幼き神にはあしからず   作:庚申待ち

5 / 13
第三段 森にはお化けがいるよ

 妹紅のスペルの宣言を皮切りに、炎と包丁が飛び交い始めた空の下。

 妹紅に腕をぶんぶん振っていた橘は、妹紅が弾幕勝負を始めたのを見て流れ弾に当たらないように木陰に身を隠したまま、頭だけをひょこりと出して妹紅とその敵達の華麗な身の熟しを観戦していた。

 

「すっごい……何なんだろあれ、かっこいい……!」

 

 星の消えた夜空のような深い黒色の背景に弾幕同士が衝突して爆ぜる度にその音に身を竦めつつも、時に相殺し時にスレスレ回避(グレイズ)しながら踊り子のように宙を舞う三人の雄姿に見惚れつつ、自分にも出来るだろうかと憧れる。

 

「あの色んな形があるカラフルなのってどうやって出すんだろ……みんな、そういう”能力”があるのかなぁ?」

 

 独り言のつもりだったが、その小さな呟きに答える者があった。

 

「ほう、お前、弾幕を知らんのか?」

「うわっ、誰っ!?――むげっ!」

 

 いきなり自分の背後から声を掛けられ、橘は慌てて振り向き、身体のバランスを崩して尻餅をついてしまった。

 膨れっ面をしてじんじん痛む臀部を擦りながら先程まで自分が背を向けていた方向を見上げると、そこには何とも珍妙な、妖怪らしき存在が立っていた。

 飛沫を立てる川を彷彿とさせる淡い水色の下衣に、花や葉を模したような上衣というそこそこ奇抜なデザインの服を纏い、獣の耳のような形状の豊かな白髪を揺らしている。額には何やら赤い模様がある。橘の知らない模様だが、何を表しているのだろうか。

 下から上へと目線を移しながら観察して、最後に目が合うと、その正体不明の存在は橘にすっと手を差し伸べてきた。

 

「おっと、転ばせてやる気はなかったんだ。坊や、立てるかい?」

「……じゃあ後ろから声かけないでよ、お化けかと思ったじゃんか……」

 

 因みに、橘はお化けの何たるかはよく知らない。前に現世に降りてきた時に、一緒に遊んでいた子供が「悪い子はこわ~いお化けに連れてかれちゃうんだって~」と言っていたからそういう恐ろしい存在がいるのだと思っているだけなのだ。幽霊や亡霊、怨霊は全く怖くない。

 差し出された手は借りずに立ち上がって、服の裾をパンパンと軽く叩く。土埃を払い終えると、橘は改めて彼女に視線を向けた。

 

「はじめまして、ぼくは橘。知らないって言われたら嫌だから、ぼくが何なのかは秘密! 変な服のお姉さんはお名前何て言うの?」

「坊やに”変な服”とは言われとうないなぁ」

 

 不規則に書かれた意味不明な漢字が書かれているだけの甚平を羽織っている橘とチミの服装は、公平に見てどっこいどっこいのレベルだろう。

 橘の誰何に対して妖怪が冗談交じりに返すと、恰も誰かという問いに彼女に代わって答えるかのように、森を吹き抜ける風が俄かに葉が擦れる音と空気の(どよ)めきを強めた。どことなく不気味な雰囲気に橘が若干身構えていると、一拍遅れて返答が帰って来る。

 

「それにしても、坊やも正体不明(こっち側)かい? 丁度儂と同じじゃな。儂は封獣チミという。妖怪よりもずっと古い存在じゃよ」

「それってどれくらい古いの?」

「さあ、数千年では利かんかなぁ」

「ふーん」

 

 自分より長く生きている訳がないので、思ったよりも古くて驚きはしたがそれまでである。まあそんなもんかと興味なさげな反応を返しつつ、それよりも気になったことを問うてみた。

 

「ねえ、さっき”弾幕”って言ってたよね? 今もこさん達がやってるのがその”弾幕”? どういうルールなの?」

 

 飛来した包丁やチミの出現にビビり散らかしていた割に、順応が速い橘である。チミもその態度が少し気に入ったようで、親切に教えてくれた。初接触(ファーストコンタクト)を見るに、橘には今の所、悪感情は抱いていないのだろう。

