幼き神にはあしからず   作:庚申待ち

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第七段 亀の甲より

 阿梨夜に教わった浅間浄穢山から月への連絡路を抜けると、そこには満天の星空が広がっていた。今まで何度も見てきたそれと違うのは、月で言えば八日九日頃の満ち具合で青と緑、時折白の鮮やかな斑模様をした大きな丸い天体*1がぽっかりと浮いていることだろうか。地球から見る月よりも随分大きい。確か、地球の直径は月の四倍だと言うから、それくらいの倍率だろう。

 

 一歩踏み出せば足場がなくなるという通路として欠陥を感じる構造から足下を見下ろすと、そこには対照的に、天地開闢の前の混沌を思わせる、真っ黒な景色が広がっていた。周期的に聞こえてくる潮の音で、漸く眼下に広がる闇の正体が海だと判る。

 

「⋯⋯月って、真っ暗なんだなぁ。ちょっと意外、もっとキラキラしてるのかと思ってた」

 

 橘が独り呟き、その声は虚空へと溶けていく。

 こういう何もない静謐、物寂しい空間は孤独を思い出させるので嫌いだが、空に輝く星々を眺めて過ごす天体観察は心が安らぐから大好きだ。身体を得てからの橘の大事な趣味の一つでもあったので、暫し夜空を見上げてその美しさに見惚れる。

 ”黒”天井の闇に吸い込まれるような、眩暈に似た感覚。この間は、何も考えなくて済む。一人寂しい夜は、何千回もこうやって数多の光と戯れながら過ごしてきた。

 

 頭の中で星々を結びながら天を眺めること数分、橘はある違和感を抱いた。

 

「⋯⋯あれ? 変だな、星が全然チカチカしてない⋯⋯まだ冬の始めなのに、そんなに空気が澄んでるのかなぁ?」

 

 よく星空を眺める橘だからこそ、普通は明滅して見えるはずの星々が光量を一切変えず輝いているという差異に気付く。

 そして、可愛らしく「うーん……」と三秒程唸りながら首を傾げた後、秋星*2を遠くに眺めながら、橘はまた独り言ちた。

 

「ねえ? 不思議じゃない?」

 

 ――恰も、誰かに語り掛けるが如く。

 答える者などいないはずの問いを発した橘は、腕を組んで空を覆う数多の星を仰いだまま、黙して答えを待っていた。

 当然返る声はなく、橘の言葉を最後に、水を打ったような静寂が広がる。

 

 ――数秒の後、卒爾にして風が立ち、橘の前に一人の女性が現れた。

 

「……観察眼が鋭いですね。私に気付くってことは、勘も鋭いのかな? 君が言った通り星はキラキラしてないですね。月では地球より大気が薄いので、星の光の通り道が曲げられづらい。そのお陰で星が瞬く現象――シンチレーション現象が起きにくいのです」

 

 彼女の右手には金色の扇子、亜麻色の艶のある長髪の上には紫のリボンが付いた白い帽子。白いシャツの上にこれまた青紫色の丈の長いスカートを穿いている。腰の辺りには黄金色の模様が煌めくベルトが巻いてあって、留め具には円形の紋章が(あしら)われていた。

 スカートの裾と帽子の鍔が風に靡く。髪に連動する衣の動きと淑やかな佇まいが、彼女の艶やかな美しさを際立てていた。

 先程から橘の様子を窺っていた、橘のもう一つの違和感の源だ。

 

「誰かいるな~って気配がしただけだよ。それにしても、しんちれーしょん? 何だか難しい言葉だね、聞いたことないや」

 

 漂う色香には一切の意識を割かず、興味なさげに橘が応じる。いつの間に背後を取っていたチミには盛大にビビっていたのに、突然目の前に出現した者には微塵も恐怖驚愕の色を見せていない。

 

「お姉さん、ここ、月だよね? お姉さんは、月の人?」

 

