忘却と不忘のアンサンブル   作:川葉

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第十五話:契約

コンクールを終えて、屋敷の重厚な玄関扉を開けると、冷え切った静寂が私を出迎えた。

正面に控えていた使用人が、私の手に握られた証書の筒に目を留め、祝辞か何かを述べようとして口を開きかけるが、私はその言葉を視線だけで制した。

 

一歩、また一歩。私は迷うことなく、長い廊下の突き当たりにある祖父の書斎へと向かった。

 

扉を二度、硬くノックする。

 

「入りなさい」

 

扉を開けると、そこには書棚に囲まれた静止した世界があった。

祖父は大きなデスクの向こう側に座り、入ってきた私を射抜くような眼差しで見つめていた。その机の上には、何らかの報告書が置かれている。

 

「……結果は」

 

「特別賞をいただきました」

 

私は一歩も引かずに、祖父の前に立った。かつてなら、金賞や一位でないことを恥じ、膝を折って謝罪していた。

 

「特別賞か……まぁ、いいだろう」

 

祖父は鼻で笑うことも怒ることもなかった。ただ、事実を冷徹に分析する学者のような口調で続けた。

 

「音楽事務所の社長から、先ほど直々に連絡があった。……今日の貴様の演奏を聴き、その場ですぐにスカウトの話を持ってきた」

 

「スカウト?この私に?」

 

意外な言葉に、私は祖父に聞き返した。

 

「ああ。『今日のステージを観て確信した。豊川ハルという才能が、このままクラシックの古い枠組みの中だけで埋もれてしまうのは、あまりにも勿体ない』とな」

 

祖父が指先で滑らせるように差し出した名刺――そこにある名に見覚えがあった。それは、以前 Ave Mujica との共演、あるいはその周辺のマネジメントに関与していた人物。

 

「もしも……この話を私が断ったら、どうなりますか?」

 

私は冷えた声で問いかけた。祖父の瞳が、僅かに細められる。

 

「そうなれば、当初の予定通りお前は来月にもウィーンへ留学することになる」

 

 

その言葉を聴いた瞬間、背筋に鋭い悪寒が走った。

留学。それではダメだ。海を渡れば、その間に Ave Mujica は、そして祥子は、私の手の届かない場所へ行ってしまう。

 

「そのスカウトの話、お受けします」

 

私は祖父の目を真っ直ぐに見据えて言い放った。祖父は薄い唇を歪め、満足げな、それでいて底知れない冷笑を浮かべた。

 

「賢明な判断だ。ならば、明日この住所に向かうがいい」

 

****

 

翌日の放課後、私はその名刺に書かれていた事務所の無機質な会議室で、冷たい革張りの椅子に深く腰を下ろしていた。

 

目の前に置かれたのは、数枚にわたる契約書。窓の外を流れる都会の喧騒が、この防音の行き届いた空間では、遠い異世界の出来事のように感じられた。

 

「驚いたよ。君のような正統派のサラブレッドが、こんなにも早く首を縦に振ってくれるとはね」

 

デスクの向こう側で、Ave Mujicaの楽曲提供とサポートの依頼の話を持ち出してきた女性が笑みを浮かべていた。

 

「以前、祥子ちゃんから『ハルはまだ実力不足』と聞かされていたけれど、私はそんなことは思わなかったわ」

 

「実力不足……。姉様の耳は、世界で最も正確で、残酷です」

 

私は万年筆を手に取った。重厚な軸の感触。

 

「あの日、姉様が私の音をそう断じたのは、当時の私がまだ、自分の殻に閉じこもった演奏しかできていなかったから……。それは、私自身が一番よく理解しています」

 

一文字、一文字。「豊川ハル」という文字を、自分の墓標を刻むような心地で書き記した。最後の一画を引き終えた瞬間、インクが紙に沈み込み、私はもう後戻りできない場所へと足を踏み入れた。

 

「……終わりました」

 

万年筆を置き、契約書を彼女の方へ押し戻した。

 

「まずは小さな仕事から始めてもらいます。既存の楽曲のストリングスアレンジへの参加、そして数件のプロモーション用のソロ演奏とか……あとは貴女自身を宣伝するための動画も」

 

「分かりました。基礎は大事ですから」

 

事務的な確認を終え、ビルを出ると刺すような夕陽がアスファルトに反射していた。

カバンの中に収まった契約書の控えが、心臓の鼓動に合わせて重みを増していく。私はもう、豊川の家の温室で守られるだけの「人形」ではない。自分の意志で、祥子と同じステージへと足を踏み入れた。

 

(……これでいい。これで、あの場所へ近づける)

 

浮遊感と、それ以上の焦燥に突き動かされるように駅へと向かう道すがら大通りから一本入った、人影のまばらな路地の入り口で、私の足が止まった。

 

