幼き神にはあしからず   作:庚申待ち

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第九段 破れ鏡

「今、依姫様の刀、当たったよね……?」

 

 レイセンのか細い独り言のような、誰に向けるでもない言葉が虚空に消える。

 玉兎の誰もが――豊姫でさえも、身体が繋がっていて血の一滴も流していない橘の姿を信じることが出来ず、唖然として依姫とその足元に蹲る橘を眺めていた。

 

 依姫もまた例外ではなく、困惑を余儀なくされている。

 嗚咽している橘を見るにそれ相応の痛み(ダメージ)は入っているに違いなかったが、【火迦具土神】の炎も斬撃も、一切が効いていないかにさえ見える。斬った感触は慥かにあるからこそ、即死クラスの深傷(ふかで)を負わせたのに呻くだけだということが酷く不気味だった。

 

 ――禍根は、絶たねば。

 

 【根裂神(ネサクノカミ)】を宿し、今度こそ息の根を止めるべく五尺(1.5m)程の大跳躍に続いて大上段から刀を振り下ろす。

 

 【磐裂神(イハサクノカミ)】の時と同様に依姫の剣は紫電を迸らせ、重力加速度、依姫自身の体重の力も借りてソニックブームを発生させながら雷速で橘に迫り、その頸へと刃先を喰い込ませた。

 

 依姫の腕に、頸椎をぶつりと切断し、数瞬遅れて僅かな肉を割いて未発達な喉仏を叩き斬る感覚が伝わる。

 轟く雷鳴と共に、刀は橘の頸の反対側の皮を喰い破った。

 

「いだぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっ!!」

 

 またも、悲痛な悲鳴が空気を切り裂く。

 悲鳴が上がっている、即ち――もう、書くまでもなかろう。

 

 やはり橘の頸は、浅い切り傷一つなく綺麗に繋がったままだった。

 

「ぼくたたがいだくないっでいっだのにぃぃぃぃ!! なんで斬られないどいげないのぉぉぉ!」

 

 今度は首に手を当て、橘が泣き叫ぶ。

 あまりの喧しさに、一番近くにいる依姫が片耳を空いている左手で塞いで顔を顰めた。

 そして玉兎達も――橘が劣勢になって【火雷神(ホノイカヅチノカミ)】が統べる八雷神(ヤクサノイカヅチノカミ)の龍に追われていた辺りから既に判官贔屓し始めていたが――涙と鼻水で幼い顔をぐちゃぐちゃにしている幼子を見ては、自分達が何をしたでもないのに惻隠の情と疚しい感情を禁じ得ず、おろおろするばかり。

 豊姫は、普段の落ち着き払った微笑など吹き飛び、混乱でどうしたものか判らなくなってしまっていた。

 

「斬られだとごろ火傷したみたいにあづいし、頸まで斬られだしぃぃぃ!」

 

 滝のように虹色の双眸から涙が頬を伝い落ちてそこに張り付いている泥を含んで濁り、地面に一粒、また一粒と零れていくが、既に雨水を湛えた地面には一切の跡を残さず染み込んで消えていく。泥塗れの服と所々が茶色く汚れた白髪が、惨めらしさを際立てていた。

 

 憐れましき子供は、わんわんと喚き続ける。

 

「せっがぐわざわざ話までしでるのにぃぃ! ツクヨミに話しだいっで言っだだけじゃんかぁぁ!」

 

 いい加減に五月蠅くなってきたので、敵ながらに仕方なく依姫が泣き止ませようと声を掛けようとした、その時。

 

「ただ仕事しようとしだだけだったのにぃ! 負けるのも悔しいし、身体ドロドロだし……なんで別天神(コトアマツカミ)のぼくがこんな目に遭わなきゃいけないのぉぉ!」

 

 橘が、爆弾を落とした。

 

 この言葉に反応を示した者は――この言葉の意味を理解できた者は、ただ一人。

 

 ――ドッ。

 

