「とよひめ、もう用はないって言ったよ? 邪魔するの?」
綿月姉妹の眼前に現れた――あまりにも疾すぎて、視認していたはずの二人にも瞬間移動のように思われた――白髪の子供は、あからさまに不機嫌そうな声で豊姫に問うた。
豊姫は明眸を細めて彼を見据え、沈黙を保っている。その視線の更に奥、子供の後ろでは、気付かぬうちに白い結界は消えていた。
「……子供?」
玉兎の一人が、ぽつりと呆気に取られたように呟く。
それが、玉兎達全員、そして依姫の偽らざる本音だった。豊姫は依姫に、敵の容貌については何も言っていない。それらの情報の優先度が高くないのは判るが、悍ましい化け物か屈強な戦士か、はたまた名だたる大妖、高位の神かと疑っていたのに出てきたのが愛らしい顔立ちの幼児が出て来ては若干困惑してしまうのも当然である。
ただ、玉兎達と違って依姫に拍子抜けしている余裕なんてものはない。
この子供の姿をしたナニカは、間違いなく化けの皮を被っている――見た目通りの存在であるはずがないのだから。
無言のうちに十秒ほどが経過した時、だんまりの豊姫に見切りをつけたらしい幼子が改めて口を開き、今度は依姫に視線を移した。
「ふん、答えないならそれでいいよ……それじゃあそっちの、怖い顔の剣のお姉さんの方に話を聞いてもらってもいい?」
「……話次第、ですね」
一切警戒を解かず、刀の切っ先を向けたまま依姫が応じた。
それに少しほっとしたように、その子供は小さく息を吐き、続けて自己紹介を始めた。
「はじめまして、ぼくは橘。先にお名前聞いてもいい?」
「綿月依姫。月の都の防衛と地上の監視を担い、穢れ無き永遠を護る者」
「とよひめと同じ名字だね……家族なの?」
「ええ、私の姉ですよ」
「ふーん……姉妹さんかぁ、いいなぁ……」
空気が異様にぴりついていること、依姫が得物を子供相手に向けていること以外は何の変哲もないやけに月並みな会話に、一度拍子抜けした玉兎達は今自分達が(結界に隔てられているとはいえ)会敵していることを忘れてしまっていた。
「さて、橘。話というのは何ですか? 態々38万キロ離れたここまで来てこんなお喋りをしたい訳ではないでしょ?」
橘の与太話に付き合う気はない依姫は、橘が羨望の眼差しを向けてくるのをバッサリと切り捨ててさっさと本題を話せと言外に告げる。
「むぅ……大事なことの前にちょっとしたお話をするのは立派なマナーだよ? 月の人って冷たいね」
「導入は十分ですから。今自分が侵入者として番人に捕まろうとしているのを自覚しては?」
拗ねたような言葉もにべもなく一刀両断され、かなり気分を害したらしく眉根を寄せた橘は依姫を虹色の瞳で暫し睨む。対して依姫は飽く迄も堅い表情を崩さず、冷静に橘の一挙手一投足を観察していた。
睨み合う事約五秒程、今度は大きく溜息を吐いて、橘が口を開いた。
「……わかったよ。じゃあ、ちゃんと聞いてね?」
そして、依姫が目線で以てその言葉に応えると、橘は人差し指を立てて左右に小刻みに揺らしながら、己が要求を語り始めた。
「最近、浅間浄穢山のユイマンがパンクした時に君達月が阿梨夜の封印を解いて、全てを停止させてその不具合の修正を図ったことがあったよね? アレ、すごく困るんだよ。だから――浅間浄穢山は今この時を以て稼働を停止させること」
「……は?」
――何様だろうか。そんなもの、そんな説明で吞める訳がなかろう。それが無ければ、月の都の恒久の繁栄は崩れ去ってしまうのだ。錦上の都の”永遠”には、穢れ無き情報が必須。外から情報を受け入れずにただ月の都に閉じ籠っていては、酸素補給の無い水槽、密閉された鳥籠のように中にいる月の民が”窒息”――徐々にその存在を保てなくなってしまう。
何よりも、命令のような、確定事項のような橘の言い種が、月への侮蔑を感じさせた。
二重の意味で、依姫には吟味するのすら腹立たしい要望である。
そんな依姫の様子に気付いてか否か、橘は豊姫に視線を送りつつ、構うことなく続ける。