「睦?」

 

視線の先にいたのは、制服のまま、あてどなく彷徨うように歩く少女の背中だった。歩くその姿が体のどこか大事な部分が抜け落ちたみたいに、彼女の影が揺れて崩れそうになっていた。

 

「睦、待って」

 

駆け寄り、その肩に手をかける。

ビクッと肩を震わせ、彼女がゆっくりと振り返った。

かつての、感情を排した森のような静かな瞳。けれど今はその奥に深い霧が立ち込め、焦点が定まってなく、疲労と戸惑いが薄くにじんでいた。

 

「ハル…」

 

私の名を呼ぶ声さえも、乾燥した枯れ葉が地面を擦るような、命の削れかすのような響き。歩幅を合わせて横に並ぶと、彼女が抱えるギターケースが私の足に当たり、小さな音を鳴らす。

 

その振動が伝わった瞬間、握り直した睦の指先が、痙攣するように細かく震えているのが分かった。

 

「家まで送る。ギターケースを貸して」

 

そっと、ギターケースに手を伸ばすと睦は力なくふっと息を洩らし、消え入りそうな動作で弱く首を振った。

 

「……行かなきゃ。みんなが……祥が、待っているから……」

 

途切れそうな、けれど強迫観念めいたその言葉。

それは親友を想う情愛というよりは、逃れられない呪縛の確認のようであり、あるいは自分という個を消し去るための唯一の「役割」を反芻しているだけのようにも聞こえた。

 

「そんな調子で練習になんて行けるわけないでしょう?」

 

睦は立ち止まり、抱えたケースをさらに強く締め付けた。その指先が、白く、細かく震えているのが街灯の下で露わになる。

 

「睦さん! やっと見つけた」

 

夜の静寂を切り裂くように、焦燥しきった声が響いた。

振り返ると、スーツを乱した二十代半ばの男性が、額の汗を拭いながらこちらへ駆け寄ってくるところだった。

 

「睦さん、連絡が取れないから心配しましたよ。次の撮影まで、もう一時間切ってるんです。車はあっちに回してありますから、早く!」

 

そう言って、彼は睦の細い腕を強引に掴もうとした。

睦は反応しない。ただ、逃げ場を求める小動物のように、ぎゅっとギターケースを抱きしめて肩を丸めた。

 

私はその手が彼女に触れる直前、無意識に間に割って入っていた。

 

「やめてください」

 

男性が不快そうに眉をしかめ、睦と私を見比べる。その瞳には、一人の少女の疲弊に対する懸念など微塵もなく、ただ「予定通りに動かない駒」に対する苛立ちだけが透けて見えた。

 

「あなたはなんですか?ファンの方ですか?悪いですが今そういうのに構ってる暇ないんで。彼女は仕事中ですから、退いてもらえますか?」

 

「お断りします。彼女、今まともじゃない。見てわかりませんか。これ以上彼女を連れ回すのは、もはや虐待と同じです」

 

「……は?」

 

短く吐き捨てるような声。男性は鼻で笑うとタブレットに視線を落とした。

 

焦点の合わない瞳、震える指先――それでも彼にとっては、分刻みで管理された“撮影スケジュール”の方が、一人の人間の生命活動よりも優先順位が高いらしい。

 

「こちらも困ります。Ave Mujicaの撮影があるので、絶対に来てもらわないと。穴を空けたらどうなるか、分かってるんでしょう?」

 

男性が強引に睦の腕を掴もうと一歩踏み出した。その瞬間、私は睦の前に立ちはだかり、彼の胸元を鋭い視線で射抜いた。

 

「なら、私の姉。Ave Mujicaの豊川祥子に伝言をお願いします。『彼女は私、妹の豊川ハルが預かる』と……」

 

「あ、いや……それは……」

 

男性が毒気を抜かれたように立ち往生した、その時だった。彼のポケットで、電子音が無機質に鳴り響いた。

 

「はい。……ええ、今、睦さんと合流したのですが、その……」

 

男性の顔がさらに青ざめ、彼は震える手でスマートフォンを私の方へ差し出した。

 

「豊川祥子さんからです。代わってほしいと」

 

私は迷わず、その端末を奪い取った。

 

『ハル。そこで何をしていますの』

 

聞き馴染みのある声に、自分の聖域であるAve Mujicaの現場に土足で踏み込まれたことへの、隠しきれない不快感が滲んでいた。

 

「睦を連れて帰ります姉様。今の睦は立っていることさえやっとの状態。このまま撮影を強行しても、良くない噂がまた広まるかもしれない」

 

電話の向こうで、一瞬の沈黙が流れる。祥子が思考を巡らせる時の微かな衣擦れの音が聞こえた。

 

