幼き神にはあしからず   作:庚申待ち

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第十一段 行きはよいよい

「ここは四季の竪穴。ユイマンの故郷を模して造られた、ユイマンの精神安定剤みたいなものだそうだよ」

「”だそう”って何なのさ。このピラミッド、阿梨夜自身が作ったんでしょ?」

「この通路の彩りは、月の民が勝手に加えた物だよ*1

「あ、何かごめん……」

「妹紅殿が謝ることはないさ。もう、悩みの種は消えたんだし」

 

 磐永阿梨夜と藤原妹紅の二人は、妹紅と橘の二人が行きに通ったのとは違う西の出口に向かって飛翔していた。

 

「……すぅ……すぅ……」

 

 妹紅の背に小さな身体を預ける橘は、阿梨夜に一言答えて数分とせずに夢の世界に旅立ってしまっており、僅かに開いた口から静かに寝息を漏らしながら妹紅の背中にしがみついている。

 その寝顔は、橘の姿格好を人外じみたものにするほぼ唯一の要素である虹色の双眸が閉ざされていることも相俟って、只管に幼気で、可愛らしいものであった。

 

 その寝顔をふと見遣った阿梨夜が、苦笑しながら呟く。

 

「……こんな可愛げな寝顔を見せられたら、この御方があんな結界を張っただなんて信じられないよね」

 

 妹紅の肩を掴む力が緩んで少しずり落ちた橘の身体を直しつつ、妹紅が若干呆れた様子でその独言に反応した。

 

「阿梨夜、多分橘は呼び捨てでも何も言わないよ? そんな御方とか呼ばなくても――」

「妹紅殿は天皇(すめらみこと)に拝謁した時もそうやって接するの?」

「……そんな食い気味に言わなくても」

 

 その言葉の後に、幾許かの無言の(ひま)があって、その居心地の悪さを紛らわそうと妹紅が再び言葉を発した。

 

「まあでも、結界術はよく判らん私にも、あの結界が異次元の代物だってことは何となく判ったよ」

 

 実は二人は妹紅にとっての帰路、阿梨夜にとっての往路の前に、橘の雑な言葉を確かめるべく月との連絡路に向かったのだが、そこで二人の眼前に立ち現れたのは、月へと続く連絡路に非ず、それを塞ぐようにして形成された、その色を絶え間なく変化させながら淡く輝く美しい半透明の障壁であった。

 人も神も自らの力では如何とも出来ないものに圧倒され、畏敬を抱くようになる。轟音と飛沫を上げる大瀑布や頂が霞む大いなる山の威容に魅入られるように、二人は言葉を失って、暫し青、赤、黄、白、紫、紺、緋と移り行く不定の絵画を鑑賞していた。

 阿梨夜の目は何人たりとも干渉することの出来ない緻密で芸術的なまでに美しい術式を、妹紅の目はただ彩りの裏に潜む底知れぬ威圧感をとそれぞれに異なるものを捉えていたが、二人の抱く感情は同じ。

 妹紅でさえも、橘への評価を数段も上方修正することになったのだ。

 

「この子は神様なんだなって実感したけど、いざこうして甘えられてみると、やっぱり見たまま振る舞うままの子供だなって感覚の方が勝っちゃうんだよね」

 

 妹紅が苦笑すると、阿梨夜も小さく頷いてくすりと笑った。

 

「……ほんと、その通り。もう少しそれらしく振る舞って戴きたいものだよね」

 

 そして、妹紅から視線を離して、いつの間にか小さく姿を現し始めた通路の出口を遠くに望みつつ続ける。

 

「ただ、そうで無くとも私は橘様には畏敬を表さないといけませんね――妹紅殿を私に引き会わせてくれて、ユイマンを月の奴隷から解放してくれた、私とユイマンの恩人ですから」

 

 その声音からは妹紅の前で落涙する前のそれに滲んでいた諦観と悲しみは消え失せ、またその瞳も四季の竪穴の出口の更に向こうの光を確と捉え、反射して明るく紅く煌めいていた。今の言葉を受け取るのは、妹紅ではなかろう。最も慈しみ憐れんできた友に前もって呼び掛けているようにも、自分自身への宣言、確認として噛み締めているようにも見える。

 

 澄んだ声の余韻が昔日の浅間山の幻影に溶けゆく。

 再び阿梨夜は妹紅に視線を戻し、嫣然と微笑んだ。

 

「勿論、貴女だって私の第一の恩人ですよ。最大の感謝と友情を誓いますから」

「重いなぁ……」

 

 阿梨夜の綺麗な笑顔につられて妹紅も小さく笑いながら、軽口を返す。

 