 

「かなり最近にできたルールじゃから、若いもんの方が知っとるかと思うたが……当代の博麗の巫女が作ったらしい決闘の形式の一つじゃよ。制定までに紆余曲折あったらしいが――」

「うよきょくせつ?」

「色々あったってことじゃよ。それで、人死にが出んようにと決められたのが、弾幕勝負と言う訳じゃ。揉め事の解決にも使われるし、遊びでもやる奴は居るらしい」

「へ~、揉め事って誓約(うけい)で解決するんじゃなくなっちゃったのかな?」

「……何じゃて?」

 

 誓約とは、日本神話での古代の裁判・卜占の方法である。もし神意がこちらにあればこれが起こる、あちらにあればあれが起こると宣言して、どちらが起こるのかから事の是非や吉凶を定めるものだ。

 有名な誓約の例は、素戔嗚尊と天照大御神が交わしたものだろう。素戔嗚尊と天照大御神は夫々(それぞれ)の神器(十拳剣(とつかのつるぎ)八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま))を交換して噛み砕き、神々を生み出してその神の数と性質で素戔嗚尊の叛意の有無を判断するというルールで裁決を行った。因みに、この時生み出された神の中に、瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)の父神、皇祖神に該たる天忍穂耳尊(アメノオシホミミノミコト)がいる。

 他の例だと、岩長姫が瓊瓊杵尊に醜いからと厭われて送り返された時に、岩長姫と木花咲耶姫の両柱の父神である大山津見神(オホヤマツミノカミ)が「二人を嫁がせたのは、天津神の御子が石の如く不変たれ、木花の如く栄えよと(うけ)いてのものだったのに、岩長姫を送り返すとは。これで天津神の御子の御命も儚くなりなさるでしょう」と嘆いた時などがある。

 

 橘は争議の解決手段は拳と誓約以外知らない原始神(げんしじん)だった。

 誓約なんてやったことある筈がないチミの困惑も宜なるかな。彼女は、空耳だと思って気に留めないことにした。

 

「塵符”唐櫃大返し”――!」

「不滅”フェニックスの尾”――!!」

 

 そう言っていると、ウバメと妹紅がほぼ同時にスペルを発動した。妖精が大量に降って来て妹紅に弾幕と共に押し寄せ、妹紅の周囲を輪転し、前後に波打つ炎の弾幕がそれを相殺する。いつしか真っ暗な筈の空が弾幕の光で覆い尽くされる中、その眩い絶景を見上げつつ橘がまたチミに訊ねた。

 

「今もこさんと相手の人が言ってたアレは何なの? 必殺技?」

「スペルカード、じゃな。自分の技に名前を付けて、使える回数を決めて、美しさと技術を競うもんじゃよ。必殺技、ではないかな。必殺になる弾幕は禁止なんじゃ」

「ほえ~……なんだか難しいね」

 

 そう小並感溢れる感想を一つ漏らすと、橘は弾幕勝負観戦にまた意識を戻した。

 一方のチミも、橘を流し見つつ空へと視線を向ける。

 二対一にも拘らず、ウバメとネムノ二人相手に橘のツレの人間――何度か死んでは蘇っているようなので、ただの人間ではなさそうだが――が優勢に試合を運んでいるように見える。

 

「尽符”ブラッディマウンテンマーダー”――!!」

「なんの!」

 

 今ネムノがラストワードを切ったが、それもスペル無しで回避しきっている。もうすぐ、上空の弾幕勝負は決着を見るだろう。流石の身体操作技術で、チミも名も知らぬ白髪の人間の躍動に舌を巻いた。

 

「なあ坊や、あの人間は一体誰なんだい?」

「もこさんのこと? 竹林の中に住んでる、千年くらい生きてるホーライ人らしいよ」

「ん? もしかしてお前達、聖域の外から来たのか?」

 

 その問いに橘は小さく首肯した。

 でも、チミは前回のようには慌てない。あの時は、ウバメが”聖域を壊す程度の能力”を持っていることを失念していたのだ。確か紅白の巫女と白黒の魔法使いは祭壇の調査のために入って来たのであったか。別にチミは他所者が入ってくることに対して山姥程に嫌悪感がある訳ではないし、山河を荒らさなければ特に目くじらを立てることもない。ただ、誰かが弾幕勝負をしている気配がして様子を見に来ただけである。まさかこの一月で二度も三度も他所者を見ることになるとは思わなかったが――

