

「ありがとうございます。」

 

「お礼を言われる項目では、ありません。」

 

分析担当の声はあくまで平坦だった。

 

私はうつむきながら前世の初めての大きなクレーム対応のあとの上司面談を思い出した。

 

「○○さん、君はな、悪気がないのは分かってるんだ。分かってるんだけどな。悪気がないことと悪いことをしたことが別々の話だってことは、そのくらい分かってくれ。」

 

当時の私は分かっていなかった。

 

いまの私も分かっていないような気がする。

 

数百年の人生経験は、同じ種類の反省を何度も同じ深さで繰り返させる。

 

 

「特記事項・第二項。」

 

事務的担当の指が、軽く動く。

 

「第一回通信後の、補足説明の追加送信。」

 

「ああ……」

 

「地球側各組織の評価書に、強い語彙の硬化が、観測されました。」

 

「覚えがあります。」

 

「『よく眠ることを推奨します』。」と事務的担当が、まっすぐに読み上げた。「この一文が、地球側の、約百四十の機関において、『上位存在からの、睡眠を含む生活指示』として分類されました。」

 

「……配慮のつもりでした。」

 

「配慮の輪郭が、先方の主権の内側に、踏み込みました。」

 

「輪郭、ですか。」

 

「配慮には、輪郭があります。」と倫理担当が、初めて口を開いた。「相手の輪郭の内側に、踏み込むものは、配慮の形をしていても、配慮ではありません。」

 

声は、低くて、静かで、かすかに、眠たくなるような深さがあった。

 

私は、少しだけ、背筋を正した。

 

「気をつけます。」

 

「気をつけるだけでは、不足します。」と倫理担当が続けた。「次回は、『言わない』という選択肢を、事前に、複数、準備してから出発してください。」

 

「はい。」

 

「言わなかったことは、記録されません。」と分析担当が補足した。「記録されないものは、相手に圧を掛けません。沈黙は、しばしば、最良の外交です。」

 

私はうなずいた。うなずきながら、これ、前世でも何回も似たようなこと言われた気がすると思った。

 

 

 

 

「特記事項・第三項。」

 

「はい。」

 

「ホワイトハウス南芝生、直接接触時における、不可視シールドの瞬時展開。」

 

「……撃たれました。」

 

「それは、承知しています。」

 

「二発、です。」

 

「それも承知しています。」

 

「過剰ですか。」

 

「過剰です。」と事務的担当は言った。断言だった。

 

「装置の性能としては、問題ありませんでした。」と分析担当が言った。「問題は、観測者側の解釈です。地球側の観測者は、これを『神学的介入』『物理法則の一部撤回』『上位文明の正確な怒り』等、複数の高位概念に分類しました。」

 

「そんな、大げさな……」

 

「大げさに見えるのは、あなたの、生活圏の基準です。」と倫理担当が言った。「地球側の基準では、大げさが、妥当です。」

 

「はい。」

 

「次回、銃撃への対応は、段階化してください。」

 

「段階化。」

 

「一発目は、減速のみ。二発目は、逸らすのみ。三発目で、無効化。四発目で、状況全体の一時停止。」

 

「四発目まで、想定するんですね。」

 

「想定しない方が、危険です。」

 

私は、小さく息を吸って、吐いた。

 

「はい。」

 

 

「特記事項・第四項。」

 

「……はい。」

 

「マクドナルドのポテトと、最新漫画単行本の受領。」

 

面談室の、空気が、微妙に、変わった。

 

分析担当の視線が、ほんの少しだけ、こちらに動いた気がした。気のせいかもしれなかった。

 

「これは。」と事務的担当が、珍しく、言葉に間を置いた。「評価上、複雑な項目です。」

 

「私もそう思います。」

 

「技術的には、逸脱です。銀河間初接触における、使節個体の私的嗜好品の受領。通常は、推奨されません。」

 

「はい。」

 

「しかし、観察結果としては。」

 

事務的担当は、端末を軽く操作した。白い空間に、新しい表が浮かんだ。

 

地球側の反応が、複数のカテゴリーで数値化されていた。軍事・外交・金融・宗教・市民感情・メディア――

 

多くのカテゴリーで、接触前と比べて、数値は、明確に「緊張緩和方向」に動いていた。

 

「ポテト、と、漫画。」と事務的担当が、ゆっくりと読み上げた。「この二項目が、人類側の、少女に対する脅威評価を、単一の会談中、最大幅で、下方修正しました。過去のいかなる公式発言よりも、効果的でした。」

 

「……そうなんですか。」

 

「人類は、塩のきいたじゃがいもと、紙の束を前にした個体を、脅威として扱うことが、苦手な種族です。」と分析担当が付け足した。「これは、文化的に、ほぼ、普遍です。」

 

「つまり、やらかしではないということですか。」

 

「やらかしです。」と事務的担当は、あっさり言った。

 

「え。」

 

「ただし、観察対象としては、稀有の好結果をもたらしたやらかしです。」

 