 力の抜けた手から滑り落ちた刀が重力に従い、砂浜にその切っ先を潜らせるくぐもった音が、小さいながらその場にいる皆の耳を打った。

 橘と玉兎、豊姫の目線が地に刺さった鋼に集まった。そして自然と、集まる先は剣の上の手、そして今し方得物を手放した護衛へと移っていく。

 

「今、何と……?」

 

 依姫の顔から、表情が抜け落ちていた。その声は橘以外には聞こえない程に小さく、震えている。

 橘は鼻を啜り、泥だらけの袖で顔を拭って肩を震わせつつ擦れる声で答えた。

 

「ひっ……えぐ……だから、なんでお仕事しに来ただけでここまでひどいことされるんだろって……」

「そっちじゃなくて!」

 

 依姫は、声を裏返しつつ言葉を遮った。橘がぴくりと震え、一瞬泣き止む。玉兎達と豊姫の耳にも届く大音声である。彼女達の視線が突然叫んだ依姫へと刺さる中、焦りからか自分が思わず叫んでいたことに漸く気付いた依姫は一つ深呼吸をして、呆然として依姫を見ている橘に、努めて冷静に、と再び声を掛けた。

 

「……怒鳴ってしまって申し訳ありません。でも……今”別天神”と仰いましたか?」

 

 それでも、言葉の終わりには声が震えてしまっている。豊姫と玉兎達聴衆は、その声色に加え、何故か敬語になっている依姫の問い掛けを訝しんだ。

 橘は数秒ぽかんとしていたが、それからこくりとゆっくり頷いて、改めての自己紹介をした。

 

「……ぼくの神名は可美葦牙彦舅神(ウマシアシカビヒコヂ)。別天神の第四代だけど……とよひめには”知らない”って言われたし、てっきりよりひめも知らないかなって……」

 

 橘がおずおずと答えると、依姫の表情が、更に移ろった。

 

 警戒と困惑が抜け落ち、放心していた彼女の心の空白を埋めたのは、その顔に浮かんだのは――深い深い絶望。

 顔からは完全に血の気が失せ、肩が小刻みにわなわなと震えている。瞳孔が開き切って、ともすれば焦点を失いそうな目で橘の姿を凝視していた。

 

「私が、戦っていた相手は……」

 

 外野が依姫が固まったのを見て少し焦り始めた時に、依姫は豊姫に振り返った。

 凛々しさの欠片もなく蒼白たるその顔は、宛ら死人のそれであった。

 

「お、お姉様……もしかして、知っていた上で私を嵌めたんですか……?」

 

 依姫の問いは、一心同体であるはずの姉を疑るという、豊姫にも玉兎にも信じられないもの。

 

「依姫……どうしたの?」

 

 初めて見る妹の泣きそうな表情に、豊姫の声も揺れて尻すぼみになった。いや、泣きそうな表情自体は限界まで揶揄った時に何度も見てきたが、恰も地獄の淵を垣間見たかのような、心の芯が折れ切った顔の原因が自分にあるのだろうかと、僅かにでも妹がその絶望が姉のせいだと疑っていることに、豊姫は心の底から戸惑うと共に、また慌ててもいた。

 そして、依姫に憎まれたと一瞬でも思われたことが、姉としての心に耐え難い戦慄と恐怖をも生み出していた。

 玉兎達も、依姫の悲愴な横顔を見て、何も言えなくなってしまっている。

 

 依姫は、暫く――長く感じられはするが、実際は十秒程だろう――橘に向き直って突っ立っていたが、俄かにして膝から崩れ落ち、裾を汚すのも構わずへたりと座り込んだ。

 

 そして――

 

「……どうか、月の都にはご容赦を……」

 

 ――深々と、同じく地面にへたり込む橘に向かって、地面に頭を擦りつけた。

 

「……?」

「「「「「……!?!?」」」」」

 