 

「ちょっと待て、何かおかしくないか?」

「ん? どうかしたの?」

 

 そこまで考えて、チミは漸く気付いた。外の者が聖域に入れる訳がない。その為には結界を解く必要があるが、そんなことが出来る筈がない。前回の異変では、霊夢と魔理沙の両名はウバメの能力に助けられて聖域に侵入したようだった。しかし、妹紅は今、そのウバメと戦っている。戯れではなく、明らかに喧嘩や口論が高じた結果の弾幕勝負だ。つまり――

 

「……橘。お前達、どうやって聖域に入ってきた?」

 

 ――紛うことなき異常事態である。

 

「普通に結界弄って入ってきただけだよ?」

 

 その言葉に、チミは目を丸くして、そして――

 

「……坊や、嘘は感心しないなあ」

「へ?」

「そんなこと出来るわけがない、出来るわけがないなぁ!」

 

 ――獰猛な笑みを浮かべ、俄かに赤みを帯びた無数の弾幕を展開してきた。

 二重三重に重なる円状の弾幕が、観戦気分だった橘に向かって回転しながら迫ってくる。だんだんと、速度が上がっていく。逃げ道が少しずつ狭まっていく。

 呆気に取られて反応が遅れた橘は、逃げ道が殆どなくなってから焦り出した。

 

「うえぇ!? チミさん、なんで!? ぼく弾幕できない!」

「取り敢えず、異変でもないのにここに来た理由と方法を吐いてもらわないとねぇ!」

「ズルいよ~、不意打ちじゃんか! もこさん、早く助けて!!」

 

 第一波をどうにかして躱しきった橘は、息つく間もなく第二波の弾幕に晒される。

 

「大丈夫、弱い者虐めはせんよ。儂は優しいから、一撃当てて伸びてもらってから話を聞くさ」

 

 チミは、先程より少し密度を上げて次なる弾幕を放った。

 聖域に入り得る人間がいるのなら、聖域の自然が脅かされる。人の手が全く、或いは殆ど入っていない原生の自然でなければ存在できないチミの、ただでさえ最後の砦に近いこの住処が奪われかねない。未知の手段で聖域に侵入する存在は、チミにしてみれば排除すべき脅威たりえるのである。それに、変に祭壇を刺激されて祭壇が暴走したのでは困る。祭壇は情報の渦と化しており、下手に近付くと妖怪はその情報の奔流に呑まれ変質しかねないのである。

 本音を言えば初心者狩りは趣味ではない(抑々チミは弾幕勝負をあまりしない)し、子供を虐めるのは心苦しいが、ルールをよく理解していない橘に騙し討ちでも勝って言い包めれば、事の詳細を質せよう。

 一目見れば判る稚拙さでも必死に弾幕を掻い潜って粘る橘を見て、移動速度も大して速くなく、飛べもしない橘がもうじき詰むだろうことは、チミには一目瞭然だった。

 

 そしてそれから十秒も経たず、逃げ場がなくなり――勝利を確信したチミの前から、橘の姿が掻き消えた。

 

「――ッッ!?」

 

 慌てて、辺りを見回す。すると、首を90度回した時、視界の端に白い頭の小さな影が映った。

 ばっと振り返ると、安堵したように息を大きく吐く橘が、赤みがかった風船のように頬を膨らませてチミをジト目で睨んでいる。

 

「チミさん、ズルでしょ! ぼく怒ったからね! 絶対当たんないから!」

「橘、転移は反則じゃよ!」

「転移してないもん! 走っただけだもん!」

「はぁ!?」

 

 ――今の移動で、転移していない? 冗談だろう? 

