10日間の問い   作:三日月ノア

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ということで番外編のラストです。


その3 「ただいま」も「おかえり」も違う

 

 

何度目かの、と数えはじめた時点で、もう最初ではない。

最初ではないものに、人は少しずつ優しくなる。

そして、少しずつ、雑にもなる。

 

 

記念撮影はもう撮られない、というのは嘘で、少し撮られる。

 

空港の到着ロビーで、背中の翼が一瞬だけ蛍光灯にきらっと反射したのを、十代の女の子が斜め後ろからスマートフォンでさっと撮った。画面の中に収まった私は、思ったより眠そうな顔をしていた。前世の、午前三時にコンビニで肉まんを買っていた頃の顔に少し似ている。

 

それで、いいのだと思う。

 

最初の頃は、誰かが私を撮るたびに世界中のサーバーが瞬間的に発熱していた。いまはせいぜい、その子のタイムラインで「アンドロ見た」の七文字と、画質の粗い写真が流れるくらいだ。五分後には、同じ画面の下のほうで、新作のチョコレートの広告が動いている。

 

何度目か、と数えながら、私は自分の歩幅を数える。

 

一、二、三。

 

まだ観光客のリズムだ。それでいい。使節の歩幅で空港を歩く必要は、もう、あまりない。

 

 

成田の入国審査には、いつの間にか見慣れない区画ができていた。

 

案内板の隅に、銀河共同圏の標章を簡略化した小さな記号が貼られている。ただの白い鳥の翼を、ひどく抽象的にしたような意匠。共同圏の本部では「ちょっと可愛すぎない?」と誰かが言っていたと聞いたけれど、結局この意匠が採用された。地球人にわかりやすいように、というのが理由だった。

 

私にも、わかりやすい。

 

専用レーンの手前で、制服の女性が一礼した。二十代後半くらいだろうか。緊張しているのが、手の指先の微妙な硬さでわかる。それでも、初めての頃の担当官のように、声が上ずったりはしない。

 

「お帰りなさいませ。特別記号付き身分証をお願いいたします」

 

お帰りなさいませ、と来た。

 

この一文で、世界の空港のうちの一つが、私に対して「帰ってくる場所」と定義されたことになる。それが政治的にどれほど重い選択だったかを、私はたぶん過小評価している。

 

私は、前世の感覚に引きずられて、軽く会釈を返した。

 

「どうも、お世話になります」

 

自動的に出てきたその挨拶が、前世の営業職の残滓なのか、社畜一般の癖なのか、私は自分でも分けられない。たぶん両方で、両方ともが私だ。

 

身分証は、銀河共同圏発行のほうと、地球側で独自に用意したもののほう、二種類を出す。地球側のほうは、名前の欄に「アンドロレア(通称アンドロ)」と書かれている。通称のほうが本名より目立つ書類は、社畜時代にもよくあった。「部長」と肩書きだけで呼ばれて、下の名前は誰も思い出せない、みたいな。

 

「確認いたしました。本日より三日間の滞在、各地への移動計画はお手元の通りでよろしいでしょうか」

 

「はい。追加があれば、現地でご連絡します」

 

「承知いたしました」

 

それから担当官は、ほんの少し早口で付け加えた。

 

「あの、ご滞在中に、お時間があれば、空港内の売店で、限定のフィナンシェを、……すみません、職務外でした」

 

「お勧めですか」

 

「……はい。個人的には」

 

「帰りに、寄ります」

 

担当官の肩が、ほんの少しだけ下がった。緊張が抜ける、というより、別の緊張に入れ替わる。売店の店員に説明する緊張のほうへ。人間は、緊張の種類を、たぶん絶え間なく入れ替えて生きている。

 

私は、そこが好きだ。

 

 

迎えの車は、黒塗りの二台と、前後に控える護衛車両の構成だった。最初の頃より、車列が短い。最初の頃は、首都高の一区画を一時封鎖してまで移動していた。いまは、一般の交通の流れに混ざりながら、ごく静かに走る。

 

首都高の左側に、見慣れた景色が流れていく。

 

この景色、前は違う時間帯でばかり見ていた。

 

前世の私は、深夜バスや、午前二時のタクシー、あるいは休日出勤帰りの朝の首都高しか知らなかった。いま、午後一時過ぎのやわらかい光の中で、同じ高架を走っている。

 

ビルの屋上に、銀河共同圏との合同会社を立ち上げたテック系企業のロゴが見える。学校の総合学習の一環で、生徒たちが校舎の屋上から空に向けて描いた歓迎メッセージも、衛星画像で何度か話題になった。いまは消えかけていて、誰も書き直していない。書き直さなくていい段階に入った、ということでもある。

 

助手席で、警備主任が無線で短いやり取りをしている。

 

「二時五分到着予定。経路Bのまま。異常なし」

 

「異常なし」の頻度が、ものすごく高くなった。最初の頃は、一秒ごとに何かの異常が報告されていた。異常の中身は、だいたい「SNSで切り抜かれた動画」か「どこかの国のテレビがまた煽った」か、そういうものだった。

 

異常と、日常の、境界線。

 

それが、だんだん手入れされたフェンスみたいに明瞭になってきている。政治がやったのか、メディアが学習したのか、人々が飽きたのか。全部だろうと思う。

 

