幼き神にはあしからず   作:庚申待ち

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 御愛読の程、有難うございます!


第十段 重円復照

「ほら、喧嘩しないの! ぼくは月を滅ぼすなんて言ってないよ!」

 

 幼い声が、今まさに依姫の口から零れ出ようとしていた禁句を押し留めた。

 依姫がやや下に目線を向けると、依姫を見上げる虹色の眼差しがぶつかった。一方豊姫は最初から俯いていたので、橘が割り込んだその瞬間から、視界に橘の姿を捉えている。いつの間にか、その顔中に張り付いていた泥は綺麗に剥がれ落ちていた。服や髪は泥だらけなままだが、その姿は小さいながらに凛としていて、全く汚れた衣を意識させない。

 

 依姫も豊姫も、空気を読んでか読まずしてか知れない橘の闖入に、重苦しい空気の中挙措を失っていた。

 

 数秒のラグの後、我に返った依姫が慌てて跪き、突っ立っている豊姫にも「お姉様!」と檄を飛ばして叩頭させる。

 ただ、まさに姉に絶縁宣言を成そうとしていた依姫も、妹に罵倒された困惑と音を立てて崩れていく硝子の城を幻視したかのような絶望と悲痛が綯い交ぜになった、得も言われぬ重く冷たい感情が心に()ちる豊姫も互いに気まずくて、そして言葉を発する程の心の余裕があるはずもなく、二人してその口に錠を掛けたままでいた。

 

「……依姫、ちょっと顔を上げてくれる?」

 

 畏まって地面を見詰める二人の様子を眺めていた橘が、依姫の方に一歩歩み寄ってそう告げた。

 

 拒む理由もなく、依姫が顔を上げた、次の瞬間。

 

 ――パチン。

 

 乾いた小さな音と共に、依姫の左頬に軽い衝撃が加わり、続いてじんわりとした熱感が起こる。

 もう一度、今度は右頬を平手で打った。ペチンという音が、再び皆の鼓膜を打つ。

 

 大して痛くはなかったが、いきなり頬を張られたことに戸惑って依姫が少しだけ赤くなった頬を撫でる。

 依姫が橘の顔を眼差すと、彼は振り抜いた腕をストンと体側に戻し、その虹色の瞳で依姫をじっと見据えていた。

 

「……これで赦してあげる」

「――は?」

「依姫の大逆と大不敬を赦してあげるって言ってるの!」

 

 赦免を得た直後から、依姫は不敬極まりない聞き返しをしていた。二度も言わせるなと、橘が膨れっ面で言葉を付け足す。

 てっきりこのまま月ごと滅ぼされるものかと思っていた彼女にとっては、降って湧いたような、とでも言うべき言葉だ。これ以上なく望ましいというのに、想定外過ぎて反応できない。

 

 橘は呆ける依姫に構わず、言葉を接いだ。

 

「そもそも、ぼくは『浅間浄穢山を廃せよ』って言っただけだよ? いつから月を滅ぼす話になったのさ」

「……それは――」

「もしそのつもりだったら、月にわざわざ来てないよ。何も聞かずに滅ぼしてるもん」

 

 依姫が何か言おうとしたが、橘が理解を置いてけぼりにするような言葉で遮り、更に続ける。

 

「最初に依姫に神名を名乗らなかったぼくも悪いし、知らなかったとは言え刃傷を負わせてくれた依姫も悪い。痛み分けってことで、この話は終わりね」

 

 依姫当人が終始ぽかんとしたまま、依姫にとっての一番の絶望の素がさらりとさしたる咎めもなく裁かれて解決を見てしまった。

 全くついて来れていない依姫が目を瞬かせる中、尚も橘は話を止めない。

 

「それにしても、いきなり殊勝な態度を取り始めたと思ったら妄想の暴走でお姉さんを罵り始めるなんて……気持ちはわかんなくもないけど、部下の兎さんが泣きそうな顔で困ってたよ?」