 ただ、チミは自分から反則紛いのことをしているのも否めないのでそれ以上はツッコめず、橘が本当に転移していないのかを確認するのも兼ねて、正攻法で橘を降すことにする。

 

「魑符”怒れる山の気”――!」

 

 ”山河の気を操る程度の能力”で山の気を集めて無数の紅い弾幕を打ち出し、自身から橘の方へと送る。地面や木々で跳ね返る弾幕は、橘に効果抜群だろうとの考えの下、最初からラストワードを切ることにしたのだ。転移であれば、転移の直前直後にはいずこかに姿を認められる筈である。

 そしてその考え――チミのスペルが橘に効くだろうという推測――は正鵠を射るものだったらしい。

 

「ああ、もう! バウンドしないでよ、うっとうしいなぁ!」

 

 橘の不機嫌そうな声がチミに届く。

 しかしチミにはそれは何ら余裕を齎してはくれなかった。残念なことに――橘の姿が全く見えないのだ。終始自分の弾幕や自然の風とは違う風を切る音がするので、橘が離脱していないのは明白だが、恐らくは橘の走りが速すぎて、チミの目にも捉えられないでいる。

 

「チッ、転移だったら最初と最後は見えるから、本当に走っとるみたいじゃな……! こんなもん、どうやって当てろっちゅうんじゃよ!」

 

 幸い先程の会話から、橘が弾幕を打てないことは察せられている。即ち、スペルを壊される心配はない。だが、このままではチミが橘に弾幕を当てるのは不可能だろう。見えもしない、感覚も効かない程に速いとなると、その速さで動けもしないしデバフをかけられる訳でもないチミではスピードという絶対的な不利を覆し得ないのだ。

 どうやら橘が人間ではないとしても、あれ程の速さでいつまでも動けるとは思えない。もし出来るのなら、チミが橘に弾幕で勝つ術は存在しないであろう。いつかは、スタミナ切れを起こすはずだ。

 かと言って、チミもいつまでも弾幕を打ち続けられる訳ではない。あと十分も打ち続ければ流石に妖力が涸渇する。

 要するに、根競べである。粘った方が勝つ、耐久勝負なのだ。

 そう考えたチミは、持久力優先でどうせ当たらない弾幕の密度を減らしつつ、全方位に弾を散らすことにした。弾幕巧者ではない橘なら、露骨な安全地帯を作らなければ無駄に動いて勝手に消耗してくれるはずである。

 弾幕の打ち方を教えていなくてよかった……とチミは心底から安堵した。

 

 そして三秒後、その安堵は容易く打ち砕かれる。

 

「おーい、橘! 大丈夫かぁ!」

 

 ――橘との弾幕勝負に意識を奪われていた数分の間に山姥二人との勝負を片付けてしまったらしい、もう一人の侵入者の登場によって。

 


 

「おーい、橘! 大丈夫かぁ!」

 

 藤原妹紅はラストスペルで丁寧にウバメとネムノの二人を聖域の彼方まで吹っ飛ばして山姥二人との弾幕勝負を終わらせ、自分の弾幕と相手のそれが衝突する音がしなくなって幾分かそれが静かになった時に漸く、どこかから弾幕の音が轟き続けていることから、いつの間にやら戦場が増えていたことに気付いた。凡その音源を特定するのは簡単だった。妹紅は視線を鬱蒼とした木々へと落とす。

 その場所は、眼下に広がる樹海の中。上空以外の全方向に弾幕を放っている弾幕を放っている見知らぬ妖怪がいるのは、妹紅の鉛直下――先程、橘が隠れていた場所であった。

 橘がその妖怪に襲われているらしいのは、妹紅自身の炎を見るよりも明らかだった。しかも、肝心の橘の姿が見えないのである。妖怪が弾幕を打ち続けているということは、恐らく橘は重篤な手傷を追っている訳ではないということとも取れるので妹紅はほんの刹那安堵したが、妖怪へ向かっていく弾幕が見当たらない以上、橘が弾幕を打てない可能性が高く、防戦一方になっている可能性が高い。隠れているにしろ、逃げ回っているにしろ、窮地にはあろう。

 妹紅がその推測の下、身体を翻して時折紅い弾幕の光が覗く、青々とした森へ突っ込んでいくのに、大した時間は要さなかった。

 

「……ッッ! チッ、しくじった……」

「あ、もこさん! よかったぁ、早く助けて!」

 