前世の、忘れていた言葉が浮かぶ。

 

祭りはいつか、片付けられる。片付けられた後の、ちょっと寂しい広場が、本当の広場だ。

 

 

官邸の応接室には、以前と少しだけ違うものがあった。

 

テーブルの端に、小さな花瓶に一輪、白い菊が生けられている。菊の季節ではないはずだった。たぶん、温室のものだ。

 

「……菊ですね」

 

「園芸担当者の判断でして」

 

城崎首相が、律儀にそう答えた。それから、少しだけ頬の筋肉を緩めた。私はこの人の、緩めたんだかどうだかわからない顔の変化を、割と読めるようになってきた。

 

鴨下真帆さんが、私の向かい、斜めの席に座っている。前世の会社員時代の上司に、ちょっと似ている。書類の束を持って現れた時の、あの独特の姿勢。背中を丸めないまま、ただ紙の厚さに対してだけ、首が前に出る。

 

「本日の議題は、書類三件、口頭一件、雑談多めで予定しております」

 

「雑談多め、いいですね」

 

「……表記としては、非公式協議、となっています」

 

そう言って、真帆さんは目を伏せた。書類の表紙に書かれた分類は固いのに、中身はほぼ雑談であるような会、というのが、共同圏と日本の間の運用に、いつの間にか定着していた。

 

私たちは、書類にしづらい話を、書類にしない時間を、そう呼ぶことに決めたらしい。

 

城崎首相が、淡々と切り出した。

 

「地位協定の第七条、見直しの件です」

 

「改定案の方向性は」

 

「相互確認事項の追加です。緊急時の通信プロトコルと、公の場での発言に関する注意書き。両方とも、あなたの、というより、共同圏側の担当者の交代があった場合を想定して、です」

 

「わかります」

 

「我々は、あなたをある程度、わかっている。それは、文書化しにくい」

 

「しにくいです」

 

「ですので、文書は、あなたでなくても回る内容にしたい」

 

「賢明です」

 

城崎首相のこの種の言葉に、私はいつも軽く押される。押される、というより、整理される。私の中で、ぐずぐずになっていた感情や立場が、短い一文で区画割りされる感じがある。

 

真帆さんが、表紙をめくって、付箋の貼られた頁を開いた。

 

「ここに、地球側の各国の署名がまとまっております。前回会合の段階で、百九十三か国中、百八十七までが賛同。残り六か国のうち、三か国は条件付き、三か国は保留。保留の理由は、表記上の問題と、主権上の懸念です」

 

「主権上の懸念は、どのように処理を」

 

「処理はしません」

 

「しない」

 

「懸念が残ることを、文面に残します」

 

書類仕事の極意だ。処理できないものを、処理できないまま正確に残す。どちらが正しいかを判定するのではなく、どちらの言い分が記録されたかを残す。前世で、法務部の先輩が似たことを言っていた気がする。契約書って、勝つために書くんじゃなくて、負けた後も続くように書くんですよ、と。

 

私は、ノートパソコンの画面に流れてきた、共同圏側の事務局からの補足を確認した。

 

「共同圏側の意見は、こちらです。全会一致にこだわらず、反対意見が反対意見として存在するかたちで合意したい、と」

 

「それで結構です」

 

「それで、結構です」

 

私は、城崎首相の言い方を真似て繰り返した。前世にも、こういう上司の癖を真似る時期があった。気付くと、口癖が移っている。生き方を真似る気はなくても、言葉は勝手に移る。

 

真帆さんが、手元の書類にペンで印を付けた。

 

「それと、非公式のご相談です」

 

「はい」

 

「あなたの呼称です」

 

「呼称」

 

「国内のメディアや公的文書で、『アンドロレア氏』『アンドロレア特使』『共同圏補佐官』と、まだばらついております。一度、どれか一つに寄せたい、という希望が官房の広報から出ております」

 

「どれがよさそうですか」

 

「……『アンドロ』で、よろしいでしょうか」

 

真帆さんは、ちょっと言いにくそうに、最後の一語を置いた。

 

私は、笑いかけて、やめた。かわりに、指先で、花瓶の白い菊の一枚を、そっと撫でた。

 

「いいですよ。呼ばれ慣れたほうを、使ってください」

 

「正式文書にも」

 

「通称で良ければ」

 

「……では、通称を正式文書に採用する、という表記にします」

 

通称を正式にする、という日本の役所の折衷案が、ものすごく日本らしくて、私は少し肩の力が抜けた。

 

 

官邸から、そのままオンライン会議に入った。

 

窓側の席を借りて、共同圏の端末を開く。画面の向こうは、国連内に新設された、異星文明連絡事務局。通称、連絡事務局。さらに略して、Lとだけ呼ぶ人もいる。アルファベット一文字で呼び始めた組織は、だいたいの場合、制度としてはもう軌道に乗っている。

 

議長役の女性は、インド系の外交官で、かつて気候変動の交渉で名を上げた人だった。声が、きれいに凪いでいる。

 

「本日の議題は、地位協定類似文書の運用レビューと、接触作法の運用指針の改定案についてです」

 

各国の席から、短い発言が続く。

 