 続けて、橘がそう訊ねた。虹色の瞳を眇め、ひたと彼女を睨んでいる。

 

「ええ、そうですよ。初めまして、私は綿月豊姫。月人にして、君が今通ってきた浅間浄穢山を管理する者です。君は?」

 

 橘に目の高さを合わせるように若干下方向に移動しつつ、にこやかに豊姫はそう答えた。

 対して橘は、豊姫の答えを聞いて――特に後半の説明で、好都合だとくすりと笑い、誰何に答える。

 

「橘だよ。可美葦牙彦舅神(ウマシアシカビヒコヂ)とも名乗ってるけど……」

「⋯⋯知らないです。ごめんなさいね」

「いいよいいよ、皆知らないみたいだし。取り敢えず、要件だけ聞いてくれない?」

 

 ひらひらと手を振って豊姫の謝罪を受け流し、挨拶もそこそこに話を進めようと橘は本題に切り込んだが、豊姫は少し困ったように笑って断った。

 

「ごめんね、一度は地上から来た人間のお願いを聞いてあげたこともあったんだけど、今は面倒事を避けるためにすぐ送り返すことにしてるの。お土産の一つでも渡してあげられればよかったけど⋯⋯」

 

 そして一方的にそう告げて、豊姫は橘の頭を優しく撫でる。橘は「ちょっと、勝手に話進めないでよ!」とぷんすか怒るが、微笑ましく眺めるだけで豊姫は取り合わない。

 

 嘗て一度、千何百年も前の話だが、豊姫は地上の者――水江浦嶋子を密かに月の都に滞在させたことがある。異界の者が流れ着くこと自体は神隠しの一種であり何の変哲もない事だが、浦嶋子は栄耀栄華の頂点と見えた月の都に留まることを望み、豊姫も好奇心故にそれを許した。

 しかし三年の時が過ぎて浦嶋子が生まれ故郷に帰りたいと望んだ時、その帰還によって月人と月の都の存在が地上に露見し、下手をすれば権力者の耳に入って月の都を探し当てれば褒美を出すなどといった面倒な事態を惹起しかねない危地に陥った。

 その時は師匠である八意永琳が機転を利かせてどうにか解決してくれたのだが、それ以降は師匠に迷惑をかけたことへの自戒として、今では迷い人は即座に送り返すことにしている。

 今回も、浅間浄穢山から誰かが出てきた気配を察知して転移し、侵入者を適当に(あしら)って地上に帰すつもりでいた。

 

 ――この時までは。

 

浅間浄穢山(ここ)から出てきたってことは、幻想郷の子ね。じゃあ記憶を消す必要はないか。あまりここでのことは言いふらしちゃダメよ?」

 

 そう言って、己の能力――"山と海を繋ぐ程度の能力"を発動させて、橘を地上へ送り返した。

 

 そのはずだった。

 

「⋯⋯え?」

 

 豊姫の、間の抜けた声が澄んだ空気に溶けていく。

 橘は、豊姫の手の下から微動だにしていなかった。能力を発動したはずなのに何も起きていない――橘を狙った場所、永遠亭へと転送したはずなのに。目を大きく見開いて、きょとんとしている橘の幼い顔をまじまじと見詰める。

 

「ん? とよひめ、どうかしたの?」

 

 一方の橘も、どうして豊姫が顔を強張らせているのか判らず、小首を傾げている。その動作に合わせてふわふわの白髪が豊姫の掌をさらりと撫で、豊姫の警戒心をも擽る。

 そのあどけない仕草は、橘が自分から何かした訳ではなく、勝手に豊姫の能力が不発に終わっただけだということを雄弁に物語っていた。

 或いはそれすらも演技で、豊姫の能力を妨害したことをすっとぼけているのかもしれない。そうであれば、その実力は異常に高い――地上の大妖怪、八雲紫に匹敵するどころが凌駕する程だろうし、見た目を裏切る狡猾さを有しているということにもなる。

