ロンディウムの城塞都市に昇った朝日が、まだ冷たい石畳の街並みに淡い黄金色の光を投げかける。朝の冷気は、昨夜の微熱のような余韻を綺麗に洗い流すかのように、肌を刺す。
マシュ・キリエライトは、自身の部屋の寝台の上で、静かに瞼を開けた。
天井を見つめながら、彼女は昨夜の記憶を反芻する。胸の奥に残るのは、戦いを完全に避けられなかったことへの、拭いがたい悔恨。
どれほど言葉を尽くしても、どれほど平和的な解決を模索しても、異聞帯との戦いは避けられない。彼女は深く息を吐き出し、ベッドから身を起こす。
パーヴァン・シーとトトロットが選んでくれたドレスに袖を通す。彼女の脳裏には、城壁の上で交わされた藤丸立香の言葉が蘇っていた。
――異聞帯の救い方はもう考えてる。今も問題なく進行中だ。だから、カルデアの助けを借りる必要はないのが一つ。
――そして、もう一つ。カルデアと俺とでは、救おうとしているものが違うんだ。
「……カルデアと手を組めば、戦わずに済むのに。そうまでして、何故」
思わず、言葉が漏れる。
生じた疑問は胸の奥で燻り続け、視線を床の虚空へと彷徨わせる。だが、彼女は小さく頭を振ると、両手で自らの頬を軽く叩いて、冷えた思考を強制的に中断させた。
「……ダメです。いまは、余計なことを考えている場合じゃありません」
深く息を吐き出し、胸に去来した迷いを強引に押し殺す。意識を切り替えるように、ドレスの裾をそっと整え、しっかりと前を見据えて背筋を伸ばした。
今日は、トネリコから頼み事を熟さなければならない日だ。
城下町の市場へ赴き、次の魔術に必要な素材の買い出しに付き合ってほしい、と昨日トネリコ自身から頼まれているのだ。
彼女の役に立てるのなら、どのような雑務であっても厭う理由はない。身支度を整え、木製の重厚な扉を開けて部屋を後にする。廊下を歩く足音が、静まり返った城内に虚しく響く。
朝の冷気が頬を撫でる中、指定された城門の広場へと歩みを進める。
待ち合わせた時間はもうすぐだ。もしかしたら、もう城門の前で待っているかもしれないと考えて、足を速める。
「――え? あの人は……」
しかし、待ち合わせの場所に立っていたのは、トネリコではなく、黒い髪の東洋人がいた。
異聞帯の元リーダーにして、汎人類史を滅ぼした人物、藤丸立香がそこにいた。
昨夜、城壁の上で思いがけない言葉を交わした人物が、腕を組んで壁にもたれかかっている。
驚きの声を上げると、藤丸はわずかに肩をビクつかせ、マシュの方へと顔を向ける。その表情には、明白な動揺の色が浮かんでいる。
「えっと、藤丸……さん? ここで一体何をされているのでしょうか。誰かと待ち合わせですか?」
「それよりも、まずは挨拶しよっか。おはようございます。今日もいい天気だね」
「――ハッ!? そ、そうでした。申し訳ございません。つい、うっかり……おはようございます!! はい、とってもいいお天気です! こんな日には思わず散歩をしたくなりますね!」
挨拶を返され、自身がまだ挨拶をしていなかったことを思い出し、すぐに頭を下げて挨拶をする。腰が90度しっかり曲がった綺麗な挨拶である。
「そうだね。それと、さっきの質問の答えだけど、俺はここでトネリコと待ち合わせをしてたんだよ」
「藤丸さんもですか? 私もトネリコさんと一緒にお買い物の約束をしていました。あ、つまり――今日は三人でお買い物に行くと言うことでしょうか!!?」
「……なるほど、またトネリコに嵌められたか」
「? 何かおっしゃいましたか?」
「何でもないよ。独り言」
「そうですか……」
小首をかしげるマシュの姿を、藤丸はどこか諦めの混じったような、それでいて苦笑を滲ませた目で見つめる。 雲一つない青空の下、待ち合わせ場所に佇む二人の影が、石畳の上に静かに並んでいた。
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藤丸が肩が重くなるのを感じて溜息をつく。
彼自身もまた、トネリコから「街で合流して買い出しをして来て♡」と言われてこの場所に立っていたのである。まさか、この場所でマシュであるとは微塵も思っていなかった。
藤丸は小さく呟き、天を仰いだ。
マシュの提案を断った、まさに昨夜の今日である。気まずさがないと言えば嘘になる。
しかし、それ以上に藤丸の脳裏に浮かんだのは、またしてもあの魔女の楽しげな笑みだった。トネリコめ、と藤丸は心の中で盛大に毒づく。彼女は最初から、二人をこうして顔を合わせさせるつもりで別々に声をかけたのだ。からかわれているのか、それとも何か別の意図があるのか。どちらにせよ、今さら逃げ出す訳にもいかない。
「あ、あの……どうかされましたか?」