フランス代表が、市民の集会での少女への接触事例について、過剰警備が市民側の尊厳を損ねていないか懸念を述べた。ブラジル代表は、南米各国の神学者会議からの要望書を回付した。ナイジェリア代表は、西アフリカの学校での総合学習教材が、英語圏中心に偏っていることへの不満を淡々と指摘した。

 

私は、画面の端に小さく映っている自分の顔を、ほんの少し盗み見る。眉のあたりに、前世の「会議中にうっかり空を見る癖」が、いまもはっきり残っている。

 

「アンドロ補佐官、共同圏側からのご意見は」

 

指名されて、私は言葉を選ぶ。

 

「三点あります。第一に、運用指針は地球側の現実に合わせて、遅くても半年ごとに更新してください。早すぎることはありません。第二に、共同圏の本部では、地球の各地域の声を、英語圏中心で受け取っている傾向がまだあります。ナイジェリア代表のご指摘に、技術的な対応策を検討します。第三に、接触作法については、……」

 

そこで、私は少しだけ、前世の会議での立ち方を思い出した。

 

「……接触作法については、こちらがマナーを決める側に回らないようにしたいと考えています」

 

画面の向こうで、いくつかの国の代表が、ほぼ同じ角度で少し首を傾けた。

 

「それは、どういう意味でしょうか」

 

「マナーを決める側が、結局、権力の位置を決めます。共同圏がそれをやると、いかに丁寧に見えても、ただの上位存在の作法が降ってくることになります。私たちはそれを、前にやらかしました」

 

前にやらかした、の三音が、画面越しにすっと届いた。

 

あの、南芝生の、白い砂のように崩れた銃弾の二発分は、もはや事件名で呼ばれることのない、ただの注意書きとして運用指針に記載されている。

 

議長が、落ち着いた声で受けた。

 

「承知しました。文言案は、地球側各地域の非公式ワーキンググループで、ドラフトを回付する方向で調整します」

 

「よろしくお願いします」

 

「アンドロ補佐官」

 

「はい」

 

「個人的に、一点、お願いがあります」

 

「どうぞ」

 

「この会議の最後に、ノーカメラの休憩を十分入れてよろしいでしょうか」

 

私は、画面を見ながら、小さく頷いた。

 

「毎回、そうしてください」

 

議長の目元が、ほんの少し笑った。

 

ノーカメラの休憩、という外交手順が、制度として定着したら、たぶん地球は前より少しだけ、ましになる。私は、そう思っている。

 

 

午後の予定には、はっきりとした空白があった。

 

私が、事前に希望して、入れてもらった空白だった。護衛は遠巻き、連絡端末は最小限、いちばん目立たない車で、新宿の書店に寄る。

 

書店の、入口の自動ドアを抜けた瞬間の、紙とインクの匂い。

 

この匂いが、前世のOLだった頃の、退勤後のいちばん好きな一時間と直結している。会社から最寄り駅までの道で、寄り道に寄り道を重ねて、たいていは予定より漫画を一冊多く買い、そのぶん晩ごはんをコンビニおにぎりで済ませる。その日一日の中で、もっとも自由意思に近い選択だった。

 

平台の前で、足が止まる。

 

前世に毎巻買っていたシリーズが、まだ続いていた。

 

正確には、第一部が完結して、第二部が始まり、間に外伝が二つ挟まり、著者の代替わりを経て、現在の第三部に至っている。表紙のフォントはもう三回変わった。キャラクターの髪型は、時代ごとの流行を、驚くほど律儀に反映している。

 

私は、最新刊を手に取った。

 

帯の煽り文句に、「ついに明かされる、神々の系譜」とある。

 

数百年のあいだに、どれだけ多くの漫画の帯で「神々の系譜」が明かされたことだろう。人は、秘密を明かすのがとても好きで、しかも明かしたあとに、また別の秘密を置いて、また読者を呼ぶ。前世の編集者たちはそれを、飯の種と呼んでいたと思う。

 

私は、最新刊と、気になっていた別シリーズの新刊と、前から読みたかった短編集を三冊、まとめて持ってレジに向かった。

 

カウンターの女性店員は、一瞬、私の顔を見て、もう一瞬、翼の白を見て、それから、ごく自然に両手で本を受け取った。

 

「カバーは、おかけしますか」

 

「お願いします」

 

「袋は、有料になりますが」

 

「お願いします」

 

前世の、ごく普通の買い物と、同じテンポだった。店員さんの手つきが、ごく少しだけ、普通より丁寧だったことを除けば。

 

袋を受け取る時に、彼女が、ものすごく小さな声で言った。

 

「あの、……」

 

「はい」

 

「サインって、……あ、いいですよね、すいません」

 

「書きますよ」

 

私は、カウンターの端に置いてあったメモ用紙を、彼女のほうへ滑らせた。メモ用紙には、書店のロゴが印刷されていた。店員さんは、ペンを探して、引き出しを開けて、引き出しの奥のほうから油性ペンを出してきて、それからもう一度、

 

「すいません、本当に、すいません、勤務中に」

 

と繰り返した。

 

 勤務、なのだろうか。

 

「大丈夫です」

 