 

 その言葉を聞いて依姫が橘が先程までいた場所を振り返ると、そこには裾を両手でぎゅっと掴んで、潤んだ目でこちらを見守るレイセンがいた。目を凝らすと、その手には白いハンカチが見える。縁には、所々茶色く染みがついていた。

 依姫が振り向くのを待たず、橘が話を締め括る。

 

「それに――姉がいるというのは、とても恵まれたことなんだよ。もうちょっと、家族を大事にしなさい」

 

 ――最後の一言が、妙にずしりとした重みを持って依姫の耳に届いた。

 後ろを見ていた依姫にはその瞬間の橘の顔は見えていなかったが、その声はどこかわびしい響きを孕んでいた。

 

 それだけ言って、依姫が再び向き直った時には橘はくるりと豊姫に向き直っていた。にこりと見た目の年相応に微笑んで見せれば、その幼けなさは凍った雰囲気を和らげる一輪の花を咲かせる。それは、今さっきの寂しい声音が嘘と思えるほどに無邪気な顔であった。

 

「それじゃあ、やっと本題に入れるかな。豊姫、改めて(のたま)おう――浅間浄穢山を今直ぐ停止してほしい」

 

 しかしその口から紡がれる可愛らしい声は、やはり状況が違えば冗談としか聞こえないような、天蓋越しの絶対的な命令を示すものだった。

 ただ橘との遭遇時点から神の御業を幾度も見せられて既に相当感覚が麻痺していて、可愛い妹から絶縁に近い宣言をされかけて壊れかけていた豊姫の心はその程度のギャップでは揺れ動かない。

 というより、1000が1001になっただけだという感覚だった。

 意気消沈してそれに驚く気力もないので、豊姫は半分脳死状態で答える。

 

「……申し訳ありませんが、致し兼ねます」

「ちょっ、お姉様――」

「なんで?」

 

 依姫が豊姫の答えを聞いて姉の正気を疑うように声を上げたが、更にその上から橘が被せ、豊姫に続きを促した。不満を示すというよりは、単なる疑問という感じで威圧感のない声調だ。尤も、早く答えろ、(いな)むことは許さないという意思はそこはかとなく感じられたが。これで威圧感がない、というのは豊姫自身にも矛盾しているように思われたが、声音そのものは、本当にただ理由を訊きたい、という意図しか感じられなかったのだ。

 またしても遮られ、もう依姫も橘が不敬を咎める気がないのを察して口を閉ざすと、豊姫が下を向いたまま、張りのない声で答えた。普段の調子の良さも艶やかさも感じない、放念した声音だった。

 

「……月の都を維持するためには、穢れ無き情報が必要になります。浅間浄穢山は、そのための機関です。それを取り払えば、月は忽ち穢れに溢れ、時が進み出して永遠という悲願は儚く崩れ去ってしまう。それ故に――」

「うん、知ってるよ」

 

 抑揚のない声で、橘が豊姫の説明を打ち切った。

 じゃあ何で聞いたのよ、と豊姫が心の中で食って掛かるのも束の間、その疑問に答えが返って来る。

 

「阿梨夜が言ってたのと、全部一緒だね。君達だけじゃないけど、何で皆勘違いしちゃうのかな?」

 

 橘は、豊姫にすっと一本立てた人差し指を真っ直ぐ向けて、真面目な顔で告げる。

 幼い声は清流の如く滔々と紡がれ、聞く者の耳を何の抵抗もなく通り抜け、直接脳内に沁み渡っていく。

 

「常磐を生きるということは、言わば”宿縁”なんだよ。選ばれた者のみしか得られない、生まれた時からの運命。慈悲なんてものはなくて、得た者を確実に不幸にする、永遠の孤独を約束する宿命。捨てようと願っても、結局は叶わない。それもまた運命だから。その癖(とこしえ)久ならざる者は皆(こぞ)って不老不死だの永久不変だのを求めるけど、結局は天命*1に抗えずその命を儚くするんだよ。永遠を享けるのも定めなら、永遠を享受できないのもまた一つの運命ってこと。尤もぼくからすれば、君達が態々際限のない拷問を自分から求める理由が理解できないけどね」