「評価は、ひとつに絞らないんですか。」

 

「絞ると、情報量が減ります。」と倫理担当が言った。「私たちは、記述する側です。採点する側ではありません。」

 

「……はい。」

 

私は少し救われたような気がした。そして、救われたと思ったこと自体に少しだけ罪悪感を抱いた。

 

これも前世で何度もやった感情の動き方だった。

 

 

「特記事項・第五項。」

 

「……。」

 

「退出直前の、公的発言。『次は、コンビニに行きたいです』。」

 

「あ。」

 

「これは、評価書上、もっとも、分類に手間のかかった項目です。」

 

「……はい。」

 

事務的担当は、珍しく、少しだけ、困ったような顔をした。顔の造作はほとんど動かないのだが、気のせいではない程度には、確かに、困っていた。

 

「前半の『次は』は、再訪問の予告として機能します。これは、正式な、外交的通告と、構造的に、等価です。」

 

「はい。」

 

「後半の『コンビニに行きたいです』は、具体的目的地の指定であり、同時に、使節個体の、個人的嗜好の表明です。」

 

「はい……」

 

「この二つは、通常、別々の文書で、別々の経路で、別々の段階で、提出されます。」

 

「一文にしてしまいました。」

 

「そうですね。」

 

「すみません。」

 

「謝罪を求めているのでは、ありません。」と事務的担当は言った。「この一文は、後半の効果によって、前半の外交的通告を、ほぼ、脅威ゼロで地球側に受信させました。結果として、各国の、対応リソースの配分が、極端に、現実的な方向へ、シフトしました。」

 

「現実的な方向、というのは。」

 

「『あの個体に、我が国のどのコンビニに来てもらうか』。」と分析担当が、平坦に言った。「これが、現在、地球上の、少なくとも三十二カ国の、首脳級の、非公式な、主要議題の一つになっています。」

 

「……嘘でしょう。」

 

「本当です。」

 

面談室が、ほんの少しだけ、静まった。

 

私は、しばらく、うつむいていた。うつむきながら、「うちの国にしてほしい、はたぶん世界中のどこの国でも同じ温度で言われているんだろうな」と、妙に現実的なことを考えた。

 

 

「総合所見に、進みます。」と事務的担当が、議題を切り替えた。

 

端末の光が、切り替わる。

 

「第一。接触は、成立しました。対等性の水準は、想定下限を、わずかに、上回りました。」

 

「はい。」

 

「第二。使節個体のパフォーマンスは、複数の基準で、想定中央値を、下回りました。」

 

「……はい。」

 

「第三。しかし、地球側の受容は、想定上限を、わずかに、上回りました。」

 

「え、」

 

「つまり、あなたは、想定より、やらかした。」と事務的担当は言った。「しかし、地球側は、想定より、寛容でした。」

 

分析担当が、遠くを見たまま、補足した。

 

「やらかしの種類と、受容の種類が、幸運にも、噛み合いました。これは、事前設計で再現することが、ほぼ、不可能な結果です。」

 

倫理担当が、静かに言った。

 

「私たちの立場から、率直に申し上げれば。」

 

「はい。」

 

「あなたは、十分に、やらかしました。ただし、観察対象としては、稀有の好結果を、もたらしました。」

 

三人の言葉が、順番に、降ってきた。

 

「記録上、評価は、『条件付きの成功』と、分類されます。」

 

「条件、というのは。」

 

「次回も、同じように、やらかさないでください。」と倫理担当は言った。

 

「……善処します。」

 

「『善処』は、前世語の、高危険語彙です。」

 

「すみません。」

 

「記録には、『努力する』、と書いておきます。」

 

「ありがとうございます。」

 

私は、深く、深く、頭を下げた。

 

前世で、何度もやったお辞儀の角度だった。

 

 

 ――ここから、地球側――

 

 

同じ時刻、地球は地球の側の別の夜だった。

 

東京、首相官邸、地下会議室。壁の時計は、午前二時を、少し回っていた。

 

真帆は三日前からほぼ同じ椅子に座っていた。正確には途中で二度、仮眠室に送られ、一度、服を着替えた。着替えたことに自分で驚いた。

 

机の上に並んでいる資料は、三日前までの「接触対応」から、「空白期対応」へと、項目の主語が変わっていた。

 

空白期。

 

正式な行政用語ではない。ただ、誰かが言い出して、そのまま定着してしまった単語だった。

 

「空白期の更新です。」と部下が、紙の束を手渡した。「観測系、引き続き、検出なし。外縁、動きなし。共同圏側からの通知なし。」

 

真帆は、紙をめくった。数字の並びは、前日のものと、ほとんど変わっていなかった。

 

「来ない、ですね。」

 

「来ません。」

 

「来ない、というより。」

 

「……帰った、ように見えます。」

 

「そうですね。」

 

真帆は、資料を閉じた。閉じた手の甲に、自分のものじゃないように、骨の影が濃く見えた。年を取ったのか、眠っていないだけなのか、分からなかった。

 

