10日間の問い   作:三日月ノア

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4日目 ネオテニー効果

  

 

 

――20XY年3月4日、東京/連邦首都/ソウル/メンローパーク

 

 恐怖は、長くは続かない。

 長く続くのは、そのあとに残る癖の方だ。

 画面を見る速さ。通知に触る親指の角度。空を見上げた時に、何かが降りてくる場所として想像してしまう頭の動き。人間はそういうものを、じわじわ体に入れる。

 水曜日の朝、世界はもう、日曜日の世界ではなかった。

 

 検索欄には、ようやく素人にも分かる単語が揃い始めていた。カルダシェフ・スケール。ネオテニー。接触プロトコル。ファーストコンタクト映画おすすめ。昨日までは陰謀論とミームが先行していたが、水曜になると、人は急に“知ってる顔”で怖がりたがる。

 テレビと配信では、SF作家や映画監督のコメントが妙に重宝された。現実の責任を負っているわけではない人間ほど、未知の話を普段から仕事にしているからだ。だが当の本人たちは、だいたい困った顔をした。「侵略でも救済でもなく、観察と交流だけを言い残して、しかも十日後に来る相手」という筋は、既存の人気ジャンルにきれいには収まらない。

 それでも世間は、尺度を欲しがった。だからカルダシェフ・スケールが流行る。Type IIだ、いやIIIだ、そもそもその物差しが古い、という言い争いが一日中続いた。雑な尺度ほど、共有しやすい。

 

     *

 

 午前七時十六分、東京。

 

 山手線の車内は、いつも通り混んでいた。

 押される。詰める。吊り革の前で肩が触れる。ドアのガラスに曇った息が薄く残る。いつもの通勤だ。だが、視線の落ちる先だけが違った。

 

 ほとんどの乗客が、同じ顔を見ていた。

 

 銀色の髪。

 淡い目。

 白い翼のようなもの。

 

 ニュース映像の切り抜き。誰かが色味を整えた静止画。英語字幕を日本語に載せ替えたショート動画。正体不明の作曲者がつけたBGM。速すぎる解説。遅すぎる考察。

 もう情報は足りていた。正確な情報ではない。量の方だ。

 

 スーツ姿の男が、動画を三本続けて見たあと、ニュースアプリへ戻った。ニュースの見出しには、

 

 《来訪者、大統領府訪問を予告》

 《各国政府が接触準備を本格化》

 《防衛・通信系の一部停止、復旧進む》

 

 と並んでいた。

 

 その下に、関連おすすめとして出ていたのは、

 

 《もしも来訪者が新宿に降りたら》

 《彼女の翼は空力的に成立するのか》

 《一時間で描く来訪者メイク》

 

 だった。

 

 現実は、もう一段低い場所で加工され始めている。

 午後には、タイムラインが勝手に文明の等級を貼り始めていた。

 タイプII。タイプIII。いや、恒星系一つでは済まない。銀河規模だ。あの通信停止の仕方ならエネルギー利用は地球文明の桁ではない。

 便利な尺度だった。

 便利すぎる尺度は、たいてい先に流行る。

 

 動画配信者はその図をそのまま使った。

 教育系アカウントは、地球文明はまだ〇・七台だと得意げに解説した。

 匿名掲示板では「じゃあ俺たちは村人Aか」という雑な書き込みが伸びた。

 誰かが数式にしてしまえば、人は少しだけ落ち着く。

 分からないものを、分かった感じの枠へ押し込めるからだ。

 

 SF作家のコメント欄だけ、最初の半日ほど妙に静かだった。

 現実が既存の物語に似ている時、人はまず安心する。

 今回は、その安心があまりもたなかった。

 似ているのは入口だけで、中身が違いすぎたからだ。

 車両の隅で、高校生らしい二人組がスマホを見せ合っていた。

 

「この人、名前まだないの?」

「あるっぽいけど、政府の名前じゃなくてネットのやつ」

「なに」

「アンドロ」

「雑じゃない?」

「でも一発で分かるじゃん」

 

 そう言って笑う。

 笑い声は小さい。だが、日曜にあったあの息を呑む感じはもうない。怖がっていないわけではない。ただ、怖がるだけで三日過ごすのは、現代人には少し長い。

 

 向かいの席では、年配の女性が孫らしい相手にメッセージを打っていた。

 

 “学校いっていいの?”