「いや、何でもないよ。いつトネリコは来るのかなと思っただけ」
藤丸は頭をかきながら、笑みを浮かべてそう答えた。
気まずさはあったが、不思議と険悪な空気にはならない。むしろ、昨夜の奇妙な対話を経て、お互いの距離感がほんの少しだけ変わったような、そんな微かな実感が二人の間に漂っていた。それは、決して心地よいものではないが、拒絶すべきものでもない。
そんな二人の間に、ふわりと一枚の羊皮紙が舞い落ちる。
まるで、二人が出会うのを待っていましたとばかりのタイミングだった。誰かの意図が関与していなければ有り得ない漂い方をして、その羊皮紙はするりと藤丸の手の中に納まる。
確実にあの魔猪だ。確信をもって藤丸は断言する。
羊皮紙の表面にはビッシリと小さな文字で文字が描かれている。今日の買い出しで買う予定の魔術の素材や買って来て欲しい話題のスイーツ等々……。そして、最後には二人っきりでデートを楽しんで♡との一文。
最初からこれが狙いだったようだ。
「あの、魔猪め……」
「はい? 一体どうされたのですか。それに何か書かれていたのですか?」
「そうだね。トネリコが急に来れなくなったみたいだから、二人で魔術の素材買って来て、だってさ」
「そうだったのですね。では、トネリコさんが満足のいくような魔術の素材をいっぱい買って帰りましょう!」
こうして、予定外の二人連れによる買い出しの旅が始まる。
市場は、朝から活気に満ち溢れていた。石畳の通路の左右には露店が並び、威勢の良い売り子の声と、スパイスや焼きたてのパンの香りが入り交じっている。人々や妖精たちが行き交う喧噪の中、藤丸とマシュは並んで歩いていた。二人の間の物理的な距離はわずかに離れていたが、その歩幅は自然と揃えられていた。
「え~と……買う必要があるのは、虚影の塵に八連双晶、鳳凰の羽根、蛮神の心臓……うん、大量にあるな」
「大変そうですね。私も頑張ってお手伝いいたします」
羊皮紙に記載された素材の一覧の一部を読み上げた後、藤丸は購入すべき素材の多さに辟易する。そんな藤丸を励ますようにマシュは胸の前で、ふんすっ!と腕を持ち上げ拳を握ってみせた。
可愛い……不覚にも胸が撃ち抜かれそうになるが、何とか耐えて視線を前に戻す。だらしなく緩みそうになる頬を引き締め、強引に意識を別の場所へと向けた。
「よし、あそこだな」
通りの少し先に、お目当ての素材を扱っていそうな店が一つ見えてきた。俺は買い出しの任務に集中するよう自分に言い聞かせながら、その店の方へと足を向ける。
マシュが店舗の品揃えに目を輝かせている横で、慣れた手つきで露店の店主と交渉を始める。
旅の初めの頃のような拙さは、もう微塵もない。どの素材が良質で、どの品がこちらの足元を見ようとしているのか、今では見極める目が自然と働いていた。
的確な言葉を選び、相手に不快感を与えない絶妙な距離感を保ちながら、羊皮紙に書かれた必要な品を次々と買い付けていく。
二人で店から離れたところで、マシュが感嘆したように声をかけてきた。
「おぉ、お見事ですね。まるで、商人のような手際です」
「はは、ありがと……まあ、色んな人が教えてくれたからね」
藤丸は自嘲気味に笑い、購入した魔術素材の入った麻袋を肩に担ぎ直す。
その後も、二人で羊皮紙に書かれている素材を買うために店を回る。
道中、他愛のない世間話や、次に探す素材の使い道についてあちこち歩きながら話し、買い出しの合間には、この街で今話題になっているというスイーツの店に立ち寄る。
もちろん、城で待っているトネリコたちの分もちゃんと購入した。
けれど、それはそれ。買い出しに出た者の特権として、持ち帰り用の包みとは別に、自分たちの分をその場でしっかりと注文した。
待たされているトネリコたちには悪いが、店先で出来立ての味を真っ先に、しかも余分に堪能できるのは、重い荷物を運んでいる者への正当な報酬である。
「――っ! 藤丸さん、これ、とっても美味しいです……!」
一口食べた瞬間、マシュの目がこれ以上ないほど爛々と輝いた。
店舗の品揃えを見ていた時とはまた違う、年相応の少女らしい純粋な喜び。その弾んだ声と、嬉しそうにスイーツを頬張る姿を見ているだけで、藤丸自身も、疲れが癒やされていくような気がした。
そんな賑やかで少し贅沢な寄り道を挟みながら、買い出しの荷物が増えるにつれ、二人の間の空気は、自然なものへと変わっていった。
しかし、買い出しの終盤に差し掛かった頃、賑やかだった街の喧噪が少しずつ遠ざかり、奇妙な静寂が訪れる。
露店のざわめきが消え、二人は城へと続く道を歩いていた。
――とても楽しい一日だった。
藤丸は、素直に今日を振り返ってそう思う。ただの買い出しだったが、気づけばマシュと過ごすこの時間を心から楽しんでいた。
