幼き神にはあしからず   作:庚申待ち

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 本段は、聖徳王の笏様の小説”叢雲、天より根差す光”とクロスしています。
”叢雲、天より根差す光”の目次のリンク https://syosetu.org/novel/386526/

 こちらを知らなくてもお楽しみいただけますが、筆者のお気に入りの作品なので、読み終えた暁には是非この小説を読んでみてほしいです。


第三段 根の東神と根無し草

 橘が命蓮寺から飛び出して来て、数時間後。

 

 鯢呑亭――夜更けの今は人間向けの営業は終了して、人外向けの蚕喰鯢呑亭――には、いつも通り賑やかな声と、酒を乾し、酌む水音が行灯の光を受けるのみの仄暗い店内に満ちる。

 

「……もう! あのナズーリン(ネズミ)、だいっきらい! もう話してあげないもん!」

 

 郷に入り浸る呑兵衛妖怪達の溜まり場であるここに、いつもは手伝いを終えて既に帰っている子供が、酒気と共に愚痴を吐き出していた。

 

「そっか、まあそんなこともあるよね。今度謝ってもらえたら、仲直りできそう?」

「うーん……」

 

 厨房にいる美宵が、そんなことを言いながら橘を慰める。尤も、内心では「ナズーリンも可哀想に」という感想が先行していた。橘の説明を聞くに、相当理不尽な理由で嫌われているのだろう。橘は既に下手をすればナズーリンより交友が広がっているので、橘が悪し様に言いふらせば、主に人里で評判に傷がついてしまう。そして、あの隠岐奈(ロリコン)が出張って来る可能性も否定できず、ただただ損であった。

 

「まあ、そんなくよくよしてもいいことないぞ? 神様なら、ちゃんと胸張ってないと!」

「そうそう! 明るい顔してた方が、世の中上手く回ってくれるもんですからね」

 

 一方で、前向きな励ましを掛けるのは、伊吹萃香と射命丸文だ。前者は単なる楽観視から、後者は取材のために、それぞれに橘に酒を酌んでやりつつ、心の澱を吐き出させてやる。

 

 ここにいる二人と橘が知り合ったのは、橘が鯢呑亭で働き始めて僅か二日程してからのことであった。

 

 きっかけは単に手伝いで疲れた橘が閉店前に寝てしまい、神様だから妖怪達の酒場を見られてもいいかと美宵が店で寝かせてやって、案の定夜半に目を覚ました、というだけのことである。

 

 橘は人里に妖怪がいることを訝ったが、萃香が霊夢の許可を得ていると嘯くと素直に納得して、それ以降は遅めの夕餉を取りながら、常連客と挨拶を交わすことになったのである。

 

 その時はマミゾウもいたのでマミゾウも橘と面識はあるが、今日は瑞霊の監視がどうとか言って来ていない。

 

 橘への接し方はそれぞれだった。

 

 萃香は、呑み友達が増えて素直に喜んでいた。呑む者が大方泥酔して潰れてしまう鬼の酒も美味しく呑んでしまい、萃香の昔話や自慢話にも飽きることなく食いついてくれる。週に一度しか橘は蚕喰鯢呑亭には来ないが、萃香はその機会を重宝していた。

 

 文はというと、最初から、初対面より前から橘に対して凄まじいまでの期待をかけていた。天狗社会を上から下まで揺るがす事件を起こしてくれたというのに何の悪意も感じさせない振る舞いを聞けば、それはそれは社会風刺や橘への妄想を膨らませた面白い記事が浮かんだものである。残念なことに天狗の権威を貶めてしまうのでその記事を世に送り出すことは叶わなかったが、文はその風来坊の近くで面白いことが起こるに違いないと確信していたのだ。

 

 なお、文が期待している通りの大事件はまだ起こっていないが、橘の写真と共にちょっとした記事を載せると少し新聞の売れ行きが良くなるので、文は積極的に取材を繰り返している。チルノと仲が良いように文もなんだかんだ子供好きで、事ある毎に遊んでやったり弾幕のことを教えてやったりもしていて、霊夢などは文があの賢者と近しい存在であることを今までのいつよりも実感していた。

 