 どちらにせよ、このやり取りで、豊姫は目の前の幼子を見たままの存在と捉え兼ねてしまった。可愛らしいはずの細かい挙措が、今や豊姫には底なしに不気味に感じられてしまう。

 

 異常事態に対応すべく、豊姫は咄嗟に橘から距離を取り、扇子――あの時八雲紫に突きつけたそれと同じ、広範囲浄化の力を持つ兵器――を構え、打って変わって警戒の目を向けた。使うことはなかろうかと思いつつも師匠の言葉に従って”能力の通じない場合”を想定していたお陰で、驚愕はしつつも慌てることなく対処できている。すぐさま距離を取り、必殺の扇子(武器)を開いた。転移系統であれば最強格の豊姫なら、それだけでどんな相手にでも対応できると踏んでの行動だ。

 自分が金輪際起こると思っていなかった事態すらも予測して策を予め講じさせてくれるとは、師匠はやはり恐ろしい御仁だなどと八意永琳の深謀遠慮に感服しつつ、豊姫は再び口を開いた。

 

「⋯⋯今、私は君を地上に帰す力を使ったつもりなんだけれど、何故君には効いていないの?」

 

 橘が本気で豊姫の能力の影響に気付いてすらいなくても、妨害したという行為そのものを隠していても有用な答えが返ってくるはずがない無駄な質問だが、豊姫は牽制のつもりで敢えて直球で訊いてみる。

 返って来たのは、若干の怒りが混ざった怪訝そうな眼差しと、豊姫の想定通りの答えだった。豊姫の扇子を武器であるとは認識していないようで、橘はゆるゆると身体を弛緩させたままだ。

 

「⋯⋯ぼくは何もしてないよ? それより、なんでぼくの話を聞きもしないで追い返そうとしたの?」

 

 豊姫はその言葉を聞いて、やはりなと思いながら黙考に移った。無論、橘から意識を離すことはなく、扇子もいつでも浄化の風を巻き起こせる状態で保持している。

 対する橘も答えない豊姫に不信感を募らせ、徐々に機嫌を悪くしていく。吹き荒ぶ風の音が、黙り込んだ二人の耳朶を打った。

 

 橘自身も認識していない、別天神(コトアマツカミ)の特殊な能力(チカラ)

 それは――"能力の無効化"である。

 

 ある位格とまた別の位格とでは、甚大なれ瑣末なれ、必ず"格差"――文字通りの格の差――が存在する。同じ種族だろうが、実力が拮抗していようが、血が如何に近かろうが、其処には僅少ながらも格の差異があり、それがその位格の個性を形作っていく。その個性の中には強さも当然含まれ、例外はあるものの、多くの場合格の高さ≒強さという等式が成り立つ。

 また、格は生まれ持った不変のものではなく、歳月を重ねたり努力を重ねたり、新たな力を獲得したり信仰を得たりすることで上がることだってある。

 大前提としては重ねた時の長さの影響が最も大きく、そこに上記のようなバフが加わってその存在の格が決定されることになる。だから、概して古い神、古い妖怪である程に力が強くなりやすい。

 されどそれは傾向でしかなく、数億年程度の歳月の格差なら相性や固有の異能などでゆうに逆転させることができる。そういった、格が足らずとも格差をひっくり返して相手を打ち負かしうる力が、幻想郷にては"能力"と言われるものだ。

 

 他方、別天神とその他の存在とでは、何をどう足掻こうが越えることの出来ない、大きな大きな"存在の格"の壁がある。他の存在同士の格の差が単なる誤差と思えるほどに、圧倒的で、絶望的な壁が。

 まず、この世の存在、絶対的な理を司る別天神とそれ以外の有象無象とでは存在の格があまりにも違い過ぎる。その差しか考慮しないとしても、別天神相手に能力を行使できるだけの格を持つのは同じく原初の神に類する神世七代――伊弉諾尊(イザナギノミコト)伊弉冉尊(イザナミノミコト)までだ。