 

同じ頃、連邦首都。

 

リード大統領は、大統領府西棟の、窓のない執務室で、コーヒーを三杯目に入れていた。彼は、カフェインを、本当は、医師から止められている。それでも、三杯目を、三口で飲んだ。

 

「状況。」

 

「同じです、大統領。」と主席補佐官レイノルズが言った。「変化なし。」

 

「変化なしは悪い知らせか、良い知らせか。」

 

「判断保留です。」

 

「判断保留は誰が出す判断なんだ。」

 

「我々です。」

 

リードは、笑わなかった。笑う余裕は、すでに、三日前に、切らしていた。

 

「あの子は。」と彼は、珍しく、あの個体を、「あの子」と呼んだ。「帰ってしまったのか。」

 

「分かりません。」

 

「帰った、なら、それは良い話なのか悪い話なのか。」

 

「判断保留です。」

 

「さっきから、判断保留しかないな。」

 

「事実だからです。」

 

リードは、コーヒーを、もう一口飲んだ。

 

「次、来てくれるなら。」と彼は、独り言のように言った。「今度こそ国賓として、迎える。議会合同演説。二十一発の礼砲。国立墓地訪問。大統領自ら空港で迎える。」

 

レイノルズは、静かに、言った。

 

「大統領。お言葉ですが。」

 

「なんだ。」

 

「あの個体が、二十一発の礼砲を喜ぶとは思えません。」

 

「……」

 

「むしろ、『銃撃が二十一回あります、と事前通告された接触』として、受信する可能性があります。」

 

「……そうか。」

 

「例のシールドが再発動する恐れがあります。」

 

「……やめよう。」

 

「はい。」

 

リードは、コーヒーを見つめた。カップの底に茶色い輪がうっすらとできていた。

 

「何を出したら喜ぶんだ。」と彼は、世界で最も強い執務室の、最も弱い声で、言った。「あの子は。」

 

「……ポテトでは。」

 

「ポテトはもう出した。」

 

「もう一度出しては。」

 

「同じものを二回出すのは失礼じゃないか。」

 

「失礼ではない、と思います。」と、レイノルズは、奇妙なほど真剣な顔で、言った。「あの個体は同じものを二回、受け取って同じように美味しいと言う種類の個体です。」

 

リードは、少し、沈黙した。

 

「そうかもしれん。」と、彼は言った。「それは少し救いだな。」

 

 

聖都。

 

教皇アレクシウス十三世は私室の古い木の椅子に座り、小さな本を閉じた。本は聖書ではなく、一冊の、彼自身の古い覚え書きだった。

 

秘書官が、静かに、扉を開けた。

 

「猊下。共同圏からの通知は依然ありません。各国教会からの問い合わせは、引き続き、多数です。」

 

「そうか。」

 

「特に、南米の司教区から、『再訪問があった場合、聖座の立場』について、早急な指針が求められています。」

 

教皇は、ゆっくりと、うなずいた。

 

「こう、書いてください。」

 

「はい。」

 

「『沈黙は、無言ではない。』」

 

「……はい。」

 

「『私たちは、あの日、そう学びました。』」

 

「……はい。」

 

「『再訪問があるかどうかは、私たちの手にはない。しかし、祈りは常に私たちの手の内にある。』」

 

「記します。」

 

「それから。」

 

教皇は、少しだけ、口元を緩めた。それは、笑い、と呼ぶには、あまりに控えめだったが、確かに、笑いだった。

 

「付け加えてください。『再訪問があったとき、教会の前をただ通り過ぎるだけでも私たちは十分に光栄である』。」

 

「……記します。」

 

秘書官は、扉を閉めた。扉の向こうで老いた男がもう一度小さな本を開いた音がした。

 

 

同じ頃、世界各地。

 

東京都内の深夜コンビニ。若い店員がレジに立っていた。客はほとんどいなかった。常連の夜勤明けらしき男性がホットコーヒーとおにぎりを黙ってレジに置いた。

 

店員は商品をスキャンしながら、ふと、店の入口の方を見た。自動ドアのガラスの外に誰もいなかった。当たり前だった。それでも、彼は三日連続でこの時間、同じ方向を見ていた。

 

「来ないですね。」と、彼は、客にではなく、空気に言った。

 

客はコーヒーを受け取り小さく言った。

 

「来てほしいような、来ないでほしいような、ですよ。」

 

「分かります。」

 

「来たら、うちの店、ニュースになっちゃいますしね。」

 

「それは、困ります。」

 

「でも、ニュースになるくらいなら別にいいかもしれないですね。」

 

「……分かります。」

 

客は出ていった。店員は自動ドアを見た。ドアは誰のためにも開かなかった。

 

 

ニューヨーク、夜明け前のバー。

 

マルコム・ヘイルは、三日連続で、同じ席に座っていた。隣の席の男は三日連続で違う男だった。今日の男はまだ中堅のトレーダーで、古い時計を気にしていた。

 

