潮の匂いと、生魚の匂いと、冷えた鉄の匂いが、薄い靄の中で絡み合っていた。
夜のあいだに降りた霜が石畳の目地を白く縁取り、足音が当たるたび、粉のようなきらめきがぱらぱらとほどける。空はまだ低い雲にふさがれていて、港全体が、朝というより夜の名残を引きずっているみたいだった。
「……なんだ、こりゃ」
樽の蓋をこじ開けた男が、息を止めて中をのぞき込んだ。分厚い指先が縁をつかんだまま固まり、眉間にしわが寄る。
塩水の表面に、薄いガラスの板を伏せたみたいな膜が張っていた。樽の内側から、白い筋が花の根っこのように広がり、その下でニシンの尾が束になって動かずに沈んでいる。
すぐ隣でも、若い男の手によって別の樽の蓋が持ち上がった。かがみ込んだ彼は、不思議そうに手袋ごしに表面をつついていた。
「ここもだ、ほら」
ぱきん、と乾いた音が樽に響く。割れた氷の真ん中からは水面が顔を出している。水の中に幾筋もの氷の筋が伸びているのが見える。
魚を並べていた女が、籠から手を止めて近づいてくる。
「ほんとに……変な凍り方してるねぇ」
吐いた息が白く広がる。指先で氷の端をつまんでみて、すぐに放した。
「まだ冬にはなってないっていうのに、ここんとこの夜の冷え方、ちょっとおかしいよ。こういう時は、山の神さまが怒ってるんだって、うちのじいさんが昔よく言ってたけど」
軽く笑おうとした声は、途中で冷たい空気に掻き消された。
周りでも、別の樽の蓋が次々に持ち上げられていく。覗き込む顔がひとつ増えるごとに、低い唸り声がひとつ増える。魚の匂いと一緒に、心配の匂いまでが湯気みたいに立ちのぼっていた。
「――何かあったの?」
霜を踏む軽い足音が近づいてきて、明るい声が港のざわめきに割りこんだ。
振り返った視線の先で、マントの裾を片手で押さえた少女が息を弾ませている。毛糸の帽子の縁から覗いた頬は寒さで赤く、瞳だけが海の色を映してよく動いていた。
「おはようございます、アナ様」
誰かが慌てて帽子を取って頭を下げる。他の者たちも、手は止めないまま背筋だけすっと伸びた。
「みんな、おはよう」
アナはにこやかにほほ笑むと、石畳の霜を気にしないで樽のそばにしゃがみ込んだ。
「……うわ」
そこにはいままでのアレンデールの冬では見られないような状態が広がっていた。まるで中から不自然に冷やされたかのようだ、とアナは思った。
思わず身を乗り出し、手袋の先で氷の端をそっと押してみる。ぱり、と小さな音が指に響く。ひびが一本走って、透明な割れ目から冷たい水がじわりとのぞいた。
水の部分があるということは、全部が全部凍っているわけではないらしい。
「……なんか、変だね。普通は縁から徐々に凍っていくものなのに」
彼女は樽の縁を指先でなぞりながら、隣の樽も覗く。やはり同じところに、似たような模様が浮かんでいる。
魚を並べていた女が肩をすくめた。
「今年は冷え込みが早すぎますよ。魚は、凍ったとこから傷んじまうんです。周りだけ凍ってるなら、中心は水だからまだいいんですがね。これじゃ売り物が減っちまう」
落ち着いた口調とは裏腹に、手つきはどこか焦っているようだった。凍っていない魚を選り分けようとするとき、指がぴりっと震えていた。
少し離れたところでも、「こっちもだぞ」「おい、だめになったの、数えとけ」などと低い声が交わされていた。港を満たしている空気が、潮風より冷たく張りつめている。
アナは顔を上げ、港じゅうを一度見渡した。
霜に縁取られた樽、手袋をこすり合わせる男、吐く息を見つめる女、荷車の軋む音。どの顔も困惑と焦りを押し殺しているように見える。それでも、何年も繰り返してきた営みを守るべく、みんながどうすればいいか考えながら、手を動かしていた。
「北風が、頑張りすぎてるだけだよ、きっと」
アナは空を仰いだ。雲の向こうで、弱い光がにじんでいる。屋根の縁に薄く積もった霜が、その光をぼんやり返していた。
