「望み通り――貴女の永遠の苦痛に、終止符を打ってあげよう」
「――は?」
岩長姫の突拍子もない言葉に、思わず目を剥いて間の抜けた声を出してしまった。自分で言うのもアレだけれど、今の私は相当な阿呆面をしているんだろう。
岩長姫は、私の素っ頓狂な声を説明を求めてのものだと勘違いしたらしく、慈しみにも見える柔らかさを湛えた笑みを私に向けて、言葉を接いだ。
「妹紅殿、私は貴女に似ているんだ。いや、順序で言えば、貴女が私に似てしまったのかもしれないね。どちらでもいいけれど、妹紅殿の話を聞いて確信したよ。私には貴女の心の裡がよく判る――もう、終わりにしたいんでしょ? そのために、ここに来た。違う?」
私が呆気にとられる間にも、岩長姫はどんどんと話を進めていく。その瞳には、先程は確信と慈愛に満ちているように見えたけれど、悲哀と悔悟の念が覗いているのが判った。
ここまで
「さっきは橘くんがいたから嘘を吐いたり触れなかったりで誤魔化したけれど、私も貴女と同じで、過去の過ちに変わらず縛られてるんだ。あの時は、『父君の
そう言って、岩長姫の笑みはふっと自嘲気味で淋しげなものに移ろった。
――ああ、手に取るように判る。きっと、
そう悟って、彼女の勘違いを正そうと声を上げかけていたのを抑え、黙って話を聴くことにした。
「怨憎余って、一応は義弟に該たる者を呪ってしまった。彼奴が息絶えた時、妹は美しい顔をぐしゃぐしゃにして慟哭してた。神であり死ぬことがない自分も、形だけでも夫の横にあり続けたいからと、必要もない墓をニニギの眠る横に造らせてさえいたよ*1。今でも非があるのはニニギだと思っているし、私の行動には落ち度は何もない、と納得しているはずなんだけど、それでも、私の中の誰かが問うてくるんだ。『お前は己のつまらない自尊心のために義弟を殺めて満足か?』『妹の最愛の者を奪い、悲泣させたかったのか?』とね。いつになっても変わらず消えてはくれない。私を、苛み続けるんだ」
本当に、よく似ている。私の方が恩人で何の恨みもない相手を殺しているだけ幾分罪業が深いだろうけど――自分が行動を正当化しようとしても、他ならぬ"藤原妹紅"が赦そうとしないのだ。血を分けた妹の涕涙と嘆きを目の当たりにしているだけ、私より岩長姫の方が呵責は厳しいのかもしれない。
「それでも、こっちはまだ、貴女のような人を救う力になると思えば耐えられる。私に不変の力のみならず、他者の不変を奪う力もあるのを知ったのは、あの時だったからね」
私に向けられた微笑は今にも崩れそうなまま堪えているけれど、とうに慈愛の色は消えてしまっていた。そして、眼差しがどこか虚ろに見える。私を見ているようで、もっと遠くの、もっと昔の誰かを映しているらしかった。
岩長姫は無理に口角を持ち上げてそう私に――この言葉と微笑は私に向けられたものだと理解できたけど――笑いかけたが、すぐに表情を再び曇らせて、また続けた。
「ただ、それだけだったらまだ良かった。私を傷つけた者への報復だし、さっき言ったような
岩長姫の眉が、口の端が、見る間に下がっていく。もう、表情を取り繕う余裕もないらしい。
「ユイマンはね、そんなどうしようもない私を救ってくれたんだ。私が冷たく接しても構わず温かさを振り撒いてくれて、半ば凍っていた私の心を慰めて。あの子のお陰で、私はまた笑えるようになっていたのに⋯⋯あの子は私の恩人なのに⋯⋯」
彼女の言葉は途切れがちになっていく。まだその顔に光るが伝うものは見えないが、仮面越しに窺く紅い目は、確かに潤んでいた。