「さっきも豊姫にそう伝えたつもりなんだけど、豊姫は『私が管理者でも私の一存で決められることではない』って断ったんだ。それなら仕方ないし、だから今、直接ツクヨミの所に行こうとしてたんだんだけど……」
そして一旦ポーズを置き、橘は困ったような顔をしてちらりと依姫に目線を戻し、依姫に答えを求めてきた。そこで彼は漸く、依姫の表情がいつの間にか恐ろしく険しくなっていることに気付いたらしい。ただでさえ”怖い”と評した依姫の眉間には深い皺が寄っていて、何故か怒りまでも感じられたことに少し怯えているようにも見受けられた。
依姫の答えは、当然一通りであった。
「ここまであからさまに敵対宣言をされるとは思っていませんでした。正直に言ったことは褒めるけれど、私は都の護り手だと言ったはず。橘、貴方を月夜見様に謁見させる訳にはいかない。そんな身勝手な請願は通らないし、第一月夜見様も月も侮っている貴方を通す気もない。ここで捕えさせてもらう」
「敵だって言ってるわけじゃ――」
「交渉が決裂した後で相手の本拠地に乗り込んで来ようとする者を、護衛たる私がはいどうぞと通す訳がない」
そう告げ終わると同時に、依姫は地面に刀を力強く突き立てた。ざくりという鈍い音が耳朶を打ち、刃に白光が煌めく。
直後、橘の周囲を覆うように、これまた砂浜を割く音と無数の澄んだ金属音を奏でて、橘の身長を優に超える剣山が橘の足元周囲数メートルに
土から切っ先を覗かせた数多の剣はその全てが橘に刃を向けており、橘の小柄な身体の挙措を奪うように、抜け出すことの到底叶わない牢獄を形成していた。
依姫の対個人での必勝の方程式の一つ――祇園様、即ち【
「動けば、祇園様の怒りに触れます。敵意を向けようが空に舞おうが、その瞬間に祟られるので無駄に苦しむことになる。逃れる術はない。さあ、投降して下さい」
厳かに、依姫の勝利宣言が為された。
橘は自分を取り囲む白刃を眺め、依姫の言葉を黙って聞いている。
この時、既に玉兎達は勝ちを確信していた。だって、地上人四人を一網打尽にしたあの力を、あの依姫様が行使しているのだから。負ける筈がない、だって毎回勝ってきたから。帰納的に、今日が過ぎれば明日が来るのと同じ程に、当たり前に信じていた。
依姫も、常ならばそのような思考をして、ともすれば油断だってしていたかもしれない。今まで祇園様の怒りに遭って命を繋いだ者も、この檻を突破した者もいないのだから。
だが、今回は姉たる豊姫の能力が一切通じない”バケモノ”が相手だ。祇園様の祟りすら無効化して平然と逃れてしまうかもしれない。或いは、超常的な力でこの”八重垣”に風穴を開けてしまうかも判らない。最初から警戒して、早くも”次”を考えていた。
豊姫も、完璧に囚われた橘を見ても一切油断する様子はなく、ただ静かに観察を続けている。
玉兎が固唾を吞み、波が寄せる以外は何も聞こえない静寂が三十秒と少し居座る。橘以外の全員にとって、恐ろしく長く感じられるその時間は、橘がふと何故か楽し気に歌を口遊み始めたことで、唐突に終わりを迎えた。
そして、依姫と豊姫の悪い予想は半分正解、半分不正解だったことが証明される。
「――八雲立つ 出雲八重垣 妻籠めに 八重垣作る 其の八重垣を……だっけ」
橘のあどけない顔は、見た目の年相応に無邪気な――されど深い静けさも孕んだ不思議な妖しさを持ち、見る者を魅入るような笑みを湛えていた。
「懐かしいねぇ、最初の方はよくお邪魔してたなぁ。なんだかんだで、最後までぼくのことはずっと子供扱いしてたよね……最後にあったのは何年前だっけ? でも、とりあえず今は……」
ここにいない筈の誰かに親しげに語りかけるような、柔らかな声。
すっと、橘の細く短い小さな指が、剣の一本に触れる。
そして、次の瞬間――
「スサ――どけ」
――一瞬だけ、橘の声が総毛立つ程に低くなり、一切の音が途絶えた。
更に次の瞬間――
――ピシッ。パキッパキパキパキッパキパキパキパキパキパキパキパキバキバキバキバキッ。
――パァァン!