「海の流れとか、山の雪とか、そういうのがたまたま重なった年なんだって。お城の人たちも言ってた」
元気づけるように、わざと軽くアナは言った。
冬を動かしているのは、風と雲と海と、いろいろな小さいもの。それがうまく噛み合う年もあれば、噛み合わない年もある。そういうふうに、ずっと教わってきたし、そう信じてもいた。
「そうだといいんですけどねえ」
魚を並べていた女が、少しだけほっとしたように笑った。
「お伽話じゃないですけどね」
女は手にしたニシンを木箱に並べながら、声を少しだけひそめた。
「一部じゃあ、魔女の呪いなんじゃないかって噂する声もありますよ。山のどこかに棲んでて、機嫌を損ねると、こうやって冷たい息を吹きかけるんだって」
近くで樽を運んでいた男が、苦笑まじりに肩をすくめる。
「おいおい、ばあさん連中が子どもを脅かすときの話だろ、それ」
「うるさいよ、そんなことはわかってら! ……でもアナ様、夜中の川べりなんかに立ってると、そういうこと言いたくもなるくらい冷えるんですよ」
女は自分の両腕をさすりながら空を仰いだ。少し離れたところで、話を聞いていた子どもが、おそるおそる山のほうを振り返った。
「魔女なんて、いるわけないよ」
アナは思わず口をはさんだ。
「こういうのは、風とか、雪とか、そういうのが重なっただけ。お伽話の呪いより、北風のほうがずっと仕事熱心なんだよ、きっと」
そう言って笑ってみせると、子どもがほっとしたようにアナのほうを見た。女も一拍おいてから、肩の力を抜いて笑い直す。
「……そうですねえ。王女様にそう言っていただけるなら、そのほうが安心です」
そう口にしながらも、女は霜で赤くなった指先を吐息で温めた。
呪いの話を笑い飛ばそうとしても、足もとの石畳から這い上がってくる冷たさだけは、ごまかしようがなかった。
「でも、お魚が駄目になると、商館の連中がまたお城に泣きつきに行きますよ。税のこともありますしねぇ」
女が視線を樽の列へ戻すと、隣で樽の数を数えていた男が、数字を区切るみたいに小さく付け加えた。
「税が減ると困るのは、ここも城も同じだ」
その一言は、霜よりも現実的に冷たく、足もとからじわりとしみこんでくるようだった。港の空気が、ひとつ深く息をするみたいに重くなり、遠くの波の音まで少しばかり遠のいて聞こえた。
アナは唇の内側を噛んでから、樽の列から目を離した。
「……お城で話してみるよ」
立ち上がり、手袋をぎゅっと握る。
「どの樽がどれくらい駄目になったのか、あとで教えてもらえる? エルサやお城の人と一緒に、できることがないか、みんなで考えてみる」
「ありがてえことで」
「助かります」
いくつもの礼の言葉とともに、人々が一斉に頭を下げた。
胸の中で固くなっていた塊が、少しだけほどける。
父と母がいなくなってから、自分の役目がなんなのか、アナは何度も考えた。
エルサがあるときから体調を崩しがちになって、朝食の席に来ない日が増えた。父は本当は城を閉ざしてしまいたがっていた。門も、舞踏会も、全部。外から何が入ってくるかわからないから、と怒ったような、怖がっているような顔で言っていた。
けれども、そんな父でさえ、結局「閉ざすわけにはいかない」と深く息を吐き、玉座で客人を迎え続けていた。その理由を、子どものころのアナはちゃんとは理解していなかった。
ただ、父が山の紋章を掲げた船を見るとき、少しだけ表情を和らげていたのを覚えている。
「アナ様!」
港の奥のほうから、別の声が飛んだ。見張り台を指差して、若い男が叫んでいる。
高い柱の上で旗が大きく振られ、そのすぐ後を追うように、低く長い角笛の音が海の方角へ伸びていった。
「船だ!」
誰かが叫び、港じゅうの視線が一斉に海へ向く。アナもマントの裾を踏まないよう気をつけながら、石畳を駆け出した。
港の外、岩場の向こう、薄い朝靄の中に白い布がふくらんでいた。
