祖父の力で休業期間は直ぐに終わった。
復帰早々に私を待っていたのは、映画か何かに使う曲の収録。そして──
「お疲れ様です。豊川さん」
首周りのストレッチをしていると二十代ぐらいのスタッフが駆け寄ってきた。
「あのAve Mujicaの件ですが、何か知っていますか」
(あぁ……またこの質問か)
Ave Mujicaが活動休止を発表して、初めて表舞台に出てきた私に対して、このスタッフ同様に関係者は挨拶のついでにAve Mujicaや祥子の事を聞かれた。
「すみません。私は何も知りません」
『何も知りません』この言葉を今日は何度口にしたのだろうか。
「そうですか……では、わか──」
「おい!そこで何をしている!こっちを手伝え」
中年ぐらいの男性の声を聴くとそのスタッフは頭を下げて去っていくと、入れ替わる形でマネージャーがやってきた。
「ハルさん、お疲れ様です。復帰早々体調の方はいかがでしょうか?」
マネージャーの問いに、私は反射的に口角を上げた。左目の傷は濃いめのメイクと前髪で完璧に隠しているが、今日の朝から気になったことがあった。
着替えの際、ブーツを履く時に感じた違和感。いつもならスッと入るはずの足首のあたりで、妙な窮屈さを覚えた。指先でそっと触れて確かめてみると、足首からふくらはぎにかけてのラインが、以前よりも明らかにむくみというべきなのか。ぼんやりと膨らんでいるように感じた。
「ハルさん?どうかされましたか?」
「いえ、何でもありません。運動していなかったせいなのか、少し疲れちゃったみたいで……」
マネージャーは私を気遣うように、小さく眉をひそめた。
「そうですか……。今日は復帰初日ですし、思った以上に気疲れもしているはずです。今日はまっすぐお屋敷に戻って体を休めてください」
マネージャーは手元のタブレットを操作し始めた。しかし、その指が不自然に止まり、表情から瞬時に険しくなった。
私は怪訝に思い、彼女に近づいたその時だった。彼女のタブレットには『若葉睦』という文字が見えた。
「ハルさん、これは……」
「見せてください」
マネージャーは観念したようにタブレットを差し出した。画面には、SNSの悪意に満ちた文字列が溢れていた。
『若宮睦、失踪か?』
『Ave Mujica休止の責任を負わされて……』
画面の中では、睦の無表情な顔写真に、卑劣な憶測や誹謗中傷が踊っている。そのノイズの塊を、私は呼吸を忘れて見つめた。
「ハルさん……大丈夫ですか?」
マネージャーの動揺した声が、私の思考を現実へと引き戻した。
「大丈夫です。ネットの書き込みなんて、半分以上が嘘ですから」
私は努めて淡々と、自分に言い聞かせるようにそう答えた。
「そうですね……。ネットの噂なんて、時間が経てば、世間からはすぐに忘れ去られていきますから……」
マネージャーは私を安心させようと、作り笑いを浮かべてそう付け加えた。
けれど、私の心はその言葉に微塵も救われなかった
「それはAve Mujicaも同じですか?」
「えっ……?」
マネージャーはハッとしたように驚いた表情をした後、気まずそうにすっと目を逸らした。
「いえ、なんでもないです。忘れてください」
私は近くにある椅子に腰を下ろし、震える指でスマートフォンを取り出した。画面の明るさが、今の私には酷く暴力的に感じられる。私は睦の連絡先をタップした。呼び出し音だけが、虚しく響き続ける。
(睦……)
マネージャーは少し離れた場所で、次のスケジュールの調整に追われている。私は意を決して彼女の袖をそっと引いた。
「お願いがあります。私を睦の家に送ってくれますか」
「えっ……でも、今はもうお休みになられた方が……」
「お願いします」
私は遮るように言葉を重ねた。
「あの子に何が起きているのか、自分の目で確かめなければ……私は、これ以上『何も知らない』と嘘をつき続けたくないです」
彼女はためらいがちに頷いた。
「……分かりました。ですが、くれぐれも無理はしないでくださいね」
事務所の車へと向かう廊下を歩いていると廊下の角で、スタッフたちが声を潜めて談笑しているのが耳に入る。
「おい、聞いたか? あの豊川の娘、戻ってきたらしいぜ」
「え、それって活動休止した方?」
「違う違う。妹の方」
「あー……あの人って変だよな。この前の収録も朝から夕方までぶっ通しだったけど、笑いもせずに淡々とやってたし……」
「姉の方もそんな感じだったし、姉妹揃って異常だぜ」
彼らの薄汚れた嘲笑が、鼓膜を容赦なく刺す。
廊下の窓から外を見る。少し前まで華やかなAve Mujicaのポスターが掲げられていた場所には、別のアイドルの新しい看板が掲げられていた。記憶の中の景色と、目の前の現実の乖離。
