体育祭当日。
朝から晴天に恵まれたグラウンドは、すでに生徒たちの熱気で溢れていた。
しかし、ネコのクラス集合場所では、異様な空気が流れていた。
「…………」
ネコは青筋を立て、拳を強く握り締め、地面を睨みつけていた。
ハナコの姿はどこにもない。当日まで来なかった。
「……あのバカ……本当に……」
声が低く震え、肩が小刻みに動いている。
明らかにキレていた。
ユイはネコの体の中で、慌てて宥めにかかった。
「ネコ、落ち着いて!ハナコちゃんにも事情があったんだよ……きっと!」
ネコは唇を噛みながらも、なんとか拳を緩めた。
それでも苛立ちが完全に収まっていないのは明らかだった。
そのとき、グラウンド中央のスピーカーから放送が流れた。
『ただ今より、選手宣誓を行います。各学年代表、副代表の皆さんは、所定の位置に移動してください』
ネコは唇を強く結んだ。
「……仕方ない」
他のクラスメイトたちも気まずそうにネコを見ている。
ハナコがいない今、代表はネコ一人だけだ。
ネコは深呼吸をし、拳を一度開いてから握り直すと、
重い足取りで集合場所から移動した。
『一年生の皆さん、入場してください』
放送が流れると同時に、1年生の四クラスがグラウンドに入場し始めた。
青空の下、ブラスバンドの演奏が一段と高く響き渡る。1年生の入場行進。
各クラス、代表と副代表が並んで先頭を歩く中、ネコのクラスだけは異彩を放っていた。
「1年B組、入場! 本来の代表はハナコさんですが、ご家庭の事情……というかブラジルへの急な渡航により不在! 本日は副代表のノラさんが、クラスの命運を一人で背負っての行進です!」
放送部の竹林くんが、マイク越しにクラスの裏事情を景気よく解説する。
(……ハナコがいないせいで私が1人で行進することになったじゃんっ…!もう!ハナコの馬鹿!!)
ネコは真っ赤な顔をしながらも、ハナコから託されたクラス旗をぎゅっと握りしめ、前を向いて堂々と歩いた。
(ネコ、私がついてるから1人じゃないよ)
「ありがとユイ…その優しさ染みるからこれ終わるまで喋らないで…」
(あ、だいぶ傷ついてるなこれ)
中でユイがネコを励ますが、逆効果だったらしく、ネコは若干半泣きになる。
その次に、学年順の行進となるため、2年生が入場してきた。
続いて2年生、全五クラスの入場。
この学年では、代表と副代表が威風堂々と並び、1年生を圧倒するようなオーラを放っている。そして、ハルが姿を見せた瞬間、グラウンドのボルテージは上限を突破した。
「さあ来ました! 2年生の先頭、2年A組の代表を務めるのはハルさんです! 昨年、数々の伝説を残した彼女が、今年はなんと全競技に出場宣言! 実況席の僕も、彼女の限界がどこにあるのか、この目で見届けたいと思います!」
竹林くんの熱い実況に、全校生徒から「ハルー!」「全部勝っちゃえー!」と怒涛の歓声が飛ぶ。そのあまりの盛り上がりに、後ろに続く3年生たちがまるで背景の一部のように見えるほど、会場の意識はハルに独占されていた。
「ハルは人気だね。登場しただけでこの熱気だよ」
「期待してくれてるって認識でいいかな?ならちゃんと応えないと」
ハルは副代表のコトモと共に前に出ると、中央の壇上に乗り、校長先生の前で、選手宣誓を行い、体育際は幕を開けた。
開会式と選手宣誓が終わり、生徒たちが各競技の準備へと散っていく。ネコはその喧騒に紛れ、校舎裏の目立たない場所へと滑り込んだ。
「……ユイ、ハナコの分まで頑張らなきゃ」
「うん、ネコの責任感、ちゃんと伝わってるよ。ハナコもブラジルから応援してくれてるはず……多分ね」
半透明の姿で現れたユイが、ネコの緊張をほぐすように柔らかく笑う。ネコは大きく深呼吸をして、改めて作戦を確認した。
