どこまでも深く、吸い込まれるような群青色の夜空には、数えきれないほどの星々が瞬いている。
パチパチと爆ぜる焚き火の音が、静寂な空気の中に心地よく響いていた。
白紙化という未曾有の災厄が世界を覆い尽くす直前、束の間の休息。
人里離れた荒野でキャンプを張るその一団は、もし魔術世界の住人が見れば、その場で発狂してするほどに、あまりにも異常で、あまりにも冒涜的な顔ぶれだった。
焚き火を囲んでいるのは、一人の少年と、四人の美女。
だが、その正体は人類を愛するがゆえに人類を滅ぼす「人類悪」──ビースト。
旧き伝承に依らない、全く新しい九尾に進化する事を命題としていた愛玩の獣、コヤンスカヤ。
全人類を無限の献身で飽和させ、魂を骨抜きにしようとした堕落の魔王、カーマ/マーラ。
「愛の快楽」を独占し、全人類を自らの悦びを刻む苗床と見なした随喜自在第三外法快楽天、殺生院キアラ。
そして、全ての生命の母たる原初の獣、ティアマト。
かつて汎人類史を、そしてカルデアを幾度となく絶望の淵へと叩き落とした怪物たちが、今は一人の少年の傍らで、まるで親しい友人であるかのように寛いでいた。
「……ねえ、みんなはこっちに来て、本当に良かったの?」
不意に、藤丸立香が口を開いた。
その声は、焚き火の熱に溶けてしまいそうなほどに静かだった。
彼は揺らめく炎を見つめている。
「はぁ……何を今更、そんな寝ぼけたことを言っているんですか、あなたは」
最初に反応したのは、コヤンスカヤだった。
彼女はふわふわのロングコートに身を包み、紅茶の入ったカップを口にしてから、心底呆れたように溜息をつく。
「いいですか、マスター。私たちが誰の強制も受けず、自分の意思でここにいることくらい、その貧弱な脳みそでも理解できているでしょう? 今更、本当に良かったのかなんて、私たちがどれほど暇を持て余していると思っているんですか」
「そうですよ。マスターさん、相変わらずおめでたい頭をしていますね」
幼女形態のカーマもまた、不機嫌そうに頬を膨らませて同意した。
彼女は焚き火の熱で温まったマシュマロを串に刺し、それを弄びながら藤丸を睨む。
「私たちがあなたに付いてきたのは、別にあなたのことが好きだからとか、そんな安い理由じゃありません……ありませんよ。何ですか、その微妙な笑みは!?」
「ふふ、相変わらず素直ではありませんわね」
殺生院キアラが、艶然とした微笑を浮かべて割って入る。
彼女は聖母のような慈愛に満ちた表情で、だがその瞳の奥には底知れない欲望を湛えて藤丸を見つめていた。
「マスター。あなたが疑問に思うのも無理はありません。人類の敵である私たちが、何故あなたという個人に与するのか。……それには、特別な理由はありません」
藤丸は顔を上げ、彼女たちの顔を順番に見つめた。
「……どんな理由か聞いても?」
その問いに、コヤンスカヤがは目の前にあるアウトドアテーブルにカップを置いて居住まいを正して答える。
「Aチームが存在するカルデアは、あなたのいたカルデアよりも優れてはいます。ですが、かつて、獣である私たちを打倒したのは、他ならぬ
「それにカルデアは私たちを見つければ、対話するどころか即、処分対象でしょうからね~」
「えぇ、えぇ、まさしくその通り。まぁ、それならもう一度世界ごと滅ぼしてやるだけですけどね」
「やめてね?」
蕩けるマシュマロと格闘しつつ、カルデアと出会った時に何が起こるかを予想したカーマの言葉にコヤンスカヤが同意する。
冗談では済まさない表情に藤丸が口を挟む。
それに対して、コヤンスカヤは笑みを浮かべて答えた。
「ご安心を。やりませんよ。だって──一度世界を滅ぼそうとして失敗した大悪党が、二度も同じ手を使って世界を貶めようとするなんて、悪役としての芸がなさすぎると思いませんか?」
「私はもっと個人的な理由ですよ」
カーマが、意地の悪い笑みを浮かべて身を乗り出した。
「私は、マスターさんを堕落させたいだけ。これから始まる異聞帯の攻略……それは、あなたが想像している以上に過酷な旅路になるでしょう。一つ、また一つと戦場を駆ける度に、あなたの心は削られ、憔悴し、ボロボロになっていく。……その瞬間を、私は待っているんです。心が折れた時、甘い誘惑であなたを包み込み、欲望の海に沈めて、私なしでは生きていけない体に作り替えてあげるために。……あぁ、想像しただけでゾクゾクしますね」
「あら、それなら私もあなたと同じ理由になりますね」
キアラが、アウトドアチェアに体に預け、艶やかな笑みを浮かべて笑う。
自分と目的が同じだと言われたカーマは心底嫌そうな表情をするが、そんなこと知ったことかとばかりに、キアラは口を開く。