 橘がいきなり態度を百八十度変えた依姫に首を傾げ、豊姫と玉兎達はその光景に瞠目し、声にならない声を上げて言葉を失った。橘からすれば自分を激痛で苛んだ相手が何の脈絡もなく恭順を示し始めたようなものだし、豊姫達にしてみても敵の眼前で土下座をする依姫の姿など想像すらしてこなかったし、剰えその懇願は、依姫が自らの命を既に失われるべき物と思っていることを示すものだったのだ。夢でも見ているのかと疑るようなその反応も、宜なるかな。

 


 

『師匠、相談があるのですが……』

 

 永琳の邸宅を訪れた依姫は、客間に通されて近況報告と世間話を一通り交わしてから、茶を啜る師匠に遠慮がちに切り出した。凡そ、千七百年程前のことである。

 

『相談があるというのは部屋に入って来た時から判っていたわよ、依姫は正直すぎるもの。戦闘の修練もいいけれど、もう少し自分の感情を押し隠して余裕を保っているように見せる練習もしないと』

『は、はい……』

 

 依姫の師匠は、いつもこの調子である。粗を突いているというよりは依姫のためを思ってくれているのは判るのだが、頼りに来たのにこう言われてしまってはどう返したものか詰まってしまう。

 依姫は姉程上手く受け流せないし飄々としていることもできないので、ネガティブな相談をしてもらう時は毎度の如くこんな説教が前置きされていた。

 恐縮して小さく返事を返すと、永琳は苦笑しながら小さく息を吐き、依姫に続きを促した。

 

『まあ、どれだけ言っても直らないのだし仕方がない、一種の宿痾なのかもね。まあ、真面目で素直なのが依姫のいい所と言っておいて、今回は詰めないでおいてあげる』

 

 ――過去に数度”ポーカーフェイスの練習”と称して数時間の地獄に連行されて、普段は呑み込みがいいはずなのに最後までそれだけは出来ず、無駄に思い詰めて自己嫌悪したりしていた記憶が脳裏を過り、依姫は肩を強張らせた。

 

『さて、今日はどういう御用かしら?』

 

 湯呑をことりと置いた永琳が、軽く身を乗り出した。

 依姫もそれを見て姿勢を正して――元々ぴんと張っていた背筋を更に伸ばして――問い掛けに応じた。

 

一昨昨日(さきおととい)からいつもの通りに神降ろしの訓練をしていたのですが、”天羽々矢(アメノハバヤ)”と”天之麻迦古弓(アメノマカコノユミ)”の再現が出来ないかと考え、師匠の父神であらせられる高御産巣日神(タカミムスヒノカミ)を降ろし奉ろうと試した*1のですが、全く力が発動しませんでした。それではと思い神産巣日神(カミムスヒノカミ)を降ろそうと考えましたが、また私の声に応じて下さらず……恥ずかしながらどれだけ考えても私では原因が判らなかったので、高御産巣日神の御子神である師匠ならばと思い、質問に参りました』

『なるほど、どうすることも出来ないから諦めるといいわ』

『はやっ』

 

 依姫の言葉が終わった瞬間に、永琳が即答した。例によって”素直”な依姫は、あまりの速度に目を剥いて返してしまった。

 他方澄ました顔の永琳は、これまたいつも通り自分で答えを探らせるように問うては答えさせながら、懇切丁寧に説明を始めてくれた。

 永琳の解説は本題と何も関係ないところから始まることが多い。そこから主題へと理路整然と一本筋で話を進め、快刀乱麻を断つが如く答えを提示してくれる。慣れていない者が聞けば無関係の与太話を始めたようにしか思われないが、それは永琳の頭が良すぎて”話しながら整理する”という行程をすっ飛ばしているからこその、ある種の神の御業なのである。

 

『私がどれだけ生きているか、という話は一度したことがあると思うけれど、それは憶えているかしら?』

『確か、三億年、と仰っていたと思います』

『そう。伊弉冉尊が神避(かむさ)*2少し前に生まれたわ。それから五千万年もせずに月へ移ることになったわけだけれど……私の父上*3は、何年生きていると思う?』

『……十億年ほど、でしょうか』

『あと一桁足りないわね』

『――百億年?』

『二百と少しと言っていたわよ』

『……』

 