「それはそうと橘くん、今度ちょっと可愛い服にお着替えして写真撮ってみませんか? 終わったらお団子沢山買ってあげますから」

「たくさん? やる!」

「……文、露骨すぎない?」

「自分向けって訳じゃないですよ。賢者や巫女(特殊な顧客層)がいるので、かなりの額をふっかけても売れそうなんですよね。一般向けには全年齢対象の写真集を売りますよ」

「コイツ通報するか」

「文さん、それは霊夢辺りに退治されちゃうのでは?」

 

 そんな文に萃香が呆れ、橘にやめておけと忠告しておく。普段は面倒事は御免なので一歩退いている美宵も、ここでは流石に声を掛けた。

 

 牽制された文が諦めた素振りは見せないながら引き下がり、苦笑交じりの笑いが店の空気に満ちゆく。

 

 そんな中で、店の戸がガラリと開いた。

 

「お、今日もやってるみたいだね」

 

 よく通る声だ。男のものと思しくも、野太くはなく、優美な印象を抱かせる。橘はその声の主にただ振り向くだけだが、他の二人の反応は大層違っていた。

 

「おお、東神(とうじん)様! ここに来るなんて珍しいじゃないか!」

「ちょっと気が変わることもあるさ……比売の気が立っててね」

「あやや、今日も尻に敷かれていらっしゃるのですか? 是非取材を――」

「相変わらず嫌味だな、文ちゃん。あと取材はお断り」

「相変わらず手厳しいですねぇ」

「あら、今日はちゃんと注連縄外して来てくれたんですね」

「あの時はごめんって*1」

 

 暖簾を潜って店の中に入って来たのは、やや上背のある男性だった。何よりもまず目を引くのは、鼻を跨いで顔を真一文字に横断する古傷の痕だ。どうやら刀で断たれたようで、これを鬼瓦のような鎧武者がつけていれば夜叉だ閻魔だと騒がれそうな程に強烈な印象を与えるが、中性的にも見える端正な顔立ちにあっては、寧ろその精悍な美麗さを強めてさえいる。肌理細かい、若干白んだ肌に映える波立った黒髪は額の中央で分けられて面の横を流れて肩にかかっている。男としてはかなり髪の長い部類に入るだろう。

 

 その瞳は朱殷(しゅあん)に輝き、荒ぶる鬼神の如き眼光の鋭さを秘めている。されど雰囲気は柔和そのもので、萃香や文に向ける目には好々爺然とした慈しみが感じられた。そこから少し下、首元を見ると、漣の立つ紺碧の海を彷彿とさせる、白みを帯びた線が幾重かに広がる深い蒼の勾玉がかかっている。紅い目とは対照的な、落ち着き払った威厳を帯びていた。

 

 身体に対しては大きめな黒い羽織の内側には、赤い裏地と、同じく黒いインナーが覗いている。羽織は橘の甚平のように裾を広げることはなく、腰まで垂れた所で古めかしい革の帯に纏められている。脇には柄に大きな装飾が見える大刀*2、そして視線を更に落とせば、鈍色の渋い袴が見えて、その裾は膝下で鈴のついた糸によって括られていた。

 

 総じて、古めかしく、一目で現代人ではなかろうと判る出で立ちである。

 

「美宵ちゃん、僕にも一杯貰える? 最近噂になってる麦酒がいいな」

「はいはい、ただいま~」

 

 美宵が注文に応じる一方で、橘は身体ごと向き直って、隣に座った見慣れない来訪者をまじまじと眺める。

 

 先程は見えなかった背面には、松の木に巻き付いた白蛇が太陽を睨む姿が刺繍されている。何とも縁起がいい、黒地によく映えるもので、相当に手の込んだ代物であるらしかった。

 

「……お兄さん、どこの神様? なんだか、知ってる匂い……」

 

 まるで犬のようにすんすんと匂いを嗅いだ後、橘が尋ねた。すぐに神(同族)と見抜ける辺りは、橘もやはり神であるらしい。

 

 すると、男神は自分が神であると幼子が見抜いたことに少々驚いて目を見開いた後、いつもの気さくな笑顔に戻って態々立ち上がると、腰に帯びた剣に手を置いて橘の誰何に答えた。

 

「初めまして。僕は山にある守矢神社の主祭神の明神様の配神*3であり、伴侶でもある根の神、葦原(アシハラ)朝斗彦(トモトビコ)だ。君は、妖怪かい? 初めて見る顔だけど……」