私は、署名らしい署名を、持っていない。前世の筆致を参考に、銀河共同圏で作った、わりとどうでもいい形の署名がある。でも、そこに、ごく小さく「アンドロ」と日本語で添えるのは、地球に来てから覚えた習慣だった。

 

メモ用紙に、その署名と、「いつもおつかれさまです」と一行、書いた。

 

店員さんは、ちょっと笑って、目の下を指の背で拭いた。

 

「勤務中、と、あります」

 

「……え、はい」

 

「おつかれさまは、私から、職務外で申し上げました」

 

「……はい」

 

私は、小さく会釈して、自動ドアを抜けた。

 

自動ドアの向こうで、レジの彼女は、たぶんもう一度だけ、メモ用紙を見た。

 

そのくらいの距離感が、ずっと続けばいいと、私は思っている。

 

 

新宿の雑踏は、最初の頃とは、別の生き物みたいに、私に対して落ち着いていた。

 

すれ違う人のうち、三人に一人くらいが、ちらっと私の翼のほうを見る。見るだけで、ほぼ誰も立ち止まらない。立ち止まる人は、たぶん観光客か、学生か、暇な時間を持てあましている人だ。

 

交差点の信号待ちで、高校生らしい男女の二人組が、私のすぐ斜め後ろに並んだ。

 

「あ、アンドロじゃね?」

 

「マジで」

 

「本人?」

 

「本人だろ。てか、デカくね?」

 

「え、あんま大きくなくね? てか普通くらい」

 

「あ、普通」

 

「普通だな」

 

会話は、その五往復で完結して、信号が変わると、彼らは私の脇を軽快に歩いていった。私の全存在が、「普通」の二文字で処理されたのを、私は、わりと好ましく受け止めた。

 

ファッションビルのショーウィンドウに、私の形を模したマネキンが立っていた。銀髪のウィッグと、白い翼の装飾のセット販売。値札には、「アンドロ風セット・期間限定」。

 

ハロウィンでもないのに、季節限定らしい。

 

コンビニの入口には、共同圏と銀河文明を勝手にモチーフにしたおにぎりが、棚の一角を占めていた。具は、普通の昆布だった。パッケージだけが、銀河風。

 

前世の「コラボカフェ文化」が、ここまで強固に続いているのは、正直、感心を通り越して、ちょっと笑えた。

 

学生の集団の一人が、私の翼の写真を撮ろうとスマートフォンを構えて、隣の子に肘で軽くつつかれていた。

 

「やめな、怒られる」

 

「撮るだけ」

 

「撮るだけ、は、アンドロの前ではやらないんだって、学校で習ったじゃん」

 

ああ、学校で、それ、習うことになったのか。

 

私は、心の中で、ありがとうございます、と、先生たちに向けて言った。

 

 

ビジネスホテルのロビーの片隅で、私は携帯端末を開いた。

 

聖都から、予定通りの通信が入っていた。

 

画面の向こうに、教皇アレクシウス十三世のお顔が、いつも通りの、ほんの少しだけ疲れた、しかしはっきりとした温度を持った微笑みで映っていた。

 

「お疲れさまです」

 

「お疲れさまです、聖下」

 

「本日は、短い時間で」

 

「はい」

 

「祈りを、少しだけ、ご一緒に」

 

「はい」

 

画面越しの沈黙が、数十秒、流れた。

 

私は、聖都に住むこの老人の宗教の、正式な祈祷文を、ほとんど知らない。ただ、この老人が、私と画面を繋いだまま目を閉じて静止している時間を、「祈り」と呼ぶのだという、その運用だけを知っている。

 

沈黙は、無言ではなかった。

 

聖下は、私をこの世界の何か特別な象徴として祈らない。ただ、今日この時間にたまたま同じ地球側で過ごしている一個の存在として、短く、私の名前を口にする。

 

「アンドロ、と」

 

「はい」

 

「呼ばせていただいても」

 

「はい」

 

「よき午後を」

 

「聖下も」

 

沈黙がほどけて、聖下はそのままゆっくりと一呼吸置いたあとで、声を少しだけ変えた。

 

「ところで、個人的な、やや、雑談めいた話を」

 

「どうぞ」

 

「あなたの国の、書類仕事について、少し伺ってよろしいですか」

 

私は、思わず、小さく笑った。

 

「書類仕事について、ですか」

 

「そうです。我々の古い制度も、書類にはひどく手を焼いておりまして。日本の役所の、通称を正式にする、という扱いを、先日、どこかで聞きました」

 

「官邸で、今日、まさに」

 

「ほう」

 

「通称を正式にする、という文面にします、と」

 

「……賢いですね」

 

「賢い、というよりは、疲れている、だと、私は思います」

 

「疲れは、ときに、知恵の別名です」

 

「聖下の言葉は、いつも、あとで効きます」

 

「あとで、よろしいのです」

 

私は、画面の向こうの老人に、深く頭を下げた。聖下も、ほんの少しだけ、頭を下げた。

 

お互いに、同じ角度まで下げないところに、私は、この人の節度を見ている。

 

 

ホテルの部屋に荷物を置いて、シャワーを浴びて、部屋着のかわりに前世風のパーカーに袖を通したあと、また別の通信が入った。

 

リード大統領からだった。

 