 開いた口が塞がらない、とはこのことだろう。豊姫がいれば茶化して”鯉のようだ”と評すに違いない。

 依姫の性格からここで依姫が唖然とするだろうことを大方予測していた永琳は、構わず言葉を続けた。

 

『依姫には言うまでもないでしょうけど、”別天神”の五柱は判りますね? 父上曰く、末代の天之常立神(アメノトコタチノカミ)が確か七億年ほどの歳月を重ねているということだったけれど、その先代の可美葦牙彦舅神は八十億年、神産巣日神は百五十億年、父上が二百億年とのことだったわ。天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)に至っては父上にも判らない、と。そこまでいってしまうと、私にも全くもって想像がつかないけれど』

 

 半ば永琳自身も呆れ顔でそう呟いてから、一度言葉を切り、依姫に今一度向き直って、依姫の問いに対する答えを述べた。

 

『それだけの年月を重ねた神々には、最早私達の力が及ばないのよ。格の差、なんでしょうね。例外もないことはないというけれど……少なくとも、神降ろしで御力を借りる、というのは不可能でしょう。出来ても国常立神から伊弉諾尊、伊弉冉尊の辺りまでが限界でしょうね。決して力不足ではないから、スパッと諦めて。気に病む必要はないわ』

『……了解です』

 

 常識外な神々の雲の上のお話を聞いて呆気に取られていたので、少し返事が遅れた。それに、出来ないと言われては気に病むなとフォローされても心にしこりが残る。依姫の背はいつのまにか、ほんの少し曲がっていた。

 少しの間、卓を挟んで静寂が落ちる。どちらからともなく再び少し温くなったお茶を飲んでいると、永琳が独り言のように呟き始めた。

 普段はこういう語りはしない人なだけに、依姫の意識も自然とそこに引っ張られる。

 

『……私も、父上以外の別天神とは一度も(まみ)えたことはないの。彼の方々は皆して世捨て神、隠身(かくりみ)の神だからね。今の伊弉諾尊のように、表舞台には出て来ない。私も父上と最後に話したのは天稚彦を誅罰した時だったから、もう何年になるのやら』

 

 また一つ、永琳が湯呑に口をつける。風に揺られて形を替えた白い湯気がくゆり、解けて消えていく。

 

『依姫、恐らく貴方が別天神と見えることはないでしょうけど、そうなれば決して無礼のないようにね。彼の御方々は、神と名は付くけれど私達とは全くの別物。不興を買ったり逆らったりすれば、それは世界の理そのものに喧嘩を売っているに等しい。意識を向けられただけで滅せられ得るし、下手をすれば月ごと滅ぼされかねないから』

『……ですが、高御産巣日神は月の賢者たる師匠の御父神では? 娘の居る月を滅ぼすとは考え難いです』

『まあ……父上はやらないでしょうね』

 

 何とも含みのある言い方をしてから、永琳は顎に手を当てて少し考える素振りを見せ、続けた。

 

『でも……可美葦牙彦舅神なら判らない。父上曰く相当な変わり者だったようで、しつこく地上に降りたいと求めたらしい。それで、別天神の為すべき実働全てを代行することを条件にそれを許したそうよ。他の神話の神々との折衝や世界の歪みの解消、危険分子の監視や排除辺りを担っていたとか。父上をして”何を考えているのか判らない”と言わしめた神だから、癇癪を起こされたら”文字通り”終わる可能性も否定できない。何せ、司るものが”活力”――我々の生命そのものですからね。それにこの世の害悪かどうかを判断するのも彼の御方自身だから、私達がそう認識していなくても……という訳です』

 

 まあ、杞憂でしょうけど――そう永琳が後付けして、その会話は別の話題へと移ろった。

 


 

 ――師匠の予言めいた言葉が外れたのは、初めてかもしれない。いや、杞憂と言いつつも忠告を施してくれた時点で、この事態を予想していたのだろうか。そうだったら師匠は予知の神を名乗ってもいいかもしれない。ああ、もう少し思い出すのが早ければ。