 妹紅の声に、空を見上げて妹紅の姿を認めて顔を顰めた妖怪と、姿が見えず、どこから聞こえてくるのか判らない橘の声が帰って来た。橘の声の出元が特定できないということは――妹紅の脳裡には、四半刻ほど前の超音速(と思しき)地獄の不意打ちアトラクションの記憶が蘇っていた。なるほど、あの速度で動ける橘に下手な弾幕が当たる筈がない。

 妹紅は取り敢えず橘が無事そうなのを察してほっとしつつ、不死鳥の翼を纏ったまま着地して、未だ弾幕を放ち続けている目の前の妖怪を睨み据えた。

 

「おい、妖怪。何で橘を襲ってる?」

「……儂は妖怪じゃあない。というか、弾幕勝負をしてやってる時点で襲ってはないじゃろ?」

「あっそ。じゃあ何で橘に弾幕勝負を持ちかけたんだ? 橘は弾幕打てないんじゃないのか?」

「そ~だよ~!」

 

 妹紅の問いに、橘のあどけない声が聞こえてから一拍置いて、難しい顔をしていた妖怪が弾幕を解いた。どうやら、橘を仕留めるのを諦めたらしい。

 改めて妖怪に理由を質そうと思い、口を開く。すると、それを遮るようなタイミングで、橘の元気な声が妹紅の耳朶を打った。

 

「もこさ~――」

 

 弾幕の雨が晴れきると、次の瞬間、妹紅の腰の辺りに軽い衝撃が加わった。

 ――それと同時に、痛ましい絶叫が響き渡った。

 

「――あっつぁぁぁ!?」

 

 妹紅に小さな身体で抱き着いてきた橘は、未だ焔を纏う妹紅の身体から直接に凄まじい熱量を受け取って慌てて手を離し、全身を襲う激痛にのたうち回った。

 

「すっごくヒリヒリする……せっかく逃げ切ったよって言おうと思ってたのにぃ……あついよぉ、ぐず……」

「あの、ごめん……えっとな……弾幕勝負している相手に触れたらミスになる(危ない)から気をつけなよ」

「……うん……」

 

 涙目で答える橘の氷のような肌は綺麗なままで、傍から見れば怪我をしているようには見えないが、ダメージは負っている、ということなのだろうか。

 妹紅は自分も弾幕を解除して身を包んでいた烈火を鎮めて、泣き叫ぶ橘の傍らにしゃがみこんで身体を擦ってやりつつ、どうしたものかと自分のポケットを探る。しかしいつも通り、熱に弱い(そして妹紅には不必要な)痛み止めの薬草は持ち合わせておらず、まあ判ってはいたが、と肩を落とした。

 

「家には迷子用に薬を置いてるんだけどな……」

 

 そう言って橘の身体を抱え上げてやって橘を慰めていると、申し訳なさそうに眉根を下げている妖怪が地面に降りて歩み寄って来て、何やら古びた、掌に収まるほどの小さな壺を差し出してきた。

 

「……一応、痛み止めは持ってる。子供には胡麻粒大の一欠片で十分だ。使ってくれ」

 

 橘の悲痛な幼い泣き声と蹲って妹紅に縋る姿が相当座視に堪えなかったのだろう。妖怪から受け取った壺を開いてみると、漢方独特の、でも妹紅は千年の生涯の中でも嗅いだ憶えのない、薬らしくはない香ばしい匂いが鼻腔の中に広がった。中を覗くと確かに、茶色というよりは黒に近い塊がいくつか入っている。

 

「ありがと、使わせてもらうよ……ほら、橘、ちょっと口開けて」

「わかった……あー……うむっ!?」

 

 妹紅が一粒を爪先で削り取って摘み出し、目を閉じ大口を開けた橘の口の中に入れると、橘は幼気な顔を梅干しのようにこれでもかというほどに顰めた。余程苦いのだろうか。

 妹紅が口を漱ぐ水を用意してやろうと辺りに川はないか見回していると、またも妖怪が水の入った竹筒を渡してくれた。

 

「……準備が良いんだな、妖怪」

「封獣チミじゃ。山河の気を操れる儂には、これくらいはどうってことはない。早く飲ませてやれ」

 

 チミに軽く礼を言い、橘に竹筒を渡してやると、橘は必死で中の水を飲み干した。橘の喉を水が通り、こく、こくという小さな音が聞こえる。

 