「私はあなたが絶望し、救いを求めて私の腕の中に飛び込んでくる日を、心待ちにしています。……特に楽しみなのは、異聞帯をすべて攻略した後に待っている、カルデアとの戦い。あなたの想い人でもあるあの娘が、あなたの知らない誰かと契約し、あなたに盾を向ける。その時のあなたの顔……。あぁ、これがいわゆるNTRというものでしょうか。それともBSS? 禁欲中の身ではありますが、これはこれで面白──」
ドカッ、バキッ、ゴスッ!! 。
キアラの言葉が最後まで紡がれる前に、鈍い音が炸裂する。
コヤンスカヤの蹴りと、カーマの魔力弾、そしていつの間にか背後に立っていたティアマトの拳が、同時にキアラに突き刺さった音だった。
「下劣ですわね、この外道は」
「最低です」
「言って良いことと、悪いことがあります!」
「ふふふ、皆様、少々乱暴ではありませんか?」
地面にめり込んだキアラが、頬を赤らめながら恍惚とした表情で呟くが、全員に無視された。
藤丸は少しだけ表情を和らげ、焚き火を見つめ直す。
「……大丈夫だよ。マシュが別の誰かと契約することになるのは分かっていたことだから」
藤丸が静かに告げると、しんと冷たい沈黙が降りた。
人理修復を藤丸と共にしたマシュ・キリエライト。彼女は間違いなくAチームの盾として立ちはだかって来るだろう。
焚き火の爆ぜる音が、やけに大きく響く。その火を見つめる藤丸の横顔を、コヤンスカヤが冷徹な、けれどどこか試すような瞳で射抜いた。
「──それで、あなたは戦えるのですか?」
氷のように冷ややかな問いかけ。
コヤンスカヤは脚を組み替え、無防備な少年へと現実を突きつける。
「いいや、戦う理由なんてないよ。俺にとって、カルデアは敵じゃないから」
「おめでたい思考ですこと。ですが、向こうは違います。今のカルデアは、あなたの知るカルデアではなく、
絶望を煽るような言葉の刃。だが、藤丸は揺らがなかった。視線は焚き火の奥、遠い未来の戦場を見据えているようだった。
「……もつかどうかは、やってみないと分からない。でも、越えなきゃいけない壁だ。超える壁が高いからって、諦める理由にはならないよ」
短く、けれど芯の通った言葉。その答えに、ティアマトやカーマも、それぞれの想いを瞳に宿して彼を見つめた。藤丸は一度深く息を吐くと、不意に何かに思い至ったように顔を上げる。
かつて人理焼却の果てに、人として生を全うし、消えたはずの獣。
ふと、彼のことが頭に浮かんだのだ。
「……ところで、一つ聞きたいんだけど、ゲーティアは、どこにいるか分かる?」
その名が出た瞬間、場の空気がわずかに張り詰めた。焚き火の爆ぜる音さえ止まったかのような静寂の中、コヤンスカヤが面白そうに目を細めて口を開く。
「ゲーティア……憐憫の獣ですか。あの方なら今も時間神殿に引き籠っていますよ。私たち動揺、単独顕現を保有するあの方なら、人理編纂や時間逆行の影響を一切受けませんからね。あなたと戦った記憶も、あの敗北の屈辱も、そっくりそのままお持ちでしょう」
コヤンスカヤは、そこにあるはずのない神殿を幻視するように夜空を見上げた。
「一度失敗した計画の焼き直しなんて御免だ、とでも思ったのでしょうか。あるいは……。ふふ、案外、陰ながらあなたの戦いをお見物して応援でもしているのではないですか? あの方なりに」
コヤンスカヤが鼻で笑う。
ゲーティアを揶揄うような、毒のある軽薄な言葉。だが、それを聞いた藤丸は真面目な顔でぽつりと呟いた。
「……そっか。それなら、後でお礼を言いに行こうかな」
「ちょっと、止めなさい! 本気で死にたいんですか!?」
それまで余裕を崩さなかったコヤンスカヤが、藤丸の言葉で一気に血相を変えて立ち上がる。
「あの方に会いに行ったら、不快感のあまり挨拶代わりにあなたを消し炭にしますよ! 魔神柱の中には、いまだにあなたのことを本気で呪い殺そうとしている方々がひしめいているのをお忘れですか!? それが分かっているから、あの方もわざわざ姿を隠しているんです。藪をつついて蛇を出すような真似は厳禁です!」
コヤンスカヤの言葉に藤丸は軽く笑う。どうやら殺し合いになることは自分でも想像できたらしい。
しばらくの間、穏やかな時間が流れる。
藤丸は以前に話していた計画について、コヤンスカヤに問いかけた。
「コヤンスカヤ。俺の計画、本当に問題ないと思う?」
藤丸の問いに、コヤンスカヤは残りの紅茶をゆっくりと飲み干し、火影に揺れるカップを見つめながら口を開いた。
「問題ありません。異聞帯の打ち上げについては、私を打ち出したあのうさん臭い道士の術式を参考にすれば、一番最初の障壁はクリアできます。汎人類史と同等の存在強度を得る手段も、あなたが提示した策であれば、理論上は可能です。……もっとも、それを実行するあなたが最後まで生き残ればの話ですが」