(……世界が歪んでいる)
残暑が残る午後の気だるい空気のせいだろうか。人も、街も、まるで溶け出したロウソクのように歪んで見えた。世間という名の『化け物』は、少し前まで崇めていた偶像をいとも簡単に引きずり下ろし、踏みつけ、その上には新しい偶像を置く。その異常な速度に、私は激しい目眩を覚えた。
車に乗る事十分、睦の家の前へ到着すると私は車を降りた。
マネージャーが窓越しに「帰りの迎えはどうしましょう」と声を掛けてくるが、私は振り向かずに「帰りは歩いて帰ります」と告げた。
睦が家にいるのかどうか確証はなかったが、私は迷わずにインターホンを押した。
少しの間の後、重い扉が開いた。
「……ハルちゃん」
現れたのは、パジャマの上から薄いカーディガンを羽織った睦だった。
「睦?」
嫌な予感がした。
「睦ちゃんを起こして……」
その嫌な予感は的中した。目の前で涙を浮かべているのは睦ではなく。睦が倒れそうになった夜に現れたもう一人の彼女、モーティスだった。
周囲を見渡した後、私は滑り込むように家の中に入った。家の中は夕方だというのに、カーテンで閉め切った家の中が夜中のように暗かった。
「何があったの?」
「睦ちゃんは祥子ちゃんが倒れて、お見舞いに行ったその時に酷い事を言われて……傷ついて寝ちゃったの」
モーティスの声は震えていた。祥子が病院で私に浴びせたあの拒絶。それを睦もまた向けられた。
「……だから、お願い、ハルちゃん」
モーティスが、私のパーカの袖を震える手で掴んだ。
「睦ちゃんを……起こして」
彼女の瞳から、大粒の涙が零れ落ちる。それは残酷な仮面の裏側に潜む、純粋な、けれど壊れてしまった睦の心の叫びのように聞こえた。
「どうして、睦を起こそうとするの?」
「私にはギターを弾けないから。そうじゃなきゃバンドじゃないって……。だから、睦ちゃんを起こして、ギターを弾いてもらう。そしたらバンドも戻る。……また、みんなで演奏できる」
「みんなで演奏……」
モーティスは必死な形相で頷いた。
「ハルちゃんのヴァイオリンを……聴かせて。あの時、睦ちゃん言ったでしょ? 『また聴かせて』って。ハルちゃんの音なら、睦ちゃんが起きるかもしれない。お願い、ハルちゃん……!」
モーティスの言葉は、幼子の身勝手な願望のように純粋でいて、溺れる者が藁をも掴むような祈りだった。
「いいよ、モーティス。私の目的も、同じだから」
「え……?」
「私もAve Mujicaを甦らせたい。あのマスカレードを、もう一度……。そのためなら、私はなんだってする」
私は背負っているヴァイオリンを手に取り、静かに弓を構えながら瞳を閉じた。
記憶の断片を辿り、かつて豊川の屋敷で幼い頃の祥子が奏でていた古い曲を脳内に響かせる。
弦を擦る音が、静かな部屋に解き放たれた。優しく、どこまでも無垢な旋律。昔の私達の「魂の欠片」を模倣したその音は、暗い部屋を柔らかな光で満たしていくようだった。
最後の一音を鳴らし終えた私は、弓を下ろして目を開けた。
「どう、睦は起きた?」
期待と不安の入り混じった顔で私を見守っていたモーティスは、悲しげに俯き、力なく首を横に振った。
「……だめ。睦ちゃん、ぜんぜん動かない……。まだ、深いところにいるみたい」
部屋に満ちていた幻想的な余韻が、一気に冷え込んでいく。私はヴァイオリンを傍らに置くと、膝を突いてモーティスの視線の高さに顔を寄せた。
彼女が不思議そうに首を傾げた瞬間、私は右手の指を丸め、彼女の滑らかな額に狙いを定める。
――パチン。
「いっ……!」
乾いた音が部屋に響く。モーティスは両手で額を押さえ、大袈裟なほどにのけぞった。
「な、なにするの……ハルちゃん」
「なにって、ただのデコピン。……あはは、そんなに痛かった?」
モーティスは涙目でこちらを睨み、頬をパンパンに膨らませた。
「痛いよぉ……! なんで、急にそんなこと……」
「私のヴァイオリンでも起きないから……案外、こういう単純な痛みの方が、ショック療法でパッと目が覚めるんじゃないかと思ったから」
わざとらしく肩をすくめ、愉快そうに笑ってみせた。
「もう……ハルちゃん、意地悪。睦ちゃん、全然起きないよ」
「そうね。冗談はともかく、デコピン一発で起きるような浅い眠りじゃない事は分かった」
私は立ち上がり、再びパーカのフードを深く被った。
モーティスはまだ額をさすりながら、捨てられた仔犬のような目をして私を見上げている。
「え、もう行っちゃうの?ダメ!睦ちゃんを起こして!」
「うーん……それなら、もう一発いる?」
そう言いながら、再び右手の指を丸めて構えてみせた。