「私のつまらない矜持が、またしても人を不幸にさせたんだ⋯⋯私が月人になるのを拒んだばかりにユイマンは月の傀儡に堕ちてしまって、私自身もまた独りになり、封印された⋯⋯結局私は、失敗から変わることは叶わず、一度ならず二度も不幸を振り撒いた⋯⋯そして、野垂れ死ぬことも叶わず、封印されたまま――ユイマンを半ば見殺しにしながら幾星霜を過ごしてきた⋯⋯友を生き地獄に落として、壊してしまったんだ⋯⋯今でこそ休暇を与えられて愉しそうに旧交を温めに行ったけれど、月が一度命ずれば"嬉々として"情報の浄化作業に戻るに違いない⋯⋯本当に、可哀想だよね⋯⋯」
淡々と、態と他人事のように述べても、罪悪感は消えてくれないものだ。それも、私はよく知ってる。それに、自分が死ねばいいんだと思ったって死にようがないのだから、気が鬱いで自分に価値を見出せなくなる。
橘には語らなかった苦悩の限りを語り尽くしたらしい岩長姫は、自分を落ち着けるように胸に手を当てて小さく深く息を吸って吐いて、それを二度か三度繰り返すと、私を真っ直ぐに見据えて右手を差し伸べ、嫣然と笑って私を諭した。
「でも、そんな私でも、善行はできるつもりなんだよ。私なら、天孫にしたのと同じように、貴女の永遠の命を終わらせることができる。永遠の自責と苦痛を味わうのは、不変の神たる私だけでいいんだから。贖罪は終わったと思えばいい。神として私が岩笠への罪を赦そう」
それはきっと、岩長姫が自分を赦すための贖罪でもある。
続けて、石の女神は寂しそうに呟く。私にも聞こえたし、彼女も私を見ていたけど、きっと、彼女は自分に言い聞かせていたんだろう。
「常磐の時を生きることは、妹紅殿も知っての通り、変わらない過去に縛られ、後悔に苛まれながら数多の喪失を繰り返してその度に心を削られる拷問です。独りでいないといけないのに、独りにさせてくれない者がいて、その温もりに心慰めても、いつかその者にも不幸を与えてしまう。そしてまた孤独感と罪悪感に囚われる。その拷問から、貴女を解き放ってあげたい。そう、私だけでいいんだよ。孤独の中で罪と呵責を背負って生き続けるのは――最後の一人は、慣れてるから」
――自己犠牲の精神、か。本当に、よく似ているな。昔の私に。
思わず、くすりと笑ってしまった。彼女はそんな私を見て怪訝がっていたけれど、どうやら私の胸裡が思っていたのと違うのに、漸く気付いたらしい。
私は、言うだけのことを言い終えたらしい彼女に代わり、口を開いた。
「岩長姫――いや、阿梨夜。貴女の言った通りだよ。私は、貴女に本当によく似てる。でも、私はこの"地獄"の終わりなんて望んでないよ」
「――本当に?」
妹紅殿は、私が差し伸べた手を払うかのようにそう答えた。その紅い眼に逡巡の色はない。
当然、私は断られるなんて思ってもみなかったから、虚を衝かれて訊き返してしまった。
「私はもう、罪を背負うことは受け入れてたんだ。それを今、阿梨夜が赦してくれた。それでもう、私を苛む最大の要因は消えたわけでしょ?」
そうおどけたような答えに続き、本命と思しき言葉が返ってきた。
「あと、私には絶対に殺さないといけない
妹紅殿の顔は、若干赤らんで見えた。このタイミングで
妹紅殿は私の表情に気付いてきまりが悪そうに視線を逸らした。
「⋯⋯笑わないでよ、実際
そう言って、再び私の目を見て優しく笑うと、彼女は言葉を続けた。
「最近さ、人助けとかやり始めて、自分の人生に価値が見出だせるようになってきたんだよ。感謝されたりとか、それを
そう言う彼女は、何故か私よりも大人びて見えた。
「⋯⋯強いね、妹紅殿は。あんな仰々しい自己紹介した割には、もう既に、克服してたんだ」
「まあ、結構最近だけどね。ここ二十年ちょい前だよ、この境地に至れたのは。ここに来たのも、前々から会おうと思ってた
思わず感嘆の声を漏らす私に、妹紅殿は苦笑して答えた。
「じゃあ、もう目標は達成してるのか」
「まあ、そうなるけど⋯⋯阿梨夜の今の話を聞いて、ちょっと私にも思うところはあったからね」
