第一段 雪降る日
第一章のあらすじ
日本の原初の神、
「お、橘くん、おはよう。今日も朝が早いね」
「おはよー! 今日も寒いねー!」
橘が幻想郷にやって来て、一月と少し。愈々冬将軍が幻想郷にもやって来て、人里の道は一面、山の端が辛うじて東雲色に染まるだけで未だ昧い空を淡く映し、曇天のように灰がかる白雪に覆われていた。凍みて澄んだ空気に、元気なあどけない声が通る。その吐く息は彼の髪に同じく白く靄を生み、ゆらりと寒風に巻かれてからすぐに消えていった。
橘一人が住まうには少々大きい平屋の表で、橘が雪を掻く。門の横には少々不格好ながら幾つか小さな雪だるまが並んでいて、塀の上から橘を見下ろしていた。里の子供達と作ったらしく、一つ一つ表情も形も違い、同じ色、大体同じ形の同じ造形物ながら賑やかな印象を与える光景だった。
一月程前、橘は霊夢達にこっぴどく叱られた後、妹紅に連れられて永遠亭を訪れた。そこでお互いに名前しか知らなかった八意永琳と初めての対面を果たし、永琳からは此度の綿月姉妹の無礼への謝辞を奏上され、また幻想郷での常識や決まり――弾幕勝負や異変の発生と解決といった、聞いてはいたが理解もあまりしていなかったものを詳らかに教えてもらった。そして、橘が自覚していなかった”能力耐性”も永琳から伝えられ、本人は最後まで理解することはなかったものの、一応橘は自らの特性を知ることにはなった。
橘から永琳に伝えたことは特にはなかったが――
『あ、そうだ! オモイカネ*1、ぼく、暫く幻想郷にいることにしたんだけど、ぼくは”足神さん”だからね!
『承知致しました。でしたら、橘様とお呼びすれば宜しいですか?』
『うん、じゃあそれでお願い!』
取り敢えず、自分の正体に纏わる緘口令は布いておいた。妹紅は既に橘が自らの正体を隠したがっていることは知っているし、阿梨夜もそれは同様である。霊夢と魔理沙、隠岐奈には橘が自ら先日にその旨を伝えている。綿月姉妹とその麾下の玉兎達には永琳から伝言が飛ぶはずなので、これで橘の正体を知る者全てに橘の正体は叶う限り隠すよう伝わることになる。取り敢えずは、橘も一安心だった。
尤も、阿梨夜や永琳という名だたる者達が橘に敬称を使うことで訝る者が数多くいるということにまでは頭が回らなかったようで、この後橘の正体にうっすら勘付く者が増えてくるのだが……
さて、それ以外だと、輝夜と鈴仙、てゐ達永遠亭の住民が橘と面識を持ち、その正体も共に知った、というのが永遠亭での主だった出来事であった。
橘に対する反応は三者三様。輝夜と兎達は可愛らしい見た目の橘を大層気に入って、橘が高位の神だということは全く気に留めずに橘を可愛がり、おやつや玩具を与えたりしてその反応を楽しんでいた。
一方の鈴仙は、自らの能力――”波長を操る程度の能力”で精神の波を知覚できない橘に本能的な恐怖を覚え、始終距離を取っていた。自分の理解出来ないモノに遭遇すると、誰しも困惑し、それに恐懼する。人間が霊的存在を畏れるのと同様に、鈴仙は橘に怯えていた。
てゐはというと――不遜にも、「騙しやすそうなお子様だな」と思っていた。自分で正体を隠そうと思っていても誰かが執拗に問えば語るに落ちるのではという大人びた心配もすれば、いいように言い包めれば何か自分に利益を齎してくれるのではと狡猾に考えもして、積極的に面倒を見てやろうと中途半端に打算と甲斐性の交じったことを考えていた。
一月前の話に戻ったついでに綴っておくと、博麗神社に居候しているはずの橘が人里にいるのは、永遠亭からの帰りに橘が博麗神社を追い出されたからである。
とは言っても、霊夢もそこまであからさまに橘に出て行けと言った訳ではなくて――
『橘、あんた友達が沢山欲しいのよね? なら、ここにいるより人里に行った方がいいわよ。単純にあっちの方が人が多いもの』
――橘が永遠亭に言っている間に考えたそんな言葉がいとも簡単に橘を納得させたのだ。霊夢としても騙してはいないし、橘だって追い出された自覚や面倒がられていた自覚もなく、ただただもっと友達が増えるということに心を躍らせ欣喜雀躍していた。