「わざわざポーズまで取って恰好つけなくても大丈夫だぞ、東神様!」

「……茶々を入れない」

 

 その神、葦原朝斗彦は萃香の揶揄い文句に手短にそう答え、橘の顔を覗き込んだ。夜の鯢呑亭で萃香たちと酒を酌み交わしているからには、人でないことには違いない。されど妖力や霊力、神力の類いが感じられない橘を見て、外見が実年齢とは全く比例しないことは承知の上で、生まれたての妖怪なのかと疑った。そこで、普段の仰々しい名乗りは止めて、参拝客の子供にするのと同じような挨拶を返す。

 

 すると、橘ではなく、萃香が彼の問いに答えた。いつも通りに酒気の混ざった息を吐きつつ、呵々大笑しながらではありつつも、そこには自分の新たな面白い知り合いを、親しみ崇め敬う朝斗彦に自慢したいという気持ちが見え隠れしている。

 

「はははっ、東神様でも見抜けないんだ! この子は橘、ちっこい形(ナリ)だけど、”足神”って神なんだってさ! これでも、どんだけ呑んでも潰れない蟒蛇(うわばみ)なんだよ!」

「すいか、足神”さん”だってば*4!」

 

 萃香の説明に橘は即座に訂正を入れると、朝斗彦に向き直り、にぱっと笑って改めて自己紹介を始めた。

 

「はじめまして! ぼくは橘、脚の神様、”足神さん”だよ! 最近幻想郷に来たの! ともとびこは、かなこのお婿さんなんだね? よろしくね!」

 

 その自己紹介を受けていた朝斗彦はというと――何とも言えない、微妙な表情を浮かべている。

自己紹介を受けて帰ってきた反応としては初めての表情に橘が首を傾げると、朝斗彦はどこか言い訳をするように応えた。

 

「ああ、宜しくね……君が橘くんかぁ……最近色々あって社を開けてて、帰って来てみたら比売(ヒメ)*5や諏訪子に君について聞かされたもんだからさ」

 

 守矢神社にいて、しかも鴛鴦夫婦と有名な神奈子と朝斗彦、そして諏訪子の三人が一緒にいて、その話題が上らないわけもなく、その中で彼は橘についての愚痴を散々聞かされていた。主に酒がなくなったことについてだったのだが、朝斗彦もそのせいでここ一月は神社で酒を呑んでいない。霊夢も同じことを言っていたので、朝斗彦もその橘という神に会ってみようかと思っていたところだったのである。

 

 酒を暫く呑めていなかった鬱憤は子供相手だからと胸にしまい込み、朗らかな笑顔を作り直して、朝斗彦は美宵が出してくれたビールジョッキを受け取りながら、橘に言葉を続けた。

 

「ここで会ったのも何かの縁だし、橘くんの話を聞かせてくれないか?」

「いいよ! その代わり、ともとびこのお話も聞かせて!」

「よし来た! 丁度萃香もいるし、昔話ならいくらでもしてあげるよ! 最近は鬱陶しがって聞きたがる人も減っちゃったからなぁ」

「東神様、国譲りの時代から生きてるもんな~。武勇伝も多いし、今夜中に終わらないんじゃない?」

 

 


 

 

 橘の昔話は、ものの二十と数分で終わった。橘がいくら朝斗彦より長命*6だとは言っても、そのうちの凡そ七十数億年は空虚の刻であり、橘としての位格(ペルソナ)を得てからの一千年程でも、可美葦牙彦舅神(ウマシアシカビヒコヂノカミ)としての仕事をした話以外は大層な話はなく、可美葦牙彦舅神の要素を排すれば橘に出来る話は、自分の神徳についての話と、外界や海外の旅行で見聞きした事物くらいである。

 

「今ね~、日本以外でも廃仏毀釈*7が起こってる国があるんだよ~。岩に掘られたおっきな仏像を爆破しちゃったりしてるんだって」

「そりゃ酷い……命蓮寺の人達が聞いたら何て言うんだろうね」

「……」

 

「外の世界ではね、頸を斬られたり太陽の光を浴びたりしたら死んじゃう鬼がいるんだって!」

「へ~、太陽如きでなんて、軟弱だねぇ」

「萃香さん(酒呑童子)も斬首で息絶えたと言いますけどね*8」

 

