石畳が途切れるころには、港のざわめきはもう遠くなっていた。
土道の両脇に生えた草の先は、夜のうちに降りた霜で白く縁取られている。その上にそっと足を乗せると、ぎし、と控えめな音が靴底から伝わった。
「去年、この辺、こんなに白かったかな……」
アナは小さくつぶやき、山の斜面を見上げる。頂に近いほうだけでなく、中腹の岩肌にも、ところどころ薄い雪が貼りついていた。
記憶の中の同じ季節よりも、白い線がずっと下まで伸びている気がして、アナが記憶を掘り起こそうとしていたとき――。
「おーい! アナか?」
頭上から、力強く響く声がした。
次の瞬間、何か重いものが、アナのすぐ横の地面にどさりと落ちる。
「きゃっ!」
飛び退くと、足元に大きな麻袋が転がっていた。ほどけた口から、角ばった透明の塊がごろりと転がり出る。
「悪い! 大丈夫か、アナ!」
斜面の上から青年が駆け下りてきた。肩にはもうひとつの袋。雪を蹴り散らしながら、斜面をすべらないように踏みしめて降りてくる。
「クリストフ!」
アナが名前を呼ぶと、青年は胸の前で袋を持ち直しながら、額の雪と汗を手袋で一緒にぬぐった。
氷屋としてしばしば城に顔を出す彼とは、よく話をする間柄だ。変に気を使わず、敬語も使わない彼をアナは不思議と気に入っていた。
「狙って落としたわけじゃねえからな。足を滑らせちまったんだ」
彼のすぐ横には、角の立派なトナカイが一頭、心配そうにアナに鼻先をくっつけている。マントの匂いを嗅いで「ぶふっ」と息を吐き、転がった氷を前足でつん、とつついた。
「あら、スヴェンもおはよう」
アナが手を振ると、トナカイは嬉しそうに鼻を鳴らし、後ろ足でクリストフを突いた。
「いいから謝れってさ。こいつ、アナのことが大好きなんだ」
不機嫌そうにクリストフがぼそりと言う。
「わたしは大丈夫。氷にぶつかったの、地面だから」
アナはマントについた霜を払ってから、斜面の上を見上げた。そこには、切り出された氷の塊がいくつも台車に積まれて並んでいる。
「あら、もう氷切り出してるの?」
「ああ、見りゃわかるだろ」
クリストフは肩の袋を少し持ち上げ、真っ白な山の頂上を指さした。
「今年はもうお仕事ができるくらいだ。上の湖辺りはもう固まり始めてる。下まで凍って、皆が氷に飽き飽きする前に、売れるだけ売って稼いでおかなきゃな」
「もう凍ってるの? 早くない? まだ冬にもなってないのに」
アナの言葉に、彼は少しだけ眉を寄せた。
「ああ、妙なんだよ。ほら、このあたりの雪が残っているのも、去年ならもっと後のことだっただろ。今年は雪どころか谷の川べりまで薄氷が張ってる。氷屋には悪い話じゃねえが……町には、どうだかな」
最後の言葉は、氷の袋よりも重く地面に落ちた。
アナは、港で見た樽のことを話した。縁だけ凍った魚。花みたいな模様の氷。困った顔。おとぎ話の魔女の話で笑おうとしたけれど、笑いきれなかった空気。
クリストフは、途中で口をはさまずに聞いていた。時々、スヴェンがアナのマントの裾を噛もうとして、彼女が慌てて押し返す。そのやり取りのあいだも、青年の眼差しはどこか遠くを見ている。
「……やっぱり、今年は変だな」
彼はようやくそう言った。
「山の小屋の壁も、内側から冷えてる感じがする。夜なんかほら、音もしない冷たい風が斜面を撫でていくんだ」
「音のない風?」
アナは首をかしげる。
「風って、ひゅうって窓を鳴らしたり、木を揺らしたりするじゃない」
「普通ならな。でも、最近はしねえんだよ」
クリストフは山の方に視線を向け直す。
「静かなまんまで、突然肌だけ冷たくなる。頬と耳がいきなり刺されて、息すると胸が痛くなる。山の木も、水の流れも、どう動けばいいか迷ってるみたいだ」
まるでおとぎ話みたいじゃねえか、と、彼は笑いながら肩をすくめた。
それでも、大げさなことを好まない男が「変だ」と言う重みは、アナの腕に小さな鳥肌を走らせるにはじゅうぶんだった。