 “だいじょうぶらしいよ”

 “あの子きれいね”

 

 最後の一行だけ、妙にすっと打たれていた。

 

 列車が池袋へ入る。

 ホームの大型モニターでは、朝の情報番組のコメンテーターが深刻そうな顔で何かを言っている。字幕はもっと深刻そうだった。

 ただ、その横に常設されている広告枠では、コスメ会社の春新作が流れていた。淡い青のアイシャドウ。白い光。目元の透明感。

 意図して寄せたのか、偶然なのか、もう見分けがつかない。

 

 通勤客の一人が、モニターを見上げてから、少しだけ嫌そうな顔をした。

 広告が不謹慎だと思ったのか、ニュースが広告っぽいと思ったのか、自分でもよく分かっていない顔だった。

 

     *

 

 午前九時二分、ソウル。

 

 サラ・キムは、スタジオの照明が点く前に、台本の余白へ小さく二つだけ書いた。

 

 “可愛いは安全ではない”

 “好意は理解ではない”

 

 それで十分だった。

 

 彼女はメディア研究者で、災害時の流言拡散と、視覚表象が不安をどう変形するかを専門にしている。三日前まで、地味な学問だった。地味な学問ほど、危機の後半で急に呼ばれる。

 

 赤いランプが点く。

 司会者が、やや興奮しすぎた声で言う。

 

「世界はなぜ、こんなに早く彼女の顔に慣れてしまったのでしょうか」

 

 キムは一拍だけ置いた。

 すぐ答えると、あらかじめ用意していたみたいに見える。実際、用意はしていた。だが、用意していたことを見せると、話は急に安くなる。

 

「慣れた、というより」

 彼女は言った。

「脳が処理しやすい箱に、急いで入れたんだと思います」

 

「箱?」

 

「人間は、未知のものに会った時、そのまま受け取るのが苦手です。特に顔があるものには、すぐ意味をつけます。幼い、無害そう、美しい、手に負えない、支配的、病んでいる、そういう雑な箱です」

 

 司会者がうなずく。理解したふりのうなずきだ。テレビでは、それで進む。

 

「彼女の場合、大きな目、小さな顔、細い手足、平滑な肌、左右対称に近い配置、淡い色。人間が“保護したくなる”“怖がりにくい”と判断する特徴がかなり多い」

 

「ネオテニー効果ですね」

 

「その言い方でもいいです」

 

 キムは視線を少しだけ横へずらした。モニターに、来訪者の静止画が大きく出る。

 画面の処理が上手すぎた。肌のトーンが整えられ、背景の宇宙が少しだけ暗くされている。テレビは、未知のものまで放送向けに丸める。

 

「ただ、誤解しないでほしいのは」

 キムは言った。

「脳が“可愛い”側へ倒れたからといって、安全になったわけではないということです。人間は、好きになった対象に対しても、簡単に宗教を作るし、依存もするし、攻撃もします」

 

「攻撃も?」

 

「はい。好意は理解ではないからです。思い通りにならなかった瞬間に、嫌悪へ反転することは珍しくありません」

 

 司会者が少し黙る。

 言い方がテレビ向きではなかった。

 

「つまり、世界が落ち着いて見えるのは危険だと」

 

「落ち着いてはいません」

 キムは答えた。

「恐怖の形が変わっただけです。日曜は軍事的な恐怖でした。いまは、意味づけを奪い合う恐怖になっている」

 

 その瞬間、スタジオの奥でスタッフが一人、別の画面を指した。SNSのトレンド欄に、

 

 #アンドロ

 #名前をつけよう

 #会いに行くって何

 #怖くないのが怖い

 

 が並んでいる。

 