そうなると問題になるのは如何にして住居を確保するか、なのだが――
『話は聞かせてもらった。私は人里に空き家を一件持ってるから、橘くんに貸してあげようか?』
そこにどこからともなく現れた摩多羅隠岐奈が入って来て、あれよあれよと話が進んでいってしまったのである。元々隠岐奈がその物件を購入したのは事故物件で安くなっていたし、何かあった時に人里に出るのが便利になるからだったのだが、橘が――隠岐奈が現在血道を上げる幼児筆頭が欲しているのならと、即座にその家は隠岐奈によって橘へと譲り渡された。
橘が出て行ってくれるなら大賛成な霊夢は賛意を示した。と言っても、隠岐奈が恍惚として『ああ、勿論無償で構わないよ……毎日風呂や寝顔を見せてくれるだけで至福だし……』とぼそぼそ呟いたのを聞いて一瞬だけこの
そんな訳で、橘は永遠亭から帰った翌日から人里に住まうことになった。物干し竿や
人里の人間達には「神様を名乗る子供」というような認識で、皆から取り立てて”足神さん”と祀られたりはしなかったが、天真爛漫な振る舞いや可愛らしい容姿のお陰で多くの者からは好いてもらえ、余り物を貰えたり立ち話に花を咲かせたりと近所付き合いも良好となった。
日がいつの間にか高くなり、路面がプリズムのように朱に青に煌めき、先ほどまで殺風景だった街を上から下からと隈なく照らしていた。
「はぁ~、いいお天気! よ~し、今日もがんばろー!」
そして、今日もまた、幼き神の一日が始まる。
「みよい~、おはよー!」
「あら、橘くん。おはよう、今日も元気ね」
「えっへん、子供は
「……”風”ね」
橘がまず訪れたのは、開店前の鯢呑亭だった。今日はいつも入り浸る妖怪達が早くに帰ったらしく、蚕喰鯢呑亭は既に店仕舞いしていて、奥野田美宵は今日の分の仕込みの最中だった。この季節――即ち、農閑期になると、普段は畑仕事をしている者達が暇を持て余して昼から鯢吞亭にやって来て出張賭場で麻雀やら花札やらに明け暮れるので、大変繁盛はするのだが美宵も忙しくなる。
風邪と風の違いをご存知ない幼子に挨拶と共に苦笑を返しつつ、美宵は厨房に戻り、風呂敷に包んだ四角い箱を持って来て、橘に手渡した。
「はい、今日のお弁当。今日はいつもの煮物はないけど、その代わり金平牛蒡と鱈を入れておいたよ」
「うん、ありがと! 煮物はすいかが全部食べちゃったの?」
「正解、よく判ったね」
「捻華微笑ってやつ!」
「うーん、やっぱり絶妙に違うなぁ」
最近難しい言葉を使いたがるお年頃の橘に、また美宵が困ったような笑みを浮かべた。
橘は結局、今に至るまで自分では料理を作れていない。最初の一週間は弁当屋で三食済ませていて、隠岐奈はそれを見兼ね、美宵に事情を話してみるように橘に伝えた。
すると、美宵は店で働いてくれることを条件に三食を賄ってやると提案してくれたのである。美宵としても、繁盛しているから店の収入を気にする必要がなくなってきた代わりに働き手も足りなくなって、猫の手も借りたい状況だった。
そして、美宵の能力が効かず、美宵を忘れることもない橘は働き手には打ってつけで、自分が忘れ去られる宿命にあるという物悲しさを抱える彼女にとって、その無邪気な振る舞いも相俟って橘は天然の癒しとなっていって、いつしか美宵自身が橘を大層気に入るようになっていた。今では、橘の世話を焼くのが隠れた娯楽の一つになっていたりもする。
「ちょっと最近は忙しくて、一緒にお弁当作ってあげるのは難しいけど……」
「みよいのお弁当はおいしいから、そんなの気にしなくていいよ! ねえねえ、お手伝い、何したらいい?」
橘も料理を覚えたいと言うので普段は一緒に一つ一つ料理を作って弁当箱に詰めていくのだが、あまり客が大勢来るので仕事も増え、それがきつくなってきている。半分程は、橘に料理を教えて橘が覚えてしまうとこの時間が無くなるのではという美宵の気持ちも混ざっているが、それは事実に託けて、嘘も方便と美宵は割り切っていた。
なお、橘の食事は、昼は弁当、夜は賄い、そして翌朝は貰ったおかずとご飯で質素に、というルーティンで回っている。神代の時代から主食だった米の炊き方くらいは、橘だって知っていた。