会うつもりはないと決意していたのに、実際に会ったら、会ったでこんなにも簡単に絆されている。
マシュの何気ない笑顔や優しさが、体を不思議と軽くしてくれる。隣を歩く横顔を見つめながら、ずっとこんな時間が続けば良いと幻想を抱く。
「どうしました?」
藤丸が見つめていることに気づき、マシュが不思議そうに首を傾げる。
たった一つの仕草。
それだけで、藤丸の胸が思わずドキリと跳ね上がった。彼女の一動作に、これほど過剰に心が掻き乱されるなんて、前回でもそうなかったというのに。
覗き込んできたまっすぐな瞳も、首を傾げた拍子にふわりと揺れた淡いピンク色の髪も、その全てがやけに鮮烈に目に焼き付いて、強烈に意識させられてしまう。
藤丸は高鳴る鼓動を必死に抑え込み、破れかぶれで話をそらすために言葉を紡いだ。
「な、何でもないよ。それよりマシュは、これまでどんな旅をしてきたんだ?」
あまりに唐突な話題の切り替えだったが、今の彼にはマシュの真っ直ぐな視線から逃れるための口実が必要不可欠だった。
「旅……ですか。そうですね――」
マシュはしばらく上を向いて考え込む。それから、静かにカルデアでの旅路を語り始めた。
第一特異点であるフランスから、第五特異点のアメリカ大陸。そして、自身は同行していないものの、Aチームが第六、第七特異点を攻略し、最後の特異点にいるアンリマユを倒したのだと。
そこにあるのは、藤丸立香のいないカルデアの旅路。マシュの言葉から伝わってくるのは、多くの困難と絶望的な戦いの連続だった。
しかし、彼女の声にはどこか感情の起伏が乏しい。それはまるで教科書を読み上げるかのように、淡々と事実を述べているように藤丸には感じられた。
「……その旅は、楽しかった?」
思わずそう尋ねていた。
先ほどまでマシュの一挙手一投足に大きく高鳴っていた胸の鼓動は、今はもう、恐ろしいほど静まり返っている。
嫌な予感が藤丸の頭をよぎった。
その問いに、マシュは小さく首を傾げる。その表情は純粋な疑問に満ちており、続いて、どう答えるべきか迷うような戸惑いの色を浮かべた。
「私は、英霊の依り代になるために生み出された試験管ベビーです。世界を救うために作り出された存在。だから、旅が楽しい、という感情は……」
言葉はそこで途切れた。しかし、その先の言葉を藤丸が想像することは容易だった。
人理修復の旅では、全く役に立てなかった。だからこそ今度は役に立とうと、必死に努力を続けた。
けれど、最期の瞬間に体の機能が停止するまで、自分は何も成し遂げられていなかった――マシュの中には、そんな過酷な後悔だけが残っているのだろう。旅が楽しかったという思いなど、彼女の中には最初から存在しない。ただ、与えられた使命を果たすことだけを考えて、彼女は今日まで生きてきたのだ。
胸に何かが重くのしかかる。それは、まるで冷たい石を投げ込まれたような感覚だった。
「――――ッ」
マシュの言葉を受け、藤丸はほんの少し歩調を速めて黙って歩き出した。心の中に、じわりと、熱いものが込み上げてくる。それは悲しみでも、絶望でもない。もっと根源的な、身体の内側を焼き尽くすような感情だった。
「あの、もしかして……怒っているのですか?」
マシュが不安そうにその顔を覗き込んでくる。
その怯えるような声を聞いて、藤丸は自身が猛烈に怒っていることにようやく気付いた。
「そうだね。多分、怒ってる」
それは、一体誰に対しての怒りなのだろうか。マシュを魔術師の組織としてしか扱わず、人理修復という旅路に心を色彩で彩る余裕さえ与えなかったカルデアにか。マシュの隣に立ちながら、ただ淡々と義務を果たさせたAチームにか。
それとも、汎人類史を滅ぼし、巡り巡って彼女をこんな過酷な場所に立たせる原因を作ってしまった――自分自身に対してなのか。
複雑に絡み合った感情の糸口は見えず、理由の全てが正解で、全てが的外れな気がして、訳の分からない苛立ちだけが全身を灼く。
けれど、目の前の少女に「旅は楽しかった」と即答させず、ただ戸惑わせるような真似をしたその背景の全てが、どうしても許せなかった。
ふ、と深く息を吐き出し、藤丸は歩調を緩めてマシュと視線を合わせる。
なら、せめて今だけは――カルデアだの、異聞帯だの、汎人類史だの、そんな小難しいものは全部後回しだ。
「ねぇ、マシュ。明日も一緒に出掛けようか?」
「え? 構いませんが、良いのですか?」
「あぁ、君と一緒に行きたいんだ」
努めて穏やかな笑みを浮かべ、彼女の真っすぐな瞳を見つめ返して、藤丸は静かに、けれど固い誓いを立てるように告げた。
「この國、ううん……他の異聞帯も見て回ろう。君が一生忘れなくなるくらい、楽しい旅にしてみせるよ」