『……睦の体調が、そこまで悪いですの?』

 

「ええ。指先も震え、焦点も合っていない。彼女は壊れかけている……そう言った方が、姉様には伝わる?」

 

祥子は深く、重い溜息を吐き出した。それは妹への呆れというより、計算外の事態を処理しようとする、経営者のような響きだった。

 

『分かりましたわ。撮影の件は、わたくしが何とかします。……それと、ハル』

 

受話器を離そうとした瞬間、低く重みのある声が私を止めた。

 

『睦を、頼みますわ』

 

「……分かっているよ、姉様」

 

私は短く答え、通話を切った。

最後の一言に宿っていたのは、姉としての情愛か、幼馴染を案じる優しさなのか。今の私には、そのどちらとも判別がつかなかった。

 

私は呆然と立ち尽くすスタッフにスマートフォンを突きつけるように返し、そのまま睦の肩を抱き寄せた。

 

「行こう、睦」

 

睦は抵抗しなかった。ただ、毒を抜かれたように力が抜け、私の体温を求めるように小さく身を寄せてきた。

 

人混みを避け、タクシーを拾って睦の家へと向かう車内。睦は窓の外を流れる街灯の光を、焦点の合わない瞳で追い続けていた。膝の上に置かれたギターケースを、壊れ物を扱うように、けれど逃がさないように抱きしめている。

 

「……ハル。ごめん、なさい」

 

沈黙を破ったのは、消え入りそうな彼女の声だった。

 

「謝らなくていい。当然のことをしたまで」

 

「……祥に、怒られる。私が、ちゃんと、できていないから」

 

睦の言葉は、まるで自分に言い聞かせているようだった。

 

「姉様は、怒ってなんかいなかった。むしろ……睦のことを、頼むって」

 

睦の肩が、微かに跳ねた。彼女はゆっくりと私の方を向き、信じられないものを見るような眼差しを向けた。

 

「……祥が?」

 

睦の声は、夜の風にさらわれそうなほど細かった。信じられないというより、自分にそんな言葉が向けられる資格があるのかを疑っているような、痛々しい響き。

 

「ええ。だから今は、その重すぎる荷物を降ろした方がいい」

 

私は睦の震える肩を抱き寄せたまま、タクシーの窓の外を眺めた。やがてタクシーは、都心の喧騒から切り離された静かな住宅街へと滑り込んだ。

 

睦の家に着いた頃には、日は完全に暮れ、夜の深い静寂が街を包み込み始めていた。車を降りた睦は依然として、自分の魂をどこかに忘れてきたような足取りで、私の腕に支えられながら玄関へと向かう。

 

睦から鍵を預かり、扉をゆっくりと開けると玄関の奥から軽い足音がして、慌てた様子のお手伝いさんが顔を出した。

 

私の腕の中で、睦の体がふわりと、重力を失った花びらのように崩れ落ちた。私は必死に彼女を抱き留め、そのまま廊下へ膝をついた。

 

「睦! しっかりして!」

 

奥からもう一人の女性が駆けてきて、二人がかりで睦を支えながら階段の奥へと連れていく。睦は振り返ることなく、その背中は影に吸い込まれるように消えていった。

 

私はひと息つき、屋敷に帰ろうとした時、先ほどのお手伝いさんに呼び止められた。

 

「外はもう、随分と暗くなってまいりました。お嬢様も、このような状態でハル様が帰られるのを心細く思われるでしょう。……もしよろしければ、今夜はこのまま、こちらでお休みになってはいけませんか?」

 

「ですが、急にお邪魔してはご迷惑では……」

 

「とんでもございません。旦那様も奥様も、今日はお仕事で戻られませんので。お嬢様も、お一人よりは……」

 

祖父が今夜は屋敷に帰らないことを思い出した。一泊ぐらいならバレないだろう。何より、祥子に「頼む」と言われた以上、このまま彼女を一人にするわけにはいかない。

 

「分かりました。お言葉に甘えさせていただきます」

 

私は首を縦に振り、睦の部屋がある二階へと視線を向けた。今夜は、彼女の傍に居なければならない。祥子の言葉を思い出した。

 

『睦を、頼みますわ』

 

あんなにも冷酷に私を突き放し、他人として振る舞おうとしていた姉が、睦のこととなると、かつての響きを微かに漏らす。

 

私には見せない顔。私には預けない信頼。

それが睦に向けられていることへの、言いようのない羨望と、微かな安堵が胸の中で混ざり合う。

 

(姉様、貴女が守りたいものは、私じゃなくて彼女なのね……)

 

暗い部屋で、私は自分の左手を見つめた。契約書にサインした指先が、まだ微かに熱を持っている。私が足を踏み入れたこの世界で、彼女はどんな顔をして私を迎えるのだろうか。

 

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