「ぷはっ、うう、にっが……あれ? でも、ちょっとすっきり……?」

 

 飲み終えた橘は、最初こそ薬の苦味に渋い顔をしていたが、飲み下して数秒もすると、不思議なことに清涼感を覚えたようだ。痛みも引いたらしく、意外な感覚に驚いたようで、きょとんとしながら竹筒をまじまじと眺めている。

 

「チミさん、これって魔法のお水?」

「いや、魔法ではないかな。スッとしたのは水のせいじゃなくて、今しがた飲んだ薬のせいなんじゃよ。知らんか? 熊胆(クマノイ)というんじゃが」

「ああ、聞いたことあるかも」

「くまのい? 何なのそれ?」

 

 熊胆とは、その名の通り熊の胆嚢を乾燥させた生薬である。香ばしい匂いがする、かなり黒っぽい茶褐色の漢方薬で、一言で言えば、胃腸(特に胃)に特効がある万能薬だ。胃痛腹痛から二日酔い、精力付けまで、かなり効能が広い。

 また、その味は途轍もなく苦いことで定評がある。水無しには到底飲めない(或いは飲める剛の者もいるかもしれないが、橘はそうではなかったようだ)。しかし、飲み下した後にどこか清涼感もあるのが特徴だ。ちょっと甘味があるという人もいるらしい。

 熊から採るので抑々が貴重だったり、昔は贋物が出回ったりするほどに高価だった(上質なものは同重量の金と取引されたなんて話もある)と言う。葛根湯のように頭痛にも胃痛にも退屈にも何にでも効く程ではないが、価格に見合うだけの高い効き目もあると言う訳だ。

 

 なお実は、流石の熊胆にも火傷などの外傷による痛みを除く効果はない。チミ自身は病気もしないし熊胆を飲むことも(興味で一度飲んで味を知り、二度と飲まないと誓った以外は)なく、山姥などに売るために作っていたものだったので、チミも詳しく薬効を知っている訳ではなかったのだ。

 恐らく橘の痛みが治まったのは、所謂”プラシーボ効果(偽薬効果)”(ラムネを”頭痛薬”と言って飲ませると、本当に頭痛が収まったりするような効果のこと)だろう。精神に重きを置く存在にとっては案外そちらの方が効くのかもしれない。

 因みに、この出来事のせいで橘と妹紅が「熊胆は万能薬」と本気で信じ込み、健康被害、というかちょっとした事件が起こるのだが……それはまた、別のお話である。

 

 閑話休題(Putting it aside)――橘がすっかり元気になって、改めて妹紅に小さな身体で飛びついて甘えてくるのをあやしつつ、妹紅はチミに訊ねた。

 

「で、話は随分戻るけどさ……どうして橘に勝負を仕掛けたんだ?」

「そうそう! ぼく弾幕できないって言ったのに!」

 

 再び難詰を受ける立場に逆戻りしたチミは、若干目線を逸らしつつ、弾幕を収めた時と同じように小さく溜息を吐いて、妹紅達に弁明を始めた。

 

「実はな――」

 


 

「なるほど……もこさん、どうゆうこと?」

「……『なるほど』ってのは、理解した時に使うんだぞ?」

 

 妹紅がそう突っ込んでしまうくらい、橘は少々――いや相当――頭が弱かった。無論チルノなんかよりは聞き分けもいいし恐らくは根もいい子なのだろうが……若干説明というよりは物語よりで情緒的だったとはいえ、チミの言葉を殆ど理解していなかったのである。

 

「チミは人間が手を付けてない自然の中でしか生きていけないから、他所者が自分が知らない方法で入ってくるのが嫌なんだってさ。だから、”結界を弄った”っていう橘のことを警戒したんだって」

「へ~」

「分かった?」

「……わかった!」

 

 不安になる間である。ただこれで理解してくれていなかったらもう妹紅ではどうしようもないので、ここで説明は切り上げることにした。

 すると、妹紅が懇切丁寧に橘に通釈している間、何を言っていいものやら分からず気まずそうにしていたチミが口を開いた。

 