 司会者はそれを見て、少しだけ笑いそうになった。

 笑っていいのか分からない時の、あの顔だった。

 

     *

 

 午前十時十五分、メンローパーク。

 

 会議室の壁一面に、投稿数のグラフが出ていた。

 上がり方が雑だった。なめらかに伸びていない。折れ、跳ね、数時間ごとに突き抜ける。人間の興奮が、そのまま線になっている。

 

 リナ・チェンは、グラフより先に、画面右下の小さなカテゴリ名を見た。

 

 fan art

 remix

 doctrine

 pilgrimage

 purification tips

 off-grid commune

 

 最後の二つだけ、嫌だった。

 

「報告を」

 彼女は言う。

 

 コンテンツ・インテグリティ担当の責任者が、資料を切り替えた。

 

「全プラットフォーム横断で、来訪者関連投稿はこの四十八時間で二十七倍です。通常のニュース消費、ジョーク、創作、考察、陰謀論、それぞれ増えていますが、いちばん早いのは帰依型コミュニティです」

 

「帰依型」

 

「崇拝、献身、献金、共同生活への勧誘、自傷行為の示唆を含む群です。宗教と断定できないものも多いですが、機能としてはほぼ同じです」

 

 別の担当者が口を挟む。

 

「問題は、虚偽情報として落とせないことです。対象が実在する。しかも、本人が全世界の画面を掌握したのは事実です」

 

「本人」

 チェンは繰り返した。

「便利な言い方ね」

 

「便宜上です」

 

「分かってる」

 

 彼女は資料をめくった。

 そこには、各国語で作られたコミュニティ名が並んでいた。

 

 新星の園。

 翼の保育室。

 第三腕の姉妹たち。

 アンジェラス2.0。

 アンドロ会。

 接触待機村。

 

 悪趣味なものと、妙に真面目なものが混ざっている。人は、意味が足りない時ほど名札を量産する。

 

「削除基準を作って」

 チェンは言った。

 

「何を軸に?」

 

「崇拝そのものじゃない」

 彼女は即答した。

「子どもを巻き込むもの。医療や教育から人を引き剥がすもの。献金や労働の強制。自傷の指示。共同生活への隔離。まずそこ」

 

「宗教差別だと言われます」

 

「言わせとけばいい」

 

「しかし、既存宗教との整合が」

 

「既存宗教の整合なんて、いつだって後から作ってきたでしょう」

 

 少し強くなりすぎたと思ったが、訂正はしなかった。

 法務担当が慎重に言う。

 

「“宇宙的存在への礼拝”をどう分類するか、前例がありません」

 

「前例がないなら、人体と財布の方から守る」

 チェンは言った。

「教義は後」

 

 会議室が一瞬だけ静かになる。

 会社が巨大になると、こういう瞬間が増える。誰かが、国家より先に国家っぽいことを言う。

 

「それから」

 チェンは続けた。

「ファンアートは落とさない。二次創作も、皮肉も、ミームも。あれは今のところ、安全弁として機能してる」

 

「安全弁?」

 

「怖いものを、そのまま怖いままでは抱えられないから、人は加工するのよ」

 

 彼女は自分の端末を指で二回叩いた。

 そこに開いていたのは、幼稚園児が描いた来訪者の絵だった。頭だけ大きい。翼はチューリップみたいだ。足元には地球と、たぶん犬。

 投稿文には、

 

 “うちの子はもう怖がってません”

 

 と書いてある。

 

 チェンはその文が嫌だった。

 子どもが怖がらないことを、大人が安心材料として使い始めるのは、だいたい早すぎる。

 

 

     *

 

 午後零時四十八分、連邦首都

 

 大統領府別館の会議室には、ふだんなら同じテーブルに座らない人間が並んでいた。

 スミソニアンの学芸員。大手配信会社の制作責任者。ゲーム会社のクリエイティブ・ディレクター。大リーグ機構の広報。ゴスペル歌手。ブロードウェイの演出家。公立図書館協会の代表。若者向け動画プラットフォームの政策担当。