そして、曖昧な物言いをした彼女は、直後の言葉で私の言葉を完全に奪った。
「だから、こうしよう――私も、貴女の罪を赦すよ」
「――は?」
妹紅殿の突拍子もない宣言に、思わず目を剥いて間の抜けた声を出してしまった。自分で言うのもどうかと思うけれど、今の私は相当な阿呆面をしているんだろう。
どういう意味かと暗に説明を求めると、妹紅殿は肩を竦め、落ち着いた声音で答えてくれた。
「ただのお節介だよ。でもさ、少なくとも私はそう思うけど、人に赦してもらえると、自分一人で悩むよりずっと楽だし。私も赦してもらったから、お返しだよ。今すぐは変わらんだろうけど、少しは効くと思うよ?」
⋯⋯妹紅殿は、何を言っているんだか。
人間に許されたとて、私の罪は消えてなくならない。人が神を許すなんて、僭越が過ぎるだろう。それに――
⋯⋯そう心の中で反論していたら、幾許もせぬうちに温かいものが頬を伝い落ちるのを感じて、思考が中断された。頬から顎に熱感が移っていき、通った跡からは打って変わってひんやりとした感覚が伝わってくる。霊感を感じるうちに、反対の目の下にも熱感が――
「――あれ? 私、何で泣いて⋯⋯」
止め処なく溢れてくる。堰を切った、決潰したという喩えが一番しっくりくるけれど、全く収まらない。下を向くと、顎に溜まっていたらしい温い水滴が数滴振り落とされて、上着の胸の辺りに灰色がかった染みを作った。
「⋯⋯限界だったんだ」
はらはらと涙を零す私を見て、一言ぽつりと妹紅殿は呟いた。
彼女は嗚咽するでもなく啜り泣くでもなく、ただただ落涙して困惑する私を見て目を見開いていたが、一瞬苦笑して、そして優しい笑顔を――本当に、優しいとしか表現できない。優しくて温かい、ユイマンの明るい笑顔とは違って、静かだけど安心するような笑顔を――向けて、続けた。
「心の澱が少しでも吐き出せてるみたいでよかったよ。ここまで即効だとは思わなかったけど、阿梨夜が楽になったみたいで」
彼女の笑みには、慈しみにも似た柔らかさがあった。
「正直、阿梨夜の話を聞くまで、貴女のことを勝手に聖人めいた存在だと思ってたんだよね。根拠は特にないけど、何となく、私よりずっと大人で、慈悲深い神様だったら、私が甘えれば受け入れてくれるだろうし、罪も謝れば赦してもらえるかも、木花咲耶姫への怒りも共感してもらえるはずってさ。半分私の願望だったと思うけどね。それなら、私がただ子供みたいに自分の辛さを訴えれば救ってもらえるから。少なくとも阿梨夜の話を聞くまではそう考えてたよ」
あの時、私の話を聞いていた妹紅殿の顔は、共感だけじゃなかったのか。
「でも⋯⋯ちょっと失礼かもだけど、貴女は私が思ってたよりもずっと人間臭かった。死にそうになるくらい恨んで、壊れそうになるくらい悔やんで、挫けても生きるしかなくて。私もそうだから、よく判るつもり。それを見て、甘えられないなって思ったんだ。」
彼女は、一歩私に歩み寄って、白い歯を見せて爽やかに微笑んだ。
「私は、常磐を生きるということは、最悪の暇潰しだと思ってるんだよね。未来が有限じゃないから、時間に急かされて前を向くこともなくて、一回後ろを向けばずっとそのまま。定命の友達がいても、結局は失う恐怖に襲われる。大事な存在であればあるほど、与えられる光の強さに比例して喪失の闇の深さは増していく。ほんと、クソみたいな無限ループだよね」
そこまで言った妹紅殿は、不意に数秒黙り込み、体の側にある左手を顎にあてがって何かを考え込む素振りを見せた。
不自然に切られた言葉に、何か続きがあるに違いないと勘繰って私も口は開かずに妹紅殿の様子を窺った。
私が涙腺と悪戦苦闘する湿った鼻声以外には何も聞こえない、息の詰まる静寂が場を支配する。
そして数秒後。