「アンドロ関連、どう見る。」

 

「さぁ。」

 

「インデックスは、落ち着いた。」

 

「落ち着いた、じゃなくて、動けないんです。」と男は言った。「誰も値札の前提を、信じられない。動けば、動いた方向が間違っている気がする。」

 

「だから、止まる。」

 

「止まるしか、ない。」

 

「止まっている間は誰も責められない。」

 

「そうですね。」

 

ヘイルは、グラスを、少しだけ持ち上げた。グラスの底で、氷が、音を立てた。

 

「俺たちは。」と、彼は言った。「あの子がコンビニに行きたいって言った瞬間から仕事を、半分、失った気がしているよ。」

 

「半分、ですか。」

 

「うん。半分。残りの半分はまだある。」

 

「どっちの半分ですか、残ってるのは。」

 

「……分からん。」

 

男は少しだけ、笑った。ヘイルも笑わない顔で、薄く口の端を動かした。

 

 

モスクワ、北京、デリー、ブラジリア、ラゴス、ソウル、シドニー、テルアビブ、カイロ、ブエノスアイレス、ストックホルム。

 

各国の首脳の執務室では程度の差はあれ、似たような会話が交わされていた。

 

「再訪問の、打診は。」

「非公式には先方の文明側に既に出ています。」

「正式には。」

「正式な窓口がまだありません。」

「作ろう。」

「はい。」

「どういう形で迎える。」

「……」

「国賓は、たぶん、違う。」

「はい。」

「では、何として迎える。」

「観光客、としてでしょうか。」

「観光客、として国家が動くのか。」

「動くしかないのでは。」

 

各国の国家運営の語彙のなかにゆっくりと、「観光客としての使節」という奇妙な矛盾語が浸透していった。

 

矛盾語はしばしば、新しい時代の最初の単語になる。

 

 

SNSでは、同じ問いが、言語を変えて、流れ続けていた。

 

「アンドロ、どこ?」

「アンドロ、帰った?」

「アンドロ、こっちに来て。」

「アンドロ、うちの国のコンビニ、美味しいよ。」

「アンドロ、うちの商店街に、来て。」

「アンドロ、うちの下町、静かだよ。」

「アンドロ、うちの離島、海、きれいだよ。」

「アンドロ、うちの山、紅葉、もう少しで、始まるよ。」

「アンドロ、うちの学校、給食、今日、カレーだよ。」

 

 

 

地球上で、誰も銀河間初接触を、銀河間初接触のままでは扱わなかった。

 

誰もが、あの個体を、ご近所のちょっと遠くから来る、風変わりな親戚のように扱い始めていた。

 

それは、共同圏の評価書の最後の一行にも、書かれていた。

 

「地球種は、上位文明を上位のまま扱い続けることに、飽きるのが早い。」

 

「これは、弱さであり、同時に強さである。」

 

 

 ――再び、少女側――

 

 

面談は、四項目目に進んでいた。

 

「再訪問申請の取り扱い。」

 

事務的担当は、端末を操作し、白い空間に複数の書類を並べた。どれも、どこかの国の正式な紋章と、署名欄のある外交文書の形をしていた。

 

「現時点で、公的な再訪問要請を提出している主体は、地球上の百七十三。」

 

「多い。」

 

「うち、国家単位百二十二。地域単位十四。国際機関六。宗教組織九。教育機関連合四。市民団体連合七。企業連合三。非公式な個人申請は、数えていません。」

 

「個人申請……?」

 

「主に、子どもが手紙を送っています。」

 

「……」

 

「祖父母といっしょに観光してほしい。兄といっしょにゲームセンターに行ってほしい。そのようなものです。」

 

「それは、もう申請じゃない……」

 

「申請ではありません」と事務的担当は、きっぱり言った。「しかし、記録には残します。」

 

「……そうですか。」

 

「あなたに転送するかどうかは、倫理担当の判断を経ます。」

 

倫理担当が、初めてほんのわずかに首を傾けた。

 

「大部分は、転送します」と彼は、穏やかに言った。「使節個体が、『自分宛ての私信』を定期的に読むことは、暴走の抑制に有効です。」

 

「……読まなくていいなら、読みたくないくらいの量です。」

 

「読んでください。」

 

「……はい。」

 

 

「では、次回訪問について」と事務的担当が、議題を進めた。「条件付きで、認可します。」

 

「……認可されるんですか。」

 

「されなかった場合の、地球側の反動リスクのほうが大きい、という判断です。」

 

「反動リスクというのは。」

 

「『上位文明は、来て、また去っていった。自分たちは、試された。次は、来ない。』」

 

分析担当が、平坦に言った。

 

「この物語は、地球種にとって著しく不利に作用します。自傷、分断、陰謀論、市場の長期低迷、教義の硬直、世代間の断絶。観測された範囲でも、類似の物語が、過去、複数の文明で同じ順番で悪化を引き起こしています。」

 

「そんな……」

 