剣の山に一斉に細かく無数の
破片は宙を舞い地面に散り、塵となって消えていく。
橘以外の全員――依姫さえも、信じられない、信じたくない光景を目の当たりにして目を見開き、言葉と挙措を失っていた。
依姫にとって、祇園様の力の不敗神話が破られたこと自体はそれ程驚愕するには値しない。多少は想定していたし、それで依姫の負けが確定するわけでもない。
ただ、その突破方法が異常過ぎた。
「……自壊した……」
自分が砂に突き刺した切っ先をまじまじと見詰める依姫の呆然とした言葉が、澄んだ空気に溶けていく。初めて吐いた、戦場での弱音だった。
そう、八重に聳えていた剣は、呪術や魔法的な干渉を受けて破壊されたのではなく、自ら望んだかのように罅を生じて消えたのだ。少なくとも使役主である依姫には、何一つ干渉を受けた感覚は無かったし、橘が何かしたようにも見受けられなかった。
ただ橘は、命じただけ。そう見えた。
張り詰めた静寂が場を支配する。
それを破ったのは、またしても橘であった。
「ほら、早く行かせてくれない? 怒るよ?」
「――ッ!!」
依姫は橘の声を聞いてやっと我に返り、刀を地面から抜いて橘に構え直す。頭の中で高速で算盤を弾き、即座に次の一手に移った。
今の所業で橘の危険度が跳ね上がった――少なくとも幻想郷から攻め込んできたあの四人よりは遥かに格上の存在だと悟った以上、悠長に構えている余裕はない。これを月の都に入れるなど……依姫の頭の中で、抹消の二文字の存在感が大きく増した。
「戦うの? やったことないから、嫌なんだけどなぁ」
そうぼやく橘を無視して、依姫は刀を鞘に納め、すぐさま【
依姫は深腰を落とし、足の筋肉を撓ませ力を溜める。一秒程の短い溜めの後、依姫は右手を中段に構えて跳躍し、
当たれば確実に橘は死んでしまうだろう。一応は子供の見た目をしているから殺したら罪悪感もありそうだし死の穢れが撒き散らされるのも好ましいことではないが、それ以前に橘は公然と月への侵入を宣告し、僭越にも月夜見との面会を求める紛れもない敵対者――少なくとも危険分子である。必要とあらば何物でも殺める覚悟くらいはとうに済んでいる。心を鬼にして、全力で手を突き放った。
しかし、依姫が恐れた穢れも見るに堪えない焼死体も、幸いにして現実と成ることはなかった。
全てを焼き尽くす炎が橘の身体のすぐそこまで迫った時、依姫の耳に小さな幼い声が響いた。
「――”原初結界”――」
同時に、橘と依姫の間に、橘を囲むように半透明の白くて薄い膜が生じる。
恐らく、先程海に張られた、薄氷と見紛うようなあの結界と同種のものだろう。
直後にその結界に依姫の右腕が触れ、ジュッと焦げるような音と共に接触点から白煙が上がる。
依姫の炎は、橘の胸まであと三寸という所で
「……チッ」
依姫が舌打ちして、結界を蹴って離脱し、一度距離を取った。”愛宕様の火”に晒された部分は依姫が離れて尚もくもくと白く煙を上げていて、表面が少し凹んでいるのが判る。
「ふぅ、防げた。でも結界が融けるなんて、どんだけ熱いんだろ……触りたくない……」
少し余裕そうな声色で、橘が呟く。どうやら、結界が破られる可能性も想定してはいたようだ。
――愛宕様の力を無効化しなかったということは、やはり無条件などという反則能力ではない。なら、勝機は十二分にある。そして結界を張って防御したということは、愛宕様の火なら橘にダメージを与えられる可能性が高い。
攻撃を阻まれたことへの苛立ちを出すのは一瞬。依姫は橘の行動からこの炎が有効打であると瞬時に断定して、それを軸に新たに作戦を立てていく。この、臨機応変に対応できるだけの頭脳と数多の神性を自在に行使する力、両方を併せ持ち如何なる相手にも対処できるという特性こそが、綿月依姫を強者たらしめる依姫最大の強みである。