 

 まさしくそれは、永劫の時を生きた者の金言――悟りに近い言葉であった。

 

「もし永遠の不変を求めるなら、ぼくが君達の時間を()()()()()叶うよ? 二度と醒めることなく、何も判らぬままに宇宙の塵になって消えることになっちゃうのと引き換えにだけどね」

 

 冷たい風が、姉妹のみならず玉兎達の背筋も撫でる。橘の言っていることがよく理解できていない玉兎達にも、橘の声音が一切変わっていないことから、その気になれば本当に”凍結”が遂行可能なのが窺えた。

 

「でも我が儘放題の君達は、どうせ『それは嫌』って言うんでしょ? だから、断言しておいてあげるよ――君達が永遠に辿り着くことは、絶対にない。君達は、変わり続ける。どれだけ穢れを避けようが、必ず終わりが訪れる。その幸せに気付けもしない君達に、真なる永久の世界に足を踏み入れる権限なんてない。そして、踏み入ることもお勧めしないよ」

 

 淡々とした口調で、橘は話を終えた。今までで一番の、寄せる波も黙る静寂が空間を支配する。

 

 豊姫には理解できない考えだった。終わりがあることが幸運? 私達は如何なる努力の果てにも終わりを迎えてしまうのか? 月の悲願である、達成したとさえ思っていた永遠は成し得ない?

 当然、依姫も橘の言葉を解さない。そんなものは信じたくはないと、揺れる瞳が雄弁に告げている。

 

 否定したかったけれど、目の前の幼気な子供(千古の覚者)の言葉は二人が声を上げて否める程には軽くなかった。月夜見に相対した時のような、威厳で圧し潰されるようなものとは違えど、ある種の強烈な威圧が肩に圧し掛かり、二人の反論を封じていたのだ。

 

 豊姫も依姫も、首を縦にも横にも振らず、只管に黙っていた。

 五秒、十秒と、短いようで長い時間が経過する。

 

 橘はそんな二人の反応に――そうなると判っていたとでも言うように――莞爾と微笑んでいた。

 あどけない顔立ちにはそぐわぬ、好々爺が子供に向けるような、温かい笑みであった。

 

「――まあでも、受け容れられないのも知ってるよ。命を賭してでも求める人だって何回も見て来てるし、永遠にはそういう不思議な魔力があるんだろうね。ぼくは別に哲学をしに来た訳じゃないから、君達の理念に口を出す気はないよ。信じたいことを壊すのは、神としては最悪の所業だろうからね」

 

 そう言って一度言葉を切ってから、橘は玉兎達を橘から守っていた、自身と依姫がいた――今は豊姫とレイセンが加わり四人が中にいる――領域を半球状に覆う結界を見遣った。

 

 そして暫し、顎に手を当て思案顔でぶつぶつと呟きながら、その結界を凝視する。

 

「さて……レイセンが出て来れたってことは、中から外には行けなくても、外から中には干渉できるってことだよね。一方通行の結界ってことかな? 物理にしか効果がないのか、それとも精神にも効果があるのか……非物質に影響は及ぼすことはできるのかな……そんな器用な結界、ぼくには張れないけど、これなら……」

 

 独り言ちる橘は、それ以降は黙して俯いて固まった。

 

 時間にしては僅か十秒程が経過した後。

 俄かに、橘は依姫に振り返った。

 

「依姫、さっきの結界の力、もう一回使える?」

「あ、えっと……岐神(クナドノカミ)の御力ですね? はい、十全に使えます」

 

 暫くぶりに会話に引き摺り出された依姫は、若干気後れしつつも跪いたまま橘の問いに答える。

 すると、橘から奇妙な命令が飛んできた。

 