「来ない、という結論は、来る、という結論より扱いが難しい。」

 

「……」

 

「したがって、少なくとも一度、来てください」と倫理担当は言った。「ただし、条件があります。」

 

「条件。」

 

「第一。再訪問の間隔は、最短で地球時間の一年。」

 

「一年。」

 

「第二。滞在期間は、短くしてください。数時間から、長くとも数日。」

 

「数日。」

 

「第三。目的を明確に設定してください。外交ではなく、観光として通してください。」

 

「……観光として。」

 

「外交は、あなたの文明の代表者と地球側の代表者が、別途、段取りを詰めます。あなたの役割は、そこから分離します。」

 

「分離ですか。」

 

「あなたを窓口に固定することは、あなた自身の前世記憶との接続を、少しずつ損ないます。」

 

倫理担当の声が、ここでわずかにやわらかくなった。

 

「私たちの観察範囲では。」

 

「……はい。」

 

「あなたの最も得難い資産は、銀河間接触の資格ではなく、『前世の地球人として、ふつうに街を歩いた記憶』です。これは、あなたを配置した時点では、私たちも完全には評価できていなかった資産です。」

 

「……」

 

「この資産は、使うと減ります。」

 

「減る、ですか。」

 

「会うたびに、あなたは地球を少し代表することになります。代表する時間が長くなるほど、『ただの元地球人』としてのあなたの時間が、減ります。」

 

「……」

 

「私たちは、この資産を保護したい。」

 

「……」

 

「ですから、あなたにはたくさん観光してほしい。少なく代表してほしい。」

 

 

私は、しばらく何も言えなかった。

 

上司から、褒められたのか、怒られたのか、心配されたのか、放免されたのか、分からなくなる瞬間が、前世にも何度かあった。あの瞬間と、似ていた。

 

ただ、違う点がひとつあった。

 

前世の上司は、私のために怒ることはあっても、私を保護するために、ここまで長い文章を用意してはくれなかった。

 

数百年かけて、私が少しだけ運が良くなったのだ、ということに、私は、そのときようやく気がついた。

 

「ありがとうございます」と私は、ちゃんと声に出して言った。

 

「礼は、不要です」と事務的担当が言った。「規定に基づく処置です。」

 

「それでも、ありがとうございます。」

 

「記録します。」

 

「はい。」

 

 

「最後に」と倫理担当が言った。「あなたの希望リストを、聞かせてください。」

 

「希望ですか。」

 

「次回訪問時に、行きたい場所、してみたいこと。」

 

「それは、決定ですか。」

 

「参考情報です」と分析担当が補足した。「最終的な経路は、地球側の安全・外交制約と、共同圏側の観察要件を踏まえ、調整します。希望の全てが実現されるわけではありません。」

 

「……はい。」

 

私は、少しだけ息を吸った。

 

言いそびれるくらいなら、先に全部言ってしまうほうがいい、という教訓を、前世でさんざん学んでいた。

 

「コンビニ。」

 

「はい。」

 

「地方の駅。」

 

「はい。」

 

「深夜の食堂。」

 

「はい。」

 

「銭湯。」

 

「……銭湯ですか。」

 

「銭湯です。」

 

分析担当が、遠くを見るのをやめ、珍しくこちらを見た。

 

「公衆の入浴施設。」

 

「はい。」

 

「アバターでも入れるか、確認します。」

 

「お願いします。」

 

「続けてください。」

 

「……書店。」

 

「はい。」

 

「盆踊り。」

 

「夏季の地域祭礼。記録にあります。」

 

「見たいんです。」

 

「はい。」

 

「あとは……」

 

私は、少しだけためらった。

 

「コミケ。」

 

面談室の空気が、一瞬、止まったような気がした。

 

「……コミックマーケット」と事務的担当は、正式名称で読み上げた。「有明、もしくは類似の大規模展示施設における、同人誌即売会。」

 

「はい。」

 

「想定される来場者数、複数日で延べ数十万。」

 

「はい。」

 

「接触リスク、高。」

 

「はい。」

 

「安全確保、困難。」

 

「……分かっています。」

 

「行きたいですか。」

 

「行きたいです。」

 

「理由を、記録用にうかがえますか。」

 

私は、少し口ごもってから、言った。

 

「生きていた頃に、一度、行ってみたかったんです。仕事で行けなかったんです。」

 

分析担当は、静かにうなずいた。

 

「……記録します。『個人的、未実現の前世の計画』として。」

 

「はい。」

 

「実現可否は、別途、判断します。おそらく困難です。」

 

「分かっています。」

 

「しかし、記録は残します。」

 

「はい。」

 

「記録されたものは、忘れられません」と倫理担当が、穏やかに言った。「あなたが生きていたころ、忘れられた小さな予定の埋め合わせには、なるかもしれません。」

 

私は、うつむいた。

 

うつむいた顔を、三人は見ていなかったことにしてくれた。

 

この文明の、いちばん好きなところだな、と思った。

 