 一方で恐慌状態にある脳内で情報が氾濫し、他方で真っ白になって妙に落ち着いた回想を終えた混沌たる心境の内に、漠然と思った。目の前が一面自分の陰でくすんだ土と砂の色に覆われているだけあって、雷雨の空と真っ白の景色が隣り合っているという変な心象風景が無駄に鮮明に浮かんでくる。

 

 師匠の言葉に従うのなら、可美葦牙彦舅神様は”世界の歪みを正す”べく遥々月までやって来たのだろう。その前提でなら、月夜見様の名を呼び捨てにしていることも、上から目線の傲然とした要求にも頷ける。別天神が態々自分達如きに遜るはずもない。

 

 それを私は、半ば問答無用で斬り殺そうとしていたらしい。

 終わった――もうそんな言葉しか浮かんで来なかった。別天神に弓を引いた天稚彦がどうなったかを考えれば、私が辿る末路など自明だ。それに加えて、私が大逆を働いたせいで月が滅びてしまうのかと思うと、心を闇に落とす淵の知れない罪悪感が全身を浸潤していくような、背筋の凍る感覚に苛まれる。月に求めた処置を私が月の使者として蹴った上で無礼を働いたのだから、これは可美葦牙彦舅神様にしてみれば月の叛乱に相違なかった。

 

 ――お姉様が私に可美葦牙彦舅神様の神名を真っ先に教えてくれれば。第一、お姉様が不勉強なのが事の発端だ。

 ふと、そんな思考をしている自分もいることに気が付いた。罪の意識に耐え兼ね、姉に責任を転嫁し始めたらしい。何度苦言を呈したかも怒ったかも判らないとは言え、今まで心からの悪感情など抱いたことはないはずなのに。さっき私が声を掛けた時の目からは、お姉様だって動揺していたこと、私が何故ここまでの絶望の淵に沈んでいるのか一切判っていないことだって判っていた。きっと、心配もしてくれているのだろう。こんな穢れた感情は誇りある月人として今すぐにでも切り捨てるべきなんだろう。

 でも、心の奥で湧き出した昏い感情は、私の虚無に満ちた心をどんどん浸蝕していった。実の姉に対して、こんなことを思ってはいけないのに。きっとお姉様は、私に何の悪意も持っていないはずなのに。

 

 私は慥かにこの時、恐らくは生まれて初めて、血を分けた姉を憎悪していた。

 

「……お姉様のせいですよ」

 

 自分でも驚くくらい、低い声が出ていた。

 駄目だ駄目だと分かっていても、どす黒い想いが私の口を突き動かす。

 

「……依姫、さっきからどうしたの……? 私、貴女に何かした……?」

 

 お姉様の擦れた声が少し遠くから聞こえて来た。地面に向かって呟いたからくぐもってよく聞こえないだろうと思っていたけれど、案外に大きな声が出ていたのだろうか。

 

 それにしても、この期に及んで何も判っていないのか、それとも私の言葉に困惑しているのか、あるいはその両方か。私にはその声が、どこか無責任なものに聞こえていた。

 

 私は可美葦牙彦舅神様の前に立ち上がって深々と一礼し、私の豹変に完全に呆気に取られた様子の彼からお姉様へと向き直った。そして、お姉様との十五間(約27m)の距離をつかつかと歩いて縮めていく。お姉様は、私の顔を見てほんの少し後ずさりした。私も、歩くのを同じだけ速めて更に距離を詰める。初めて見たお姉様の怯えたような表情は、真っ暗な私の心にどこか仄暗い悦びの火を灯すものだった。

 

 雨で湿った砂を踏みしめる音を聞くうちに、いつの間にか姉は眼前にいた。

 