 そんな止め処もない話をして、流石に本題からズレているかと橘が話を切り上げ、朝斗彦に話を譲る。

 

 すると、国譲りの少し前、幼馴染の神奈子との思い出や優しい養父の大国主命の英雄譚に始まり、国譲りの激闘と服従、明神入諏、そして天照大御神に扱き使われたりして聖徳王や秦河勝に修行をつけたり、常世神の討伐に付き合ったり、それが住めば幻想郷の地底世界を治めて整備したり……神奈子との円満な生活や諏訪子達との悪巧み、早苗の誕生の話など、連綿と続く物語が彼の口から語られた。敗軍の将は兵を語らずとは言うが、その古諺に言うような負け惜しみの類いではなく、その語りに牧歌的な生活を奪った天津神への恨みの色はなかった。恬淡とあの頃は良かったと懐かしむだけで、今は今でいいものだ、敗者なりに楽しく暮らしているのだといった、まさに”吾唯足知(われただたるをしる)”の心境の下の回顧録だった。

 

 その話を聞けば、朝斗彦はこの日本の歴史を陰ながら最も大きく動かした存在の一柱なのだろうと、世の動きには無関心だった橘も悟った。何せ、血縁だけでも素戔嗚尊(スサノヲノミコト)の末子で捨て子になっていたところを大国主命に拾われて諏訪明神、八坂神奈子と血縁にあるのだ。この時点で、高天原にいる多くの神や出雲の神の殆どと親戚関係を持っていることになる。橘が感じ取った”匂い”は、よく一緒に遊んでいた素戔嗚尊の血縁故のものだろう。或いは、彼の持つ弓、矢は名のある神器、天之麻迦古弓(アメノマカコノユミ)、天之波波矢(アメノハバヤ)であり、腰に佩く天叢雲剣(アメノムラクモノツルギ)も素戔嗚尊の草薙剣を真似て鍛えた一振り*9だというから、そこから素戔嗚尊の気配を感じたのかもしれない。また、足跡を辿っても、国譲りで神奈子と共に出雲方の主力となって、諏訪の逆賊を打ち倒し、鬼を庇護してその大江山や伊吹山での天下を導き、摩多羅神と相成る河勝と聖徳王を指導し……その業績は比する者無しとさえ言い切れる程で、北斗を戴く斗(ます)の神、東を制する東神(あずまがみ)、万夫不当の軍神(いくさがみ)と崇める者も慕う者も多いのがよく納得できた。

 

 ”根を操る程度の能力”を有し、植物を根を介して自らの眷属として操ることもできるのだそうで、根の国に縁のある神として相応しいことこの上ない能力であるように思われた。

 

 剰え、就中幻想郷では、最早殆ど全員ではないかと疑う程に多くの者と縁を築いていた。ただ仲が良いだけの者から、その存在を生む原因、由来が朝斗彦である者まで、その関係は百人百様。現在は隠居然として暮らして、知己の許を放浪しているのだという。

 

 その話を聞いて、終盤に差し掛かるところでは――

 

 口にこそ出さないでいたが、橘の胸裏には、幼心には感じたことのない悪感情が渦を巻いていた。

 

(なんで……なんで国津神風情が、こんなに楽しそうにしてて、いっぱい友達がいて、いっぱい家族もいるの……? ぼくだってたくさん色々お仕事してるのに、なんでこんな一千万年も生きてないひよっこの方が幸せそうなの?)

 

 ずるい――そんな言葉が、橘の脳裏を何度も過り、心中に去来していった。普段はそんなことは考えもしないのに、同じ神の来歴だからか、はたまた昼の出来事で心が荒んでいたからか。

 

 立場が上であればあるほど、それだけ権利や権威は与えられるが、義務もまた増えていき、自由も束縛されていくようになる。

 

 橘は日本で四番目に古い神であり、権利や権威は最上級のはずだ。しかし、隠身(かくりみ)*10の神である橘は、その存在をひけらかすことはできない。それくらいの分別は橘にもある、というより、橘はそれくらいは弁えられるように化成して(生まれて)いる。橘の持つ権利は、自ら高御産巣日神達に訴えた、身体を得て放浪する権利くらいだが、それでも世を忍ぶ仮の姿としてであり、本名を晒すことは殆どできない。つまり、権利と権威はあってないようなものだ。抑々、肉体を得て行動することができない神の方が少数派である。