 

 ――地球側、同時刻――

 

 

官邸。

 

真帆は、資料の束をもう一度開き直した。先ほど閉じたばかりの束を、閉じる前よりゆっくりとめくった。

 

部下が、ノートパソコンを開いたまま、声を低くした。

 

「鴨下さん。」

 

「はい。」

 

「共同圏側から、正式に通知が入ったそうです。」

 

「どこ経由で。」

 

「国際政策評議会経由で、各国に同時です。」

 

「内容。」

 

「『次回訪問は、条件付きで認可されました。時期は、地球時間で最短一年後。形式は、外交ではなく、観光として扱われます』。」

 

真帆は、しばらく黙っていた。

 

「……観光。」

 

「はい。」

 

「観光として扱う。」

 

「はい。」

 

「つまり、国家の正面から迎えるな、と。」

 

「明文化はされていません。ただ、解釈はそうなります。」

 

真帆は、資料の上にペンを軽く置いた。

 

「ありがたい話ですね」と彼女は言った。

 

「ありがたいですか。」

 

「ええ。」

 

「どのあたりが。」

 

「『国家の面子』を真ん中に置かない外交ができる口実を、くれたことです。」

 

部下は、少しだけ笑いそうになった。

 

「下町のどこかで」と真帆は言った。「ひっそりと、街の人にまぎれて、迎えたい。」

 

「警備、難しいですよ。」

 

「難しくても、そうしたい。」

 

「前例、ありません。」

 

「作ります。」

 

部下は、しばらく黙っていた。それから、ノートパソコンに短く書き込んだ。

 

『総理に上申。迎賓の形、要再設計。』

 

 

連邦首都。

 

リード大統領は、同じ通知を同じ時刻、主席補佐官から受け取った。

 

「観光か。」

 

「はい。」

 

「国賓ではないのか。」

 

「ではない、と明記に近い表現です。」

 

リードは、長く息を吐いた。

 

「国賓の方が、楽なんだ」と彼は、独り言のように言った。「手順が全部決まっている。議会も、予算も、プレスも、決まった形にはまる。」

 

「はい。」

 

「観光客を迎えるのは。」

 

「……手順がありません。」

 

「うちの国には、特にない。」

 

「はい。」

 

「作るしかないな。」

 

「はい。」

 

リードは、机の抽斗を少しだけ開けた。そこに、三日前からしまいっぱなしの赤いマジックと、白い付箋があった。

 

彼は、付箋を一枚取り出した。

 

そこに、こう書いた。

 

『今度こそ、ちゃんと、ふつうに迎えろ。』

 

ちゃんと、が、ふつうに、を修飾しているのか、引っ張り合っているのか、彼自身、うまく言葉にできなかった。

 

ただ、三日前までの自分だったら、『ちゃんと、盛大に迎えろ』と書いていた気がした。

 

三日で、動詞と副詞が一つずつ入れ替わっていた。

 

それは、彼なりの進歩だった。

 

 

聖都の夜は、更に更けていた。

 

アレクシウス十三世は、同じ通知を秘書官から、極めて短く聞いた。

 

「再訪問は、認可されました。形式は、観光です。」

 

「そうか。」

 

「聖座の立場は、改めて調整が必要です。」

 

「必要ないかもしれません。」

 

「と、言いますと。」

 

「観光客の通り道に、教会を置いておけばいい」と教皇は、静かに言った。「通り過ぎるだけでも、光栄だ、と先ほどあなたに書いてもらったばかりです。」

 

「……はい。」

 

「扉は、開けておいてください。」

 

「はい。」

 

「閉めてはいけません。」

 

「はい。」

 

「誰か来たときに、閉まっている教会ほど恥ずかしいものはありません。」

 

秘書官は、深くうなずいた。

 

深くうなずきながら、この老いた男は、何百年かに一度しか出会えない種類の教皇かもしれない、と、どこか冷静な場所で考えた。

 

 

世界各地のコンビニで、その夜、ひとつの小さな変化があった。

 

店長たちの連絡網の非公式なメッセージが、いくつかの国で静かに回った。

 

『アンドロさん、次、来るそうです。どこに来るかは、分かりません。うちに来るかもしれません。うちに来ないかもしれません。とりあえず、店の前の掃除だけ、いつもより少しだけ丁寧に、やっておきませんか。』

 

誰からの通達でもなかった。

 

「とりあえず、掃除だけ丁寧に。」

 

それは、人類が数千年かけて何度も何度も繰り返してきた、外からの客への、最も古く、最も新しい作法だった。

 

 

 ――少女側、面談室――

 

 

面談が、終わった。

 

事務的担当は、端末を静かに閉じた。

 

「お疲れ様でした」と彼は、前世の日本のサラリーマンが別れ際に交わすような、まったく同じ調子で言った。

 

「……お疲れ様でした」と私は、反射的に返した。

 

分析担当は、静かに立ち上がり、扉の方へ歩き始めた。途中で、一度、振り返った。

 