最初は雲の切れ端にしか見えなかったそれが、やがて、形を持った巨大な帆だとわかる。
「漁船じゃねえぞ、でかい」
「紋章がある」
あちこちから声が上がり、誰かが手を額にかざして目を凝らした。アナも同じようにする。布越しの光が目に刺さる。帆の真ん中に描かれた印が、波の間からゆっくり浮かび上がってきた。
高く盛り上がる山の線。その下に、垂れた穂と、絡み合う蔓の模様。
胸の奥が、ひとつ強く鳴る。
「……テラヴィアの紋章」
口の中でつぶやいた言葉は、アナが思ったよりもはっきり空気に乗ってしまっていた。
「テラヴィアの船か」
「同盟国のお船だぞ」
周りでざわめきが広がっていく。前に港の岸壁が崩れたときの話が自然にこぼれた。
「ほら、あの土を掘り返す鉄の箱、持ってきてくれただろ」
「でっけぇ歯車がぐるぐる回るやつな」
アナの舌が、勝手に動いた。
「テラドレッドだよ」
「大事な国の技術の名前くらい、覚えておくのよ」
近くにいた何人かが、小さく笑った。
「さすがアナ様だ」
「あの国のこととなると、かなり詳しいですからねえ」
「おれらは『土の大きいやつ』としか呼べねえ」
暖かい笑いと、何かを懐かしむ雰囲気が辺りを包む。
以前、岸壁の上で泥だらけになりながら一緒に石を運んでいた若い王の姿を思い出している目が多い。同盟国の為に、自ら汗をかいてくれたテラヴィアの王。
土と汗の匂いの中で、王も漁師も同じ高さで息をしていた、あの光景が蘇っている。
テラヴィアの紋章を見ていると、さっき胸の奥に浮かんだ記憶が、はっきり形を帯びてきた。
父は、本当は城を閉ざしたがっていたのに、どうしてもしなかった。同盟国であるテラヴィアとの約束があったからだ。
山の国と海の国が互いに助け合う、と父と先代のテラヴィア王が固く握手した日から、アレンデールの門は良くも悪くも完全に閉じることはできなくなった。
思えば、不思議とタイミングが一致している。エルサが体調を崩しがちになったのも、父が外交に乗り気でなくなったのも。
朝の食卓から姿を消し、自室に籠もる時間が増えた姉を、アナは廊下の向こうからしか見られない日が続いた。そんなとき、お城にやって来たテラヴィアの若き王――当時はまだ王子だったが――が、エルサの療法について父と真剣な顔で話していた光景を、アナは隙間から見ている。
難しい単語ばかりで何を言っているのかさっぱりわからなかったけれど、そのあと数日は、エルサが短い時間だけ廊下を歩いているのを見た。
控えの間をゆっくり歩く姉の少し後ろに、心配そうにそっと付き添う土色のマントの影。アナが角から顔を出して手を振ると、エルサは驚いたように目を見開き――満面の笑みで抱きしめてくれた。
「レオニクスが来る、のかな……」
テラヴィアの若き王、レオニクス。
アナにとっては、「初めての外交」のとき右も左もわからなかった自分をさりげなく助けてくれた人だ。
父と母が海で帰らなくなってから、外で動き回れる王族はアナしかいなかった。
エルサは長く外気にあたると具合を悪くするとかなんとかで、城の中の居室兼執務室に籠りがちだ。アナが用事を持っていくとちゃんと元気そうな顔を見せてくれるし、ほんの少し会話はできるけれど、それでも必要な時以外でエルサが自分から外に出ているところをアナは見たことがなかった。
だから自然と、港と市場と山の様子を見て回ったり、王族として他国と交流したりする役目は、アナのものになっていった。
もちろん、当時のアナに外交の経験も、そんな教養もない。レオニクスがいなければ、アナは初めての外交で大恥をかいていただろう。
緊張して言葉に詰まったときにそっと話題を変えてくれたり、緊張で手が震えたときに冗談を挟んで笑わせてくれたり――そのときのことを思い出すと、胸のあたりがあたたかくなる。
そんなこともあって、海の向こうから山の紋章を掲げた船が見えると、アナは決まって、肩の力が抜けてしまうのだった。