画面の向こうのリード大統領は、執務室ではなく、自宅の書斎に見える部屋にいた。壁際に、孫の写真らしい、ごく普通の家庭の写真が飾られている。ネクタイは外してあった。

 

「やあ、アンドロ」

 

「大統領、お休みのところを」

 

「休みではない。私の仕事に休みはないが、今は、休みの格好で仕事をしている」

 

「それは、休みに近いです」

 

「君は、いま、東京か」

 

「はい」

 

「ポテトは、食べたか」

 

「昼に、一度」

 

「細いタイプか」

 

「細いタイプです」

 

「それで、いい」

 

私は、少し笑った。リード大統領の、この「それで、いい」は、前世の上司の「それ、了解」とほとんど同じ重さで、私は、どちらも好きだ。

 

「今日は、取引の話は、しないんですか」

 

「したい、が、しない日を作ることにした」

 

「いつからですか」

 

「妻が、勧めた」

 

「賢明です」

 

「……君」

 

「はい」

 

「孫が、先週、学校で、『アンドロがもし遊びに来たら何を出すか』という課題を出されたそうだ」

 

「それは、重い課題ですね」

 

「そうだ」

 

「何を、出す、ということになったんですか」

 

「チーズと、クラッカーと、オレンジジュースだそうだ」

 

「完璧です」

 

「……そう伝えておく」

 

「どうか、よろしく」

 

「君は、いつ、うちに寄るんだ」

 

「次の次の訪問では、ワシントンに行きます」

 

「じゃあ、次の次に、孫を会わせてもいいか」

 

「もちろんです」

 

「泣くかもしれん」

 

「泣かせないように、努めます」

 

「……アンドロ」

 

「はい」

 

「君、」

 

「はい」

 

「本当に、来てくれて、」

 

そこで、リード大統領は、一瞬だけ言葉を止めた。画面の向こうで、若くない男の人が、ごく短い時間だけ、次の一語を選ぶのをためらっている。

 

「……ありがとう、と、大統領としては言えない。取引の原則に反する。ただ、祖父としては、言える」

 

「はい」

 

「ありがとう」

 

「どういたしまして、です」

 

私は、前世に覚えた、ごく平凡な日本語で、それを受けた。

 

リード大統領は、画面の中で、小さく片手を挙げて、通信を切った。

 

私は、しばらく、ただ、天井を見ていた。

 

取引の原則の話をしていた人が、取引の原則に穴をあけて、穴の中に「ありがとう」を通してきた。

 

穴をあけた分だけ、大統領の仕事は、ほんの少し難しくなるだろう。

 

難しくなったぶんだけ、世界は、ほんの少し、ましになる気もする。

 

 

共同圏の端末に、地球の各地の短い報告が、流れていた。

 

見出しになる予定のない、しかし記録には残る、日常の記述。

 

連邦首都。大統領府南芝生の見学者数、先月比、わずかに減少。見学者の半数以上は、家族連れ。

 

モスクワ。国営放送の夜のニュース枠で、共同圏関連の話題に割かれた時間、二分以下。二分以下、になったのは、先月からの傾向。

 

北京。中央党校の内部研究報告書で、「分類困難な存在との恒常的接触」の章が独立して設置されたとのこと。章名は、まだ正式ではない。

 

ラゴス。中等学校の教員向け研修教材に、共同圏との接触事例を扱った単元が追加。英語のほか、ハウサ語、ヨルバ語、イボ語版の準備中。

 

サンパウロ。先週末のサッカー場の応援幕の一枚に、「アンドロ・ファン」と手書きされていた写真が、広報写真として広報部長の机に届いた。届けた人は、自分の息子の写真だ、と言ったらしい。

 

ムンバイ。映画産業界隈で、アンドロをモチーフにした恋愛映画の企画が、三本同時に進行中。全て、私の許諾を求めないかたちで進んでいる。私は、基本的に、口を出さない方針を取っている。

 

ベルリン。大学の社会学部で、「恒常接触以降の市民意識」に関するシンポジウムが開催。参加者のうち四割が学生。質疑応答で、いちばん多かった質問は、「それで、私たちは、どう振る舞えばいいんですか」だったそうだ。

 

ケープタウン。漁港のラジオで、流れている曲のランキングに、アンドロ関連の曲が、もう入っていない。一時期、上位三曲のうち二曲が、関連曲だった。入っていない、ほうが、健康的だと思う。

 

ソウル。若手のアイドルグループが、新曲の衣装に白い翼のモチーフを使って、一部のファンから「アンドロを消費するな」と苦情が入り、事務所が公式見解を出した。「消費ではなく、敬意です」とのこと。私は、その区別が、とてもむずかしい、と、画面に向かって小さく呟いた。

 

テヘラン。神学校の最高年次の学生が、指導教授との対話録を、少し厚めの冊子にまとめた。表紙に、「存在が疑えないものを、どう信じるか」とある。私は、中身を読む資格があるかどうかは、保留している。

 

イスタンブール。ブルーモスクの外の土産物屋で、「アンドロ柄」と書かれたスカーフが売られていて、柄はほぼただの星空だった。店員さんは、「アンドロの、と、つけると、二倍売れる」と、正直に答えたそうだ。

 

私は、画面をスクロールしながら、前世で読んだ海外の新聞のコラム欄を、ほんの少し思い出した。見出しにならない、地面すれすれの記事。あれが、いちばん、その街を教えてくれた。