「……もう大丈夫か?」

「あ、すまん。長くなった」

「まだお話?」

「まあな。もう止めはせんが、一つお願いと忠告をしておこうかと思うてな」

 

 そう前置きすると、チミは二人を――というよりは妹紅を――真っすぐ見つめ、言葉を継いだ。どう見ても妹紅だけを見ているのは、十中八九先程チミが橘の読解力を察したことが原因だろう。

 

「まず、あまり祭壇を刺激するのは止めてほしい。さっきも言ったが、アレは見た所情報の掃き溜めみたいなもんじゃ。儂ら妖怪には危険な代物じゃから、万一にも暴走なんぞは起こさせないでくれよ」

 

 未だ祭壇――浅間浄穢山について詳しく知らないチミにとっては、それが一番の懸念点である。

 

「まあ判れば、帰って来た時にあの祭壇のことも教えてくれ。霊夢と魔理沙は結局、教えてくれなんだからな。で、もう一つじゃが、お前達自身が影響を受けんようにな。どうせ止めても行くんじゃろうし、弾幕に勝てんかった以上儂に止める権利はないが、お前達が犠牲になるのは忍びない」

 

 弾幕で負けたわけでもないとは思うが……付言しつつ、チミはそう妹紅達に助言した。

 三人の誰も知らないとはいえ、渡里ニナという情報による変質を受けた実例が存在する程に、祭壇から漏れ出た情報の奔流は危険な物なのだ。それを判っていたからこそチミはずっと神殿を避けて来たし、態々道祖神まで置いたのだから。

 その辺りの事情も既に聞かされている妹紅は何となくその助言も予想できていたので、その助言に軽く手を挙げて答えた。

 

「はいはい、気には留めておくよ。それじゃ橘、行くか」

「りょーかい! チミさん、お薬ありがと!」

 

 手短に切り上げ、妹紅と橘はチミに教えてもらった方角へ向かう。橘は「浅間浄穢山は山姥の聖域にある」としか知らなかったので、聖域の地理に誰よりも詳しいというチミと出会えたのは、なんやかんやで幸運だった。

 チミは橘が弄ったという聖域の結界の様子を見に行くとのことだったので、ここで別れることになった。

 

「橘、すまんかったな」

「全然いいよ~! チミさん、またね!」

「道ありがと。一時間も二時間も探す覚悟でいたから随分楽になった」

「ま、お安い御用さ。気をつけてな」

 

 そう言って、チミは暗い森の中に消えた。

 それを見届けて、妹紅と橘も、今度は普通の速度で歩きながら聖域を目指して漸く移動を再開した。

 着くまでには少々時間が掛かる距離とのことだったので、妹紅は歩き出して直ぐ、橘に訊ねてみた。

 

「それで、結局橘は何の神様なんだ?」

「……知らないとか言わないでよ?」

 

 浅間浄穢山に着くまでの道中、約四半刻。森には、橘が自分の神名を聞いた時の妹紅の顔を見て「やっぱり知らないんじゃん!」と不機嫌に怒鳴る声と、そんな橘を宥める妹紅の声が(どよ)んだ。またしても橘のカミングアウトは失敗に終わってしまい、橘はこれ以降、不必要な”原初の神”としての自己紹介はもう止めることに決めるのだった。




 因みに作者は熊胆(クマノイとも、ユウタンとも読むそうです)を一度だけ飲んだことがあります。五歳か六歳の頃、曽祖父母の家で急な腹痛を感じた時に、曾祖母が”痛み止め”と言って出してきたのを服用したんです(曾祖母の家では、壺ではなく、巾着に入っていました)。
 胡麻粒より小さな欠片だったのに馬鹿みたいに(少なくとも今まで口にしたことがある物の中ではぶっちぎりで)苦かったのですが、飲み下すとちょっとスッとする感覚があったのを覚えています。そして、本当にちょっとしたら完全に痛みが引いていきました。
 もう曾祖母が他界した後に黴が生えていた(そんな筈ないと思うのですが)というので処分されてしまったようで私の手元にはありませんが、あそこまでよく効く薬を服用したという経験も、まあ泣き喚くくらいの苦味の記憶のせいかもしれませんが、未だ嘗てアレに勝るものはないですね。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。