城の者の話では、レオニクスがまだ王太子だったころ、彼は何度かアレンデールを訪れていて、小さなアナとエルサとも一緒に遊んでくれたらしい。
廊下の隅で、年配の侍女が「昔はアナ殿下はレオニクス陛下のマントの裾につかまって離れなかったんですよ」と目を細めていたのを覚えている。
アナ自身は、はっきりした記憶があるわけではないけれど。
ただ、冷たい風にあおられて転びそうになったとき、誰かにぐいっと腕を引かれて、胸のあたりに硬い布の感触と、土の匂いが押し寄せてきたような、そんな、おぼろげな感覚だけは残っている。
困った時にはなぜかそばにいて、何度か自分を助けてくれた人。アナにとって彼は、少し年の離れたお兄ちゃんみたいなものだと、ずっとそう思っている。
マントの裾を、ちょいちょいと小さな手が引っ張った。
「ねえ、王女さま」
振り向くと、まだ背の低い子どもが、大きな目で帆を見上げていた。頬に魚のうろこが一枚貼りついている。
「あのテラヴィアの国王さまのこと、王女さまは大好きなの?」
港の空気が、ぴしっと固まった。
「こら、おまえ!」
すぐそばにいた男が、慌てて子どもの肩をつかんだ。
「そういうことを、王女様に軽々しく聞くんじゃない」
「だって、お母さんが言ってたもん。王女さまがいっつも、その人と一緒に歩いてるって。手、とか――」
「もうやめなさいってば」
今度は女の人が、真っ赤な顔で子どもの口を塞いだ。
手袋の先で子どもの口を押さえながら、こちらに向かって何度も頭を下げる。あたふたと動く大人たちの仕草が、妙にゆっくりに見えた。
アナは少しだけ苦笑しながら、子どもの目線に合わせるように、少し腰を落とした。
「えっとね」
「大好きっていうより……あの人は、頼れる人ってだけよ。ちょっとお兄ちゃんみたいな」
わざと肩をすくめてみせながら笑うと、子どもは「えー」とつまらなそうに口を尖らせた。期待していた答えと違ったのか、ちらりと帆のほうを見て、遠くの船に興味を移していった。
最近、町の噂話の中に自分の名前とレオニクスの名が並ぶことは、アナも知っていた。
国民の中ではレオニクスの評価は高い。市場でも「この前の行列で、王女様とテラヴィアの陛下がね」と楽しそうに話す声が耳に入ったことがある。
でも、アナにとってレオニクスは、姉の病気に親身になってくれてた人で、初めての外交のときに支えてくれた人で――「頼りになるお兄ちゃん」の延長線上以上のものではないと思っていた。
「あ、あの、さっきは失礼を……」
大人たちがまだ落ち着かない様子で頭を下げようとするのを、アナは慌てて手で制した。
「大丈夫だよ。本当のことじゃないなら、怒る理由もないし。ほら、私ってエルサのスペアみたいなものだから。政略結婚の話だって出てもおかしくないのよね」
冗談交じりに軽く笑いながらそう言って、ひらひらと手を振る。
アナにとって、噂話の意味を深く考えるよりも、今は目の前の冷えと港のことのほうがずっと大事だった。
「とにかく、よ」
彼女はマントの襟を正し、港のほうに向き直った。帆の白さと、並んだ樽の列と、霜に縁取られた屋根が視界にいっぺんに入ってくる。
「港のこと、お城でちゃんと話してみる。船のことも、ちゃんと知らせるから。みんなの大好きなレオニクス陛下が来るかどうかは、船が実際についてから、ね?」
「お願いします」
「港のやつらにも、報告をあげるように伝えておきますよ」
「うん。じゃあ、私は山の方も見てくるわ」
慌てて子どもを下がらせながらも、港の人たちは素直に頷いた。王女として敬いつつ、それでも全部を任せきりにするのではなく、一緒に支えようとしてくれる国民たちが、アナは大好きだった。
背中に視線を感じながら、アナは港から離れる坂道へ歩き出す。霜の粒が靴底の下で石畳に挟まれ、ざく、ざく、と乾いた音を立てた。