「ハル先輩は全競技に出るから、2年A組は必ずトップに立つと思う。けど、こっちにはユイがいる。最初は個人だと得点率の低い競技と、頭使う競技が多いから、この時はまだ憑依しない。ユイの出番は綱引きからだと思ってて」
「わかった。無理に全力を出しすぎると、ネコの体が持たなくなっちゃうもんね。序盤はネコのリズムで、でも確実に上位を狙っていこう」
「ハル先輩は『絶対手を抜かない』って言ってた。……それなら、私も全力でぶつかって、あの笑顔を驚かせてやりたい」
ネコは自分の両頬をパン!と叩き、気合を入れ直した。
「行こう、ユイ。体育祭、開幕だよ!」
「うん!!」
二人は視線を交わし、戦場と化したグラウンドへと走り出した。
プログラム一番、クラス対抗リレー。会場の熱気は、第一種目からいきなり最高潮に達した。
1年生と2年生がそれぞれ別のトラックを走っており、学年対抗リレーの前座のような扱いだが、それでもリレーであるためか、最初の盛り上がりとしてはかなりのものだった。
「さあ、第一走者が一斉にスタートしました! 1年生も健闘していますが、注目はやはり2年生、ハル先輩です!」
竹林くんの実況が響く中、バトンを受け取ったハルの走りは、もはや「速い」という言葉では足りないものだった。地面を蹴るたびに、まるで重力を無視しているかのような跳躍。後続の選手たちが止まって見えるほどの加速に、観客席からは悲鳴に近い歓声が上がる。
「……嘘でしょ?」
ネコの内側で、ユイが戦慄したような声を漏らした。
「ハル……あの子、私がいた頃よりずっと、次元が違うくらい速くなってる……。あんなの、もうただの努力だけじゃない……」
ハルは影さえ踏ませぬ圧倒的な独走状態で、2位以下に凄まじい差をつけてゴールテープを切った。その顔には、あれだけの爆走の後だというのに、余裕の笑みさえ浮かんでいる。
一方、ネコの1年B組も、ハナコ不在の穴を埋めるべく一丸となっていた。
「ネコちゃん、お願い!」
「任せて!」
アンカーとしてバトンを受け取ったネコは、ユイの力を借りることなく、自分自身の足で地面を蹴った。毎日の特訓、ユイに教わった効率的なフォーム、そして「ハル先輩に追いつきたい」という一心。
「1年B組、副代表のノラが猛追! これは中々速いぞぉ!!」
ネコは視界が白くなるほどの全力疾走で、見事2位でゴールに飛び込んだ。
「はぁ、はぁ……っ! ……やった、2位……!」
荒い息をつきながら、ネコは遠くで仲間に囲まれるハルの背中を見つめた。自力の限界まで走ったからこそ、あの背中の遠さが、絶望的なほどによくわかる。
1年生だけのリレーで2位だと、その後にハル先輩と対決する学年対抗リレーで1位になれるはずがない。
そんな焦りを悟ってユイはネコを落ち着かせるように口を開く…
「……ネコ、大丈夫。今の走りは最高だったよ。……でも、わかった。ハルに勝つには、やっぱり『普通』じゃダメだ。私とネコ、2人の力がいる」
「わかってるよユイ…でも、まだ今じゃない。もう少し待って」
ユイは秘密兵器。
そのためできる限り温存しておきたいのがネコの考えだ。
第二、第三プログラムはそれぞれユイが出る必要のない得点率の低い競技のため、特に目立った活躍もなく、続いては第四プログラムの綱引き。
この綱引きなのだが…
「さあ、次は全学年合同のクラス対抗綱引きです! 1年B組、副代表のノラさん率いるチームですが……失礼ながら、事前の練習試合では全敗というデータが入っております!」
竹林くんの容赦ない実況が響く。実際、ネコのクラスは文化系や小柄な生徒が多く、パワー勝負では圧倒的に不利だった。練習では、開始数秒でずるずると引きずられ、文字通りボコボコにされていたのだ。