「じゃあ、浅間浄穢山と月の通路の間に、一番堅い物理結界を張ってくれる? 出来るなら、実体のない霊体、精神体に対する効果も付与して」

「畏まりました」

 

 別天神の命令に否やはない。即座に承ったが、何をするのかは見当もついていなかった。

 橘の求め通りに【岐神】を宿し、通路を塞ぐように遠隔で結界を張る。

 正直依姫には橘が何を言っているのやら判らなかったが、岐神に願うと、岐神は依姫の求めに応え、朝飯前とでも言うように注文通りの神業を為してくれた。

 

「御言葉の通り、結界を張り申し上げました」

「ありがと。あとは休んででいいよ。今度は、ぼくがちょっと頑張る番!」

 

 依姫を軽く労って手を振り、曖昧な物言いで答えた橘は、天を仰ぎ、大きく息を吸う。

 

 ――直後、小さな身体から満天の星々に向かって、稚い大音声が上がった。

 

「懸けまくも畏き、(かく)りて(いま)す造化の神々よ! ()が、御心を慰め奉らん為に、穢れを()せぎ留めんとする月つ都を助け、(つち)より隔て(さか)らせまく()りする也! (こいねが)わくば、月へ流れ入らん(いつ)く心を浄め祓わゆる(さえ)をば()き給わし、我をも助け給えかし! (いまし)が御子神も在るらん此の月を赦して助けんこと、奈何(いかん)!」*2

 

 声と姿に反する厳かな祝詞が、天へと消えていった。

 その場の全員が、最後に聞いたのが何年前なのか判らない、或いは聞いたこともない古めかしく堅い言葉を橘が朗々と唱えたことに絶句する。いくら頭で橘が神だと判っていても、いざそんなことをやられてみれば、視覚と聴覚の情報が大いに脳の処理の邪魔をして、言葉を失ってしまうものだ。

 

 再び音が凪いで数秒。

 さあっと、一陣の風が吹き抜ける。皆の頬を爽涼とした空気が撫でると同時に――

 

『『――然か善けん(よかろう)』』

 

 ――何処からか、恐らくは天からだろうが、二つ重なった声が(どよ)んだ。

 その瞬間、思わず皆が姿勢を正す。どちらも男のものか女のものか、若年か老年か、全く見当もつかない無個性で平坦な声音だったが、そこには月夜見を遥かに凌駕するような、姿も見ていないのに圧死しそうに感じられる程の神威が込められていた。

 それはどこか、幼い声が孕む何とも言えない緊張感とよく似ていた。

 

 ――橘と同類(別天神)だ。

 

 高御産巣日神らの知識がある依姫は勿論だが、豊姫以下の全員もそう直感した。

 

 ――パンッ。

 

 掌を打ち合わせる音で、半ば放心状態にあった皆がはっと橘に意識を向ける。

 橘は安堵したように小さく自分に頷くと、こちらを向いている者達に気付き、元気な笑みを浮かべて声を掛けた。

 

「終わったよ! これで、浅間浄穢山を通る情報は全部”濾過”されて穢れを削ぎ落とされるはず。高御産巣日神様と神産巣日神様の御力を借りることになっちゃったけど、御二方とも吝かではなさそうだったからよかったね!」

 

 ――あっさりと、橘は問題を解決してしまったらしい。

 

「……全く理解が追い付かないので、詳しく説明して戴いても宜しいでしょうか……?」

 

 依姫が完全にショートして口をあんぐりと開けて固まっているのを見兼ねて、豊姫がおずおずと訊ねた。会った時からそうなのだが、橘は自分が知っていても相手が知らないことがあるというのを考えて話していると思えない*3。こうやっていちいち訊かないと、橘は周りを置いていってしまう癖があるようだ。

 