「⋯⋯ははっ、あ〜、やっぱりこういうのは無理だ! 堅っ苦しい口上を並べるのは向いてないや!」
――いきなり、妹紅殿は天を仰ぎ、からからと笑い始めた。
突然の哄笑に私が呆然とするのも構わず十と数秒大笑いして、大きく息を吐いて笑いを収めると――まるで、私が先刻妹紅殿にしたように――私にすっと、右手を差し出してきた。
「阿梨夜、私と友達になろうよ。永遠の暇潰しには、永遠の親友が要る。私にとっては、輝夜がそうだった。なら私が、今度は貴女の友達になれば貴女を救ってあげられると思うんだ。私が不変を名乗る貴女を変えられる自信はないけど、貴女はユイマンに変わる機会を貰って、変われた。私も、貴女が変わる
暫しの沈黙が下りる。
――単刀直入に聞いてくれたのはいいけれど、私はどう答えるべきなんだろう。妹紅殿の手を取れば、それこそ妹紅殿の言っていた『甘えるだけ』なのではなかろうか。神が人に赦されるというのも不味い気がする。でも、ここまで親身になってくれている妹紅殿の救済を蹴るのは不義理だろう。さっき流れ落ちた涙が、私が無意識に妹紅殿の言葉を切望していたことを示している。私自身はきっと、首を縦に振りたいんだろう。なら一体――
私がそうやって逡巡していると、不安げに私の顔を覗っていた妹紅殿はふっと自嘲気味に苦く笑い、手をひらひら振って私への提案を取り消した。
「あー⋯⋯あはは、やっぱこんなこと言われても困るだけだよな。ごめんごめん、今のは忘れてくれ。というか私、滅茶苦茶気障なこと言ってたな。恥ずかしいや、あはは⋯⋯」
そう言って、彼女は恥ずかしげにほんのり顔を染め、首を横に振ってから私に軽く謝るジェスチャーをした。
私の口からふっと言葉が漏れたのは、その直後だった。
「――恰好良いね、妹紅殿は」
「え? ⋯⋯は??」
いきなり褒められた妹紅殿は目を丸くして私をまじまじと見ていた。どうやら、「自分のどこがカッコいいの?」と困惑しているらしい。
だって、恰好良いじゃないか。妹紅殿は私と同じ苦痛を味わっているのにあれ程強く生きて、私をも救おうとしているんだ。まるで劇画の主人公のように。
私は、自分の変化は全てユイマンのお陰だと思っている。ユイマンがいなければ、今の私はない。それは確かだ。
そして、同時に自分から変わることなんて出来ない、とも思っていた。説明なんて要らない、私は不変の神なのだから、それが当然だろうと。そして、ユイマンが与えてくれた変化すらも、不変という言い訳を使って見えなくしてしまっていた。結局、知らぬ間に築いていた自分らしさの檻に囚われていたのだろう。
でも、妹紅殿は私は変われると言ってくれた。自分で変われると。ユイマンの変化も、私が自分で変わったのだと。
無論そんなことはないと思う。ユイマンのしつこいまでの温かなアプローチが私を変えたのに違いはない。
妹紅殿は、私を気遣ってくれているのだ。私が一歩踏み出せるように。その優しさはユイマンのそれと通底する、陽光のような温もりを内包していた。
神の身でありながら、人である妹紅殿より未熟な私がその厚情を蹴るなんて、有り得ない。身勝手、高慢にも程があろう。ただでさえ主客転倒しているのだから、いっそ私が妹紅殿を師と仰いでもいいくらいだろう。
言葉に纏めれば――結構支離滅裂だったから、かなり綺麗に纏めてもなお飛躍してる気はするけど――大体こんな事を考えていたと思う。
私の思考の枝葉末節はどうでもいいけれど、私はここで、漸く心の
そして、未だ困惑中らしい妹紅殿に、私はやっと答えを返した。
「その申し出、快く、有難く受けるよ。私が変われるというのなら、私はそれに賭けたい。不変の神だからって逃げてたら、妹紅殿にもユイマンにも不誠実だろうからね」
長い言葉は要らない。直感的にそう思った。