 国家が本当に困ると、急に“文化”を呼ぶ。しかも、いつもは少し見下している種類の文化まで。

 

 会議の議題は雑だった。

 来訪者に、人類は何を見せるべきか。

 その雑さのせいで、逆に本音が早く出た。

 

「正直に言えば」

 配信会社の責任者が言った。

「いま世界で起きていること自体が、すでに一つの文化反応です。政府があとから公式プログラムを作っても、追いつかない」

 

「追いつかないから何もしないのか」

 補佐官が返す。

 

「そうじゃない」

 図書館協会の代表が言った。

「ただ、“見せる”という発想が古いのかもしれない。相手が知りたがっているのが、完成品ではなく、人がどう記憶を持ち、どう語り継ぎ、どう揉めながら生きているかなら、こっちがやるべきなのは上演じゃなくて翻訳です」

 

 大リーグ機構の広報が、半分冗談で手を挙げた。

 

「野球は翻訳になりますか」

 

「なるでしょう」

 学芸員が即答した。

「ルールが恣意的で、時間の使い方が文化的で、統計と迷信が共存している。かなり人間的です」

 

 笑いが小さく起きる。

 その笑いを、補佐官は止めなかった。止めると会議がまた政府の顔に戻る。

 

「問題は」

 若い動画プラットフォーム担当が言った。

「国家が見せたい人類と、人類が勝手に見せている人類の差です。たぶん、向こうは後者をもう見てる」

 

 その一言で、部屋の何人かが黙った。

 国家の準備会合で、国家の外側を指差されると、だいたいみんな少し嫌な顔になる。

 

 補佐官はメモを取りながら、表情を動かさなかった。

 

「なら質問を変えます」

 彼は言った。

「何を見せるべきか、ではなく。何を隠すと、人類が人類に見えなくなるか」

 

 誰もすぐには答えなかった。

 それは良い沈黙だった。

 良い沈黙は、だいたい会議の予定時間を押す。

 

「午後までにガイドライン案を」

 彼女は言った。

「文言はやわらかくていい。でも、やってることはやわらかくしないで」

 

 担当者たちが散る。

 会議室に残ったのは、グラフと、まだ何者でもない信仰の輪郭だった。

 

     *

 

 午後一時四十分、首相官邸。

 

 鴨下真帆は、政府側の資料より先に、夜のうちに蓄積したネットの画面を見せられていた。

 内閣官房の会議室にしては珍しく、資料の半分が紙ではない。スクリーンに、ファンアート、考察動画、切り抜き、宗教団体の声明、広告のバナー、ショート動画のサムネイルが並んでいる。

 国家は、こういうものを前にすると急に弱そうに見える。

 

「整理します」

 情報分析官が言う。

「大きく四つ。創作、考察、信仰、収益化です」

 

「収益化」

 官房副長官補が眉を上げた。

 

「グッズ、広告、課金配信、来訪者関連のドメイン転売、接触セミナー、終末論コンテンツ、開運商材」

 

「早いな」

 誰かが言った。

 

「早いです」

 分析官は答えた。

「ただ、平時からずっとこの速度です」

 

 真帆は、その“平時からずっと”という一言が妙に残った。

 世界が変わっても、変わらない速度がある。むしろ、それがいちばん強い。

 

「問題は何ですか」

 城崎が聞く。

 

「解釈の主導権です」

 分析官が言う。

「政府が“来訪者”“対象個体”“接触予定存在”みたいな語を考えているあいだに、民間側ではもう“アンドロ”で固定しかけています」

 

 会議室の何人かが微妙な顔をした。

 安い。だが強い。たいていそういうものほど広がる。

 

「止められますか」

 外務省の局長が聞く。

 

「止める意味が薄いかと」

 真帆が言った。

 自分で声を出してから、少し驚いた。予定していた発言ではない。

 

 視線が集まる。

 

「……政府用語は政府用語で必要です。でも、一般の呼び名まで管理しようとすると、余計に負けると思います。名前を決めるのは、いちばん偉い場所じゃないです」

 