 しかも、重ねた時間を考慮すれば、最早別天神同士でも埋めきれない差が開く。橘の化成と次代の天之常立神(アメノトコタチノカミ)の化成の間には、数十億年――一般に外の世界で言われる地球や太陽の年齢よりも永い時の隔たりがある。そして、天之常立神が生まれてから神世七代初代の国常立尊(クニノトコタチノカミ)が生まれ出でるまでにも、四億年弱の悠久の時が流れている。逆に、橘の前代である神産巣日神(カミムスヒノカミ)と橘にも、数十億年の差があり、高御産巣日神(タカミムスヒノカミ)との間には百億年以上という非常識なまでに懸絶した齢の違いが横たわっている。何も特筆すべきことが起こっていないから記紀では数行で描写が終わるだけで、”次いで”の一言には人間の一生の数千万から数億倍の年月が内包されているのだ。

 圧倒的な格を備え、後代の者とは比べようもない程の時を重ねてきた者には、自分より後に生まれた存在の格など木端に等しい。

 そして、その”木端”と太古の神を隔てる断崖の如き”壁”を前にしては、普段は格差をひょいひょい越えていく能力という超常の力も、いくら働きかけたところで立ち往生するしかない。

 

 要するに、別天神側は何もしていなくても、能力の干渉対象にはなりえず、対象とされたと認知することすら判らないうちに能力の影響を消し去ってしまうということだ。

 具体的には、橘はフランドール・スカーレットの"ありとあらゆるものを破壊する程度の能力"でも爆散させられることはないし、レミリア・スカーレットの"運命を操る程度の能力"でもその運命を占われることはない。西行寺幽々子の"死を操る程度の能力"等は生死がないが故に最初から対象になり得ないし、八雲紫の"境界を操る程度の能力"で存在を消されることも、摩多羅隠岐奈の"あらゆるものの背中の扉を作る程度の能力"で後戸を開かれることもない。

 

 とは言っても、これは耐性に近いもので、飽く迄も「自分に対する干渉を全て無効化するだけ」である。能力の発動そのものは止められないし、他者に対する能力の無効化なんてこともできはしない。十分に強力ではあるが、受けに回ったとしてもその判定はかなり微妙なところがある。

 当然、霊夢の"空を飛ぶ程度の能力"を無効化して霊夢を飛べなくするだとか紅美鈴の"気を使う程度の能力"に干渉して拳法の腕を落とすだとかということは不可能だ。射命丸文の"風を操る程度の能力"、八坂神奈子の"乾を創造する程度の能力"、洩矢諏訪子の"坤を創造する程度の能力"にも何一つ妨害をかけることは能わぬだろう。パッシブスキルのようなものだから、指向性を持たせることもできないし、他者に干渉することもできない。

 自己対象と他者対象の中間の能力だと、更に話が複雑になってくる。霧雨魔理沙、パチュリー・ノーレッジ、矢田寺成美等の"魔法を操る程度の能力"に対しては、魔法の発動は妨げられないものの魔法による直接のダメージは一切負わない。アリス・マーガトロイドの"魔法を操る程度の能力"は、人形操作の魔法で人形が攻撃するなら効くが魔法そのものはやはり効かない。東風谷早苗の"奇跡を起こす程度の能力"も同様で、橘に直接干渉しなければ恙無く発動し、干渉するならば途端に不発になってしまう。一方で、魂魄妖夢の"剣術を操る程度の能力"は一切の干渉を受けず、橘の玉体を斬ることも可能だ。直接の干渉が不可能というだけで、抜け穴も恐らくは相当多い。

 橘に対して有効か無効かという基準にその能力が優れているかどうかが殆ど関係ないのはお察しの通りで、それを分けるのは直接橘に能力が働くかどうかの違いでしかない。通じるかどうかは、試してみないことには判らないのである。