 当の本人はそんな悪癖を自覚していない――していたとしても数十億年コレなので多分直らないし、歪ながらも認知機能自体は成熟しているので別に大きな問題はないのも相俟って、更に気付けない――が、豊姫の問いには(まさか自分に説明不足があったとは思わずに)丁寧に答えてやった。

 

「さっき、依姫に結界を張ってもらったでしょ? 結構無茶振りしたけどしっかり応えてくれたやつ。あれをベースにして、ぼくと造化の御三方のうちの御二方の力で結界を弄ったんだ! だから今、浅間浄穢山は情報の穢れだけを塞き止めて情報は流してくれる結界で通路を塞いで、それだけで”フィルター”の役割を果たせる施設になったってわけ! すごいでしょ!」

 

 橘が自慢げに胸を張るが、他方豊姫は依姫のように口を開け放って、脳の機能を完全に停止させていた。

 

 橘の説明は滅茶苦茶雑なのだが、豊姫にだってこれは判る。

 ”言うは易く行うは難し”どころの話ではなく、空中楼閣と評するのすらも馬鹿らしい理論に立脚した難事を橘と二柱の別天神は平然と現実のものにしてしまったのだ。

 いや、言っていること自体は理解できるのだが、抑々が”情報を塞き止める結界”というのが焼き栗の(きざ)すが如く実現不能だし、それを情報の変質を伴わず”穢れだけ削ぎ落とす”なんて常人の理解の範疇を超えている。喩えるなら、食塩と砂糖が混ざって溶けている水を一切蒸発させず冷却もせず、砂糖だけを除いて食塩水を作れというようなものだ。

 そして、綿月姉妹にすら意味が判らない難解な所業である時点で、もうそれを納得できる者の数など広い世界の中でも五指に収まってしまうだろう。しかもそれが依姫が張った結界の術式に干渉して結界を創り変えたもの――他者の結界術を完全に理解した上で更に遥かに高度な結界術と演算の下でなければ到底不可能な精密極まりない荒業で、口ぶりからするに橘もそのいずれかのプロセスには参与しているようなのだ。どれ一つ取っても月の民には夢物語のような偉業なのに――次元が違うとはこの事らしい。

 

 終始会話から置いていかれている玉兎達に至っては、最早橘の言葉を噛み砕くのを諦めて瞑想に耽る者が大多数であった。

 

 理論だけは理解できても納得できていない者二名と、端から何を言っているのかちんぷんかんぷんな様子のその他大勢が一様に豆鉄砲でも食らったかのような顔を浮かべる中、橘はまだまだ一人で突っ走る。

 

「取り敢えずこれで一万年くらいは月の都に入り込む情報が穢れることはないと思うから、浅間浄穢山は今この時点を以て稼働を停止し、ユイマンを完全に解放すること。洗脳の術式の再起動も禁止だから。いいね?」

「……承りました」

 

 気疲れと驚き疲れで詮索する気も失せている豊姫は、月の都の清浄が担保されているらしい以上は特に拒絶する理由はない上に磐永姫からの怨みが少しでも解消できるかもしれないということも考え、素直に承諾した。

 その答えに、橘が満足気に笑う。顔を汚していた泥も拭われ、整ったあどけない顔立ちは、そんな屈託のない明るい表情に最もよく映えていた。

 

「よろしい! それじゃあ、ぼくは帰るから、ツクヨミに報告するのはよろしくね! レイセンも、ハンカチありがと! じゃあね!」

 

 その言葉と共に橘が手を振った直後、その姿が忽然と消えた。

 豊姫の目にも依姫の目にも、橘が疾駆する姿は映らない。空間が僅かに揺らいだのを見るに、今回は転移に類するものだったのだろう。

 玉兎達にはそれすらも判別不能だったが、橘がこの場からいなくなったことは判った。

 

「「「「「……はぁぁぁぁぁぁ~~……」」」」」

 