 そして、今度は妹紅がすっと出口を眼差して、ぽつりと小さな声で付け加えた。

 

「……どういたしまして」

 

 その耳は、ほんのり赤く染まっている。ここまで濁りのない感謝を向けられることはそうそうないし、感謝を受けることを生き甲斐と感じるようになったのは最近のことだから、妹紅は感謝され慣れてもいない。

 

「ほら阿梨夜、もうすぐ出口だよ。前向いたらどう?」

 

 言われて阿梨夜が前を見てみれば、なるほどあと三十秒もすれば四季の竪穴を抜けそうなまでに出口に近付いていた。早口気味な親友の言葉に微笑ましさを覚えつつ、素直に阿梨夜も正面に向き直った。

 


 

「うわっ!?」

「ぐ……動けない……」

 

 甘酸っぱい空気の余韻と共に神殿の外へ通ずる光に飛び込んだ妹紅と阿梨夜だったが、通り抜ける直前で身体が金縛りに遭ったようにガクンと動かなくなり、その場から毫も前に進めなくなった。

 慣性に従って橘の身体が妹紅の背から滑り出そうになったのを、妹紅が慌てて押し留め、どうにか元の位置に戻してやる。

 阿梨夜がすっと後退してみると、その試みは容易く成功した。少し退こうとする分には何の束縛もなく動けるので、どうやら不可視の力は妹紅と阿梨夜が外に出る道を通ることを拒んでいるようだ。

 

 いきなりの、全く空気を読んでくれない障害に妹紅と阿梨夜が二人して面食らっていると、数m先の出口の方から溌溂とした声が届いた。

 

「漸く私の出番ね! この”道を通さない程度の能力”の前には、何人たりとも此処を進ませないわよ! さあ、内なる災厄よ、神妙に神殿の中へ戻りなさい!」

 

 逆光の中に、シルエットが浮かぶ。

 いくつかの球で末を纏められた長い髪が揺れ、それを上へ根元へと遡ってみると、卵型に近い楕円形の冠の影が見える。首を(もた)げたものと両端に”〇”と”✕”がくっついたものと、一対の杖を構えるその姿は――

 

「馴子か! 私だよ、藤原妹紅だ!」

 

 声からも判る通り、橘が行きで盛大に油を売った相手である道神馴子のものであった。

 

「あ、妹紅さん! すみません、私は中から出て来る者を塞き止めるために置かれた道祖神なので、そっちの得体の知れない侵”()”者がいることには妹紅さんも通せないんです。すぐ片付けますので、少々待ってて下さい!」

 

 馴子が、大量の――初対面時に妹紅と橘に向けようとしていた時とは比にならない、狂気的(Lunatic)な量の弾幕を浮かび上がらせ始める。

 その声は、どこか上気していた。自分の役割に歓喜しているのがよく判るが、阿梨夜を通してもらえなくては妹紅だって困るし、第一弾幕勝負は今日はもう勘弁してほしい。馴子が嬉しそうなのを遮るのは若干心苦しいながらも慌てて声を上げた。

 

「そっちこそ少し待て! 今からちゃんと事情を説明してやるから、阿梨夜もちゃんと外に出してやってくれ!」

「私は外の者に害を成す気はないから、通してほしいのですが。抑々、災厄と言われるのは仕方ないにしても、他所者に自分の神社に押し込められるのは気分がよくない」

 

 阿梨夜もそれに続き、馴子に声を掛けた。

 暫し、沈黙が落ちる。

 

 数秒すると、弾幕の眩い光がふっと消え失せた。

 

「……理由によるかな」

 

 渋々だが、馴子も納得してくれたらしい。

 

 ――説明役って、ガラじゃないんだけどな……

 

 心中でぼやいて妹紅は一つ溜息を吐き、馴子に懇切丁寧に、神殿の中での経緯を語ってやることになった。

 


 

「……判りました。阿梨夜さんは妹紅さんの御友人だということで、お通ししますよ」

 

 馴子の気落ちした一言で、交渉は妹紅達にとって成功裏に終わった。

 ただ、馴子の話を聞くに、彼女は妹紅の寿命以上の間、自我は無いながらも出番を待ち侘びていたようで、折角の機会すらも奪われたことに相当ショックを受けていた。何も悪いことをしていないはずの二人が、何とも言えない罪悪感を抱いてしまう。

 

 また、馴子の沈鬱にはもう一つ理由があった。

 

「しかも、橘くん寝ちゃってるんですか……流石に起こすのは気が引けるけど、折角謎掛け考えたのに……」

「……」

 

 橘は馴子と妹紅の大音声にも急停止で放り出されそうになったことにも一切動ぜずに妹紅の身体に顔を埋め、小さな身体を弛緩させ切って熟睡を続けていた。ここまでぐっすり寝られると慥かに起こすのも憚られるが、それ以前に快眠が過ぎる橘が少し心配になる。疲れ切っているのか、神経が図太過ぎるのか。これは自由奔放という神様らしさなのか、危険意識の欠如という致命的な欠点なのか。妹紅にはよく判らない。

 

 そんな疑問も惹起されはするが、妹紅の頭の大部分を占めていたのは、似たようなもう一つの呆れに近い問いであった。

 

 ――コイツの頭には謎掛けしかないのか?