橘はそんな美宵の言葉の裏を読むこともなく、純真な瞳を美宵に向けて美宵を励ましていた。ちょっとズレてはいるが、それがまた橘らしいと美宵もほっこりする。少しチクリと胸が痛んだが、明日は一緒に作ってあげようと思い、すぐにその罪悪感を鎮めた。
「じゃあ、前に作ってくれた”ビール”を作ってほしいな」
「りょーかい! 小麦ってどこにある?」
「店の裏に置いてるよ。樽は好きなのに入れてくれればいいから」
「はーい!」
そして、美宵にとってこれは棚から牡丹餅だったのだが、橘が醸造に携わる、本人曰く「発酵の神」だったお陰で、外の珍酒でも橘に頼むと作れるものが出てきたのだ。橘は初めて醸した時は「ビールって苦いだけだよ?」と不思議そうにしていたが、常連客達にはその喉越しがウケたもので、既にメニューの中に新しい酒としてその名が大きな文字で踊っている。コレがまた繁盛を呼んでいて、今や橘の存在は鯢呑亭の経営に欠かせなくなっていた。
橘が来てからというもの、ただでさえ上がっていた売り上げが更に加速していって、店内を改装できそうなほどにまで利潤が溜まっていると店主は酒を啜りながら上機嫌で客に零していた。店主も橘のことは気に入っていて、店の中に神棚を作り、商売繁盛の神様として祀ってさえいた。
それを聞いた美宵としては、忘れられたりもせず、去った家を不幸に堕とすこともなく、ただただ人に御利益を齎せる神である橘を羨んでみたり、少し嫉んでみたり、でも橘のことは好きだったりと屈曲した感情を抱かずにはいられなかった。
十分程して、厨房の裏から橘が戻ってきた。
「終わったよ~」
「いつもありがとうね~……あ、そうそう、お客さんから金平糖もらったの。橘くん、持ってく?」
「いいの!? わーい!」
ちょっと橘に対して後ろ暗い思考をしていた美宵の、無自覚の罪滅ぼしの提案に、橘は諸手を挙げて喜び、期待に目を輝かせて美宵を見詰めた。
美宵は、そんな橘がやはり羨ましかった。自分だって長い年月を生きていて、苦悩も辛い永訣も味わって来た。神というからには自分より長く生きているだろうに、何の悩みもなさそうで、ただ目の前のことに全力で、純真無垢な姿は――妹紅や阿梨夜がその姿を見て感じ取ったのと同じように――羨ましかった。それ以上に、眩しかった。
受け取った巾着の中の金平糖を両手に掬うように持ち、大事な宝物を眼差すように眺める橘に、少しばかり見惚れた後、我に返った美宵は橘に声を掛けた。
「あ、橘くん、もうそろそろ出ないと、遅刻しちゃうんじゃないの?」
「……! ほんとだ! じゃあもう行くね! けーねに怒られたくない!」
美宵の言葉にはっとすると、橘は弾かれたように巾着を手提げに突っ込み、弁当箱を提げ、身を翻して店の戸を開けて、美宵の方に振り返った。
「お弁当ありがと! いってきます!」
「はいはい、いってらっしゃい。金平糖、慧音さんにバレたら没収されちゃうかもだから、気をつけてね」
「はーい!」
そして、橘の姿が風を切る音だけを残して美宵の前から掻き消える。
「……さて、橘くんから元気も貰ったし、開店までもうちょっと頑張ろっか」
美宵は独り言ち、厨房へと戻って行った。
場所は移って、寺子屋。教鞭を執る上白沢慧音は人の子も幼い妖怪にも授業を開いているが、妖怪と人の子供を一緒にする訳にはいかないので、人の子が通う日と妖怪が通う日は一応分けてある。妖怪が授業に参加したのは狐の子供が授業に紛れ込んでいたのが事の発端だったが、それ以降授業を受けてみたいという妖怪が増え、それ以後このような形になっている。
「えー……橘だけいないのか。誰か何か聞いてるか?」
「あたいはなにもー」
「知らなーい」
「聞いてないです」
「わはー」
その慧音は、始業に合わせて出欠を取っている所だ。橘の不在に慧音が首を傾げるが、誰一人大した関心は示さず、知らぬ存ぜぬの空返事を返す。
それを聞いて数秒黙した後、慧音は河童作の壁掛け時計に目を遣って、小さく息を吐いた。
「ふむ……じゃあ、もう始まるし、今日は橘は遅刻――」
そう言いかけた刹那。
――スパァァァンッッ!