 

 橘の義務は、世界の営為を守ること。しかし、その”当たり前”は当然ながら、全くと言っていい程感謝されない。在って当然なのだから、それにいちいち感謝する者などいない。そういうものは失って初めて有難みが判るものだが、橘の司るものが失われれば、抑々有難みを知るべき者ごと世界の生命が全滅してしまう。霊夢や魔理沙に挨拶した時のような挨拶をすれば形式的にでも感謝は貰えるが、正体をなかなか明かせないから叶わない。

 

 それでもしがない足の神、”橘”として人間達と共に過ごし、それなりに望む幸せは得て来たつもりだった。全く最適解とは言えないが、足りない頭で考えたなりに、いい答えを出してきて、叶うだけの小さな喜びを積み重ねてきたはずだったのである。

 

 なのに、目の前の神は――親がいて、隠し子だったことの怪我の功名で親戚も大勢いて、多くの者から慕われ、崇められ、妻とも良縁を築き、共に恵まれ、数多歴史の表舞台に立ち会ってきたのだ。人間とは違い、それらは容易には消え去らない。

 

 その苦労譚を語る姿も、虹色の瞳には”持てる者だけの苦しみ”が映った。天より根差す光が、清らかな人格という鏡に跳ね返って橘の心の暗がりを強く照らす。照らされる分だけ、光が強いだけ、落ちる影も濃くなる。

 

「……そっかぁ、ズルいなぁ……」

 

 ぽつりと、橘の口からそんな言葉が零れた。長く生きてきて初めて知る感情であり、それを正確に表す単語を橘は知らなかったが――それは、紛れもない嫉妬であった。

 

 自分が血の繋がる者も、多くの友も、輝かしい功績も持たざる者であることを自覚している橘は多くの者に「いいなぁ」「ズルい!」と言ってきたが、それらは飽く迄も羨望であって、自分も欲しいというだけの気持ちである。

 

 ただ、橘の目にはあまりにも恵まれているように見えた朝斗彦に対しては、自分ではどう頑張っても到達できない領域にあることを悟ってしまった。どう足掻いても届かない頂は、自らを奮わせる羨望より寧ろ、相手を憎む嫉妬を抱かせる。

 

 在りし日の出雲での生活を奪われたことへの郷愁とも悔悟ともつかない念も感じられたが、橘にしてみればそんなもの、羨ましい限りである。人は、妖は、神は、多くの者が年を重ねるうちに避けられぬその喪失を悲しむ。親であれ、子であれ、同胞(はらから)であれ、友であれ、故郷であれ――橘が悠久の時の中で得ることが出来ず、これからも得られないであろうものの数々。

 

 誰もが、失うことを恐れ、失ったものを憐れみ、失われたものを悼む。しかし、持たざる者はそんな悲しみなんてないのだろうと、その空虚な心中を推し量られることも無く、寧ろ憧れられる。持たないことは羨まれるが、また失われるよりは人の悲哀を呼ばない。

 

 幼心にも、嫉妬は形容し難い悲しみとなって沈み込んでいった。共に葦の名を冠するのに、根無し草である橘と、諏訪、出雲、根の国、そして人心に強く深く根を下ろした朝斗彦の間には、どうしようもない幾つもの差異が横たわっている。

 

「ぼくにはお父さんもお母さんもいないし、子供もいないし、お友達もたくさんいないのに、なんでともとびこだけそんなにいっぱいいるの?」

 

 その感情を押し殺して絞り出した問いに、件の幸せ神(もの)は少し考えてから、朗らかに優しい声で答えた。

 

「やっぱり、恵まれてたんだと思うよ。抑々大国主様が拾って下さらなければ稚児のままで野垂れ死んでたし、国譲りで敗けた時も天津神の処断次第では御手打ちだったろうからね。昔は神も屠るような妖怪もいたし、そこで死ななかったのは偏に運が良かったからだろう。それに、人との出逢いに恵まれてるからこそ、今みたいに退屈することもなく暮らせてるんだから」

「東神様、その”出逢い”には私も含まれてるんだろ?」

「勿論。君達鬼も、地底の連中も、河勝とか神子とかとの出逢いも、全部妙な縁の巡り合わせだが、結果的に綱渡りでここまでやって来れたしね」

 