 城崎が目だけで先を促した。

 

「それに、いま国民がやっているのは、不真面目ではなくて、処理です」

 真帆は続けた。

「描く、名前をつける、笑う、勝手に二次創作する。怖いものを生活の大きさまで下げる作業です。そこを一律に軽薄だと切ると、政府の言葉が先に浮きます」

 

 文科省の幹部が言う。

 

「ただ、学校現場では困っているようです。授業中に来訪者の話しかしない、進路相談で“どうせ宇宙人が来るのに勉強する意味あるんですか”と言われた、絵に翼を描き足す生徒が増えた、など」

 

「それは昔から、別の対象でも起きます」

 城崎が言った。

「問題は、学校が答えを持っているふりをすることの方でしょう」

 

 彼女はそこで、真帆の前に配られていた別の紙を手に取った。

 候補者リスト。看護師、通訳、介護職、物理学者、司書、僧侶、自治体職員、被災地ボランティア経験者、映像翻訳者、保育士。三日前より少し増えたが、整理はまだ雑だ。

 

「このリストも同じですね」

 城崎は紙を見たまま言う。

「国家代表を作るつもりで並べると、すぐ観光案内になる」

 

「では、どうしましょう」

 

「並べる順番を変える」

 城崎は答えた。

「肩書の強さで並べない。役所がふだん後ろに置く仕事を前に出す」

 

 真帆はそれをメモした。

 看護。介護。翻訳。葬祭。被災地調整。学校給食。保育。水道。配送。

 書いていくと、文化庁の資料よりずっと、社会の匂いがした。

 

 そこで、会議室の隅にいた若い職員が、小さく手を挙げた。

 

「総理、ひとつ」

 

「はい」

 

「政府として、ニックネームを使うのは」

 

 部屋が少しだけ和んだ。

 深刻な会議で、たまにこういう雑な質問が必要になる。

 

「使いません」

 城崎は言った。

「でも、国民が勝手に使うのを止める仕事もしません」

 

「その線で行きますか」

 

「名前を取り締まる政権に見えたら、負けです」

 

 笑いが少しだけ出た。

 少しだけで十分だった。

 

     *

 

 午後三時五十分、合衆国首都

 

 大統領府北側のフェンスの外には、三日前より多くの人がいた。

 抗議ではない。歓迎とも少し違う。観光とも言い切れない。人は、大きい出来事の近くへ来ると、とりあえず立つ。

 

 売店のワゴンが二台出ていた。

 片方はホットドッグ。もう片方は、急ごしらえのTシャツ。

 

 WELCOME, WHATEVER YOU ARE

 NO MISSILES, JUST VIBES

 MARCH BELONGS TO HER

 

 ひどい文句だった。

 よく売れていた。

 

 広報スタッフの一人が、その様子を窓から見て、嫌そうな顔をした。

 

「笑い事にしたいんでしょうね」

 

 隣の補佐官が言う。

「そうしないと、平日の午後にここへ立っていられない」

 

「大統領は?」

 

「支持率の数字を見てる」

 

「上がってる?」

 

「質問が雑だな」

 

「雑になるでしょ、こんな週は」

 

 数字は上がっても下がってもいた。大統領本人への支持はわずかに上がった。国家への信頼は落ちた。軍への期待は最初に上がり、すぐ下がった。教会は割れた。科学者への期待は伸びたが、その期待の中身はかなり雑だった。

 “分かる人に何とかしてほしい”。

 危機のとき、人はそうやって専門家を便利屋にする。

 

 国家安全保障担当補佐官のレイノルズは、別室で世論分析の紙をめくっていた。

 そこに書かれているのは、信頼、恐怖、期待、怒り、諦め、好奇心。数字になっていると扱いやすそうに見えるが、触ってみると全部ぬめっている。

 

「軍事的恐怖は鈍っています」

 彼は会議で言った。

 

「いいことじゃないか」

 別の補佐官が答える。

 