「ネコ、準備はいい? ここが最初の『使い所』だよ」
用具の陰で、ユイが静かに告げる。ネコは大きく頷いた。
「うん。みんなのクラスポイントを守らなきゃ。……お願い、ユイ!」
審判の笛が鳴る直前、ユイがネコの体にスッと入り込む。その瞬間、ネコの細い腕の筋肉が、目に見えないほどの高密度の緊張を帯びた。
『パンッ!』
開始の合図とともに、相手の1年生チームが勢いよく綱を引く。本来ならここで一気に持っていかれるはずだったが、1年B組の最後尾に陣取ったネコが、地面に深く足を食い込ませた。
「……えっ、動かない!?」
相手チームから驚きの声が上がる。ネコの体を通じ、ユイが理想的な重心移動と全身のバネを完璧に同調させていた。たった一人の「重石」が、クラス全員の力を一つに繋ぎ止める。
「今だよ! みんな、引いて!!」
ユイの力に導かれるように、クラスメイトたちが一斉に声を合わせて綱を引く。ユイの全力が発動。ネコの腕からはミシミシと音が鳴るような負荷がかかるが、ユイは限界ギリギリの出力を維持した。
ズズッ……と、圧倒的な戦力差があったはずの1年生たちが、信じられない表情で前へ引きずられていく。
「信じられません! 1年B組、あの『最弱』と言われたチームが、相手チームを圧倒している! ノラさんの踏ん張りが異常です!」
ついにセンターの目印がラインを越え、1年B組の勝利が決まった。
「やったぁぁぁ!」と喜ぶクラスメイトたちの中で、ネコは膝をつき、激しく肩で息をした。ユイが離れた瞬間、両腕に焼けるような熱さと、鉛のような重みが襲いかかる。
(……ネコ、大丈夫!? 思ったより相手の粘りが強くて、時間フルに使っちゃった。腕に相当な負担が……)
ユイが心配そうに声をかける。ネコは震える腕を隠すように自分を抱きしめ、額の汗を拭って笑った。
「……はは、大丈夫だよ、これくらい。ユイのおかげで、みんなあんなに喜んでる。……それに、まだ始まったばかりだもん。このくらいで弱音を吐いてたら、ハル先輩には届かないよ」
強がるネコだったが、その腕はかすかに痙攣を続けていた。その様子を、次の競技の準備をしていたハルが、遠くから少しだけ不思議そうな表情で見つめていた。
○○○○○○○
「さあ! 続いての種目は、毎年数々の伝説を生んできた、男女混合・学年対抗ドッジボールだぁー!」
実況の竹林くんの声が、マイクのハウリングを伴ってグラウンドに響き渡る。
「対戦カードは、1年C組・ノラ選手率いるフレッシュな1年生軍団! 対するは……2年生が誇る『絶対的エース』ことハル選手を擁する、優勝候補の2年A組チームだぁ!」
コートに入ったネコは、対面に並ぶ2年生たちの威圧感に圧倒されていた。女子のハルやコトモこそ親しみやすいが、周りを固める男子たちは1年生に比べて明らかに肩幅が広く、足腰もしっかりしている。
「ねえ、見てよあの腕……。あんなの当てられたら、吹っ飛んじゃうよ……」
ネコと同じクラスの女子たちが、不安げに身を寄せ合う。男子たちも、2年生の体格差を前に、どこか及び腰だ。
「えー、実力差を考慮いたしまして、運営側の判断により、2年生ハルチームは男子を5名減らしてのスタートとなります! これで少しは勝機が見えてくるか、1年生!」
竹林くんの煽りが入るが、1年生たちの表情は晴れない。男子が5人減ったところで、あのハルがコートのど真ん中に立っているのだ。
ハルは穏やかに微笑みながら、「みんな、怪我しないように楽しもうね」と、まるでピクニックにでも来たような柔らかなオーラを放っている。しかし、その足元がしっかりと地を捉え、一切の隙がないことを、運動神経のいい生徒たちは本能的に感じ取っていた。
ハルがいる。それだけで、2年生の陣地は鉄壁の城塞に見えた。