ただ、”愛宕様の火”は本当に全ての物を――結界だろうが何だろうが本来は瞬時に燃え尽きる程の熱量を誇るのだが、あの結界は少し融けるだけで済んでいた。つまり、恐ろしく防御性能が――少なくとも耐熱性能は、並大抵のそれとは比較にならない、依姫の知るレベルでは最上級に該たる代物だろう。やはり、橘は結界術に秀でているようだ。
【火迦具土神】が効くと判っても、あの結界があっては攻撃を当てることも叶わない。依姫はまず、あの”原初結界”とやらを攻略する方法を考えることにした。
取り敢えず、依姫は【
そして数秒の溜めを作った後、先程炎で凹ませた部位を狙い、神速で踏み込んで雷電を纏った一撃を見舞う。
「喰らえ――ッ!!」
雷を受け、空気が焦げる匂いが俄かに立ち込め始めた。振り下ろされるに伴い発生する風切り音は、一瞬の間で台風の渦中に在るの如き轟音となり、聞く者の心胆を寒からしめる。
振り下ろされ始めてから依姫の渾身が結界に到達するまでの刹那の時間。
「”
橘は瞬時に手を依姫に向かって翳し、最初に張った一枚の下に一瞬で結界を更に三枚重ねて展開した。
直後、稲妻が走る。観戦席と化した豊姫の結界内では、玉兎達が剣閃の眩さに反射的に目を腕で覆い、顔を背けた。
――ドガァァァァァァァァァンッッッ!!
雷轟電撃の一閃が炸裂する。衝突で生じる光輝と離れた玉兎達の鼓膜すら敗れそうな爆音、そして辺り一帯の砂を巻き上げる旋風が巻き起こり、玉兎達を護る結界の外を蹂躙した。最早、刀という武器で発生していい威力を超過してしまっている。並の者なら、その爆風と衝撃音だけで戦闘不能になるはずだ。改めて、依姫は予め結界を張っておいてくれた豊姫に心中で感謝を送った。
既に外野と化している玉兎達は常識と認識の範疇をとっくに超越した戦闘を結界の中からぼんやりと眺めることしかできていない。玉兎達からすれば依姫の踏み込みさえも瞬間移動のように見えているので、今の先刻の攻防は全く認識できておらず、いきなり目の前で爆発が起こった、と見えていた。
一方の豊姫も依姫が本気を出し始めると自衛に専念しなければならず、依姫の援護を買って出るまでの余裕はなかった。玉兎達の結界の維持もあるので、気は抜けないながらも妹の武運を祈るしかない。最悪は扇子を使えばいいが、妹の邪魔をするのは憚られた。
最早依姫と橘二人の空間と化した空間は、依姫の斬撃一発――正確にはその余波で生じた大量の砂塵で覆われている。
その靄が晴れると、地面は一帯全てが黒く焦げており、所々はガラス化してキラキラと輝いているのが見えた。依姫が大きく息を吐いており、若干の消耗を窺わせる。
悍ましいとしか表現できないような威力を正面から受け止めた、橘の結界は……
「……嘘でしょ?」
「……最強の剣神の一撃が……」
「いったぁ……耳が……」
綿月姉妹の呆然とした声に、橘の場違いな弱々しい声が重なった。
橘の計四枚の結界は――”愛宕様の火”で傷ついた一枚を両断されたものの、残る三枚はまさかの無傷。雷で焦げた様子もない。
今何が起こっていたのか皆目判らない玉兎達でも、これだけは判った。
「……あの子、バケモノだ……」
その誰に向けるでもない小さな言葉が、豊姫の結界の中で身を縮こめる皆の感想を代弁していた。
当の橘は、両手で耳を押さえて涙目で幼気な顔を顰めている。とても痛そうで庇護欲をそそる表情だが、誰がどう見ても、それは余裕そのものという態度だ。
依姫は少し手の中がじとりと湿り始めているを自覚しつつ、状況を打開すべく更に思索を重ねた。
――これでもダメなら、物理攻撃ではもうこの結界は破れない。複数枚展開できるようだし、真面目に張り合えば十数枚破って先に私の体力が尽きる。それだけの数を橘が展開できないという可能性もあるけれど、失敗すれば笑えない。結界術で対抗しても負けるに決まってる。なら、どうやれば風穴をこじ開けられるだろう……
……”こじ開ける”?