 

地球は、いま、その、地面すれすれの記事の中に、私を記述している。

 

記述される側は、たいてい、そのことに、あまり気づかないまま、夕方を迎える。

 

 

夕方になる前に、私は、皇居近くの公園に寄った。

 

ベンチに座って、紙コップのコーヒーを持っている。自動販売機の、温かいほうのボタン。前世の、終電間際にホームでよく買ったやつと、味が同じかどうかはわからない。ただ、手に伝わる温度は、同じだった。

 

散歩の老人が、柴犬を連れて、私の前をゆっくり通り過ぎた。

 

老人は、私の翼を見て、ほんの一瞬、視線を止めて、それからまた、ごく自然に、犬のリードの向きに意識を戻した。

 

犬のほうが、私の足元の匂いを嗅ごうとして、軽く引っぱられた。

 

「こら、失礼だろう」

 

老人は、犬にだけ、小さい声で言った。

 

私にではなく、犬にだけ、注意した。

 

それが、私には、ちょうどよかった。

 

犬は、納得いかない顔で、もう一度、私の足元のほうを振り返って、それから、散歩の道を歩いていった。

 

入れ替わるように、小さい子どもが、ひとりで、とことこと駆けてきた。四歳か、五歳か。母親らしい女性が、少し離れたところから、「待って」と呼んでいる。

 

子どもは、私のベンチの、少し手前で、ぴたっと止まった。

 

「ねえ」

 

「はい」

 

「はね」

 

子どもは、自分の背中を指さしながら、私の背中の方を示した。

 

「本物?」

 

「本物だよ」

 

「ふーん」

 

「触ってみる?」

 

子どもは、少しだけ考えて、首を横に振った。

 

「ふれると、きえる?」

 

「消えないよ。でも、触らなくても、本物だよ」

 

「ふーん」

 

そこで、母親らしい女性が追いついて、子どもの肩に手を置いた。

 

「すみません、本当に、すみません」

 

「大丈夫です」

 

「あの、」

 

「はい」

 

「……息子が、ご迷惑でなければ」

 

「迷惑ではないです」

 

母親は、一礼して、子どもの手を引いて、公園のほうへ戻っていった。子どもは何度か、私のほうを振り返って、そのたびに、母親は、振り返らないように手を軽く引いた。そうやって、子どもは、振り返りたい時期を通り抜けて、そのうち、振り返らなくなる大人になるのだろう。

 

私は、紙コップの縁を、指先でそっとなでた。

 

羽、本物? 本物だよ。

 

この四秒の会話を、私はたぶん、数百年覚えている。数百年覚えていても、子どもは、覚えていないかもしれない。それで、十分だと思う。

 

覚えていてもらうために、私は、ここにいるのではない。

 

 

公園のベンチで、前世の記憶の厚みに、少しだけ沈む時間を、自分に許した。

 

社畜時代の残業帰りの、コンビニのコーヒー。ホットの一番小さいサイズ。深夜の通勤電車のガラスに映っていた、どうしようもなく疲れた自分の顔。年末調整の封筒を、半分忘れかけたまま、会社の郵便受けに投げ入れて走った朝。

 

再配達の不在票を、玄関の外にしゃがんで読んでいた冬の夜。手がかじかんでいて、ボールペンの字が、いつもより太くなった。

 

家賃更新料の請求書。更新してまで住む価値があるか迷いながら、結局、三回更新したアパート。三回目の更新のあとで、季節を二度またいで、私は死んだ。

 

死に方は、ここでは、もう書かなくていい。

 

私は、その全部を、前世として畳んで、共同圏の書類鞄の底に入れて、地球に持って帰ってきている。

 

畳んでいるものは、なくなっているわけではない。畳んで、鞄に入っていて、たまに、こうして、公園のベンチで、そっと開く。

 

前世の私は、たぶん、この公園には、一度も来たことがない。残業帰りに、皇居の内側を歩く時間は、私の生活の中に、一度も組み込まれたことがなかった。

 

いま、来ている。

 

わたしは、ちゃんと、帰ってきている。

 

そう思って、紙コップを、少し、両手で持ち直した。

 

手に伝わってくる冷たさがそれだけで地球らしかった。

 

 

 

共同圏の端末が、定時通信の合図で、ごく控えめに振動した。

 

管理者三体の、合同報告の時間だった。

 

赤に近い白、青に近い透明、黒に近い金の、三つの存在が、画面の中に、抽象的な幾何学模様として並ぶ。表情は持たない。ただ、配色と、輪郭の細さで、それぞれの個性のようなものが、かろうじて区別できる。

 

赤に近い白が、いつものように、いちばん先に話した。

 

「報告事項。あなたの評価記録の、分類変更の件」

 

「はい」

 

「『固有行動残滓』の項目に記録されていた諸挙動群のうち、三分の二が、『固有行動』の項目へ格上げされました」

 

「……格上げ」

 

「はい。残滓、は、たまたま残ってしまったもの、を意味する運用でした。固有行動、は、積極的に採用された挙動群、を意味します」

 

私は、画面に向かって、ゆっくり頷いた。

 