「ネコちゃん、頑張ろうね」
ハルが優しく手を振る。その慈愛に満ちた笑顔の裏にある、底知れない身体能力を知るネコは、ゴクリと唾を飲み込みながら、ユイと共に、運命のホイッスルを待った。
「ねえ、ネコちゃん。ここは代わったほうがいいかも。私が出るよ」
コートの隅で、ユイがネコの耳元でそっと囁いた。だが、ネコは正面に立つハルから目を逸らさず、小声で応じる。
「……ユイちゃんでも厳しいんじゃない? それに、あんたの『力』はもっと大事なところで温存しておきたいの。ここは、私たちがどこまでやれるか試させて」
ネコの頑固さに、ユイは心配そうに眉を下げたが、そのまま試合開始の笛が鳴り響いた。
ハンデとして、最初の攻撃権は1年生のネコチームに与えられたが、結果はかなり悲惨だった。
「オラァッ!」
クラスで一番肩のいい男子が、気合とともにハルチームの男子を目掛けてボールを叩きつける。だが、その豪速球は、2年生男子の厚い胸板の前で呆気なく受け止められた。
「……嘘だろ」
絶望の幕開けだった。
ボールを奪った2年生チームの反撃は、容赦がなかった。彼らの投げるボールは重く、速い。次々とネコのクラスメイトたちが、衝撃音とともにコートの外へと弾き飛ばされていく。
「アウト!」「アウト!」
審判の乾いた声が響くたび、1年生側の人数はみるみる減っていく。圧倒的な力の差に、観客席の教師陣からも「これはちょっと……」「ハンデの意味がないな」と哀れみの声が漏れ始めた。
ネコは必死だった。飛んでくるボールを間一髪で避け、地面を転がり、砂だらけになりながらも食らいつく。
「さあ、試合は序盤から一方的な展開だぁー! 2年A組、一切の容赦なし! これが学年の壁、これが体格の差か! !」
竹林くんの実況が煽るまでもなく、コート内は悲惨な状況だった。
特に2年生の男子陣が牙を剥く。野球部出身の男子が投じる、指にかかった唸りを上げる直球。そしてハンドボール部出身の男子が放つ、独特の回転がかかった重く鋭いシュート。
ーーードシュッ!!
「ぐあぁっ!?」
味方の男子の一人が、腹部にまともに衝撃を受け、その場に崩れ落ちる。悶絶する彼を救護班が抱え出す中、さらに別の一年生が、剛速球を腕に受けて「痛っったい……!」と顔を青くしてコートを去っていく。
「あーっと! 1年B組、負傷者が続出! 2年生のボールはもはや凶器だぁ! 救護班は大忙し、コート内はまさに戦場と化しているぞぉ!」
「みんな、大丈夫!?」
ネコは焦燥感に駆られ、視界の端で倒れていくクラスメイトを見て唇を噛む。このままだと、欠員が出て、次の競技に甚大な影響が出てしまう。
もう人数も半分にまで減らされている。
しかし、ネコに心配している余裕は一瞬たりとも与えられなかった。
「おい、次はあのチビだ! 狙え!」
2年生男子の号令とともに、ネコに向かって複数のボールが同時に襲いかかる。
「やばい…!」
ネコは集中放火を浴びていた。
四方八方からボールが飛んできて、その度に間一髪でかわし続ける。
ボールを一切取ることができず、ただ攻撃を受け続けているため、誰が見てもいずれネコに当たるのは目に見えていた。
ネコは必死に左右へステップを踏んで避けていたが、体力の消耗とプレッシャーで、ついに足をもつれさせた。
「あ……」
ネコが姿勢を崩し、膝をつく。そこを見逃すほど2年生は甘くない。
外野に回っていた2年生男子が、好機とばかりにネコの背中目掛けて強烈なシュートを放った。
「やった、仕留めた!」
誰もがそう確信した瞬間――。
ネコの瞳の奥で、鋭い光が爆ぜた。
「ネコっ!」
ユイの意識がネコの細胞一つ一つに溶け込むように憑依する。
さっきまで怯えていたはずの少女の口角が、クッと不敵に吊り上がった。
――ヒュンッ!