 

 妹紅はどうしても、馴子が暗い顔をしている原因の大半を占めるのが後者の理由に思えてならなかった。恰も添加というように告げられた理由だったが、馴子の言動を鑑みるに本命はそっちじゃないのかと疑ってしまう。

 

「馴子、どうして貴女が橘様に謎掛けを教えることになってるの?」

「ああ、それはですね、橘くんが私に謎掛けの何たるかを教えてくれまして――」

 

 当然馴子と橘の約束なんて知らない阿梨夜が馴子に訊ねると、馴子が(恐らく謎掛けの話だから)少し元気を取り戻し、快くそれに応えた。

 

 ――阿梨夜が橘を”様”呼びしてることにちょっとくらい違和感を覚えないのか……?

 

 妹紅は確信した。馴子(コイツ)のコレはもうそういう持病なのだ。リリーホワイトが毎年「春ですよー!」と馬鹿の一つ覚えのように、最早狂気じみた執念を持って春を伝えるのと一緒で、謎掛けをしていないと死んでしまうのだろう。そう理解することにした。

 

 そう思い至ってから妹紅が漫ろに他愛もないことを幾つか思惟していると、いつの間にか馴子と阿梨夜の会話は一つの区切りをとうに迎えて、これからの予定についてのものになっていた。

 

「なるほど、これから”守矢神社”なる場所に向かうんですか。でしたら、私も同行してもいいですか? 橘くんに謎掛け聞いてほしいですし」

「私は構わないけど……道祖神が持ち場を離れてもいいの?」

「私の役割は貴女を止めることですので、貴女を通すとなればここにいる意味あまりないんですよ」

 

 妹紅の与り知らぬ間に、馴子も守矢神社参りに加わることになったらしい。

 

「そういう訳で妹紅さん、ご一緒しても?」

「……お好きにどうぞ」

 

 正直なところ、道中の会話で馴子が暴走する気がするので出来ることなら置いていきたかったがそうまでして角を立てるのも面倒だと諦め、馴子の言葉を快く承諾した。

 


 

 行きは数分、帰りは数時間。

 妹紅達一行が山姥の聖地を出た時には空を覆っていた雲は晴れ、初冬故に短い日は既に斜陽に転じていた。秋の日が釣瓶落としならば、冬の日は鉄球落としだろうか*2。西の空を仰げば、茜色とは言えないまでも漸う朱く染まりゆく只中であった。

 

 妹紅は、今までで最も強く”時間を浪費した”という感覚を味わっていた。

 千年も無為に生きていれば、一日如き無駄にしようが何も思わないし普段から無駄にしてもいるのだが、今日は何故だかそこに費やした数時間が異様に長く感じられる。

 

 その理由は明白だろう。

 一つに、白狼天狗との押し問答。

 一つに、馴子との一件。

 一つに、橘が帰って来るまでの阿梨夜との気不味い暇潰し。

 一つに、馴子とチミへの度重なる面倒な経緯の説明。

 

 今までにないほどの、ストレスフルな出来事の目白押しだ。

 最後の一つは妹紅が面倒を被る訳ではなかったが、既に知っている話を二度も三度も聞かされるのはなかなかな拷問である。

 

 ――頭の中で列挙してみて妹紅は初めて気付いたが、馴子とはどうやら反りが合わないらしい。馴子と会話するたびに何かしらの気苦労や苛立ちを感じている気がする。別にそれで喧嘩になることはないし馴子が悪いでも妹紅が悪いでもないのだが、妹紅は馴子にはあまり関わらない方がお互いの身の為かも、と漠然と思った。

 

 なお、チミとの一幕の顚末はというと。

 妹紅はずっと背中の上の橘が大声のせいで起きないかと気を揉んでばかりいたので話の細部までは詳らかに覚えていなかったが、自分が置いた道祖神が知らぬ間に自我を持ったことに驚くよりも先にチミが持ち場を放棄している馴子を怒鳴りつけ、一喝で完全に気圧された馴子を庇う形で阿梨夜が自己紹介と経緯の説明とを妹紅に代わって買って出てくれ、妹紅が出る幕もなく会話が終わってしまったのだ。