 橘が消えるや否や、示し合わせたように皆の大きな吐息の音が重なった。

 理解を凌駕する出来事を目の当たりにした者は往々にして、恰もコピーかのように同じ行動、同じ思考に支配される。反則の代名詞たる姉妹もモブに近い玉兎も、この時は脳内が真っ白に染まっていた。

 


 

 橘の消失から数瞬遅れて、安堵による極度の精神弛緩で、玉兎達が一斉に膝を砂浜に落として座り込む。橘と依姫の死闘からの上司姉妹の本気の喧嘩、そして橘の神の御業と、連続する超常体験でその脳は既にパンクしていたのだ。

 

「……結局、あの子は何だったんだろうね」

「神様って言ってたじゃん。私達が知ってる神様と全然違うけど」

「途中から何言ってるのかよく判んなくなっちゃったよ」

 

 そう口々に言い合ううちに、レイセンが戻って来た。

 足取りはどこか蹌踉とした覚束ないものだったが、その顔はレイセンの胸裡の達成感に似た感情をありありと示していた。

 

「あ、レイセン戻って来た」

「ありがとね、レイセン。『橘くんに、依姫様を止めてもらって来て』なんて無茶振り頼んじゃって。ハンカチ一枚で月夜見様より偉い神様に願いを聞き届けてもらうなんて、凄いじゃん!」

 

 レイセンはそんな称賛にはにかみながら、横目に豊姫の胸元に顔を埋める依姫を眺めつつぽつりと呟いた。二人の居る方向からは嗚咽としゃくりあげる声が聞こえて来るが、それが姉妹のいずれのものなのかは判らない。

 

「……いいよいいよ。多分私じゃなくても、橘くんは引き受けてくれてたし」

「……レイセン、何か悟ったみたいな目だね」

 

 そんな仲間の言葉に、レイセンは頬をぽりぽり掻きながら応える。

 

「橘くん、私が顔を拭いてあげた時はべそかいてたちっちゃな子供にしか見えなかったんだけどさ。私がお願いしたら、ちょっときょとんとしてから笑って『レイセン、いい子なんだね』って言ってくれたんだよね。あんなちびっ子に”いい子”って言われるのは違和感あったけど、その時は優しいお爺さんが褒めてくれてるみたいな柔らかい口調で、依姫様に言ってたこともあわせて考えたら、なんか心が洗われたっていうか……」

 

 それ以降、レイセンは言葉を打ち切って依姫と豊姫の様子を一心に眺めた。

 他の玉兎達も、つられて上司二人の愁嘆場に意識を鋭くする。いつしか豊姫と依姫は互いの身体をひしと抱き合い、遠目にも判るほどに泣きじゃくっていた。依姫は姉の心臓の拍動の温かさを確かめようとするかのように豊姫に身体を預け、豊姫は震える依姫の背中に腕を回して同じく震えながら割れ物を扱うかのように妹を撫でてはぎゅっと抱き締めている。いつの間にか、咽ぶ声は二つに重なっていた。

 

「……豊姫様と依姫様、仲直りできたのかな」

 

「喧嘩してたらハグはしないでしょ」

 

「……ほんと、良かったね」

 

「依姫様と豊姫様はやっぱり姉妹でいてもらわないとね」

 

「……家族って、やっぱりいいものなんだね」

 

「……じゃあ私達にとって家族って、誰のことなんだろう」

 

「……依姫様と豊姫様は、育て親みたいなもんじゃない?」

 

「あのお二人も、私達の家族、かぁ……」

 

「それじゃあ、もっと大事にしないとだね」

 

 時折、小さな独り言が聞こえる。独り言はまた別の独り言を呼ぶ。宛らそれは、(せせらぎ)が合わさって大河となるように。

 

 渚にはまだ、互いにひた謝り合う二人の涙声が続いていた。

 


 

 浅間浄穢山最奥部にて。

 

 四十分以上も気まずいことこの上ない空気を紛らわすために、阿梨夜と妹紅の二人が続けていた地獄の暇潰しが漸く終わりを見た。

 