 

 長々と書いたが、一言に纏めるのなら。

 

 豊姫の能力で橘を地上に戻すことは、両者の格の差の壁が高すぎるが故に叶わなかった、のである。

 

 閑話休題(冗句は措いて)――言葉の代わりに視線を応酬するうちに、焦れた橘が漸く、心底不満気に言葉を紡いだ。

 

「⋯⋯もういいや。無理矢理ぼくを帰そうとしたらしいのはもういいけど、今度こそぼくのお願い聞いてくれる?」

「⋯⋯」

 

 豊姫は、口を閉ざしたまま沈黙を以て答える。相手が仮に海千山千の化け物なら、迂闊に答えれば余計な言質を与えかねない。まだ橘は交渉するつもりらしいので、豊姫もその気で臨む。

 再び――今度は数秒ほどの――潮騒だけが聞こえる、短い静寂が下りる。

 橘は豊姫に答える気がないことを悟ったらしく宝石のような虹色の瞳をすっと細めながら、豊姫にびしりと人差し指を豊姫に向けて、抑揚のない、さっきまでよりも少しだけ低い声で言葉を接いだ。

 

「汝に命ずる。磐永阿梨夜がいるあの山――浅間浄穢山の稼働を、直ちに止めよ」

 


 

 依姫はいつもの通り、レイセンを筆頭とする警備の玉兎達に稽古をつけていた。

 

「ほら、もう五分も経ちました。いい加減に再開しますよ」

「えぇ~、まだ少し休憩させて下さいよ~」

「さっき依姫様に(はた)かれた手の甲がまだ痛んで刀を握れません……」

「もうさっきから五回は聞いてます。本当に敵と相対しても同じことを言うなら、貴女達の命はもうとっくに散ってますからね? それに、前に吸血鬼に恐れをなして敵前逃亡したのは忘れていないけれど?」

 

 本来二分のはずの小休止をだらだらと続ける玉兎達に呆れながらも、くどくど説教するでもなく根気強く怠け癖の強い彼女達に付き合って、過去の失態や激励の言葉を出して漸く稽古を再開する。

 これもまたいつも通り。二分と決めたはずの休憩時間は形骸化して毎度五分から十分インターバルを取らされ、その度に「御顔が怖いですよ~」と玉兎達の軽口を受けて依姫はちょっとの苛立ちと呆れとが綯い交ぜになって眉間に皺を寄せるのだが、厳しくしているつもりでも姉同様に何だかんだで部下に甘い依姫は口では苦言を呈しつつも結局心の奥底では許してしまう。

 そういう、強さや怜悧さと共に備わる優しさが玉兎達に慕われる一番の要因であり、飽き性で怯弱な者が多い彼女達がきつくて面倒で大して出番もない、仕事の特別感と引き換えでも割に合わない警邏の仕事をほっぽり出さないのは、依姫様は優しいと玉兎達が分かっているからでもある。

 ほんと、お仕置きさえなければなぁ――というのが、玉兎達全員の心からの望みだったり、依姫は豊姫に貴女も大概に甘いといつも揶揄われてちょっと真面目に悩んでいたり、でも直せていなかったりと小噺は無数にあるが――草々不尽、それはまた、別の機会に。

 

 さて、今日も今日とて玉兎は依姫に叱られないように、依姫一人は月の有事に備えてと面白いくらいに異なったものを志しての鍛錬の三限目が始まろうとした、その次の瞬間。

 視界が、まるで紙芝居の場面が切り替わるかのように、一瞬で宝石を(ちりば)めた漆黒の天蓋と紺碧の水鏡と青い星の影とで彩られた景色に移る。

 涼やかな風が頬を撫で、(さざなみ)が寄せる音が断続的に聞こえて来た。

 

 ――依姫とレイセン以下十と数匹の玉兎は、月の都の外、静かの海*3の近くの浜辺に転移していた。

 