「えっ!?」
直撃するはずだったボールが、空を切った。
ネコは倒れ込む勢いをそのまま回転エネルギーに変え、地面に手をつくと鮮やかな側転を披露。飛来したボールのわずか数センチ上を、重力を無視したような動きでひらりと飛び越えたのだ。
着地したネコは、髪をかき上げながら2年生チームを真っ直ぐに見据える。
「後は任せて。私がなんとかしてあげる」
(あ、あれ?もう入れ替わってる!?)
「なぁ、あいつなんか雰囲気変わったことね?」
「ボール寄越せ。俺が当ててくるわ」
ボールを譲り受け、2年生チームの男子が、ニヤついた表情で至近距離からネコを目掛けて剛速球を放った。周囲の誰もが「終わった」と確信したその瞬間、ネコ(ユイ)は動かなかった。
――バシィッ!
鈍い衝撃音とともに、ボールはネコの胸元に完璧に収まっていた。
「えっ……?」
投げた男子が呆然と立ち尽くす。ハンデがあるとはいえ、2年生の球を女子が真正面から止めたのだ。彼は動揺を隠すように、大柄な体を揺らして強がってみせた。
「……へぇ、やるじゃん。いいぜ、ハンデとして俺は避けてやんないから。投げてこいよ!」
その言葉を聞いたユイは、ネコの唇でニコッと、花が咲くような満面の笑みを浮かべた。
「ありがとう!……じゃあ、お言葉に甘えて」
その瞬間、空気が変わった。
ネコが右腕をしならせると、小柄な体躯からは想像もできないほどの凄まじい旋回エネルギーがボールに宿る。
直撃した2年生男子は、避ける間もなく衝撃で数メートル後方まで吹き飛び、そのままコート外まで転がっていった。
「な、なんだよ今の……!?」
「アイツ、あんなに肩強かったか!?」
動揺する2年生男子たちが、慌てて次の一球をユイに叩きつける。しかし、ユイは軽やかなステップでそれを難なくキャッチ。今度は投げる動作に入ると見せかけ、腕を振り抜く瞬間に手首を捻る。
「なーんてねっ!」
(えっ、俺じゃない!?)
狙われていた男子が身構えた瞬間、ボールは急激に軌道を変え、油断していた隣の男子の脇腹にクリーンヒットした。
「アウト!」
流れるような身のこなしと、狙い澄ました策略。
その鮮やかな無双ぶりに、内野で静かに戦況を見守っていたハルが、思わず感心したように目を細めた。
「すごい……。まるで別人のような動きだね」
「あはは! 面白くなってきたじゃない。完全に流れが変わったわね、ハル」
隣にいたコトモも、不敵な笑みを浮かべて肩をすくめる。
圧倒的な劣勢を一人でひっくり返し始めた「ネコ」の姿に、会場全体の哀れみの視線は、いつの間にか驚愕と期待へと塗り替えられていた。
「さあさあ、風向きが変わったぞ! 1年B組、怒涛の反撃だぁーっ!」
実況席で竹林くんがマイクを握りしめ、身を乗り出す。
「ノラに続け!」
「まだ終わってないぞぉ!!俺たちは!」
ユイが次々と当たる姿を見て、特に1年生の男子が奮起し、負けてられないと言わんばかりにボールを当てて活躍し始めた。
怖がっていたボールも勇気を振り絞ってキャッチを繰り返し、ボールを当てることができたことで自信がつき、さっきよりも数段上の攻撃的なプレイを行うことができていた。
「ノラ選手の覚醒を合図に、沈んでいた1年生男子たちも息を吹き返した! まさに一騎当千、2年生の牙城がみるみるうちに崩されていく! 」
竹林くんの叫び通り、コート内は1年生の独壇場と化していた。ユイが敵を翻弄し、削り取った隙を突いて、味方の男子たちも「いけ!いけ!勝てるぞ!」と鋭い球を投げ込み、次々と2年生男子を外野へ追いやっていく。
(すごいよユイ! プロの選手みたい!)
(えへへ、優勝はこっちがもらうよ!!)