一直線に綺麗な裂け目が生じ、防御手段としては意味をなさなくなった結界の残骸を見遣る。
刹那、依姫の頭を”ある物”のイメージが過り、名案が浮かんだ。
いや、名案というのは大噓だろう。望み薄もいい所で、その
「……案ずるより産むが易し」
とにかく、試すことにした。
依姫は【
そして、指を弾き、ぱちんと乾いた音を鳴らした。
――その瞬間、それだけの動きで、橘を覆う結界の全てに真っ直ぐ一本の線が走り、そこからめくれるように結界が三枚とも”開き”始めた。
成功だ。
「はえ!? 何それ!?」
結界に守られて安心していたらしい橘は、いとも簡単に結界が攻略されたことに面食らい、円らな目を瞠って大声を上げた。
慌てて新たに結界を――今度は五枚重ねで張ったが、それも依姫が指を鳴らせば真っ二つに割れて壊れてしまう。
「なんで!? ぼく、結界術は得意なつもりなのに……」
その問いに答えてやる義理はない――が、焦ってくれれば儲けものだと考え、依姫は親切にも答えを提示した。
「大戸日別神様の力で、結界を”開いた”。結界は、内と外とを隔てる境界であり、言わば”扉”のようなもの。大戸日別神様は内と外とを隔てる境界の主宰神。だからこういう風に、指一つで結界を壊すことだってできるんですよ」
「何それ、反則でしょ!」
橘は大層不満そうに食って掛かるが、実際出来てしまったのだからどうしようもない。
正直に言えば、依姫だって無理があると思っていたのにものの見事に成功してしまい、内心結構驚いていたくらいだ。橘からすれば想定外もいい所だろう。
これで橘が諦めてくれれば、円満解決できるのだが――
「もう! ぼく戦いたくなんてないんだよ! さっさと帰りたいから、早く言うこと聞いてってば!」
まだまだ膝を屈する気はないらしい。ただ、その声には確実に焦りが滲んでいた。
「もう既に交渉が決裂しているから戦っているんですよ? さっさと帰りたいなら止めないから、そのまま取って返してください。子供はもう帰る時間ですよ」
依姫も煽る煽る。本音でもあるし事実なのだが、見た所直情型らしい橘には効くだろう。会話だって立派な戦術である。
「子供扱いしないでよ、帰れないから言ってるんでしょ! もう勝手に行くから――」
苛立った橘の声を聞いた瞬間、反射的に依姫は【
一歩一歩と詰めろを打たれていることを悟ったらしい橘は、離脱すら不可能になって歯噛みしている。ここまで崩れた相手ならば容易に倒せよう。
結界を張り直さない様子を見るに、橘は依姫が一度に一柱の神しか宿せない、同時に複数柱を宿すことが出来ないことには気付いていない。戦闘に不得手というのは本当らしく、洞察力と戦闘IQが欠けているのは一目瞭然だった。自分から仕掛けて来ない姿勢もカウンター狙いかと思っていたが、それができる力があれば【岐神】を宿す間に攻撃するという芸当が可能だったはずで、攻撃手段を持ち合わせていないのだと判断した。
愈々詰めにかかるべく、依姫は最後通牒を突き付ける。
「さて、降伏しますか? 従えば命は奪いません。もしも拒むなら……」
「やだね! 頭を下げるなんてあとでぼくがしこたま怒られちゃうし、浅間浄穢山の停止は絶対にやってもらうよ!」
言い切らぬうちに、橘は強気に突っ撥ねた。
それを聞き、依姫は「なら、捕縛、または排除させてもらいます」と静かに告げ、【