「――へぁっ!?」

「ここどこ!?」

 

 各々の稽古道具――実戦用の武具そのものだが――を携えたまま、いきなり視界が切り替わったことに驚いて数人の玉兎が錯乱し始める。

 

 他方で依姫は突然の瞬間移動にも動ぜず、冷静に現在地を割り出し、今の転移が姉の能力によるものだと即座に判断して、玉兎達を落ち着けるべく声を張り上げた。

 

「落ち着いて! ここは――」

「ここは静かの海よ。いきなり呼び出して悪いけれど、緊急事態だから手を貸してくれない?」

 

 ――その声は、これまた突然依姫達の眼前に現れた者の澄ました声に遮られた。

 

「お姉様、どうしたんですか?」

「あ、豊姫様! お久しぶりです!」

「今の転移、豊姫様の能力だったんですね!」

 

 見紛いようも聞き紛いようもなく慣れ親しんだ、依姫の姉にして玉兎達と仲睦まじい豊姫の登場である。

 悪戯で変な所に呼び出すこともある豊姫ではあるが、緊急事態だと聞いて依姫が状況を訊ねる。

 レイセンを筆頭に玉兎達が優しい豊姫様が久々に顔を見せてくれたことに燥ぐが、豊姫はそんな彼女達には一瞥だけを遣って、すぐに依姫に向き直った。

 いつも飄々としているお茶目なお嬢様の顔はこれまでになく真面目腐っていて、玉兎達はいつもの豊姫の対応との温度差も相俟って、さほどの時間を要さず余程の事態が出来(しゅったい)したのだろうと朧気ながら悟らされた。

 すっと、玉兎達の声が凪ぐ。

 

「依姫、あと八十秒弱で侵入者がここに来る。迎え撃つのを手伝ってくれない?」

「分かりました。でも何故お姉様の能力で送り返さないんですか?」

「相手に私の能力が一切効かなかったのよ」

「なるほど。私の能力も効かない可能性はある、と思っておきますか」

「正直未知数だから、警戒するに越したことはないわ。まあ、依姫なら大丈夫でしょうけど」

「お姉様は暢気ですね……」

 

 女傑姉妹は、短い時間の中で来るべき敵の情報を擦り合わせていく。一切の無駄なく、ただ冷静に。一分強という短い時の中で、全てを伝えられる訳ではない。優先順位をつけて豊姫が語り、依姫が聞きに徹する。両者が共に智慧者だからこそ成立する、テンポの速い会話だ。

 

 一方で、二人の話を聞くうちに玉兎達の顔からはどんどん血の気が引いていった。

 

「……豊姫様の能力が通じない?」

「それどんな化け物なの……?」

「私達、今からそれと戦うのか……」

 

 蚤の心臓持ちだらけの玉兎達は、反則じみた能力の代表格だと思っている豊姫の能力が通じないと聞いて、しかも自分達が不幸にも武器を持ち合わせているせいで交戦できる、恐らくは交戦しないといけないということを察し、まだ見ぬ怪物の悍ましい姿を想像して心胆を寒くする。

 ひそひそと不安げに囁き合う中で、一人楽観的な者もいた。

 

「大丈夫大丈夫! 依姫様は一人で地上からの侵攻を押し留めて降伏させたんだから、今回もどうにかなるよ!」

「レイセンって依姫様への”信仰”が過ぎるよね」

「そんなこと言ってたら依姫様に怒られるよ?」

 

 レイセンは、主人である綿月姉妹に絶対の信頼を寄せている。忠誠心が高いからではなくてそうした方が気の持ちようが楽だから、自分が気に病むことが少なくなるからなのだが、そのお陰でビビりの割にはこの中でも平静を保っていた。

 

「それに、私達じゃどうせ相手にならないんだし、依姫様に任せて観戦できるじゃん!」

 