 正確に言えば「妹紅殿、違いありませんよね?」と問われた時に何度か頷くくらいはしたのだけれども、情報を新たに加えるような発言はやはり一切していない。妹紅の話一発でそこまで状況を呑み込む阿梨夜の聡明さにも舌を巻いたが、ちょっとしたやるせなさもまた感じてしまった。

 

 往路は橘の神速で一瞬で来れた道を、帰りは三人組で空路から。

 妹紅の回想の間に、守矢神社への行程は既に残り三分の一という所まで来ていた。日の傾きから見て、山姥の聖地の結界を出てから四半刻(三十分)は経っていないだろう。阿梨夜と馴子の二人が(空を飛んでいるものに使うのもおかしな表現だが)足早に飛ぶこともあり、妹紅が想定していたよりはかなり早く見覚えのある山景が近付いてきていた。

 妹紅の右隣りを並んで飛ぶ二人は取り立てて話すこともなくなったようで、またそれぞれに親友への朗報を伝える場面、師匠に力作を披露する場面を思い描いているらしく、互いに言葉を交わす数も疎らになって、やがては途絶えていた。恐らくは、小噺でちょっと紛らわせていたその未来予想図が二人が帰り路を急く理由であったらしい。

 

 そうやって沈黙のうちに三者三様に(だいだい)がかった日の光を浴びて秋の風を背中に受けていた時に、その闖入者は現れた。

 

「そこ三人、止まれぇぇぇ!!」

 

 大声を上げて妹紅達を牽制しながら、その者は妹紅達の正面から猛スピードで迫り来た。距離を三間(約5.5m)まで詰めると紅葉の葉の文様が描かれた白い盾を携え、太刀を抜き正眼に構える。

 その姿を認めた妹紅は、露骨に顔を顰めた。

 

「げ、椛かよ」

「不法侵入した上での言い種とは到底思えない発言ですね」

「妹紅殿、こちらは?」

「犬走椛っていう、この山の白狼天狗だよ。千里眼と疾さ、あとは頭の固さが取り柄の」

「お前本当にどれだけ私の神経逆撫でしたいんだよ!?」

 

 適当な、何なら明確な嫌味が混ざっている妹紅の紹介に、椛が対外用の敬語も忘れて食って掛かる。

 ただ、妹紅は疲れていた。そんなものに反応する気は毛頭ない。

 なので、一方的に自分の要求を押し付けることにした。

 

「それは判ったから、取り敢えずお前等の上司に私達が守矢神社にお邪魔するって伝えといてくれる?」

「何を了解したの!? 図々しいにも程があるでしょ! 誰が――」

「じゃあ橘に頼んで、もう一回お前の目の前でお前を置き去りにしてやろうか? 天下最速の天狗様が負ける姿、見物だったもんな~」

「……――ッ、言わせておけば……!!」

「妹紅さん、容赦ないですね」

 

 妹紅の発言は見え透いた挑発を孕んだただの脅迫に相違なかった。

 椛の怒りが突沸するが、この脅迫の内容がなかなか――妹紅が意図した以上に――今の椛には効果覿面であった。

 橘に天狗の庭であるはずの”速度”という分野で完敗を喫し、その上で山姥の聖域に妹紅達の侵入を許したせいで、昼前には既に山姥から苦情を受け取った大天狗からの一時間以上の説教と減給処分を言い渡されてすっかり萎れていた所に再び妹紅を発見し、汚名返上だと駆けつけてみればコレである。

 妹紅の求めに従うとなれば、失態を犯して半日も経たないうちに大天狗に再び拝謁し、叱られた次は侵入者達の守矢神社への訪問許可を問うことになる。三人のうち一人は、会っただけでも判る程の、八坂神と同等クラスの神威を感じる強大な神なので「拒否するのは悪手だ」と恐らくその申請は通るだろう。だが天狗の面子を損なうとか何とかと様々に苦言を呈されるのは確実で、ただでさえ失墜している椛への評価がゼロを突き破って奈落まで堕ち兼ねない。