「短期的には」

 レイノルズは言った。

「長期的にはまずい。恐怖が下がると、統制の言葉も効きにくくなる」

 

「じゃあ煽るのか」

 

「そう言ってない」

 

 彼は資料を閉じた。

 

「ただ、相手が“怖い敵”でも“助けてくれる神”でもなく、“見たいもの”になり始めると、国家は真ん中を失う」

 

 その言い方は少しだけ気取りすぎていた。レイノルズ自身もそう思った。だが、代わりの文がなかった。

 

 リードはその場にはいなかった。

 別室で、接触準備チームから上がってきた分野一覧を見ている。軍、科学、宗教、エンターテインメント、スポーツ、プラットフォーム、博物館、教育。国家が、自分の外にある権威をかき集め始めると、たいてい負けかけている。

 

 彼は紙を机に置き、窓の外を見た。

 フェンスの向こうにいる人間たちは、彼を見に来ているのではなかった。

 それが少し気に入らない。

 

     *

 

 午後六時二十分、千葉県市川市。

 

 小学校の学童では、宿題の時間があまり機能していなかった。

 先生がプリントを配る。子どもたちは受け取る。受け取るが、書く前に喋る。

 

「先生、翼ってほんとに生えてるの」

「先生、宇宙って音ないんでしょ」

「先生、大統領府って何」

「先生、あの子、日本来るかな」

 

 先生は三つまでは答えた。四つ目で少し詰まる。

 

「分からないけど、今のところアメリカに行くって言ってるね」

 

「なんでアメリカなの」

 

「そこは先生も気になる」

 

 子どもたちが笑う。

 笑ってから、また絵を描き始める。折り紙に、白い翼のついた人。地球の前で浮いている。ハートをつける子もいる。ミサイルを描く子はいない。

 

 帰り際、一人の男児が母親に言った。

 

「ママ、あの子さ、人間じゃないのに、顔は人間にしてきたよね」

 

 母親は靴を履かせながら、少しだけ驚いた。

 

「どうしてそう思うの」

 

「だって、怖い顔でもこれたじゃん」

 

 子どもはそこで終わりにした。深い意味までは説明しない。

 母親は答えに困って、頭を撫でる。

 

「そうかもね」

 

 その返事が正しいのかどうかは分からない。

 ただ、三日前の大人たちより、その子の方が少しだけ正確に見ている感じがした。

 

     *

 

 夜九時四十五分、官邸。

 

 真帆は、一日の終わりに回ってきた海外世論のまとめを眺めていた。

 各国で傾向は違う。宗教色が強い地域では天使だ悪魔だで割れている。アニメ文化の強い地域では、早くも人格や口調の二次創作が大量に発生している。米国では接触をショー化する動きへの嫌悪と、それを見たい欲望が同時に伸びている。南米では奇跡祈願の映像が出回り、欧州では哲学者の長文が誰にも読まれず、東アジアでは考察スレッドが無限に枝分かれしている。

 

 世界は、まだひとつにもなっていないし、同じ方向にも向いていない。

 ただひとつだけ共通しているのは、どの国でも、来訪者がすでに生活のサイズに縮め直され始めていることだった。

 

「怖さって」

 真帆は小さく言った。

 

 隣で資料を整えていた上司が顔を上げる。

 

「何」

 

「維持できないんですね。人って」

 

「維持できたら戦争がもっと少ないか、もっと多いか、どっちかだろうね」

 

 雑な返事だった。

 でも、その雑さが少しありがたかった。

 

 会議室のモニターの端では、ニュース番組が、各国で広がる来訪者関連の創作物を紹介していた。司会者は苦笑いをしている。専門家は“社会的適応の一種”と説明している。画面の中の何人かは、本気でそう思っている。何人かは、そう言っておけば安全だと思っている。

 

 

 

     *

 

 午後八時九分、横浜。

 