 二人の話題に十三回目の小休止が挟まった時、向かい合う二人の傍らの空間がふっと揺らいだ。

 視界の端で少し景色が捩れたかと思えば、その歪みは一瞬で修復される。

 

 変わっていたのは、そこに小さな白い人形(ひとがた)の影が出現していることくらいであった。

 

「ただいま~! 待った?」

 

 能天気な声が、妹紅と阿梨夜の耳朶を打つ。

 即座に気怠げな妹紅の声が帰って来た。

 

「待った待った、死ぬほど待った。お陰で千年生きてきて、一番時間が長く感じられたよ、ありがとね」

「どーいたしまして!」

「イラついてんの! ……あれ? 服泥だらけだけど、月まで言って態々泥遊びでもしたのか?」

「ないしょ~♪」

 

 阿梨夜に散々別天神の何たるかを説かれても、結局妹紅の態度は変わらずだった。そしてそれに応じる橘の態度もまた、阿梨夜の”元々の”橘像を補強するような幼気なもの。微笑ましい姉弟の形そのままの、橘が月へ行ってきたことをしれっと暗に認めているということさえもともすれば気付けないかもしれない、微笑ましく長閑な光景であった。

 それに呆れつつも、橘が振り向いたのに合わせて阿梨夜がすっと跪く。

 心臓が口から飛び出そうになったのも今から十分は前の話。まだ余韻を引き摺ってはいるものの、阿梨夜の心は既に平静を取り戻し、澄ました笑みを浮かべていた。

 

「お帰りなさいませ、橘様……で宜しいですか?」

 

 恭しく言葉を掛ける。

 橘は、いきなりの阿梨夜の変節に円らな目をぱちぱちと瞬かせた。

 

「……ありや、急にどうしたの?」

「妹紅殿から貴方様の神名を伺いまして。先程は無礼を働き、申し訳ございません」

 

 橘が頭を垂れて畏まる阿梨夜を見遣って妹紅に「もこさん、何言ったの?」と言外に訊ねると、妹紅からこれも目線に乗せて、「特に何も言ってないよ」と答えが返って来た。

 

「それは別にいいんだけど……よりひめもだけど、ありやもぼくの名前、ちゃんと知ってたんだ」

 

 霊夢と魔理沙に泣かされ、妹紅にも首を傾げられ、豊姫にも知らないと言われて自分の知名度を思い知った気でいた橘は、打って変わって依姫、阿梨夜と畏敬してくれる相手に立て続けに出会い、少々困惑していた。嬉しいものは嬉しいのだが、先に知らぬ存ぜぬの連続で萎え切っていた矜持が素直にそれを受け取れずにいたのである。

 それで、どう答えたものか逡巡し、橘はどこか淡泊な言葉を返した。

 

 普通ならば何の取っ掛かりもなくて受け取る阿梨夜の方が返しに困りそうな返事ではあったが、阿梨夜は橘にとっては補足だけのつもりだった情報にぴくりと眉を跳ねさせて反応した。

 

「依姫――綿月豊姫の妹ですよね? 会ったんですか?」

「うん。とよひめは『知らない』って言ってたのに、妹さんは知ってたんだよね~」

「確か彼女にはあらゆる神を降ろす能力があったはずですから、神話には暢達していましょうし納得です」

 

 阿梨夜が依姫に直接会ったことはないが、豊姫が幾度か交渉しに来た中で依姫に八百万の神を使役し奉る力があるということを言っていたのは憶えている。今思えば、あの一幕は恐らく脅迫の一種だったのだろう。

 

 阿梨夜が数千年も前の記憶にトリップしていると、橘があっと幼い声を上げ、パンと小さな手を一度打ち合わせた。

 

「そうそう、忘れてた! ありや、ユイマンはクビになったから! 今日から浅間浄穢山は、永久に活動停止処分だよ!」

 