モーティスは「ひっ」と短い悲鳴を上げると、素早い動きで私から距離を取り、ソファの背もたれの向こう側へ身を隠した。
「いらない! 絶対にいらない!」
ソファの影から、額を押さえたままモーティスが顔を出す。その仕草は、今まで見ていた睦とはかけ離れた、あまりにも幼く、必死なものだった。
「冗談だよ」
指の力を抜き、わざとらしくため息をついた。
「ハルちゃんの意地悪、他に睦ちゃんを起こす方法、本当に分からないの?」
「今の私には、これが限界みたい。この音は睦の心には響く音ではなかった」
(……祥子なら、あるいは)
不意に、その名前が脳裏に浮かぶ。
かつて睦が祥子にだけ本当の顔を見せていたように、あるいは祥子の一言だけが睦を動かしていたように。この膠着状態を打破できるのは、私ではなく。睦が求めて止まない本人の言葉だけなのかもしれない。
「姉様なら、出来るかもね……」
思わず口から零れた独白に、モーティスの瞳が怪しく光った。
「それはダメ!」
モーティスは、それまでの幼い仕草を瞬時に霧散させた。ソファの背に隠れていた彼女が再び姿を現したとき、その瞳は怒りで濁っている。
「祥子ちゃんは睦ちゃんを傷つけたんだよ。睦ちゃんはバンドを壊したくなかったのに、祥子ちゃんは自分の事ばかりで……睦ちゃんのことも追い詰めるから!」
「だから、貴女が眠った睦の代わりに表に出た」
モーティスはゆっくりと頷いた。
私は彼女の足元に転がっている童話の本を見て、あることが思いついた。
「でも、こうは考えられない。王子様の口づけで目を覚ます白雪姫みたいに……睦には、祥子の言葉こそが『鍵』になるんじゃないかって?」
モーティスは首を強く振る。その瞳には、祥子に対する深い根雪のような憎悪が渦巻いていた。
「祥子ちゃんが睦ちゃんの事はどうでもいいと思っている。だから、今も祥子ちゃんじゃなくてハルちゃんが来ている。反省していないし、また睦ちゃんに会っても傷つくだけ」
私は言葉を返すことができず、ただ睦の姿を眺める事しか出来なかった。
「姉様が何を考えているのか、私にも本当の事は分からない。でも、バンドを続けるにしても、いずれ彼女たちと相対する日が来る。その時、睦がこのまま眠り続けているわけにはいかない」
モーティスはソファの背を掴み、指先を白く変色させていた。
「また来るから。その時までに、何か睦が心を開くような手がかりを考えておく」
返事はない。私はその場に背を向け、玄関の扉を開けた。
重い足取りで住宅街を抜け、大通りへ出ようとした矢先、前方にある交番の明かりが目に留まった。そこから、ふらつく人影が二つ、よろめきながら出てくるのが見えた。
その横顔を見て思わず、足を止めた。
街灯の黄ばんだ光に照らされているのは、かつて屋敷で誰よりも気高く、優しかった父が今はあられもない姿で祥子に寄りかかっていた。
(姉様……?)
喉の奥から悲鳴が漏れそうになるのを、必死で噛み殺した。
「何故、姉様が父様と一緒に……」
距離が開くのを待ってから、私は音を消して彼らの後を追った。なぜこんな光景を見なければならないのか。なぜあんなにも眩しかったはずの姉が、あんな姿になった父を支えているのか。
歩く速度を調整しながら距離を詰め、時折、祥子が何かを気にして立ち止まるたびに、私は息を殺して電柱や建物の角に身を隠した。
胸の鼓動がうるさい。数分と経たないうちに、肺が燃えるように熱くなり、呼吸が荒くなる。それでも、目の前の祥子を見失うわけにはいかなかった。
ふと、祥子が足を止め、背後を振り返る気配があった。心臓が口から飛び出しそうになる。私は咄嗟に深くフードを被り直し、顔を地面へと向けた。心臓の音がうるさいほど鼓膜に響く。
幸い、彼女の視線は夜の闇を通り過ぎるだけで、私を認識することはなかった。
彼女は再び父を抱え直し、迷いのない足取りで十字路を曲がって消えていく。
私はその曲がり角で、数秒間だけ立ち尽くした。
十字路の先にあるのは、繁華街の喧騒から隔絶された、古びた住宅街だ。街灯の数は極端に少なく、ひび割れたアスファルトが続く。
祥子たちが辿り着いた場所を見て、私は思わず絶句し、その場に立ちすくんだ。
そこにあったのは、かつてこの街の片隅に忘れ去られたような、築数十年は経過しているであろう木造のボロアパートだった。
外壁は剥がれ落ち、窓枠は錆びつき、今にも崩れ落ちそうなその建物は、彼女がかつて住んでいた「豊川」の屋敷とは、あまりにも対極に位置する、ただの「空洞」のような場所に思えた。
(なぜ、こんな所に……)
少しすると祥子だけがアパートから飛び出し、階段を降りてくる。私は電柱の影からその姿を見つめる事しか出来なかった。