「お姉様、まだ判らないんですか? 貴女の無知が、私の身を、ひいては月をも滅ぼさんとしているのですよ?」

「……どういうこと?」

「可美葦牙彦舅神様の御神名を、知らなかったんですよね? お姉様はその名乗りを取るに足らぬものと私に伝える時に切り捨てたようですが、彼の御方は別天神――天地より古い、始原の神の一柱です。月夜見様、大御神、伊弉諾尊を遥かに凌ぐ、最高位の神の一柱なんですよ。活力を司り私達の生命の手綱を握る、世界のバランサー。そんな御方に私は、貴女の無学故に刀を向けて大逆を犯しました。そして、ここにいらっしゃった理由は、浅間浄穢山の停止ということでしたし、それも世界の維持に支障が出るからなのでしょうね。それを貴女は、私達は非礼と刃傷を以て応えた。月の代表として私達はそう応じたのです。分かりますか? 貴女の無学無知が、私のみならず月そのものを逆賊に貶めたんです。彼の御方が我々を世界の癌だと断ずれば、月の都諸共、私達は黄泉路を辿ることになるんですよ。それも、抗い奉る術もなく、です。貴女のせいで、私達は全てを失うんです。

 

 自分でも、ここまで滞りなく姉を冒涜する言葉が流れ出でるとは思っていなかった。声が全く揺れておらず、自分が平静を保っているのではと錯覚してしまいそうだ。

 私の心ない言葉を聞くにつれ、豊姫の表情は曇っていく。視線は私ではなく私の汚れた裾と靴に向いて、口は強く引き結ばれ、身体の前で扇子を持つ右手を上から握っている、私と違い泥も汗も見えない綺麗な左手はぎしりと音がしそうな程に強張っていった。

 

 私の心に巣食う穢れた感情も、吐き出せば吐き出す程に、口から漏れ出た量に比例するが如く膨らんでいく。

 

 お姉様は悲しんでいよう。妹に蔑まれ、貶められて実感もない罪を訳も判らぬままに悔いているのだろう。きっと、今日この日、私、そして月が滅びる前に、私達姉妹の関係は最悪の状態になって、私は姉と別れを告げることになる。

 ――こんなこと、普段の私なら絶対にしない。止めよう、お姉様と仲違いしたい訳じゃない。

 そう思う自分も頭の片隅に入るのだけれど、血が昇り、冷静さなど望むべくもない私には雑音だった。

 ただ、私と私が守るべきものを全損した(豊姫)が傷つくのを見て嗜虐的で歪んだ悦びを得たいと燻る、今や業火と化した濁った感情の炎が私を突き動かす。

 

「不敬を働いた私の命はすぐにでも尽きましょうから、今の私の思いの丈を、忌憚なく言わせてもらいます。私にとって、貴女はちょっとお調子者で茶目っ気が強くて玉兎達を甘やかす困った人でしたけど、優しくて、賢くて、私の一枚上手で師匠の教えも逸早く解した自慢の姉で、大好きな姉”でした”」

 

 これを言ったら、きっともう戻れない。確か、外の世界の言葉では”川を渡る(Cross the Rubicon)”と表現するのだったか。その川を越えれば、確実に”今”は崩れ去る。

 

 ――知ったことか。

 

 私は、人が僅か数分、たった一度の出来事でここまで変わってしまうだということを、どこか身を以て実感していた。

 

「お姉様、いや、綿月豊姫。私は、貴女のことを憎み――」

「はいはい、そこまで!」

 

 ――私と豊姫のちょうど中間から聞こえた幼い声が、怨憎に駆られる私の言葉を遮った。

*1
国譲りで大国主命方に裏切った天稚彦(アメノワカヒコ)にこの二つの神器を遣わしたのは高御産巣日神である。なお、天稚彦が天にこれを射た時投げ返したのも高御産巣日神だ。

*2
超大雑把な説明をすると、神が死ぬこと。神は死んでも消えるわけではなく、飽く迄も根の国に去るだけである。

*3
高御産巣日神は独神(ヒトリガミ)なので性別はないのだが、便宜上このように描出する。




 受験が忙しくなってきたので、断腸の思いで更新頻度を二週間に一度に鈍化させます……
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