絶対に可能だとは言えない。むしろ、失敗する可能性の方が高いだろう。
藤丸が立てた計画。その一番の難関は藤丸立香が生きられるかどうかだ。尤も、それ以外にも難関はあるのだが……。
今藤丸たちはブリテン異聞帯へと向かっている。
藤丸が立てた計画を始動させるには、絶対に欠かせない「前提」がある。
それが、今向かっているブリテン異聞帯においてビーストの単独顕現の権能を応用し、遥か過去である妖精暦四千年へと跳ぶこと。そして、そこでまだ若き日の楽園の妖精──ヴィヴィアンに出会い、その力を借りることだ。
本来、異聞帯は汎人類史によって剪定される運命にあり、その存在強度は極めて脆い。
この脆弱な世界を汎人類史に抗えるほどに強化し、存続させるための術理。それを確立するには、かつてブリテンにおいてたった一人で世界を構築し直し、異聞帯としての強度を極限まで高め、固定してみせた彼女の魔術と知識がどうしても必要だった。
他のどの異聞帯を巡ったとしても、かの偉業を成し遂げた彼女以上の適任者は存在しない。楽園の妖精の力を得る。それこそが藤丸の計画における第一歩だった。
しかし、ブリテン異聞帯は各異聞帯の中でも最悪の厄ネタが詰まった魔境だ。
南米異聞帯が力による破壊の極致ならば、こちらは運命と因果が絡み合う絶望の迷宮。そこで楽園の妖精の協力を取り付け、その後も生き残るという行為がどれほどの無謀か、藤丸は承知の上でこの道を選んでいた。
「……そっか。なら、やるしかないな」
藤丸は小さく、けれど自分自身に深く言い聞かせるように呟いた。
コヤンスカヤの分析によって、計画の理論的な正しさは証明された。技術的な障壁さえクリアできているのなら、後の不確定要素は全て自分の中に集約される。
妖精暦四千年へと跳び、あの楽園の妖精に協力を取り付けられるかどうか。そして、その過酷な旅の果てに自分という人間が最後まで折れずに生き残れるかどうか。
すべては自分次第だ。成功の保証などどこにもないが、進むべき道が一本に定まったことで、藤丸の胸中にあった迷いは消えていた。
どんなに困難な道のりであっても、やるべきことが明確なら、後は全力を尽くして足掻くだけだった。
「みんな! お待たせしました!」
その時、明るい声と共に、大きな鍋を抱えたティアマトがやってきた。
彼女はエプロン姿で、顔には煤がついているが、その表情はこれ以上ないほどに輝いている。
「ん~良い匂いですね。それ、シチューですか?」
カーマが匂いに釣られて顔を上げる。
「はい! シチューです! お野菜もお肉も、たっぷり入れましたよ!」
ティアマトは楽しそうに鼻歌を歌いながら、手際よくお皿にシチューを盛り付けていく。
「それにしても、随分と気分が良さそうですね。あなた、どうしてそんなに楽しそうなんですの?」
地面から這い上がり、土を払いながらキアラが尋ねる。
ティアマトは動きを止め、満面の笑みで答える。
「そんなの決まっています! だって、
「それは計画が上手く行けばの話ですけどね」
コヤンスカヤの冷ややかな指摘に対しても、ティアマトの笑みは一切陰らなかった。
それが現実的なリスクを聞き流しているのか、あるいは藤丸なら必ず成し遂げると微塵も疑っていないのか。星の内海を映す瞳からは、真意を読み取ることはできない。
「いただきます」
藤丸がシチューを口に運ぶ。温かくて、優しい味が全身に染み渡っていく。
夜は更けていく。
宴も終わり、他の三人が眠りについた頃、藤丸とコヤンスカヤだけが焚き火の前に残っていた。
「……マスター」
コヤンスカヤが、消えかけた炎を見つめながら静かに語りかける。
「何?」
「あなたは、他人の心配ばかりしていますね。異聞帯の住人、カルデアの元仲間、そして私たち獣のことまで。……ですが、もう少し自分の心配をなさった方が良いですよ」
忠告とも嘲笑とも取れる言葉に、藤丸は何も答えず、ただ静かに火を眺めていた。
「だってあなたは、まともな最後は迎えられませんから。それを覚悟して、地獄の先まで突き進みなさい。私の……いいえ、私たちの愛しいマスター」
コヤンスカヤは藤丸の耳元に届くほどの低域で、呪いのような、あるいは祈りのような言葉を囁いた。
キアラ:マスターさんの心を折るなら、マシュさんと適当な殿方との恋人関係でも見せれば良いのに何故反対なのです?
コヤンスカヤ:堕落はさせたいけど、カップリングを崩すのは解釈違いなのですよ
カーマ:自分の力で堕落させなきゃ意味ないじゃないですか
ティアマト:私はお母さん!