ユイは心の中でネコと笑い合い、足元に転がってきたボールを拾い上げた。そして、ついにその視線を、コートの中央で静かに佇む「最大の壁」へと向けた。
2年A組、ハル。
ハルと目が合った瞬間、ユイの胸がなぜかキュッと締め付けられるような感覚に陥った。
成長した親友の姿に安心と寂しさ、嬉しさという感情が混ざり合い、ユイは止まってしまう。
「行くよ、ハル……っ!」
ユイは地面を蹴り、今日一番の踏み込みから、渾身の力を込めてボールを放った。空気を切り裂くような鋭いシュートが、ハルの正面を捉える。
――ドシュッ!!
鈍い衝撃音が響いた。しかし、期待していた結末とは違った。
ハルは一歩も動かず、避ける素振りすら見せなかった。それどころか、弾丸のようなその一撃を、まるでお手玉でも受け止めるかのように、片手で、事も無げに「パシッ」と受け止めてしまったのだ。
「なっ……!?」
ユイの口から驚愕の声が漏れる。
(絶対当たったと思ったのに!?)
ネコも心の中で悲鳴を上げた。ユイの全力投球を、顔色一つ変えずに無効化したハル。彼女はボールを抱え直すと、困ったような、それでいて慈愛に満ちた微笑みをネコ(ユイ)に向けた。
「ふふ。いいボールだね、ネコちゃん。……でも、私にはまだ、ちょっとだけ届かないかな?」
その圧倒的な「強者の余裕」を前に、ユイは戦慄した。この人、ただ優しいだけじゃない。底が知れない。
「さすがハル選手!!渾身の一撃を容易くキャッチしました!!やはり彼女は強い!!」
竹林くんの実況がのんびりと響く中、ハルは「ネコちゃん、行くよ」と小さく呟き、ふわりと腕を振った。
だが、放たれたボールは実況の予想を裏切り、空気を鋭く引き裂いた。
「っ!?」
ユイの目が見開かれる。ハルにとっては「軽く」投げたつもりなのだろう。しかし、その球速は先ほどの2年生男子たちの全力投球を遥かに凌駕し、重低音を響かせながら一直線にユイの胸元へ迫る。
(やばい……っ! 胸で受けたら、ネコの体が壊れる!)
当初、ユイは衝撃を逃がしながら胸で抱え込もうとした。しかし、網膜に焼き付くボールの回転と凄まじい風圧を前に、本能が警報を鳴らす。
(これ、まともに食らっちゃダメなやつだ……!)
激突の直前、ユイは判断を変えた。胸を引くと同時に、両手を正面へ突き出す。キャッチするというより、剥き出しのパワーを両手のひらで強引に「押さえ込む」ような、捨て身の防御体制。
――ドォンッ!!
「うぐっ!!…こんの…!!!」
衝突の瞬間、ネコの小さな体ごと後ろに持っていかれそうになるほどの衝撃が走る。砂煙が舞い、ユイの足がグラウンドに深い溝を作るほど後退したが、彼女は歯を食いしばり、指が折れんばかりの力でボールの勢いをねじ伏せた。
「捕ったぁぁぁーーっ!! 信じられない! ノラ選手、ハル選手の超弩級のボールをを、その身を挺して完璧にキャッチだぁーっ! 」
「……っ、はぁ……はぁ……!」
ユイは真っ赤になった両手を見つめ、震える膝を叩いて立ち上がった。
さらにジンジンと痺れる手のひらを見つめ、冷や汗を流す。
(……今のは、ドッジボールの重さじゃなかった。ボウリングの球をまともに食らったような衝撃…ハルが本気になったら誰も止められない…!)
リレーで見せたあの超人的なスピードも加味すれば、逃げに回られたら絶対に当たらない。正面から向き合ってくれている今こそが、唯一にして最大のチャンスだった。
(ネコ、ごめん。次はマジで、私の持てる全部を込める。ネコの腕を痛めることになっちゃうかもしれないけど……いい?)
(……うん、いいよ。ユイちゃん。勝とう、私たちで!)