 調子に乗って、そんなことまで口走り始めた。

 その陽気さと空元気に、他の兎達もつられて少しずつ活力を取り戻してくる。

 依姫はそんな彼女達を傍目に「……帰ったら全員稽古時間延長にしようか。でも士気を保ったのはレイセンの冗談だし、それだけを責めれば不満も出るだろうからお咎めなしにしておこう」とやはり甘い思考をしつつ、並行して今し方終わった姉の話を聡い頭脳で瞬時に整理しきり、小さく二度頷いた。

 侵入者が来るまで、恐らくあと三十秒である。

 

「……能力が効かない可能性があり、腹の底が見えない、ですか。厄介な相手ですね。しかも、相手の力は不明だと」

 

 時間が迫って来ているのを感じ、端的にそう結論付けた依姫は湖を見据えて刀をすらりと抜いて正眼に構え、今に来るやもしれない敵襲に備える。

 その凛々しい姿に玉兎達が見惚れる中、豊姫は依姫から視線を外して同じく大海原を見遣り、その言葉に答えた。

 より正確には、否んだ上で補足した。

 

「……全くの不明ではないの。今の所、二つだけ判ってる。ねえ依姫、どうして『あと八十秒』って言えたと思う?」

 

 依姫と玉兎へ向けられた問いだろうが、誰かが声を上げるより早く、豊姫は答え合わせを始めた。その視線は、水平線の方に固定されている。

 

 あと二十秒――

 

「侵入口は、浅間浄穢山へのゲートだった。静かの海の上にあるけれど、ここからは800㎞は離れてるの。私と交渉してそれが決裂した後、あの子はここに向かって、湖の上を直線的に移動して来てる。」

 

 あと十秒――

 

「等速直線運動で、ここまで八十秒だから――」

「「「……秒速10㎞」」」

 

 あと五秒――海面に蓋をするように、俄かに結界が張られる。

 何の模様もなく、淡く白んで輝くだけの薄氷のような結界が、()()()()()()()()()()()覆った。

 誰がどう見ても、依姫や豊姫が張ったものではない。

 というか、如何にこの姉妹でも、ここまで極大の結界を張ることは出来ない。見えるだけで、少なくとも10㎞²は白く柔らかな光に包まれている。

 豊姫が一つが高速移動の能力なら、もう一つはこれ――結界術だろう。

 この二つだけを考えても、少なくとも玉兎達が対処出来る敵ではない。

 

「……私の後ろまで下がれ」

 

 依姫の号令に合わせ、玉兎達が無言で下がる。

 それに合わせ、豊姫が玉兎達を結界で覆った。都へ送り返さないのは、噂好きの彼女等が吹聴して大事になるのを避けるため……でもあるが、今回の場合は迫り来る相手の干渉を恐れてというのが一番大きな理由だ。本当にそんなことが可能なのかは扨措(さておき)、そうなれば最悪月の都への侵入を許してしまう。敵と思しき者に態々侵入経路を用意する、それだけは許容できない。

 玉兎達の安全を確認し、自らも水平線を再び睨んで扇子を構える。

 

 一方の依姫も、緊張こそしていないが警戒は最大限まで引き上げている。

 秒速10㎞ともなれば、もはや玉兎達には視認すら不可能だろう。依姫と豊姫なら――少なくとも豊姫は認識は出来たようなので視認は出来ようが、その速度で動くことは【韋駄天】を宿しても不可能だし、速度で後れを取るのは必至。第二次月面戦争で一度レミリアに体当たりを喰らうという不覚を演じてからは音速を超える相手にも優位に立ち回れるよう訓練を熟してきたが、幾ら何でもマッハ33は想定外だ。

 ――お姉様の言葉からして、相手は直線運動でその速度を出している。ということは、加速するだけの距離がない戦闘中となればその速度は出せないはず。それでもあの吸血鬼と同等の速度は出せるだろうから、不意を衝かれぬように死角からの攻撃も想定しなくては。ならば【両面宿儺】*4を宿し死角を消そうか。或いは結界術を警戒して、【岐神(クナドノカミ)*5の力を借りて結界勝負に出ようか――