「……お城で、ちゃんと話さないと」
「港も山もおかしいなら、備えを考えなきゃ。薪とか、食料の蓄えとか、船のこととか……」
「また忙しくなるんだな」
クリストフが横目で見た。
「この前も、寝る暇ねえって言ってただろ」
「寝てるよ。ちゃんと……ちょっとだけ」
「それを世間じゃ寝てねえって言うんだ」
彼は少し黙ってから、アナの顔をじっと見た。
「目の下、赤いぞ」
「あなたの顔よりかはマシよ」
笑ってごまかすアナに、クリストフは視線を逸らさずに続ける。
「無理しすぎんなよ」
「国のこと考えるのは、大事なんだろうけどさ。アナが倒れたら、一番困るのは……まあ、いい」
そこで言葉を切り、代わりにスヴェンの頭をぽん、と叩いた。
「……とりあえず、やめとく」
「なによ、いっつも」
アナが頬を膨らませると、スヴェンが「まあまあ」と言うみたいに彼女の腕を鼻でつついた。もふもふの毛に頬を押し当てると、冷えた肌にじんわりとした温かさが移ってくる。
ふと、クリストフが港のほうへ顎をしゃくった。
「さっきな、上から見えた。港にでかい船が入ってたろ。白い帆に山の印。テラヴィアの船だ」
「うん、さっきまで見てた」
アナは山の向こうにかすかに見える海を思い浮かべた。白い帆が町の屋根より高く立っていた光景が目に残っている。
「多分、使節船。手紙が届くはず。……もしかしたら、レオニクス陛下の訪問の知らせかもしれない」
名前を口にした瞬間、胸の奥がひやりとするのと同時に、少しだけあたたかくもなる。さっき子どもに聞かれた言葉が、頭のどこかをよぎったが、アナはすぐに首を小さく振った。そんなことより、今は――。
「来てくれたら、助かるなって思う」
「港のことも山のことも、相談できるし。エルサの体調だって、レオニクスの持ってきた薬草が効いてるってお城の人は言ってたし」
クリストフは一瞬だけ視線を細めて、押し黙った。ただ、何かを測るみたいな沈黙が少しだけ続く。
アナは、アレンデールの城の方に目をやり――ふと別のことを思い出して、ぽつりとこぼす。
「陛下がいるときのエルサ、少しだけ、表情が柔らかくなるんだよ」
言ってしまってから、自分で「あ」と息をのんだ。クリストフの目がわずかに見開かれる。
「……そうか」
それだけ言って、彼はまた町の方を見下ろした。
山の麓から見下ろすと、アレンデールの屋根の端っこがうっすら白くなっているのがすぐわかる。
去年の同じ頃、ここから見た景色をもう一度思い出してみるも、こんなに早く白くなっていた景色は浮かんでこない。
「やっぱり、変だよね。もしかしたら、何かが起こっているのかも」
アナは小さく息を吐いた。
「何もわからないけど、何もしないわけにはいかないし」
「城に戻るわ。港と山のこと、相談してなんとかしなくちゃ。それから、テラヴィアからの手紙が来てるだろうから、内容も見ないと」
やるべきこと頭に並べながら、自分に言い聞かせるように言葉を並べるアナを見て、クリストフが半分呆れたように鼻を鳴らした。
「おいおい、王女様っていうのは休みがないな」
「あはは、まあね。エルサが動けない間は、わたしがなんとかしなくちゃだもん。あ、もちろん、無理しちゃだめだってことはわかってるわ! だから、ちゃんと食べて、ちゃんと寝る。……できれば」
「……王女様のその言葉が一番怪しいんだけどな」
アナは「もう」と言いながらも、足を城のほうへ向けた。
「大丈夫よ、エルサがいなくても、父が残したアレンデールの顧問団はしっかりやってくれてるわ。だから、わたしも頑張れるの」
砕けた白い粒が彼女の靴の後ろに跳ねて、道の端へさらさらと転がっていく。山から降りてくる冷たい風と、港からかすかに届くざわめきが背中のほうで混ざり合い、城への坂道の上には、まだ誰も知らない冷たさの続きが薄く張りついていた。