結界内で突如暗雲が湧き出でて大雨が降り始め、橘が走る地面をぬかるませていく。ここに来るまでに、橘が遥かに効率がいいはずの”飛ぶ”という行動ではなく走るという行為を選択していたことから橘は飛翔できないはずだと仮説を立て、走るためには欠かせない堅い地面を奪う。砂だから抑々が走りにくいものが、踏み固められていない所に水が入り込み、表面だけがずり動くような極限まで滑りやすい地面が完成する。
「引き出し多すぎでしょ! もしかして、全部の神の力を使えるの!?」
橘が、ずぶ濡れになりながら叫んだ。どうやら”同時に扱える”という盛大な勘違いも混ざっているようだが、依姫にとっては勝手に畏怖してくれれば好都合だった。
そうほくそ笑み、言葉の代わりに、雲の間に稲光を明滅させて答える。
ゴロゴロと、不穏な音が響き始めた。
「……また雷?」
橘が呟いた直後、雷が地に向かって降り注いだ。
橘が慌てて濡れた砂を蹴り飛ばし、神速で結界の端まで移動してどうにか落雷自体の回避には成功したものの、自分が回避した場所を振り返り、絶句してしまった。
地面を落雷で生じたと思しき火が焼き、そこから形を現した七匹の龍が橘に向かって首をもたげている。
「火雷神よ、七柱の兄弟を従え、この地に来たことを後悔させよ!」
依姫の声が、残酷にも響いた。
依姫の命に応じ、焔を纏う龍がそれぞれに橘に襲い掛かる。
橘は全力で地を駆けて追尾や待ち伏せを躱すも、ぬかるんだ地面と蹴っても足を押し返してくれない砂、そして雨のせいでその速度は格段に落ち、泥に塗れて何度も転び回りながら必死に逃げ続けていた。
一分、二分。
それでも常人の目には捕らえられないだけの速度で駆け回る橘は、押されはしても一度も掠りすらしていない。泥だらけになっても回避を止めない姿に、玉兎達はいつの間にか、”痩せ蛙負けるな一茶これにあり”の心で静かに橘を応援し始めていた。手に汗握り、見えもしない橘がまだ逃げ回っているのだけを理解して、雨でより視界が悪くなった戦場に見入る。
依姫は内心で勝利を確信しつつも、橘の身の熟しを心中で礼賛していた。
――単純な速度でも比肩する者はないけれど、全く速度が落ちる気配がない。動きが単調になっているから精神的にダメージは入っていそうだけれど、諦める様子もないし、時間を止められる訳でもなさそうなのにあの
されど、ただ鬼ごっこを続けるつもりはない。橘の動きの癖は、もう判った。
龍達の追尾を少しずつ単調なものに変えて、橘が逃げられる道を敢えて一方向にだけ残すようにする。
「――ッッ!!」
橘は水を得た魚――いや、溺るる者は藁をも掴む、だろうか――の如く目敏く細い逃げ道に気付き、迷いもせずにそこへと走り込む。
その先には――刀を振り被った依姫が待ち構えていた。
「!? やっば――」
橘は依姫との距離が十メートルを切ってから依姫の姿を認めて自分がまんまと嵌められたことに気付き慌てて急停止を試みるも、ズルッと足元が滑って思うように止まることができず、体勢を崩してぐしゃぐしゃの地面の上を二度も三度も転がって漸く止まることが出来た。
上体を起こして見上げた先には――冷徹な眼差しで橘を見下ろす依姫がいる。
空に切っ先を向けたその刃は、先程は存在しなかった小さな炎を纏って赤熱していた。
「幼い身で、よく頑張りましたね。ですが、これで終わりにさせてもらいましょう」
依姫の声がうつ伏せの橘に届くと同時に、依姫は起き上がろうとする橘に向かって最後の一撃を振り抜いた。