 萃香が冗談を言って、朝斗彦がそれに軽い調子で答えながら頷く。短くて何ともありきたりな遣り取りだが、だからこそ愛着が感じられる、温かな光景であった。

 

 橘はそれを聞くと、数秒猪口に映る自分の浮かない顔を眺めてから、くいっと一口で中身を乾した。強い酒だからか、普段より強く、熱く喉を焼いて腹の中へと下っていった。

 

 空になった猪口を再び覗き込んで、一拍だけ黙った後、橘は小さく笑った。

 

「……そっか」

「橘くん、どうかしました?」

「ううん……いいお話だなって思って」

 

 今の答えのお陰で、朝斗彦が好神物(じんぶつ)であることは身に沁みて判った。きっと、自分とも仲良くしてくれるのだろう。自分でも大層努力や苦労をしてきたろうに、享受する幸せを周囲の者に帰することができるのは、強い者の証である。

 

 それと同時に、朝斗彦の答えは、橘の心に致命打を与えてしまってもいた。

 

(……やっぱり、可美葦牙彦舅神(ぼく)には過ぎた望みなのかな。恵まれてるって、与えられたものが違うなら乗り越えられないってことだもんね)

 

 悲しいかな、普段は幼く振る舞っていて、実際幼子のようであっても、その生涯は全く話の合わない別天神(仲間)達との対話を諦めるという失望から始まった。こういう諦めは、橘には慣れっこなのである。変に幼くて、変に大人びているせいで、不条理には強かった。撥ね返すという意味ではなく、潰されながらも音を上げずに耐え続けるという意味で。

 

 蟠りを酒と一緒に無理矢理飲み下していつも通りの笑顔に戻った橘は、美宵に声を掛けた。

 

「みよい! いつもの煮物食べたい! 食べたら帰る!」

「はいはい、畏まり! じゃあ、朝ご飯のお供も渡しとくね」

「高菜がいい!」

 

 そう言って注文を済ませると、橘は朝斗彦に向き直り、ぺこりと人懐こい笑顔でお辞儀をした。

 

「ともとびこ、お話してくれてありがと! 面白かった! また一緒に遊ぼ!」

「ああ、勿論! 今度守矢神社(ウチ)においで! 早苗も喜ぶだろうし!」

「はーい!」

 

 朝斗彦もそれに応え、そう言って招いた。

 

「……いや、ちょっと待て」

「?」

 

 しかし、すぐに彼が待ったをかける。橘は、こてんと小首を傾げた。

 

 朝斗彦、痛恨のミスである。神奈子と諏訪子に「あのクソガキは、会っても連れて来るな」と言われていたのを思い出したのだ。朝斗彦から見れば純粋で物知りな幼子ではあれど、二柱からすれば既に厄介者認定をされているので、それを呼び込んでは機嫌を損ね兼ねない。ただでさえ放浪癖で二柱から何かと言われることのある朝斗彦は、出来るだけ表情には出さないようにと努めつつ、内心で結構焦っていた。

 

「ともとびこ、目が泳いでる」

「いや、何か疚しいことがあるわけじゃないんだよ、えっとね……」

 

 そして、こういう時だけ橘は勘が鋭い。自分を招いたことが不味いらしいとまでは勘繰っていないが、少し訝しんでいるらしいのは見て取れた。

 

 少し挙動が怪しくなり、橘の無垢な目線と他三人の白い目線が注がれる中、神託を受けたかのようにはっと朝斗彦は顔を上げ、起死回生とばかりに橘に言葉を返した。

 

「ああ、そうだそうだ! 今度、地底の観光に連れてってあげるよ! 幻想郷に来たばかりなら、まだ行ったことないんじゃない?」

「うん、まだ! 地底って、こいしの住んでるとこだよね? じゃあ行ってみたい!」

「そうかそうか! こいしと知り合いなら丁度いいね!」

 

 初めの方は少々声が上ずっていて捲し立てるようであったが、橘の反応が芳しく、頷く声は隠しきれない安堵が滲んでいる。声も表情豊かな朝斗彦に、萃香や文も苦笑いである。

 

 そんなこんなで、トントン拍子に話が進み、橘は三日後に地底に赴くことになった。

 

「じゃあ、こいしも一緒に来てくれるかな?」

「あの子はちょっと判んないなぁ……まあ、どこかで会えるよ」

「ともとびこ、お友達いっぱいしょーかいしてね!」

 