たまたま残ってしまっていた、前世の残骸が、いつの間にか、私という個体の、正式な機能として認定されていた、ということだった。

 

青に近い透明が、補足した。

 

「具体的には、以下の挙動が、対象となります。交差点での過剰な周囲確認。扉を開けた人への『どうも』の定型的発話。レシートを反射的に折り畳む癖。雨の日に自分の靴の音を気にする傾向。会議前に水を一口飲む習慣。窓から遠い席を選ぶ傾向。『大丈夫です』を感謝の返答として用いる語法」

 

「全部、社畜です」

 

「表記上の名称は避けましたが、そのような含意と整合します」

 

「含意と整合、とは言わないでいただけると」

 

「承知しました」

 

青に近い透明は、ごく淡々と、私のツッコミを記録として処理した。その処理の仕方が、もうほとんど愛情のようなもの、と言って差し支えない気が、私は、してきている。

 

黒に近い金が、最後に、静かに言った。

 

「評価記録の格上げは、あなた個体の適応度の向上を示すものですが、同時に、我々からの所見として、付記があります」

 

「お願いします」

 

「あなたが『固有行動残滓』と呼ばれていた時期、あなたは、自分のそれらの挙動を、我々に対して、よく、恥ずかしげに説明していました。『こういう、しょうもないのが、残ってて』と。いまは、あまり、説明しません」

 

「あ、」

 

「我々は、今期、あなたからの『しょうもない』という自己評価の使用回数を、計測しておりました」

 

「……計測してたんですね」

 

「通算、七十一回。直近三か月、二回」

 

「減っていますね」

 

「はい」

 

「意味が、ありますか」

 

「あなたが、ご自身の挙動を、『しょうもない』ではなく、『これが私』と捉え直しつつある、とみなせます」

 

「……自覚は、あまりないです」

 

「自覚のないうちに起きる変化のほうが、たいてい、本物に近い」

 

黒に近い金は、そこで、一拍置いた。

 

「よく、やっておられます」

 

三体は、ほぼ同時に、画面から、ゆっくりと、フレームアウトした。彼らの合同通信にしては、珍しく、やや長い無言の余白を置いて、通信は終わった。

 

私は、ベンチの上で、紙コップを、もう一度、両手で持ち直した。

 

コーヒーは、ぬるくなっていた。前世の、午前二時のコンビニで買って、家に着くころには冷めていた頃の、あの温度に近い。

 

そのぬるさが、私の、いちばん慣れている温度だった。

 

 

夜、ホテルの窓から、東京の光を見た。

 

窓を開けると、三月下旬のまだ少し冷たい空気が、部屋の中に流れ込んでくる。

 

眼下の交差点は、信号が変わるたびに、別のリズムで明滅する。コンビニの看板、ドラッグストアの看板、居酒屋の赤提灯、ファストフードの黄色い光、学習塾の二階の白い蛍光灯。どれも、前世から、少しずつ形を変えて、続いている。

 

前世の私が暮らしていた町の方向を、私は、窓辺で、しばらく探していた。

 

東京の東側の、もう少し北寄りの、山手線の外側の、小さな町。駅から徒歩十三分の古いアパート。家賃更新料のあったところ。

 

その方向は、ちゃんと、ある。

 

ただ、アパートは、もう、ない。

 

取り壊されて、別のマンションが建ち、そのマンションも、建て替えのために一度取り壊され、いまは、三代目の建物があるはずだった。現地に行けば、たぶん、誰も私の名前を思い出さない郵便受けが、きれいに並んでいる。

 

実家も、もう、ない。

 

両親は、とっくに亡く、墓も、一度改葬されて、別の霊園に移っている。姉の子どもの子どもの、そのまた子どもの代に、書類上は、連なっている。私は、その子孫のうちの何人かに、間接的に会ったことがある。会って、何も言わずに、少しだけ遠くから、姿を見せるだけで、帰ってきた。

 

帰る実家は、ない。

 

しかし、この光は、ある。

 

東京の街の、ひとつひとつの光の裏側には、それぞれの人の、その日の夕食と、その日の残業と、その日の諦めと、その日の、ほんの少しの「それでもがんばろう」があるはずだった。

 

それらは、前世の私の、あの残業帰りに、窓の外に見えていた光と、連続している。

 

連続している、ということが、私にとっての「実家」だった。

 

ただいま、は、言わない。

 

言わなくても、着く場所がある。

 

私は、窓枠に、額を軽くつけて、しばらく、そのまま東京の光を見ていた。

 

下のほうの交差点で、たぶん学生の集団が、笑いながら信号を渡っていった。声は、ここまで届かない。ただ、人影の動きで、笑っているのだとわかる。

 

彼らは、私のほうを、一度も、見上げなかった。

 

それで、十分すぎるほど、十分だった。

 

 

枕元の端末が、短く光った。

 

共同圏の事務局からの、翌日の予定の最終確認だった。明日は、成田から共同圏の拠点へ一度戻り、翌々週には連邦首都へ移動。そのあと、アフリカ連合本部と、東南アジアのいくつかの首都を回る。

 

私は、予定表の最後の行に、小さく、自分のメモを書き加えた。

 

「次の日本訪問の、午後の空白を、二時間以上、確保すること」

 