「ひとつ、個人的な質問をしてもいいですか。」

 

「はい。」

 

「次に地球に行ったとき、あなたは、『ただの元地球人として』、いくらかは楽になりますか。」

 

私は、少し考えた。

 

「楽にはならないと思います。」

 

「そうですか。」

 

「たぶん、またやらかします。」

 

「ええ。」

 

「それでも、やらかした後、『もう一度、行きたい』と思えるようになった気がします。」

 

「それが」と分析担当は、珍しく少しだけ口元を動かした。笑いと呼ぶには慎ましすぎたが、笑いにごく近かった。

 

「それが、数百年間観測してきた範囲では、最も健康な所見です。」

 

「ありがとうございます。」

 

「礼は、不要です。」

 

「それでも、ありがとうございます。」

 

「記録します。」

 

彼は、部屋を出た。

 

 

最後に、倫理担当が立ち上がった。

 

「お疲れ様、でした」と、彼は、最初から最後まで、ずっとゆっくりした口調のまま言った。

 

「お疲れ様でした。」

 

「帰り道は、どうしますか。」

 

「歩いて帰ります。」

 

「輪送機ではなく、ですか。」

 

「少し、外の光を見てから。」

 

「よい選択です。」

 

「何かひとつ、助言をいただけますか。」

 

私は、少し迷ってから、そう尋ねた。面談が終わってから助言を求めるのは、前世では、あまり行儀のいい行為ではなかった。でも、面談が終わってからしか、素直に聞けないこともあるものだった。

 

倫理担当は、少しだけ考えた。

 

「三つ、あります。」

 

「はい。」

 

「ひとつ。次回も、あなたはやらかします。」

 

「……はい。」

 

「ふたつ。やらかしたあと、やらかしを隠さないでください。」

 

「はい。」

 

「みっつ。」

 

彼は、ほんの少しだけ微笑んだ。たぶん、微笑んだ。

 

「次回、行きたい場所に、『まだ決められない』と言う権利を、あなたは持っています。」

 

「……決めなくていい、ですか。」

 

「はい。」

 

「行きたい場所がたくさんあって決められないのと、行きたい場所がひとつもなくて決められないのは、まったく別のことです。」

 

「……」

 

「あなたの『決められない』は、前者です。」

 

「……はい。」

 

「それは、転生して数百年のあなたにとって、たぶん、初めて訪れた種類の『決められない』です。」

 

「……」

 

「それを、大事にしてください。」

 

私は、うつむいたまま、声が出なかった。

 

倫理担当は、静かに部屋を出た。

 

扉が、閉まった。

 

面談室には、私と、白い机と、灰色の椅子と、青白い照明と、記録に残された複数のやらかしの一覧と、それを上回る数の人類側の私信が残った。

 

 

私は、しばらく席を立てなかった。

 

面談が終わったあと、席を立てない、という現象は、前世でも確実に存在した。

 

立てないまま、私は、天井の照明をしばらく見上げていた。

 

青白い、影のない光だった。

 

地球のコンビニの蛍光灯の、白々とした光を少しだけ思い出した。

 

三日前まで、私は、あの光の下でポテトを受け取り、最新の漫画を受け取った。

 

それは、銀河間初接触の一幕として記録された。

 

それは、元地球人の小市民的な里帰りの半歩としても、記録された。

 

どちらも、本当だった。

 

どちらかを正しいと決めることは、できなかった。

 

この文明は、幸運にも、どちらも正しい、と書ける場所だった。

 

 

 ――地球側、明け方――

 

 

東京の夜明け。

 

地下会議室から、真帆は地上に上がった。庁舎の玄関を出ると、外の空気は少し冷たく、アスファルトの匂いは、眠っているような薄い匂いだった。

 

官邸の前の坂道を、彼女は一人で歩いた。護衛車は、少し離れてついてきていた。

 

坂の途中に、古い桜の木が一本立っていた。まだ蕾は固く、次に花を咲かせるのは、たぶん次の春だった。

 

彼女は、木を見上げた。

 

次の春。

 

桜が咲くころ、あの個体が、日本の下町のどこかの狭い路地にまぎれて現れるかもしれない。現れないかもしれない。どちらにせよ、桜はいつもの通りに咲く。

 

それで、十分だった。

 

「十分だ」と、彼女は、誰にともなく小さく呟いた。

 

声は、吐く息と一緒に白く消えた。

 

 

同じ時刻、連邦首都。

 

リードは、窓のない執務室の壁を、指先で軽く叩いた。叩いてから、自分でもなんで叩いたか分からなかった。

 

「一年後か」と、彼は、独り言を言った。

 

「はい」と、レイノルズは答えた。独り言に答える習慣は、本来、主席補佐官の職務には含まれていないはずだった。それでも、彼は答えた。

 

「準備するか。」

 

「します。」

 

「国賓じゃないなら、観光として、どう迎えるか、ちゃんと作る。」

 

「はい。」

 

「礼砲は、要らん。」

 