既に妹紅殿は私に差し伸べてくれていた右手を引っ込めていたけれど、私は一歩踏み出して、新たな友となるべき者の手があった場所に自分の右手を置いて、できる限り爽やかに――妹紅殿を真似たつもりだけれど、多分私はそれ程綺麗に笑えていなかっただろう――笑って、続けた。
「不変にして不尽の神、磐永阿梨夜の名に於いて、蓬莱人藤原妹紅と友の契りを結ぼう。貴女の想いに応え、私は、きっと変わろう――これから宜しく、妹紅殿」
妹紅殿は、私の仰々しい宣言に一瞬きょとんとしていたけれど、小さく吹き出して陽気に笑った。私を馬鹿にしているのではなく、安堵の笑みであることがよく判る綺麗な笑みだった。明眸皓歯とは、まさにこのことを言うのだろう。
やっぱり私は、人に見せる笑顔の美しさでは妹紅殿に勝てないらしい。
「ふっ、不変の神の名に於いて変わるのを誓うって、矛盾してない? 常磐の友情とかを使えばいいのに⋯⋯」
そう言ってくすりと笑ってから、妹紅殿は私の手を固く握り返してくれた。
「よし、それじゃあ、こちらこそ宜しく、阿梨夜!」
その手は、その言葉は、その笑顔は⋯⋯とても、温かかった。
まだどうしようもないままだけれど、この時確かに――私は、堅い堅い心の殻に罅を入れたのだ。
妹紅と阿梨夜は好誼を誓って、互いを親友と認めた。
それは互いの境遇が酷似していて、二人共が(それが無意識か否かの違いはあったが)心のどこかで助けを求めていたが故。会って間もない者と意気投合して心の奥底まで打ち解け合うというのは、紛れもない奇跡だろう。
して、そんな奇跡を成し遂げた二人は直後数分はこの上ない充足感、幸福感に浸っていたのだが⋯⋯そこで物語を切り上げて二人の幸せを描いて終われる程、現実は優しくない。
「⋯⋯橘、何しに行ったんだろう」
橘が帰ってこないことには妹紅も帰れない。阿梨夜は妹紅をユイマンに紹介したり改めて守矢の神々に挨拶したり、あとは心機一転の機会も兼ねて妹紅も連れて守矢神社にお邪魔しようかと考えていたのだが、それも橘がいなければどうすることもできない。
先程愁嘆場からの感動的な友誼という心揺さぶる
こういう時、普通は都合よく邪魔が入ったり第三者が空気を切り替えてくれるものなのに、それを期待できるはずもなく、さりとて待ち人は来ず。阿梨夜は初めて、自分の力の影響で何一つ変化を生まないこの空間を恨んだ。
「⋯⋯なあ阿梨夜、ちょっと大山津見神の話とか、してくれない?」
「⋯⋯そうですね。私の父は
十分、十五分、二十分。
三十分経っても、橘は、まだ帰ってこない。
阿梨夜は身内の話は大概してしまって、妹紅も最近の幻想郷の話や永遠亭の話を終え、話の種が愈々尽きてきた頃。
一瞬でも沈黙するとまた互いを見ては目を逸らして天井が床の石の模様を眺める羽目になるのがあまりにも辛いからと、阿梨夜は妹紅に、一度は棚に上げた話を尋ねることにした。
「妹紅殿、そう言えば橘くんがいなくなったすぐ後に『橘くん本人が教えてくれる』って言っていたけれど、貴女は橘くんが何の神なのかは知ってるんでしょ? フライングだけど、その話はしてもらえる?」
その窮余の一策とも言える話題に、妹紅も若干躊躇いつつ「これを断っても私と阿梨夜じゃ上手く話が繋がらないに違いない」と意を決して、こくりと首肯すると、橘の説明を反芻するようにしながら答えた。
「OK⋯⋯私は話し下手だから、答えから言っちゃうよ。橘の神としての名前は、
「――何だって!? 嘘でしょ!?!?」
谺が
出鼻を挫くように、愕然としたような、怒声にも聞こえる大声で、阿梨夜が妹紅の話を遮った。
思わず妹紅は身を竦め、突然大声を張り上げた阿梨夜を凝視する。明らかに、彼女は取り乱していた。彼女の紅い瞳は妹紅を強く睨みつけ、恐らくは無自覚だろうが、神威を放って妹紅を威圧してくる。
「今、可美葦牙彦舅神って言った!?