 かと言って突っ撥ねても、朝の二の舞になるのが察せられる。椛の知り得る情報は”妹紅と一緒にいる子供は天狗()より速く移動できる”ということだけ。それに鑑みれば、断った瞬間にこちらも天狗界での椛の立つ瀬がなくなる。弾幕勝負を受けてくれれば或いはどうにか撃退できるかもしれないが、残念なことに口ぶりからして妹紅には弾幕を受ける気はさらさらなさそうなのだ。しかも強行突破された場合、今日に限って大事な来客があって警備の強化を頼んできている八坂神の社に不埒な侵入者が押し入ることになる。大層機嫌を損ねられようし、椛は大目玉を喰らうどころか粛清される可能性まで考えなければいけなくなるのだ。向かい合う卑劣な侵入者は、こっちが弾幕を構えた瞬間に背中で寝息を立てている子供を起こして、即座に椛の社会的な死を約束してくれることだろう。

 

 一難去ってまた一難とはまさにこのことだ。前門が虎なら、後門は不死鳥だろうか。

 椛の前に、どう転んでも絶望が待っている二者択一が立ち現れる。そのどちらも招く結果は大して変わらず、妹紅達に恐らくは何の影響も及ぼさない。自分がどれだけ損をするかというだけの選択なのである。

 

 椛は、自らの不運を嘆いた。理不尽すぎる、と。

 しかし嘆いたとて窮境は打開されない。

 

 長考の後、苦々しい声で椛は答えた。

 

「……今から私の上司に報告して来るので、最低でも守矢神社への到着は今から十五分は遅らせてくださいね」

「お、ちゃんと聞いてくれるんだ」

「どうせ私が拒もうが無視するんでしょう?」

 

 妹紅の声が朝の時よりも椛の神経をいたく逆撫でするが、最早何を言っても変わらないからと漸く諦めがついた椛は軽くいなすように答えた。

 

 妹紅と椛の険悪な会話に気後れしてあまり話に入っていけなかった馴子と阿梨夜が、少し遅れて椛に頭を軽く下げる。

 

 それに軽く会釈して、椛は再び消えたかと錯覚するような速度で山の頂に近い方向へ飛び去って行ってしまった。

 

「……妹紅殿、ちょっとどうかと思うよ」

「あの天狗、ちょっと泣きそうな目してましたよ?」

「うん、気が晴れて痛快だったわ」

 

 二人は妹紅の返答に、苦笑を以て答えた。

 

 十五分と言うなら、ここに来るまでにニ十分以上が経過しているだろうことを考えれば妹紅達が移動する速度を落とす必要はないはずだ。急ぐ必要もなければ、遅れる心配もさしてない。

 

 先程まではどこか先を急いていた阿梨夜と馴子も、妹紅が「ここから今のペースで向かったら十分かそこらで着いちゃうから、もう少しゆっくり行こう」と提案したお陰で、まだ見えない守矢神社と自分の裡しか目にない様子だったのが今は、初冬の斜陽に照らされた、眼下の枯れ木賑わう佳景を賞玩しながらゆったりと空を泳いでいる。

 

 橘はというと――やはりまだ寝ていたが、少し身動ぎする回数が多くなってきた気がする。もうそろそろ起きるのかもしれない。

 

 横に背中にと回転させた視線を一旦下にやってから、再び行く手に戻す。

 妹紅は、橘との邂逅から始まった長い長い一日の終わりを漸く感じて、何とも言えない感慨に浸っていた。

 

 思い起こせば、橘と出会っていなければ多分今日もまた妹紅は暇を誰にともなく愚痴りながら昼寝だの散歩だので時間を潰すだけだったのだろう。

 それが、完全憑依異変の時以来のちょっとした大冒険になって、新たな友人を齎し、喉の奥に刺さった小骨のようでも、腹の奥底に沈んだ重たい泥濘のようでもあった、千年物の自責心をいとも簡単に取っ払ってしまったのだ。

 阿梨夜は大袈裟に無上の感謝を、みたいなことを言っていたが――

 

「……橘、今日はありがとう」

 

 気恥ずかしい言葉を、他二人には聞こえないように、そっと背後に向けてみる。

 

「……ぅん……」

 

 小さく、首筋への温かな風と共に橘が答える。

 妹紅を掴む小さな手の感触が、少し強まった気がした。

 

 それから数分して、遠く妹紅の目の先に、斜に見える鳥居が姿を現した。

*1
原作に於いてはユイマンは確かに月の民が彼女の為に加えてくれたものと話しているが、洗脳による記憶や意識の混濁によって阿梨夜が用意してくれた物なのにそう解釈している可能性も残る。拙作にては、ユイマンの言葉を真とし、ちゃんと月の民が(彼女の為と言うと大いに語弊がありそうだが)作ったものとして考える。

*2
鉄球だろうが釣瓶だろうが、地球上では重力加速度が大体どこも同じなので落ちる速さもほぼ一緒。




 回収がしんどい……
 未来の自分に無遠慮にタネを撒くものではないですね。
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