その刃に宿るは、先程とは違い刃に宿らせた灼熱の業火――【火迦具土神】、”愛宕様の火”だ。
依姫は、未熟ながらも未知の力で一度は依姫をも翻弄し、祇園様の力を突破してみせ、窮地でも折れなかった橘に心中で祈りと称賛を手向けた。せめて一撃で、と、正確に急所を狙う。
豊姫もまた依姫の勝利を確信し、流石は我が妹だと感嘆していた。異常極まりない、ともすれば今まで対峙した中で一番危険とも思われる相手を実質完封したのだから。誇らしさと安堵が綯い交ぜになり、また今にも命の灯火が尽きるだろう子供への憐れみも抱きつつ、決着を見守っていた。
玉兎達は、橘に憐憫の眼差しを向けていた。見た所、橘は空を飛んでいなかったし、依姫に攻撃を仕掛けている様子もなかった。本人の言う通り戦うのが本当に苦手だったのだろうが、勝ち目がなくなっても諦めなかったことは中の様子が殆ど判っていなかった彼女達にも察せられていた。そしてまた、反則的な速度と強固な結界術を持つ橘をも圧倒してしまう依姫の懸絶した強さを改めて認識し、依姫への憧憬と信頼を強めてもいた。
全員の目線の先で依姫の刀が、ギリギリ地に足をつけて起き上がったかという所の橘の左の肩口に、赫い円弧を描きながら吸い込まれていく。橘の身体に触れた瞬間に、何かが焦げる音がし始めた。
肩口を裂き、鎖骨の辺りを両断した刃は、勢いを落とさず心臓がある場所を寸分違わず通過して肋骨を斬り裂き、脇腹へと抜ける。それと同時に、水分が蒸発して炭化する音も収まった。
「あ゛あああああああああっっっ!!」
甲高い劈くような悲鳴が、全員の鼓膜を打つ。
橘が膝から崩れ落ち、苦悶の表情を浮かべて蹲った。
「「「「「………………」」」」」
他の者は、誰も声を発していなかった。
橘の姿が痛ましいから、ではない。
袈裟斬りにされて、絶叫することなんて出来ようか? しかも、心臓を、この世で最も熱い炎を纏う剣で斬られているのに?
それに、身体が真っ二つになっているのなら、どうやって”膝から崩れ落ち”て”蹲る”ことが出来る?
地面は、くすんだ茶色――砂そのままの色。湿ってはいても、一様で一片の汚れも見当たらない。
辺りに立ち込めるのは、空気が焦げる匂い。
そして誰も、液体が噴き出すような音を聞いていない。
橘の身体は、文字通りの五体満足だった――一番近くにいた依姫に見える限りでも、斬り込んだはずの肩口には一切の傷が見当たらない。その奇妙な柄の服も身体と共に斬り裂いたはずなのに、斬られた事実そのものがなかったのだと主張するかのように平然と繋がっていて、これまた刀が通過した跡は見えない。
依姫には、その一部始終が見えていた。
肩口から入った刃は、慥かに橘の身体を脇腹に掛けて通過した。
しかし、刃が通った直後。直前に通り過ぎた刃の軌跡は、
斬られたその瞬間に、橘の身体は再生しきっていたのだ。愛宕様の火を受けたにも拘らず、焼ける音だってしたにも拘らず、心臓を斬られたにも拘らず。依姫は狐に撮まれたような顔で、胸を押さえて泣きじゃくる橘を凝視していた。
そこには、一抹の恐怖が交じっている。
豊姫も、玉兎達も。全員が一様に
規格外の侵入者との一騎討ちは、依姫が制した。
その戦利品は――依姫が生涯で感じることが出来よう最上級の――八意永琳に見捨てられるよりも、己が身が滅びて黄泉路を渡るよりも遥かに深い絶望へと誘う恐怖と相成る。