メモは、共同圏の事務局の誰かが、翌朝読んで、「承知」と返してくれる。承知、と、返してもらうだけで、私の心拍は、少し、静かになる。

 

承知を返してくれる組織があるところに、人は、帰ってこれる。

 

前世の会社には、承知を返してくれる先輩が、何人か、いた。

 

私は、その人たちの顔を、いまも、たまに、思い出す。名前は、もう半分以上、忘れた。顔だけが、残っている。名前より、顔のほうが、長く持つことがある。

 

端末を閉じて、ベッドに入って、薄い毛布をかけた。

 

天井の、非常灯の小さな緑の光が、ゆっくり明滅している。

 

私は、目を閉じる前に、もう一度だけ、窓の外の東京の光を、まぶたの裏に焼き付けた。

 

 

翌日、成田のロビーで、昨日のフィナンシェの売店に、本当に寄った。

 

店員の女性は、事前に連絡がいっていたのか、緊張した顔で袋を用意して待っていた。

 

「あの、あの、ご本当に、お寄りいただいて」

 

「お勧めいただいたので」

 

「……もし、よろしければ、他のお勧めも、お一つずつ」

 

「全部、一つずつ、お願いします」

 

私は、共同圏の端末に登録された、地球側のキャッシュレス決済で、きちんと支払いを済ませた。金額は、日本円で、二千円を少し超えた。

 

紙袋を両手に、私は、ゲートに向かって歩き出した。

 

背中の翼が、窓から差し込む朝の光を、受けて、ほんの一瞬、光った。

 

ゲートの手前で、私は、ふと足を止めて、振り返った。

 

ロビーの、売店の前で、フィナンシェの店員さんが、レジの中から、まだ、少しだけ、こちらを見ていた。目が合うと、彼女は、ごく小さく、両手で小さな手を振ってきた。

 

私も、同じ高さで、紙袋を片手に持ち替えて、小さく手を振り返した。

 

それから、共同圏の使節のほうの顔に戻って、ゲートへ向うのだ。

 

 

それで、いい。

 

 

搭乗口の手前だった。

 

窓際の席で、私は、もう一度だけ、端末のスケジュール画面を開いた。

 

次の日本訪問は、三か月後。

 

そのさらに次は、半年後。

 

そのあとは、一年後。

 

訪問と訪問の間隔が、だんだん、広がっていく。近づく時期の終わりと、ふつうに行き来する時期の始まりの、ちょうど境目だった。

 

私は、スケジュール画面の、いちばん近い「日本」の日の、上に、小さくカーソルを置いた。

 

それから、独りごとのように、口の中で、呟いた。

 

「次に、また、来ます」

 

言ってから、口の中で、ほんの少しだけ、句点の位置を、打ち直した。

 

「また、来ます」

 

句読点が一つ、前に出た。

 

次に、が、削れた。

 

当たり前のように、ということになった。

 

ただ、また、来る。

 

特別な目的はなくてもいい。最新刊を受け取るためでもいい。フィナンシェを買うためでもいい。ポテトを食べ損ねたから、今度こそ、でもいい。皇居近くの公園のベンチが、空いていたから、でもいい。

 

挨拶の、続き。

 

最初の十日間で、地球の人たちに問うた、問いは、もう、個別に答えを求めるものではなくなっていた。

 

問いのかたちで、置かれて、そこにあって、私たちは、そのまわりで、だんだんに、暮らしはじめた。

 

問いは、いつか、挨拶になる。

 

挨拶は、いつか、何度目かの、地球の午後になる。

 

 

搭乗案内が、静かに流れた。

 

私は、紙袋を持ち直して、立ち上がった。

 

窓の外に、朝の空港の、ありふれた景色。飛行機が一機、滑走路の端で、静かに加速を始めていた。

 

前世の私は、出張で、何度か、この空港を使った。そのときはいつも、少しだけ憂鬱で、少しだけ誇らしくて、少しだけ、寝不足だった。

 

いまの私は、背中の翼と、紙袋のフィナンシェと、書店の袋の中の漫画三冊を持って、同じ空港を、歩いている。

 

ここに鏡があれば、眠そうな顔をしているだろう。前世とたぶん、あまり変わらない。

 

ゲートの職員の女性が、一礼した。

 

「いってらっしゃいませ」

 

「いってきます」

 

言ってから、私は、ほんの少しだけ、その言葉を、自分の胸に置き直した。

 

いってきます。

 

この言葉を、地球のゲートで、普通に言える日が、来るとは、前世の私は、思っていなかった。

 

思っていなかったことが、こうして、ごくありふれた挨拶として、口から出ている。

 

それが、この何度目かの、地球の午後から、夜を経て、朝に至る時間の、いちばん、静かな結論だった。

 

私は、ゲートの奥へ、歩いていった。

 

紙袋の重さが、手に、ちょうどよく、残っていた。

 

背中の翼が、窓の外の朝の光を、一度だけ、またやわらかく受けて、すぐに、薄暗がりの中へ、すっと溶けていった。

 

 

 

もう一度、この瞬間を確かめるように、呟く。誰にも聞こえないように、呟く。

 

 

 

 

また、来ます。

 

 

 

 

 





番外編含めてここまで読んでくださり、ありがとうございました。
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