ネコの覚悟を受け取り、ユイは深く腰を落とした。
「はああああああっ!!」
「おぉっとぉ! ノラ選手、全身をしならせてのフルスイング! これが1年生の、魂の咆哮だぁーっ!!」
――ドォォォォンッ!!
ユイが放ったのは、女子の体格を無視した、物理法則を疑うような超豪速球。
あまりの威力に、投げた瞬間の反動でネコの右腕に鋭い激痛が走る。だが、ボールは間違いなくハルの正面を射抜いた。
……しかし。
「・・・」
ハルは、微動だにしなかった。
空気を切り裂くようなその一撃を、ハルは胸の前で、またしても「パシッ」と吸い付くように受け止めたのだ。それも、衝撃を逃がすための後退すら一切せずに。
「……うそ……でしょ……?」
ユイは右腕の激痛を忘れるほど、その光景に愕然とした。
「キャッチィィィー!! 止めた! ハル選手、一歩も引かずに完璧な捕球! ノラ選手の渾身の魔球を、まるで羽毛でも受け止めるかのように、平然と処理してしまったぁーっ! なんという絶望的な実力差かぁ!!」
ユイは息を切らしながら、目の前に立つハルを見上げた。自分の全力すら「余裕」の範疇に収めてしまう親友の姿に、ユイの背筋を冷たいものが駆け抜けた。
竹林くんの絶叫が響く中、ハルがゆっくりとボールを構える。その構えだけで、空気が重く沈み込む。
(ダメだ……次はもう、腕が持たない。まともに受けたら本当に骨がイっちゃう……っ!)
ユイが絶望に目を伏せたその時、数人の男子生徒たちが砂を蹴ってユイの前に躍り出た。
「おい、ノラには指一本触れさせねえぞ!」
「ここは俺たちが食い止める! ノラちゃんは後ろに下がってろ!」
「おおおっとぉ! ここで1年B組の騎士団が登場だぁ! 男子たちが決死の肉壁を形成! これぞ青春、これぞ男の意地だぁーっ!!」
ハルは少し困ったように眉を下げたが、そのまま静かに腕を振った。
――ドォォォォンッ!!
放たれたボールは、もはや一つの塊となって男子たちの防壁を襲った。
一人、二人、三人と、ハルのボールは凄まじい勢いで男子たちの腹部や肩を次々と弾き飛ばし、まるでボウリングのピンのように彼らを砂の上に転がしていく。
しかし、三人分の中継を経たことで、ボールの勢いは辛うじて殺されていた。最後にユイの元へ転がってきたボールを、彼女はなんとか胸元で抱え込む。
「……っ、みんな!」
ユイはすぐさま、自分の身代わりになって倒れ伏した男子の一人に駆け寄った。
(ネコ、この人の名前は!?)
(菊池くんだよ!)
「菊池くん! 大丈夫!?」
「……うぐっ……あぁ。……なんとか、生きてる……。けど、腕、やられたかも……」
菊池は顔を歪めながら、痛む腕を抑えて呻いた。ユイは焦って彼の腕を掴む。
「ちょっと、腕見せて!」
「……え、あ、うん……」
ユイは真剣な顔で、菊池の腫れ始めた腕をじーっと、穴が開くほど見つめた。数秒の沈黙の後、菊池が期待を込めた目で尋ねる。
「……ど、どうだった……? 骨、いってそうか……?」
ユイは、一寸の曇りもない顔で短く答えた。
「わかんない」
「本当に見るだけかい!!」
最終的にユイがキャッチしたため、男子3人はセーフ判定。
しかしハルのボールを受け止めた男子達は当分起き上がれそうにない。
つまり実質3人アウトだ。
「…ハル」
本当に強くなったねと思うユイだが、明らかに強くなりすぎてユイは若干恐怖する。
しかし優しい笑顔をするハルを見て、ユイ自身もぎこちなくも、笑顔になりながらボールを手に持つが、完全に打つ手がない。
「どうしたら…」
ネコとユイは改めてハルの強さを思い知られる。
人数は互角になったが、状況としてはハルチームが完全に優勢であり、ネコ達は満身創痍。
ネコ達はこの切迫した状態を打破できるのか、早くも壁にぶち当たってしまった。