 そして、濃密なお話の一切合切をすっ飛ばし、結論だけを一言要約のお手本のように簡潔に纏めて阿梨夜に伝えた。

 依姫との死闘も、二人の喧嘩も、浄穢結界についても全てが瑣事であるかのように。

 

「……」

「ごめん、一歩ずつ説明してほしいんだけど」

 

 阿梨夜の脳が省略を補い切る以前に内容理解の時点で処理落ちして、それを見て、また自分も全く意味が判らず妹紅が即座に橘に補足を促した。

 

 橘は律義に言葉を返すが、妹紅と阿梨夜が説明してほしいことには何一つ答えない。

 

「今日から浅間浄穢山はユイマンを使った運営を放棄するから、もうユイマンは働かなくてもいいって話!」

「それは”何故か”の説明じゃなくてただの言い換えだよ!」

「日本語って難しいからよくわかんな~い」

 

 そう言って白髪の幼児はへらへら笑い、とことこと近寄って来て妹紅の身体に擦り寄り腕を引き、「疲れたからおんぶ!」とせがんだ。

 

 心にしこりは残るが、仕方がない。妹紅は諦めた。

 出会って未だ数時間の付き合いでも、既に橘がこういう敢えて強情を張る時は意外と聞かん坊だということが身に染みている妹紅は、溜息を吐きながらも橘に背を向けてしゃがんでやり、小さな身体を背負って再び立ち上がった。

 軽く上体を揺すって橘の身体の場所を調整し、小さな両手がそれぞれ左右の肩を握るのを知覚して、こてんと頭も妹紅の背中に預ける橘を軽く後ろ目に見ながらもう一つ妹紅が溜息を吐く。

 

 橘の髪が頸の後ろ筋に擦れて擽ったく感じながら前を向くと、いつの間にか阿梨夜は立ち上がって、妹紅のもう少し上、もう少し向こうをじっと見詰めているのが見えた。妹紅はてっきりもう少し脳回路の修復に時間がかかるかと思っていたが、妹紅が思っていたよりも回復が早い。

 

 橘が遅れてそれに気付いて阿梨夜に目を合わせると、阿梨夜は深々と――妹紅が今までで見たことがある中で、一番綺麗に丁寧に――お辞儀をした。

 

「――ありがとうございます」

 

 たった一言。震え、少し湿っていたが、真っ直ぐでよく通る声だった。

 

 数秒、辺りが水を打ったような沈黙に包まれる。

 万感の思いが籠った言の()は、漸くと気を抜いていた妹紅の心を引き絞った。

 

 橘の答えもまた、よく通るあどけない声に載せて、一言だけで返された。

 

「――どーいたしまして!」

*1
天命という言葉は中国思想的で、天に坐す天帝の思し召しという意味合いになって来る。キリスト教的には、予定という言葉が近かろうか。ただ、日本神話にはそういう運命を定める存在はいない(少なくとも橘にそんなことを規定できる者はいない)ので、ここでは単に”どうにもできないもの”という意味。

*2
現代語訳:

 御名を口にするのも畏れ多い、隠身(かくりみ)でいらっしゃる造化の神々よ! ぼくは、貴方様方の心を安んじ申し上げるために穢れを拒む月の都を助けて、地上から離してやりたく存じます! どうか、月に流れ込む情報を清めて穢れを祓うことが出来る結界を張りなさって、ぼくのことも助けてください! 貴方様の御子神もいるでしょうこの月を赦して助けるのは、どうでしょうか!

*3
人間の子供がこのことを認知するのは、一般的には五歳くらい。今の橘のように、認知機能の発達が不十分であるが故に自分が把握している物事に基づいて、相手が把握しているかどうかを考慮せずに思考してしまう性質を、”自己中心性”と言う。




 長くなってしまった……申し訳ありません……

 追記:それぞれの話に対する番号の振り方を、通しではなく章ごとでリセットする形に変えました。そのため、第一章に関しては二章ずつ数がズレています。
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