「「ぴゃっ!?!?」」
「おはよ! けーね、間に合ってるよね!?」
障子をスライドさせて生じるとは到底思えない耳を劈く大きな鋭い音に教室内の数名が反射的に耳を押さえる中、手提げに弁当箱を持った橘が教室の中に入って来た。全く息を切らしていないせいで、急いで来たという感じは一切ない。
「ちょっとタチバナ! 閉める強さ考えてよ!」
「耳がキーンってしました! 神様なんだからもっと考えて行動してくださいよ!」
「ご、ごめん……」
チルノと大妖精が、まだ耳鳴りに近い痛みに顔を顰めつつ、橘に猛然と抗議した。妖精に「考えろ」と言われるなど普通なら恥辱の極みだが、橘はチルノより幾分賢いくらいなので、これくらいの扱いが皆に浸透してしまっていた。
そこに、呆れた様子の慧音が声を掛ける。
「橘、間に合ってるかどうかだったら間に合ってるんだが、始業時刻っていうのは生徒も教師も用意が出来てて、直ちに授業が始められるように準備を整え終えているべき時間*2だからな? 遅刻の罰は出さないけど、以後気をつけなさい」
「はーい……」
「やーい、怒られた~!」
「チルノも一昨日の宿題を早く出しなさい」
「うっ……」
橘を煽って即座に自らも叱られ、あまりのテンポの良さに寺子屋で漣のような笑いが起こる。
ばつの悪そうな橘とチルノも互いに期せず目が合って、どちらからともなく笑いだしてしまった。
その中で、生徒達がいつも通り元気で明るいことに安心しつつも、場を収拾すべく慧音が持っていた紙の束と本を軽く文机の上に置いて、 パシンと乾いた音を立てた。
「こら、もう授業は始まってるんだから早く席に着きなさい。遅れてきた分、最初の問題は橘に当てるからな」
「国語がいい!」
「算術だ」
「やだぁぁぁぁっ!」
再び、教室が大笑いに包まれた。
「はい、橘。
「……三十二?」
「タチバナはバカだなぁ! 四十一だよ!」
「……どっちも違うし、強いて言えば橘の方が近いぞ。というか、四十一は九九で一度も登場しないんだが? ……はぁ、大妖精、答えは?」
「三十五です」
「はい正解」
橘とチルノは共にむっとして小さく唸り、黙りこくって下を向いた。橘は”五七丗五”と綴り、チルノは遠くを見遣って帰ったら何をして遊ぶかと呆ける。
橘が寺子屋に通い始めたのは、丁度一月前、妹紅が橘が喜ぶだろうと善意で慧音に通わせてやってくれとお願いして、慧音が快諾したのが発端だった。神社住まいでも橘の脚なら寺子屋まではすぐだから難なく通えるはずだと思っての提案で、結果的に橘は人里に移ることになってしまったが、寧ろ通学には好都合であった。
そして寺子屋に通い始めた橘だったが、その学力は寺子屋に通うのが正解だったと慧音にも妹紅にも確信させるものだった。
普通なら一週間や二週間で、長くとも一ヶ月で覚えられる九九に一月以上を費やしても未だこの通り。チルノはもう何年もやってるのに三の段をすら満足に諳んじられないので、穴が埋められない橘はそれよりはマシだが、他に比べれば十二分に酷い。
加減法は時間は掛かれど問題なくて、億が万の万倍であることは判るのに、どうしてか乗除やその他和算は壊滅的なのである。
なのに。
「橘、これ読んでみろ」
「”たで”でしょ?」
「……リグル、”たで”って何?」
「舌が痺れるくらい辛くて苦い草だよ。人間は食べられたもんじゃないけど、蟲だと食べる奴がいるから、これは『こんなのを食べる虫もいるみたいに、人の好みは人それぞれなんだ』って意味の諺なのさ」
「そーなのかー。流石、蟲のことに”は”詳しいね~」
「うーん、嫌味に聞こえるね~」
「リグル、ルーミア、授業中は静かに」