「ちょっと、待って待って。一旦落ち着いて――」
「落ち着ける訳ないよ――ッ! 妹紅殿、判った上で
物凄い剣幕である。何故か怒られる構図になって訳も判らぬままに縮こまる妹紅を見遣り、阿梨夜は小さく溜息を漏らした。
「はぁぁ、冗談だったら有り難いんだけど、こういう荒唐無稽すぎるのは大体冗談じゃないんだよねぇ⋯⋯ほんと、参ったよ」
そして阿梨夜は、その表情を思い切り変えて、鬼気迫る顔で滔々と説明を始めた。
「妹紅殿、抑々、別天神というのは、私達神にとっても神話のような、半分伝説上の存在なんだ。我々のように実体は無いし、というか最早一般的に言う神じゃない。もう概念のような存在で、懸けまくも畏き――御名を口にすることすら憚られる、伊弉諾尊よりも遥か上位の神なんだから! 中でも可美葦牙彦舅神は生命の根源神と称される御方で、始原の神であるとも言われてるんだよ。直ぐに身を隠しなさったから殆どの神は御名すら存じ上げないだろうし、勿論拝顔の栄誉に浴することも能わない。私も父が拝顔したことがあると言うから知っているだけで――」
「だから橘は大山津見神のことを知ってたのか」
妹紅は飽く迄も呑気である。アレがそんなに凄い神様だと言われても、明日世界が滅びると言われているのと同じくらい実感が湧かないから却って冷静である。阿梨夜が若干イラッとするくらいには緊張感のない声だった。
「貴女ねぇ⋯⋯」
「いやだってさ、本人が『崇めろ』って言って来ないんだし、そんな気にしても仕方ないんじゃない? それに、神様だって知っててもあの子に
「三跪九拝したら怒られると思うけど⋯⋯そこは二礼二拍手一礼*3じゃない?」
そう言って阿梨夜は妹紅にツッコんだが、妹紅の言葉にも一理ある。勿論三拝九拝がどうとかではなく、橘がそう名乗っていないのだから別に気にすることはないだろうという話の方に、だ。
「⋯⋯まあ、でもそう考えないと滅せられるし、そう思ってた方がいいか」
「阿梨夜は心配しすぎじゃないか? 橘はそんな短気じゃないと思うけど」
「神を見た目で計ったら痛い目を見るよ、妹紅殿⋯⋯
畢竟、人と神とでも思考回路は異なるが、恐らくは別天神とその他でも同様であろう、と阿梨夜は言いたいらしい。
ただそういう存在にあまり馴染みのない妹紅にはイマイチ理解できず、首を傾げるばかりだった。洩矢諏訪子辺りが近いのだろうが⋯⋯漠然と、橘はまたそれとは違う気がしていた。
そんな妹紅を見て、阿梨夜も自分だけカリカリしているのが馬鹿らしくなったのか、表情を和らげて溜息を吐き、やれやれとばかりに首を横に振った。
「妹紅殿は大物すぎるよ⋯⋯私達神にとっては、もし蔑ろにする奴がいたら三回回ってワンとかやってもいいくらいの別格の存在相手にそこまでフレンドリーとは⋯⋯」
「いや包丁一本でビビる神様とか大物とは思えないんですけど」
「⋯⋯貴女彼の御方を脅したの?」
「脅してる山姥はいた」
「罰当たりな⋯⋯」
なんだかんだで、阿梨夜の中の橘像を粉砕したものの、二人の歓談は何とか続いてくれた。
橘が帰ってくるのは更に十分後。
「そう言えば、今橘は何してるんだろう?」
「結局ここに戻ってきちゃうのか⋯⋯」
二人の長い長い暇潰しの最初の試練は、まだもう少し続く。
最近、諏訪に行って参りました!(旅程が厳しく八ヶ岳には行けませんでしたが⋯⋯)
洩矢神社で色紙を奉納したり、弥生時代の遺跡を見たり、四社参りしたり、八剱神社を見たり、先宮神社を見たり、神道好きにはたまらない聖地です!
上諏訪駅(諏訪大社上宮へのバスが出ている駅で、手長神社の最寄駅)から徒歩ニ十分弱の先宮神社ではごく最近狛犬を新たなものに変えていましたので、諏訪に聖地巡礼する方は時間に余裕があれば寄ってみることをお勧めします!