 

 月の頭脳たる八意永琳にも認められた頭脳が凄まじい速度で回転して、コンマ数秒の間に未だ見ぬ敵への対策を矢継ぎ早に打ち立て、思いつく限りのシナリオに脳内で対応し続ける。

 

 あと一秒――

 

 愈々と、豊姫、依姫の両名が構える。玉兎達も堅い面持ちになるが、まだその敵の姿は見えない。

 

 あとコンマ五秒――

 

 まだ、見えない。

 

 あとコンマ三秒――

 

 まだ、見えない。

 

 あと、コンマ二秒――

 

 依姫と豊姫の双眸に、水平線から白い即席の地面の上を駆けてくる白い影が映った。少し目を離しただけで背景に溶け込んで見失いそうだったその姿は、見る間に迫り来て点から四肢を伴った人形に変わる。

 

 あと、コンマ一五秒――

 

 認識からコンマ〇五秒で*6豊姫と依姫が反応し、両者共に臨戦態勢に入る。

 

 コンマ一秒――

 

 常人離れした姉妹の目には、その人形が目にも留まらぬ速度で、忍者を想起させるように手を後ろにだらりと下げて”駆けている”こと、その体躯が異様に小さいことが判る。

 

 コンマ〇五秒――

 

 もう玉兎達の目も白い髪の子供の姿を捉えているはずだが、シナプスの発火の速度が間に合わずまだ誰一人認識、反射できていない。

 ――速度を、一切落としていない?

 

 

 

 気付けば、その子供は依姫と豊姫の前に立っていた。

 

「……とよひめ、もう用はないって言ったよ? 邪魔するの?」

 

*1
地球平面説論者(Flat-earthers)の皆様方には大変配慮の欠けた表現ではありますが、東方錦上京や東方紺珠伝での背景の描写を見るに、東方Project世界に於いては少なくとも地球は球体として描かれています。そのため、今作は地球を平面だとして描写致しますので、何卒ご了承下さい。

*2
所謂”フォーマルハウト”。秋の星座のにカウントされる星の中で唯一の一等星で、みずがめ座とみなみのうお座の結節点(みずがめ座で描かれるガニメデスという青年が流す水瓶の水を、みなみのうお座の魚が上を向いて受け止めているという姿で描かれている)即ちみなみのうお座の口の辺りに輝く。名前の由来はそのまま”南の魚の口”という意味のアラビア語。名前から察せられる通りかなり南に見えるが、東京辺りの緯度ならば余裕で観察できるので一度探してみてもいいかもしれない。

*3
”表”の静かの海は、人間が初めて月面着陸を果たしたとして有名な場所。”裏”の静かの海は、その名の通りの凪いだ海である。

*4
恐らく呪術廻戦に登場するあの最強の術師を想起している人が多いでしょうが、ここで言及しているのは伝承通りの、飛騨地方に伝わる二面四臂の巨人のこと。

*5
日本書紀において、伊弉諾尊が追い縋る伊弉冉尊に投げた杖から化成した神。”()()”、即ち”来てはならない所”を意味する神名を持つ道祖神の原形とされる神の一柱である。尚、”く”と”ふ”の音は混同しやすいため(チンギス・”ハン”を成吉思”汗”と綴るのと似たようなもの。”Khu”という発音が存在する言語もある)、船戸神(フナトノカミ)とも言われることもある。また、道俣神(チマタノカミ)(天弓千亦)と同一神とされることも多いが、話がややこしくなりすぎる上に習合、同化している神様が多すぎて千亦が摩多羅隠岐奈に引けを取らない万能神になってしまうので今作では別の神として扱う。

*6
一般的な人間の反射速度は限界がコンマ一秒と言われる。




 意外と進まなかった……
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