 駅前の商業ビルの上階にある雑貨店では、閉店前だというのに人が減らなかった。

 目当ては春物の文房具でもアクセサリーでもない。来訪者モチーフの、非公式の何かだ。

 銀色のリボン。青いアイライナー。白い羽根を模したヘアピン。三日でよくここまで間に合わせたものだと思う。デザインは露骨だが、法務の目をぎりぎりすり抜ける程度には曖昧でもある。

 

 大学一年の由奈は、そのヘアピンを手に取ってから、少し考えて棚へ戻した。

 欲しいわけではない。正確には、欲しいのかどうか自分でも分からない。

 友人たちはもう、来訪者を怖いと言うより、文化祭の準備みたいな熱で話し始めている。動画を作る者、解説に回る者、反感を言語化して伸びる者。世界が変わるときですら、人は役割分担に逃げる。

 

 スマホが震えた。父親からだ。

 

 “遅い。ニュース見るなら帰ってから見ろ”

 

 由奈は少し迷ってから、短く返した。

 

 “見てるのはニュースじゃない”

 

 それだけ送って、会計の列に並ぶ。結局、買ったのはヘアピンではなく、白い無地のノートだった。

 何かを書きたかった。たぶん、うまく説明できないまま始まっているこの感じを、あとで自分のものとして残しておきたかったのだと思う。

 

 レジの店員が、袋詰めをしながら言う。

 

「名前、もう決まりましたよね」

 

「何がですか」

 

「あの子。みんな、アンドロって呼んでるし」

 

 由奈は曖昧に笑った。

 政府も教会も大学も、まだ決めていないことがある。だが、街は街で先に決める。誰が責任を取るわけでもない場所ほど、名前は早い。

 その時、外務省の共有端末に、短い連絡が入った。

 米側の接触準備チームからだった。文化・倫理・社会分野の候補者に加え、ネット文化と大衆表象の分析者も欲しい。理由は書いていない。書かなくても分かる。

 

 真帆は、その文を見てから、少しだけ息を吐いた。

 ようやく追いついたのだ。国家が、三日前には軽薄だと思っていたものに。

 

「増えましたか」

 上司が聞く。

 

「はい」

 真帆は言った。

「画面の向こうで勝手に始まってることが、無視できなくなったみたいです」

 

 彼女は候補者リストに、新しく一行足した。

 

 メディア研究者。

 コミュニティ・モデレーション実務者。

 

 書いたあとで、もう一行追加する。

 

 小学校教員。

 

 冗談ではなかった。

 

     *

 

 夜十一時三分、連邦首都

 

 大統領府の外では、まだ数十人が残っていた。

 スマホを向ける。配信する。祈る。笑う。立ち尽くす。やっていることはばらばらなのに、どれも同じ形に見える夜だった。

 

 西棟の一室で、レイノルズは最後のメモを書き終えた。

 

 “来訪者は軍事的脅威としての恐怖を短時間で失い、視覚消費・信仰・娯楽・自己投影の対象へ移行しつつある。対処を誤れば、国家は安全保障より先に解釈競争で後手に回る。”

 

 官僚文としては、少しきつい。

 だが丸める気にはならなかった。

 

 窓の外では、フェンス越しに若者たちが写真を撮っている。誰かが笑っている。誰かが空を見ている。

 彼らはまだ、何も解決していない。何も知らない。

 それでも日曜より、ずっとこの事態に参加している顔をしていた。

 

 レイノルズはペンを置き、しばらく黙ってから、もう一枚の紙を引き寄せた。

 見出しを書く。

 

 “脅威ではなくなった時、どう統治するか”

 

 嫌な見出しだった。

 だが今夜のアメリカに必要なのは、たぶんそっちだった。

 

 同じ頃、東京のどこかの中学生が、初めて描いた来訪者の絵に、ためらいなく“アンドロ”と書き込んでいた。

 政府はまだ正式名称を決めていない。教会も定義を出していない。科学者は分類を保留している。

 けれど、名前というものは、たいてい一番えらくない場所から決まる。

 

 水曜日が終わるころには、世界の画面の下の方に、もうその呼び名が住み始めていた。

 

 

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