 橘は、そう言って溌溂と笑った。

 

 橘は葦の神。巨木には背丈で負け、人に踏まれれば折れ、微風にも大きく靡く頼りない植物でありながら、巨木を薙ぎ倒す暴風にも負けず只管耐え凌ぎ、増え続けて水辺を、野原を呑み込む存在の神である。その強さ、繁殖力の源は、全て根の強さ、しぶとさに起因している。人との関係、来歴は根無し草に等しいながらも、この世に存えていた日数だけ、橘は強く心の奥に、また違った”根”を持っていた。

 

(いやな気持ちの分、ちゃんと楽しませてね?)

 

 一度恨めば忘れない、持つ”根”の強さは、この世の誰よりも深い。そんなことを思う老叟の幼子は、煮物を待つ間、あどけなく笑って朝斗彦との話に興じるのだった。

 

*1:
普段は神奈子と同じ注連縄が背後に浮いている。以前店につけた状態で来訪し、美宵に怒られている、という設定。

*2:
環頭大刀という、古墳時代に用いられた祭祀用の剣だという。祭具であったという区分的には、蛇行剣や七支刀に近い。

*3:
主祭神と同じ社殿や境内で共に祀られる神のこと。副祭神とはちょっと違う。

*4:
足神”さま”と足神”さん”は別の神である。

*5:
朝斗彦が神奈子を呼ぶ際の名前。

*6:
朝斗彦の年齢を国譲り(日本書紀の一書(あるふみ)によると一七九万五千年ほど前)より前と考え、一八〇万歳と考えた場合、橘は八〇億歳以上なので大体四四五〇倍くらい年上である。比較対象を無理矢理用意すると、百歳の老人と生後八日の赤子くらいの比率になる。なお、もし橘と一千歳くらい(幽々子など)の者を同様に比較すると、一五〇歳の老人と生後六秒弱の赤子という比較対象として意味をなさないくらいの差となる。

*7:
明治時代に行われた仏教の排斥運動。神道を国教にしようと考えた明治政府の神仏分離令により、多くの寺院や仏像、経典が破壊、或いは民間に極端な廉価で販売された。

*8:
萃香は源頼光らに討たれた後、朝斗彦に命を助けてもらっている。

*9:
草薙剣と天叢雲剣は基本同一視されるが、ここでは上記の通りの別の神器。草薙剣は霖之助が所有するもので、天叢雲剣はこちら。

*10:
神が歴史の表舞台から姿を消すこと。隠居に近い。高御産巣日神は国譲りなどで出張って来るのでかなり定義が曖昧な言葉ではあるが、隠身となる神は(言い方はアレだが)神話の展開に障るので退場させられた神であると言える。




 ――ご報告――
 遂にお気に入り数が400台に乗りました。拙作がこれほどにご愛読を賜り、嬉しい限りです。戴いた評価を見ると(評価のコメントを見れることを一昨日始めて知りました)、拙作を呼んで古事記の現代語訳を購入した方などがいらっしゃることが判り、これぞ本懐と感極まっていました。勿論、小説も、東方Projectも楽しんでほしいですが、やはり日本神話をもっと知ってほしいという思いで執筆を始めた小説なので、興味を持ってくださる方がいれば幸甚の限りです。

 拙作は、これの後二話を投稿した後、筆者が受験勉強に専念するために休載致します(”未完”や”休載”という表示には切り替えないつもりです)。感想などには喜んでお応えしますので、ご気兼ねなくお寄せ下さい。

 ――追記――
 序章第一章の内容に注釈をつけました。拙作では天地の誕生は別天神の登場に後れるものとしていますが、これは筆者の不勉強によるもので、実際はどの説でも天地の誕生の後に別天神が化生しています。ですが、ここから修正すると読者の皆様に負担を掛けてしまいますので、拙作ではこの設定を引き続き採用します。

 ――更に追記――
 龍体文字というフォントを作ってみました。日本の神代文字の一つで、可美葦牙彦舅神が作ったとされています(勿論真っ赤な嘘ですが、そういうことになっています)。まあ使いどころはないですが、知らなければ誰にも読めないこと請け合いなので、謎めいた暗号文を作ってみたい方はぜひ使ってみてください。
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