大方”読み”に属するものなら、橘はそこら辺の大人よりも秀でていた。何も当てないと橘が拗ねるので慧音も適度にこうして難しめの問題を当てて答えさせているのだが――
『謹みて啓し奉る
伏して
然れば此の度
「慧音は読める?」と妹紅から手渡された永琳から橘に向けての手紙はこんな序文から始まっていて、慧音だって辞典なしには読めない代物だったのだが、妹紅曰く橘は全く突っかかることもなく読めてしまったのだという。そうなると、橘は慧音よりも日本語が達者ということになってくる。
「じゃあ橘、そのついでにこの『”カンシン”に堪えない』を漢字で書いてみてくれ」
「わかんない」
「大妖精」
「……すみません、私も自信ないです……」
……ただ、書きの方はさっぱりで、ひらがなカタカナと簡単な漢字しか書けなかった。ここまで読みと書きの能力に差が出るのははっきり言って異常だろうが、慧音は「神だというから、高尚な文章を読む機会は多かったんだろう。その代わり全然文章を書いてこなかったからこうなったんだろう」と無理矢理に納得することにした。
尚、その推察は当を得ているので、慧音の洞察力は大したものである。必要とされる能力は伸びるし、逆も然りなのだ。
「英語だと、日本語だと『~を』とか『~に』っていう言葉を後ろに持ってくるんだよ。『ぼくは本を持ってます』だったら、”I have a book”とかね」
「前に”ブック”が『本』だって言ってたし、”アイ”は『ぼく』って意味だから、『ハバ』が『持ってます』ですか?」
「”have”が『持ってる』なのは合ってるよ! ”a”は『一つ』って意味!」
「……やっぱり外国の言葉って難しいです……」
橘が来てからの一番の変化は、英語の授業が増えたことだった。ひょんなことから橘が南蛮の言葉が堪能なことが判り、嘗て本居小鈴が一度慧音の許に英語を教えてくれとやって来たことがあって、それを判らないからと申し訳ないながら追い返した慧音のやるせない記憶と、新しい物好きな子供達の希望によって、橘が教師として皆に英語を教えることが決まったのが二週間前である。
「タチバナー、えーびーしーでぃーいー……次って何だっけ? こんなんだったか?」
「うーんとね……これ
「橘、”come”が『来る』だから、”comed”で『来た』なのかー?」
「”came”だね~。”come”は『~した』っていう時、”
「橘、『疑う』って英語で何て言うんだ?」
「うーん……自分がそうだと思ってたら”suspect”で、思ってなかったら”doubt”かなぁ」
「……? もうちょっと詳しく教えてくれないか」
「ええっとね――」
皆がアルファベットを覚える所から始め、覚えの早い者は簡単な文法に進む。慧音は一方で単語の習得を優先し、橘に思いつくだけの単語を英語で何と言うかを訊いていた。
橘の教え方は要領の悪さからは意外で、存外に分かり易いものだった。英語でなら綴ることも可能らしく、一緒に文字を書いたりぱっと例文を記したりできるので、簡単な英文しか使わないことも相俟って、初学者たちには丁度いい難易度だった。
慧音は、何故『疑う』という一語に二つの言葉が対応するのだと心中でぼやきつつも、その二語の違いを自らの手帖に纏めるという作業を心から楽しんでいた。
半獣となって二百年、教鞭を取って優に百年以上、慧音は常に教授する側であった。勿論やり甲斐もあったし慧音だってずっと楽しんできたが、今この時間は、いつか自分がチルノやルーミア達のように友達と一緒に文机に並んで、算盤や和算を相手にうんうんと唸っていた時の、遠く微かで、懐かしい記憶が蘇る、そんな時間であった。