「はい。」

 

「議会合同演説は、要らん。」

 

「はい。」

 

「国立墓地訪問は、要らん。」

 

「はい。」

 

「近所のダイナーで、ハンバーガーとコーヒーでも、いいな。」

 

レイノルズは、初めて口の端を、はっきりと上げた。

 

「大統領。」

 

「なんだ。」

 

「そのアイデア、支持率、上がると思います。」

 

「支持率で、これを決めているわけじゃない。」

 

「分かっています。」

 

「……上がるのか。」

 

「上がります。」

 

「そうか。」

 

リードは、付箋にもう一行、書き足した。

 

『ハンバーガー、塩、少なめ。』

 

塩が少なめなのはポテトとバランスを取るためだ、と、彼は、自分に言い訳した。

 

 

聖都で、朝の鐘が鳴り始めた。

 

鐘は三日前と同じ音で同じ時間に鳴った。

 

街の人たちは三日前と同じ顔で顔を上げた。

 

誰かが言った。

 

「今日も、鐘が鳴るんですね。」

 

「鳴ります」と、隣の人が答えた。「鳴ることをやめる理由がどこにもありません。」

 

「そうですね。」

 

「そうです。」

 

 

 ――少女側、面談室を出た後――

 

私は、最終的に席を立った。

 

扉を開け、廊下を歩いた。

 

廊下の両脇には、扉がいくつも並んでいた。

 

どの扉の向こうにも、誰かがいる。仕事をしている。記録を書いている。誰かの「やらかし」に評価を書きつけている。そして、そのたびに自分の「やらかし」のことを少しだけ思い出している。

 

私は、そのうちの一つの扉の向こうにも、かつていた。たぶん、いまも別の私が、別の扉の向こうで誰かに報告書を書いている。

 

廊下の突き当たりで、私は立ち止まった。

 

窓の外に、共同圏の穏やかな夜景が広がっていた。完璧に設計された光の配置。事故が起きないように丁寧に配置された小さな灯り。

 

美しい。

 

そして、少しだけ物足りない。

 

 

部屋に戻って、私は寝台に身体を投げ出した。

 

天井を見上げた。

 

数百年前、日曜の夜、ワンルームのアパートで同じように天井を見上げたことを思い出した。

 

月曜が来る、と思っていた。

 

来てほしくない、と、思っていた。

 

それでも、月曜は来た。

 

来て、私は起きて、コンビニのおにぎりを食べて、電車に乗って会社に行った。

 

そして、ある月曜に私は、死んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

いま、私は、月曜の前の日曜の夜に似た場所にいる。

 

明日、私はまた扉を開けて仕事をする。誰かに会って誰かに報告をする。誰かの「やらかし」を見て自分の「やらかし」のことを少しだけ思い出す。

 

そういう月曜がまた、来る。

 

来て、私はたぶん次の観光のための書類を書き始める。

 

コンビニのことを書く。

 

地方の駅のことを書く。

 

深夜食堂のことを書く。

 

銭湯のことを書く。

 

書いて、書いて、書いて、そしていつか、また扉を開けて、地球に戻る。

 

 

目を閉じた。

 

瞼の裏に見慣れた小さな光景が浮かんだ。

 

紙袋の底からこぼれた塩の粒。

 

南庭の芝の冷たさ。

 

そして、誰かが差し出してくれた揚げたての細いポテト。

 

「できれば、細いタイプが好きです。」

 

と言った自分の声。

 

「かしこまりました。」

 

と答えてくれた店員役の職員の少しだけ緊張した声。

 

あの時私はただの元地球人だった。

 

次に行くときも私はただの元地球人でいたいと思った。

 

 

眠りに落ちる寸前、私はもう一度、心の中で呟いた。

 

「次は、コンビニに行きたいです。」

 

誰にでもなく、言った。

 

誰に、でもなく言ったのにたしかにそれは誰かに届きそうな気がした。

 

たぶん、それは数百年前の前世の自分、だった。

 

 

翌朝、共同圏の朝の定時の柔らかい光が部屋の窓を透過して寝台の上にきれいな四角形を作っていた。

 

私はいつもの時間に目を覚まし、いつもの手順で身支度を整えた。

 

制服の袖を少しだけ几帳面に折った。

 

前世で教わった通りに。

 

そして、扉の前で立ち止まり、鏡を見た。

 

鏡の中の銀髪の少し疲れた、しかしどこか前よりも少しだけ柔らかくなった顔がこちらを見返した。

 

私は、自分に小さく会釈をした。

 

「おはようございます。今日もよろしくお願いします。」

 

前世語で言った。

 

鏡の中の私はほんの少しだけ口角を上げたように見えた。

 

 

扉を開けた。

 

廊下は昨夜と同じ穏やかな光で満たされていた。

 

私は、その光の中を歩き始めた。

 

歩幅は観光客のように。

 

まだ、少しだけぎこちなく。

 

それでも、たしかに、前に。

 

 






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