それに、長らく忘れていたことだったのだが――新しいことを学ぶのは、自分をアップデートするのはとても楽しいということ、知恵を授ける者としても一人の長命者としても失ってはいけなかった大切なことを思い出させてくれた。数十年に一度、こういう発見がある。ふと子供や里の者、妹紅達から教わる自分が知らなかったこと、それを自分が理解した時、出来るようになった時の、恰も子供に還ったかのような、いつになっても瑞々しい、心を底から満たしてくれる幸福感、達成感を味わって、学びこそ愉しいと、忘れては何度も思い出す。
生徒として自らの未知の世界を拓くこの時間に、慧音は教え子の笑顔を見る時と同等までの価値を見出し、一心不乱に手帖を異邦の言葉、その注釈で埋めていった。
「おーい、けーね! もうお昼の時間だよ!」
ふと、慧音の顔を覗き込んできた橘の声に気付き、漸く我に返って時計を仰ぎ見て、既に午の刻を回っていたことに気付く。
「え? ……あ、本当だな。それじゃあ皆、お昼ってことだからこれで解散。今日の宿題はやってくるんだぞ」
「終わったのだー」
「はーい!」
「わーい! 大ちゃん、帰ったらカエル狩りで遊ぼ!」
「先に宿題だよ」
「えー!?」
そう慧音が宣言すると、皆が各々大きく息をついて軽く慧音に一礼してから帰途に就いていき、数分もすれば部屋に残ったのは橘と慧音だけになっていた。普通は寺子屋は昼食の後も続く*3ものだが、妖怪達の日は生徒達の希望で早くに帰していた。
橘が文机の上に置かれたままの、びっちりと如何にも窮屈そうに文字が敷き詰められた帳面を見て、ふと咨嘆を漏らす。
「……けーね、すごいね。先生でもお勉強って大事なの?」
そんなことを、感心ついでにぽつりとついでに訊いてくる。
「……人間より長い命なんだから、色々学ばないと損だからね。それに、新しいことが出来るようになるのも判るようになるのも、橘だって楽しいだろう?」
「確かに! それもそーだね!」
そう言って、橘は無邪気に笑った。一点の曇りもない笑みが、その純粋さを映す。
そして橘は自分の席に再びちょこんと座ると、風呂敷から小さな弁当箱を取り出し、箱を開けて机にトンと置いた。ふわりと焼き魚の香ばしい匂いと白米の香りが、慧音の鼻腔をも満たした。
「ほう、今日も美味しそうな弁当を作ってもらったんだな……いつもは煮物だけど、今日は焼き魚か。それじゃあ、私もちょっとお昼にするかな」
「一緒に食べよー!」
人間の子供たちと授業をする時は橘は子供達と、そして今日のような日は慧音と共に昼食を取るのが習いになっていた。
橘と慧音は雑談を交えつつ、それぞれの昼餉を食べ進める。楽しい昼食は橘にも慧音にもすぐ終わるように感じられるもので、いつしか二人の櫃は空になり、二人は箸を置き、手を合わせていた。
「ごちそうさまでしたー!」
「ご馳走様でした」
昼食が終われば、橘も寺子屋からは帰ることになる。荷物を纏め、弁当箱を手提げの中に押し込んだ橘は戸口まで慧音に見送ってもらい、慧音に大きく手を振った。
「さよーなら!」
「今日もお疲れ様。今日はこの後何をするんだ?」
「こいしと遊ぶ!」
「そうか、楽しんで来なさい。宿題はちゃんとやるんだぞ」
「はーい!」
「あと、お菓子を持って来たら次からは没収だからな」
「……はーい」
そう言うと、橘はいつも通り、ぎくりとしてちょっと逃げるようにだったが、三回手を振って風を切る音とともに慧音の前から消えた。
慧音は橘がいなくなった後も一度小さく手を振り返してから、玄関へと戻り、一日の勤めを終えるといつも無意識にやってしまう背筋を伸ばすという癖の後、再び文机に向かい、手帖を開いた。
「ふう……今日は五十個か。さて、私も生徒には負けてられないな」
幼い神は、僅かながらも、幻想郷に小さな変革を齎しているらしかった。